日常は、そんなに容易く事が大きく動くものではない。平凡な毎日の積み重ねで、日々を消費していく。時間は皆に平等に与えられているが、決してその歩みを止めることなく前へ前へと進んでいっている。僕も例にもれず、社会の歯車としての役割を淡々とこなす日々を、しばらくは過ごしていた。
「城谷、さん?」
 名前を呼ばれて、僕はふっと我に返った。
「あ、あああ、すみません」
 目の前にいる、スーツを着たOLの姿を見て、慌てて声を出す。今は業務中だった。定期集荷の取引先をまわっている最中だ。
 僕たちドライバーは、配達を一通り終えたあと、自分がまわっているコースの中にあるいくつかの取引先をまわって荷物を集める業務を行う。それがいわゆる集荷だ。毎日、取引先に顔を出し、出荷する荷物の有無を尋ねる業務が、定期集荷とよばれている。
「突然ボーッとして固まっちゃってるから、びっくりしました」
 目の前の彼女は、僕にそう言って複数の封筒を差し出してきた。
「す、すみません、ちょっと考え事を……」
 僕は封筒を受け取り、伝票にサイズを記入する。メジャーで計らなくとも、A4サイズのこの封筒のサイズは、シバイヌで扱う荷物の最小サイズだという事がわかる。ボールペンを走らせながら、彼女の胸元についている名札を盗み見ると「木嶋 加奈子」と書かれていた。
「いつもありがとうございます。暑いので気をつけてくださいね」
 木嶋さんは、僕が差し出した伝票を受け取り、笑顔でそう言った。「ありがとうございます、また、お願いします」と答えた僕に「あ、ちょっと待ってください」と言い残して、事務所の奥に消えたかと思うと、少しして戻ってくる。
「これ、トラックで飲んでください」
 木嶋さんは、荷物を持っていない方の僕の手に、缶コーヒーを握らせた。
 この仕事をしていると、配達先や取引先の人たちから、こうして飲み物やお菓子などを差し入れられる事がある。暑い真夏などは、皆気を遣ってくれるのか、立て続けに何かを用意してくれることも多く、それだけで一日の水分補給に必要な飲み物を賄えることもある。炎天下の中、ひたすら荷物を運ぶのは大変だけれど、そうやって誰かの優しさに触れられるのは、ささやかな楽しみの一つでもある。
 ただ、僕は缶コーヒーがあまり好きではない。そんなことは折角の好意を踏みにじってしまうことになるから、相手には口が裂けても言えないけれど、会社に帰って、コーヒーが好きそうな社員に飲んでもらうことにしているのだ。
同期の田曽井龍司などは、僕が一番缶コーヒーを渡す相手だ。口数が少なく、一見近寄り難そうな雰囲気を醸し出している男だけれど、入社時の社員研修のときに同じ班になり、なんとなく会話をするうちに、仲良くなった。趣味でキックボクシングをやっているらしく、服を着ていてもわかるいい身体をしているものだから、それが更に近寄り難さを助長しているような気もする。田曽井は、相良がまわっているコースのトラックドライバーでもあった。
シバイヌでは、原則として、ひとつのコースには、トラックドライバーと、軽四ドライバーが充てがわれている。そのコース内の大きな荷物を運んだり、主に企業をまわるのがトラックドライバー、個人宅などの細々とした荷物を運ぶのが、軽四ドライバーとなっている。僕のコースにも小泉沙羅という女性社員が、軽四に乗って走っている。小泉は、相良の同期だ。