俺の初恋の話をしよう。それは七年前、いやもっと前だ。俺が小学生の頃の話になる。

 彼女の名前は嶋崎(しまさき)茜音(あかね)といった。小学生の頃からとても可愛かったことを覚えている。少し色素が薄くて焦茶色っぽい髪に、くりくりとした大きな瞳、華奢で小柄な身体。小学生ながら、当時の俺も茜音のことは可愛いとしか言いようがなかった。テレビで見る子役の女の子と比較しても遜色のない可愛さだった。

 俺の記憶の中にある茜音は、小学校六年生の頃の姿で止まっている。あの頃からあれだけ可愛かったのなら、大学生になっているであろう今ならば、どれほど美しい女性になっているのだろうか。俺には想像もつかない。

 とにかく、それだけ可愛かった茜音と、俺は仲が良かった。俺は特別かっこよかったわけでもないし、話しやすかったわけでもないだろうに、茜音はよく俺と一緒にいることを望んだ。もちろん、茜音に女子の友人がいなかったわけではない。今考えると、どうして茜音があんなにも俺と一緒にいてくれたのかは謎だ。

 奇跡のような話だけれど、茜音とは小学校六年間ずっと同じクラスだった。進級してクラス替えが行われるたびに、俺は茜音と同じクラスであることを願っていた。小学校二年生や三年生の頃は純粋に友人として茜音を好ましく思っていただけだろうが、五年生や六年生にもなると、その感情は明らかに別のものに変容していたと思う。俺はいつの間にか茜音のことを好きになっていた。俺も、茜音と一緒にいることを望んでいた。

 いつしか茜音は俺にとって特別な存在になっていた。茜音にとっても俺は特別な存在なのだと思っていた。それは茜音の行動にも起因する。

 茜音は手を繋ぐことを好んだ。いわく、相手がそこにいるということを感じられるから。小学生が考えるような理由ではないと思うけれど、実際に茜音がそう言っていたのだ。

 俺と茜音はよく手を繋いだ。小学校低学年のうちは、手を繋いで一緒に帰っていた。高学年になると人目を気にするようになって、人目を避けるようにしながら手を繋いだ。それこそ、いわゆる恋人繋ぎというような、指を絡める繋ぎ方で。

 それを俺だけにしていたのかどうかは知らない。けれど小学生だった俺にとって、自分が茜音の特別な存在なのだというふうに思うには充分すぎた。俺だけが茜音の全てを知っていると思っていた。

「ねえ、しょーいちくん」

 俺の名前は正一(ただひと)なのに、茜音は俺のことをそう呼んだ。茜音だけに許した呼び方だった。

 茜音にそう呼ばれるたび、俺は胸の高鳴りを感じていた。茜音が俺を見てくれている。俺を欲してくれている。そのことが嬉しくて、でも照れ臭くて、俺は茜音の前ではその熱を露わにすることを拒んだ。あくまで、クールに振舞おうとしていた。それが成功していたのかどうかは自信がない。

 いつまでも茜音と一緒にいるんだ。あの時の俺はそう思っていた。

 しかし、現実は残酷なもので、俺と茜音は引き離されることになる。

 三学期、厳しい寒さに襲われていたその日、茜音はずっと暗い顔をしていた。他の奴にはわからなくても、俺にはわかった。きっと何かあったのだ。小学校六年生だった俺は、自分なら茜音を元気づけられると確信していた。俺ならば茜音の悩みを取り除けると勘違いしていた。

「しょーいちくん、今日一緒に帰ろ」

 茜音は曇った声で俺に言った。

 小学校六年生になっても、二人で一緒に帰ることは別に珍しくなかった。ただ、改まって誘われることは滅多になかった。いつもなら、どちらからともなく相手のほうを見て、視線だけで通じ合って一緒に帰るのだ。だから俺は何か嫌な予感がしていた。一緒に帰ってしまったら、もう二度と会えなくなってしまうような、そんな予感。

 授業が終わって、放課後。俺は茜音と一緒に帰った。学校を出るまで茜音は無言だった。俺は事態の重さを子どもなりに察していた。これは、ただ事ではないのだ、と。

 周囲に小学生が少なくなってくると、茜音は黙ったまま俺の手を取った。俺は茜音の好きにさせていた。ぎゅっと手を握られると、頬が熱くなるのを感じていた。好きな子に手を握られたのだから、当然の反応だろう。この時、俺はもう自分の気持ちに気がついていたし、茜音も俺と同じ気持ちなのではないかと推測していた。俺のことが好きではないのなら、こんなふうに手を繋ぐはずがないだろう。そう思っていた。

 茜音が重い口を開いたのは、もうすぐ家に着く頃だった。周囲に人もなく、二人だけになって、茜音はようやく言った。

「あたし、しょーいちくんとお別れしなきゃいけない」
「え?」

 俺は耳を疑った。どうしていきなりそんなことを言うのだろう。俺が何か気に障ることをしてしまったのだろうか。今だって、こんなに良い雰囲気だったというのに。

 茜音の瞳には涙が浮かんでいた。突然のことに慌てた俺は、ポケットから自分のハンカチを急いで取り出して、茜音に渡した。茜音はハンカチを受け取ると、本格的に泣き始める。

「どうしたんだよ、急に」

 俺が尋ねても、茜音は泣くばかりで答えが返ってこなかった。俺は辛抱強く待った。思えば、この時の俺は混乱していて、自分がどうすればよいのかわからず、茜音の言葉を待っていたのだろう。どうして急に別れを切り出されるのか、皆目見当もつかなかったのだ。

 茜音はハンカチで顔を覆って、涙を拭く。ずずっと鼻をすすって、茜音は言った。

「あたし、引っ越すの。遠いところに」
「……そう、か」

 俺は辛うじてそう答えることができた。別れの原因が自分の行いではなかったという安堵と、自分ではどうすることもできないという諦念が、俺の心を占めていた。

 そして、理解する。俺と茜音はもう一緒にいられないのだ、と。

 せめてどちらか片方でも携帯電話を持っていたら、話は違ったかもしれない。しかし俺も茜音も携帯電話は持っておらず、連絡する手段を持ち合わせていなかった。もし連絡を取るとするのなら手紙になるのだが、この時の俺たちには手紙という選択肢が浮かばなかった。ただ、別れなければならないのだという現実に打ちひしがれていた。

 泣きじゃくる茜音に、俺は何もできなかった。今の俺だったら迷わず茜音を抱きしめただろうが、当時の俺にそんなことができるはずもなかった。

「やだよお。あたし、しょーいちくんと一緒に中学も行くんだって、そう思ってたのに」
「俺だって、そうだよ。茜音がいなくなるなんて考えてもみなかった」
「しょーいちくんと一緒にいたい。あたし、一緒に、いたいのに」

 その日は茜音が泣き止むのを待っていたら夕方になってしまって、帰りが遅かったことを親に咎められてしまった。そんなことはどうでもよかった。親に怒られようが、俺には茜音のほうが大切だった。

 翌日からは、茜音はいつも通りだった。時々、ふっと顔に影を落とすことはあったけれど、俺は気にしないことにした。俺も茜音も、近づきつつある別れには触れず、二人で過ごす時間を大事にしようとしていた。

 そして、別れの日がやってくる。

 茜音と最後に会ったのは、卒業式の日だった。晴れやかに着飾り、誰もが来る春休みに心躍らせている日。小学校の最後の登校日。

 茜音は俺を呼び出して、誰もいない廊下で、手を繋いだ。これが最後なのだと思うと、俺も泣きそうになっていた。その時には、茜音がいなくなるのだということが理解できていた。この手を離してしまえば茜音はいなくなってしまうのに、離すしかない自分の無力さを呪っていた。

 茜音と俺は手を繋いで、向き合う。当時は俺と茜音の身長は同じくらいで、目の高さも一緒だった。茜音は今にも泣きそうな顔をしながら言った。

「しょーいちくん、約束しよ」
「約束?」
「そう。もし、あたしたちがもう一度会うことがあったら」

 茜音はそこで一度言葉を切った。もう別れるのだという現実から目を背けようとしていたのかもしれない。俺も涙を目に溜めて、茜音の言葉を待った。

「もう一度会うことがあったら、結婚しよ」
「わかった」

 小学生には、結婚が持つ意味も価値も難しさもわからなかっただろうに、俺と茜音はそんな約束をした。あまつさえ、俺はこんな約束もした。

「俺が必ず茜音を迎えに行く。だから、それまで待っていて」

 今考えれば、お前がいったいどうやって茜音を迎えに行くんだと言いたくなる。転居先も知らないくせに、そんな無謀な約束をするんじゃないと叱りたくなる。

 茜音はその約束を聞いて、やわらかく微笑んだ。俺には、嬉しそうに見えた。

「待ってる。しょーいちくんが来るまで、ずっと待ってる」
「うん。会うことができたら、結婚しよう」

 その時、俺はまっすぐに茜音の瞳を見ることができた。これは、今の俺にはできないことかもしれない。好きな人と真正面から向き合うことなんて、様々なことを学んでしまった今では難しいかもしれない。

 茜音も、俺を見つめていた。そして、言った。

「しょーいちくん」
「なに?」
「約束のキス、して」
「いいよ」

 その時の俺が迷わず承諾したのは、どういう想いからだったのだろう。とにかくキスをしなければならないと思っていたのは覚えている。キスを断れば、二度と茜音に会えなくなると思っていたような気もする。

 俺と茜音は不器用に唇を重ねた。小学生のキスなんて、触れ合うような軽いものしか知らない。それでも、俺の心を満たすことはできた。茜音とキスをしたのだという高揚感に包まれることはできた。その高揚感が、一時的に喪失感を小さくしてくれた。

 茜音は、目を細めて笑っていた。

「しょーいちくん、あたし、ちゃんと待つからね。迎えに来てね」
「行くよ。どれだけ時間がかかっても、必ず茜音を迎えに行く」

 そんな根拠のない自信に満ち溢れた言葉でも、茜音を救うことはできたのだろうか。今になっても、あの時の正解はわからない。

 その約束は、今の今まで俺を縛りつけている。俺には茜音がいるのだという謎の観念に縛られ続けている。どうにかして茜音を迎えに行かないといけないのだと、大学生になった今でも思っている。その約束が茜音の中でも生きているのかどうか、疑問だけれど。

 高校生の頃、一度だけ女子と付き合うことがあった。俺は茜音との約束を忘れたわけではなかったけれど、叶えられる約束ではないのではないかという疑念が生まれていた。つまり、もう茜音と会うことはできないのに、茜音のことを思う必要はないのではないか、ということだ。そんな中でそれなりに可愛い女子から告白されて、俺は承諾してしまった。

 その結果、俺は自分の中でどれだけ茜音の存在が大切だったのかを思い知ることになった。俺はどうしてもその女子を思い出の中の茜音と比較してしまうのだ。茜音だったらこうだったのに、という落胆にも似た思いを幾度となく抱いた。そんな関係が長く続くこともなく、半年くらいでその女子とは別れた。それ以来、俺は誰とも付き合っていない。誰かと付き合っても、思い出の中の茜音を超えられるとは思わなかったからだ。

 そして、今。俺は一浪して国立大学に進学した。一浪してでも入りたかったのは、学費がとても安いからだ。それ以外の理由はない。学費が安ければ一人暮らしをさせてもらえるという親との約束は叶えてもらった。俺は念願の一人暮らしを手に入れている。

 一人になれば、茜音のことを考えてしまう。あの時、どうしたら俺と茜音の縁は切れなかったのだろうか。俺が連絡先を聞いていたら、今でも茜音と繋がっていられたのだろうか。茜音とした約束は、どうやって叶えたらよいのだろうか。いや、そもそも、茜音の中でもあの約束は生きているのだろうか。

 大学には全国から学生が集まってくるということで、俺は茜音との再会を期待していた。運命的な出会いがあるのではないか、そう思って講義に参加しているが、入学から一か月経った今でも、茜音の姿は見つけられていない。

 いるはずがないのだ。もう、俺と茜音を繋いでいるものなんてないのだから。

 心のどこかでは、それがわかっていた。小学生の頃の初恋なんてさっさと忘れて、次に進まなければならないのに、俺はずっと初恋に囚われている。

 今日も、きっと明日も、茜音のことばかり考えてしまうのだろう。



 俺はサークルにも入らず、アルバイト漬けの生活を送っていた。一浪したという後ろめたさがあり、親からの仕送りの金額を減らしたかったのだ。できる限り自分で稼いで、足りない分を仕送りで補填させてもらうという方策を取っていた。そのためには遊んでいる余裕などなかった。

 本音を言えば、サークルに入って茜音を探したかった。俺が一浪しているのだから、茜音が上級生になっている可能性は多分にある。上級生を探すのならサークルに入るのが最も手っ取り早いだろう。しかし、俺はアルバイトを選んだ。茜音がいるはずがないのだと、最初から諦めてしまっていたのかもしれない。

 講義が始まる前に、講義室全体を見回すのも癖になっていた。単科大学だから、一学年の人数はとても少ない。いつ見ても、見知った顔しかいないのはわかっている。それでも、もしかしたら今日は茜音がいるかもしれない。そんな希望は毎日のように打ち砕かれていた。

 その日も俺はいつものように講義室を見回して、茜音がいないことに落胆する。大学生になった茜音を、小学生の頃の記憶で判別できるのかどうかは、俺にもわからない。

「ねえねえ、聞いた? 佐藤先輩と田中先輩、結婚するんだって」

 俺の前の席に座っている女子生徒二人が話している。聞きたくなくても、その会話の内容が頭に入ってくる。

「あれ? あの二人、付き合ってなかったよね?」
「そうそう。だからさ、交際0日婚だよ」
「まあ仲良かったもんね。いつかはそうなるんじゃないかって思ってた」
「ねえ。でも、付き合うんじゃなくて結婚、っていうところがすごいよね。佐藤先輩が猛アタックしたらしいよ」

 どうでもいい話だ。どちらが男なのかはわからないが、幸せになればよいと思う。交際0日婚、しかも学生結婚ならば、なかなかうまくいかない例が多いと聞いたことがある。無論、幸せになれるカップルがいることは否定しない。

 この国では交際0日婚が当たり前だ。少し前までは、半年から数年程度まで付き合ってから結婚に踏み切る、というカップルが多かったそうだが、いつしか交際期間をすっ飛ばしていきなり結婚するというカップルが多数を占めるようになった。交際0日婚を決めたカップルが言うのは、それまでの友人の期間で相手の人となりはわかっているから大丈夫、ということなんだとか。

 俺は交際0日婚には否定的だ。やはり、多少なりとも付き合って、友人よりは踏み込んだ関係性で相手を観察してから結婚に至るほうが、失敗が少ないのではないかと思う。交際0日婚は、交際期間を経た結婚よりも離婚率が高いというデータもある。この国は離婚しても特に気にしない人が多いが、そうは言っても離婚しないに越したことはないだろう。

 俺みたいに交際0日婚に否定的な人間のほうが少ないのが現状だ。しかも、学生結婚もありふれた話で、すごい奴らは大学一年生で結婚してしまう。それでも生きていけるような制度になっているから成立するけれど、俺にはその勇気はない。高校の頃からずっと付き合っている、とかなら話は別だが。

 講義が始まると、前の女子生徒の会話も終わる。俺は退屈な講義を聞きながら、思う。

 もしこの大学で茜音を見つけることができたのなら、俺はどうするのだろうか。あの時の約束の通り、交際0日婚に踏み切るのだろうか。

 いや、無駄な空想はやめよう。この大学に茜音はいないのだ。茜音が俺と同じように、あの時の約束を覚えているはずもない。小学生の頃の約束なんて、中学、高校と過ごしていくうちに忘れるものだ。忘れるべきものなのだ。

 その日の講義が終わり、俺は帰宅する。この後にはアルバイトが控えている。

 講義室を出て、土間に向かう。土間には掲示板があって、サークルの勧誘のビラや、講義の連絡事項などが貼られている。

 代わり映えしない内容を見て立ち去ろうとしたところで、新しい掲示物を見つけて立ち止まる。ミスコンの参加者を募集するビラだった。学校の中でいちばん美しい女性を投票で決めるという、誰にとって意義のあるものなのかわからない企画だ。出場する女子の自己顕示欲と承認欲求を満たすためのものなのだろうか。興味のない俺にはわからない。

 しかし、そこには驚くべき内容が書かれていた。

 昨年の優勝者、嶋崎茜音さんのコメント。

 俺は心臓が飛び出るかと思った。茜音と同姓同名の女子が、昨年の優勝者だというのだ。

 そんな、まさか。俺は湧き上がってきた希望を自分で打ち消す。ただの偶然だ。偶然、茜音と同姓同名の女子がこの大学にいただけだ。茜音ではない。茜音は、ミスコンに出るような奴じゃない。明るいけれど、ちょっとだけ引っ込み思案なところがあって、人前に出て自分の魅力をアピールするような度胸はないはずだ。

 俺は高鳴る鼓動を無視して、その場から立ち去った。無駄な希望をどこかに捨てたかった。

 むくむくと膨らんでいく期待。茜音がすぐ傍にいるのではないかという希望。その全てを投げ捨てたくて、俺は自転車に乗ってある場所へ向かう。

 それは、川原だ。大学の近くにあるそれなりに太い川の横に、整備された川原がある。俺がここに越してきてから見つけた、落ち着ける場所だ。ランニングや犬の散歩をしている人が時々通るくらいで、とても静かな場所。俺はどうにも息が詰まった時に、ここに来るようにしていた。ここでしばらく過ごしていれば、気持ちは自然と落ち着いてくる。川が流れる涼やかな音が心を癒してくれるのかもしれない。

 俺は川原に降りていき、自転車を停めて、川べりに繋がる幅広の階段に腰掛ける。初夏の爽やかな風を感じる。俺は肺に溜まった空気を深呼吸で吐き出して、ぼんやりと川を眺める。

 どうにかして、この大学の嶋崎茜音と出会う方法はないだろうか。会わなければ、いつまでも俺の心に引っかかったままのような気がする。俺の知っている茜音ではないということがわからなければ、茜音ではないかという期待を捨てることができない。

 でも、そんなことは誰に頼めばよいのだろうか。ミスコンの主催者に問い合わせたら、会わせてくれるだろうか。いや、何と言えば怪しまれないかわからない。はたから見れば、下心満載で会いたいと願っている男子にしか見えないだろう。茜音との思い出をいくら語ったところで、主催者を納得させられるとは思わない。

 どうにもならないのか。この大学に、茜音がいるかもしれないのに。

 俺は堂々巡りに陥りかけている思考を無理矢理引っ張り上げて、別のことを考えようとした。もうすぐ帰らなければ、アルバイトに間に合わないだろう。そう、アルバイトだ、今日はどんな仕事が待っているのだろう。

 けれど何を考えたところで、俺の思考は茜音に戻っていってしまった。

 結局、時間になるまでずっと、俺は茜音のことを考えていた。




 全てを変えたのは、ミスコンの貼り紙を見つけてから数日後だった。

 俺は講義に参加するため、一人で講義室に向かっていた。今日は二限目からで、一限目が空いていたから、家でゆっくりしてから大学に来ていた。ゆっくりしすぎたのか、まだ身体は眠っているような気がした。

 怠い。いっそ講義をサボってしまおうかとも思いながら、だらだらと歩いていた。正面から歩いてくる人影にも、ほとんど気づいていなかった。

 俺は俯きがちに歩きながら、一人で歩いてきた女子とすれ違う。大学では、いやどこでも、何でもないことだ。知らない人とすれ違うことくらい、いくらでもある。

「しょーいちくん?」

 その声で、俺は立ったまま夢の世界に入り込んだのかと思った。

 だって、呼ばれるはずがないのだ。それは茜音だけに許した呼び方で、茜音以外が知っているはずがないのだ。それを知っているということは、つまり。

 俺は顔を上げて、今しがたすれ違った女子の顔を見た。モカブラウンの髪は肩にかかるくらいの長さで、色素の薄い瞳が信じられないと言わんばかりに見開かれている。百人いたら百人が振り返るような、人目を引くくらい可愛い子だった。

 俺の記憶にある茜音とは少し違っていたけれど、俺は確信することができた。

 茜音だ。この女子は、俺がずっと探し続けていた人だ。

 そう理解しても、俺の口から出ていったのは、疑念が混ざった声だった。

「……茜音?」
「しょーいちくん! やっぱり、しょーいちくんだ!」

 彼女は歓喜に震えた声を上げて、俺の名前を連呼した。人目も憚らずに俺の手を取り、喜びを爆発させる。

「なんで? しょーいちくん、どうしてここにいるの?」
「今年この大学に入ったんだ。今は、一年生」
「そうなんだ。だからあたしの学年にはいなかったんだね」

 茜音は嬉しさを全身で表現しているようだった。その所作が俺の記憶にある茜音と重なる。やはりこの女子は茜音なのだと認識させる。

「茜音は二年生なのか?」
「そうだよ。なぁんだ、同じ大学にいたならもっと早く会えたかもしれないのに」

 茜音は残念そうに言いながらも、嬉々として俺の手を離さなかった。長らく誰の手も握ってこなかった俺には少し刺激が強い。茜音は何も考えていないようだったが。

 しかし俺たちの再会を邪魔するように、講義の開始を知らせる鐘が鳴る。茜音は焦って俺の手を離し、それでもそこから動こうとはしなかった。

「しょーいちくん、お昼にまた」
「また、って、食堂?」
「うん。食堂で待ってる」

 茜音はそう言い残してぱたぱたと走っていってしまう。俺も、のんびりと歩いている暇はない。茜音とは違う方向に走る。

 まさか。そんな。本当に、大学で再会できるだなんて。

 今の俺の気持ちは、どんな言葉でも形容できないだろうと思った。茜音に出会えたという喜び。茜音が約束を覚えていないのではないかという疑念と、悲観。茜音によく思われたいという自己顕示欲。それらがごちゃ混ぜになって、俺の心の中でぐるぐると巡っている。

 いや、今は、とにかく講義だ。茜音には昼に会えるのだ。昼までは、今までの俺でいられるのだ。茜音に再会する前の俺で。

 茜音とこれ以上話してしまったら、今までの俺が突き崩されるような気がしていた。茜音が変わってしまったことを知り、美しい記憶に縋ってきた自分が深く傷つくのではないかと恐れていた。俺は講義にも全く身が入らず、ただ座っているだけの木偶と化していた。

 俺が何を思おうと、講義は終わり、昼がやってくる。俺はふらふらと立ち上がり、荷物を持って食堂へ向かう。

 茜音は、俺が知っているままの茜音ではないだろうと思っていた。この七年で、茜音はきっと変わってしまっているだろう。俺は、その現実を受け入れなければならない。いつまでも記憶の中の茜音を美しいまま保っていられるわけがないのだ。こうして、現実は俺に牙を剥いたのだから。

 食堂に着くと、茜音は入口で待っていた。男子と話していたけれど、その男子に手を振って別れを告げ、俺のほうに歩いてくる。その動き方は俺の記憶の中の茜音と同じようで、少し違っているようにも思えた。

「しょーいちくん、大きくなったねえ」

 茜音の身長は俺の肩くらいだった。茜音は手を伸ばして自分との背丈の違いを感じている。

 その動きで俺は、ああ、茜音だ、と再認識した。茜音がいかにもやりそうなことだと思ったのだ。目の前の茜音は、俺の記憶の中の茜音と同じ人物なのだ。少し成長して変わったところはあるかもしれないけれど、やはり茜音は茜音なのだ。

「茜音は」

 可愛くなったな。そう言うことができたのなら、どんなによかっただろう。

「なに?」

 茜音は期待が込められた瞳で俺を見上げる。俺からの評価を心待ちにしているようだった。

「変わらないな」
「ええ? 子どもの頃と一緒ってこと?」
「俺の記憶と変わらない。変わらなくて、よかった」
「よくないよお。あたしだって成長したんだよ」

 茜音は笑う。その笑顔も、俺の記憶とほとんど変わらない。茜音らしさを残したまま、ちょっと大人っぽく変えただけだ。

 俺は感動で泣きそうになりながら、茜音を促した。茜音にはこの感動を悟られたくなかった。

「ほら、昼飯食うんだろ。早く行かないと席埋まっちゃうぞ」
「あ、そうそう。忘れちゃうとこだった。行こっか」

 茜音は一瞬だけ俺の手を取ろうとしたように見えた。その手はわざと空を切り、何でもなかったことのように流される。さすがに、こんな場所で手を繋がれるわけにはいかない。俺も、茜音も、そう簡単に手を繋ぐようなことはできない年齢になったのだ。

 食堂はそれなりに混んでいた。この大学の食堂は、入口でトレイを取って、食べたいものを取っていくスタイルだ。茜音も俺もトレイを取り、列に並ぶ。

「うぅん、食堂は久々だなあ」
「普段はどうしてるんだ?」
「家に帰ってるの。近いから。あたし、ミス・シラサキに住んでるんだよ」

 茜音は平然とそう言った。俺はすぐに応えることができなかった。

 ミス・シラサキというのは、この辺りでは有名な女性専用マンションだ。女性しか入居することができず、男性は宅配業者でもなければ中に入ることさえ許されない。その厳重さの分だけ家賃は高いが、娘を心配する親が入居させるため、常に満室状態なのだという。ミス・シラサキに住んでいるというのは、ある種のステータスでもある。

「あそこって本当に男子禁制なのか?」
「うん。連れ込んだのがバレたら退居しなきゃいけないんだよ。厳しいよねえ」
「そんなに厳しいのか。へえ」
「だから、あたしがしょーいちくんを家に連れ込むのはだめってことだね」

 茜音はまたも平然とそう言った。俺はトレイを落としそうになった。

 何ということはない、ただの世間話だ。茜音は純粋な心で言っているだけだ。連れ込むことと邪な考えはイコールではない。俺は自分に言い聞かせた。

「じゃあ俺の家に呼ぶしかないってことだな」
「いいの? 行きたい行きたい」

 茜音は飛び跳ねるかと思うほどの勢いで応えた。

 茜音は俺のことをいったいどう思っているのだろうか。あの頃の俺と同じだと思っているのだろうか。あの頃、性欲なんて一切持っていなかった純粋な頃の俺と。

 俺たちは料理が盛り付けられた皿を取っていく。茜音は鯖の塩焼きを取った。何とはなしに、俺も同じものを取る。別に合わせたわけではなくて、正直何でもよかったのだ。今は茜音に再会できたという思いだけで頭がいっぱいで、何を食べるかなんて考えている余裕はなかった。

 そうしていくと、茜音のトレイと俺のトレイには同じものが並んだ。白米、味噌汁、鯖の塩焼き、サラダ。健康的な昼食だ。量としては少し物足りないかもしれない。

「しょーいちくん、あたしと同じじゃん」

 茜音は俺のトレイを見て驚いたように言った。

「あたしに合わせてくれたの?」
「いや、たまたまだよ。鯖が食べたかったんだ」

 俺は咄嗟に嘘をついた。茜音に会えた嬉しさで頭が働いていない、と言うのは恥ずかしかった。茜音は「ふうん」と応えただけだった。納得はしていなさそうだった。

 代金を支払って、席を探す。いつもなら相席自由の大きなテーブルに座るのだが、今日は茜音がいるからできるだけ相席されないような席がよかった。ちょうど四人掛けのテーブル席が空いていたので、そこに座ることにした。俺の向かいに茜音が座る。

「それにしても、しょーいちくんとまた会えるなんてね。しかも大学で」
「ああ、俺も驚いたよ。まさか茜音がここにいるなんてな」
「しょーいちくんは一浪で入ったんだもんね?」
「そうだよ。ほら、ここは学費が安いから、一人暮らししやすいだろ」
「あ、同じこと言ってる子いた。どうしても一人暮らししたいからってここに来た子」

 考えることはみんな同じらしい。やはりここの学費の安さは、ここを選ぶ理由になるのだ。問題は単科大学だから、学びたいと思える学科かどうかは考えなければならないが。

「でもその子、ミス・シラサキにいるんだよ。いっつも彼氏の家に行ってるけどね。たまには自分の部屋に呼びたーいって言ってる」
「ミス・シラサキにいると大変だな。親は安心だろうけど」
「そうそう。一人暮らしすることになった時、あたしの親はミス・シラサキで即決だったもん。ここなら変な男が来ることもないだろうって。あたしが行ったら一緒なのにね」

 茜音は鯖の塩焼きをつつきながら言う。俺は先程からずっと気になっていることを訊くタイミングを図っていた。今なら、怪しまれずに答えてくれるだろうか。

 俺は茜音のほうを見ることができずに、同じように鯖の身を箸でほぐしながら訊いた。

「そういう男、いるのか?」
「ん? どういう男?」

 あまりにも訊き方が抽象的すぎたのだろう。茜音から訊き返されてしまった。俺は心中の動揺を悟られないように気をつけながら、茜音にもう一度訊く。

「茜音が家に行くような男」

 本当は、彼氏がいるのかどうかを訊きたかった。けれど、俺にはそこまで踏み込む勇気が出なかった。だから、こんなぼんやりとした訊き方しかできなかった。

 茜音は俺の言いたいことを察したのか、ふわりと微笑んで答えた。

「いないよ。あたし、ガード固いんだから」

 その答えにほっとしている自分がいた。茜音に彼氏がいるとするのなら、俺たちの間の約束はもう消えてしまっていることと同義だからだ。俺だけがあの約束に縛られているのではない、かもしれない。

 茜音があの約束を覚えていて彼氏を作っていないのか、それとも単に彼氏になり得る男がいないだけなのかはわからない。あの約束について、今訊くのは憚られた。再会してすぐに切り出すような内容ではない。もう少し茜音の様子を探ってから訊くべきだろう。俺はそう思って、あの約束についてはいったん保留することにした。

「誘ってくる人はそれなりにいるけどねえ」
「行かないのか?」
「行かないねえ。女子会なら行くけど」
「あまり好きじゃないのか? その、男と一緒に遊ぶのって」
「あたしも大人になったんだよ、しょーいちくん。無闇に男の人についていったらだめなの」

 含みのある言い方だった。過去に何かあったのだろう。俺は怖くてそれを訊くことができなかった。こんなにも可愛い茜音だからこそ、下心のある男がたくさんやってくるのだろう。その中できっと嫌な思いをしたに違いない。

「あ、しょーいちくんの家なら行ってもいいよ。近いの?」

 茜音が突然そんなことを言うものだから、俺は口に運ぼうとした鯖の身を皿に落としてしまった。

 これは、警戒されていないということなのだろうか。それとも、期待してよいのだろうか。

「自転車で数分って感じだな。雨の日は歩いてくるから、近いほうなんじゃないか?」
「そうなんだ。じゃあいつでも行けるね」
「無闇に男の人についていったらだめなんじゃなかったのか?」

 俺が直前の茜音の言葉を引き出すと、茜音は笑った。

「だって、しょーいちくんだよ? 大丈夫でしょ、昔と全然変わってないし」

 警戒されていないだけなのだろうと直感した。そもそも俺は男として見られていないのかもしれない。茜音の中では、小学校の頃の俺に対する距離感のままなのだ。あの、人目を忍んで手を繋いで笑いあっていた頃の俺と。

 今は違う。俺はあの頃みたいに純粋な男ではなくなってしまった。いろいろなことを知ってしまった。茜音が思うような男ではないというのに、茜音から向けられる視線は俺を信じきっているように思えた。

「あ、そうだ、連絡先教えてよ。そしたらいつでも会えるよね」

 茜音はスマートフォンを取り出した。茜音から言ってくれて助かった。俺はすっかり失念してしまっていたのだ。俺もスマートフォンを出して、連絡先を交換する。

「ああ、うん。いつでも会えるかどうかは、わからないけど」
「え? しょーいちくん、サークルとかで忙しいの?」
「いや、バイトだよ。夕方から夜は結構バイトに行ってる」
「そうなんだ。じゃあしょーいちくんが休みの日じゃないと家に突撃できないんだね」

 茜音の中では、俺の部屋に来るのは決定事項のようだった。それがまた俺の心を揺さぶる。こんなに可愛い女子から家に行きたいと言われて、平常心を保っていられる男などいない。

 俺は動揺を気取られないようにしながら、茜音に尋ねた。

「茜音は、サークルとかバイトとかないのか?」
「バイトはしてるけど、そんなに忙しくないなあ。サークルは入ってないよ」
「そうなのか? てっきりどこかのサークルに入ってるのかと」

 大学生といえばサークルだろう。俺はそう思っていた。俺だってアルバイトが減らせるのならサークルに入っていただろう。だから、茜音がどこにも所属していないとは思わなかった。

 茜音は「うぅん」と唸ってから、俺に答えた。

「実は、去年は入ってたんだけど、人付き合いがめんどくさくてさあ。ちょっと喧嘩になっちゃったから辞めたの」
「喧嘩になった?」
「そ。結婚してる男の先輩があたしに浮気しようとしちゃって。で、奥さんも同じサークルにいるのね。それで、その夫婦が大喧嘩して、最終的にあたしまで奥さんに謝らないといけなくなっちゃって。あたし、何もしてないのにさあ」

 茜音は愚痴っぽくぼやいた。そんなことがあったら、確かに辞めたくもなるだろう。

 しかし、やはり茜音はそれだけ可愛いのだ。妻がいる男性が不倫しようとするほどに。俺が手を出すことなんて許されるのだろうか。

「それで辞めたの。他のところも誘ってくれるけど、行かない。また同じようなことになったら面倒だし」
「そうだな。それは、面倒だろうな」
「しょーいちくんがいるなら行ってもいいけどねえ。しょーいちくんはバイトで忙しいんだもんね」

 それは、どういう意味なのだろうか。茜音の表情からは何も読み取ることができない。俺がいると、茜音は安心できるのだろうか。厄介事に巻き込まれなくなるのだろうか。俺を隠れ蓑にして?

 わからない。茜音はいったい俺のことをどう思っている?

「俺もサークルに入るつもりはないよ。バイト漬けだからな」
「ふぅん。ねえねえ、バイト先に可愛い女の子とかいるの?」
「いないな。女性はいるけど、みんな結婚してる」
「そっかあ。ふむふむ」
「茜音は? ミスコン一位なんだから、男が寄ってくるんじゃないか?」

 俺が冗談交じりにそう言うと、茜音は嫌そうな顔をした。もちろん、冗談で。

「ミスコンのことは触れないでよお。あたしだって出たくて出たわけじゃないんだからね」
「まあ、そうだろうとは思ったけど」
「賞金出すからサークルから一人出せって言われて、あたしが選ばれたの。どうせ予選で終わりだろうと思ってたのに、気づいたら優勝しちゃってた」

 茜音には自分が可愛いという自覚がないのだろう。今の言葉も謙遜しているわけではなく、本心から言っているようだった。俺がそのサークルにいたとしても、賞金を狙うなら茜音を推薦することだろう。茜音なら絶対に勝てると思う。

「知らない男の人からも声かけられるようになって、正直迷惑してるんだよね」
「ああ、まあ、有名税みたいなもんだよな」
「だからしょーいちくんと会えてよかったなあって」
「うん?」

 茜音の意図が伝わらなくて、俺は茜音に訊く。茜音はやわらかい微笑みを浮かべた。

「しょーいちくんと一緒にいたら、友達でもない男の人は寄ってこないでしょ?」
「そんなものかな」

 俺を盾代わりに利用するということか。でもそれは、彼氏と勘違いされるんじゃないか。茜音はそれでもよいと思っているのだろうか。

 茜音は俺が考えていることなど知らず、俺に可愛い笑顔を振りまく。

「周りに見せつけていかないとね。あたしにはしょーいちくんがいるんだぞ、って」
「俺が役に立てるのなら何より」
「あっ、しょーいちくん、もしかして彼女いる? そしたらだめだよね?」
「大丈夫、いないよ」
「そっかそっか。じゃあ、あたしが一緒にいてもいいね」

 茜音は安堵したようだった。自分に彼女がいなくてよかったと思ったのは初めてだ。

「彼女を作る気はあるの?」
「ないことはない」

 ないと言えば嘘になってしまうから、俺は曖昧に答えた。茜音以外を彼女にする気はない。

「相手から寄ってきたら受け入れる、的な?」

 茜音はそう解釈したらしい。そういう意味ではないのだが、俺は頷いておいた。

「まあ、バイトが忙しいからな」
「バイト先にいい人いたらよかったのにねえ」

 どんな人がいようと、茜音には敵わない。茜音がここにいるとわかってしまった以上、俺にはもう茜音しか見えない。茜音以外の女性と付き合おうとは思えない。

 俺はその感情を押し殺して、茜音の前ではよい友人のふりをするのだ。

「そうだな。バイト先にいい人がいたら、積極的になったかもな」
「これから入ってくるかもしれないじゃん。出会いはいつ来るかわかんないよ」
「俺と茜音が再会したみたいに?」

 俺が笑いながら言うと、茜音は一瞬だけ言葉に詰まった。ような気がした。

「そうそう。運命の再会だよ」
「大袈裟だな」
「そうかなあ。あたしは運命の再会だと思ってるよ」

 俺だってそう思っている。これは神様がくれたチャンスなのだ、と。

 それでも、俺は茜音に訊くことができなかった。

 あの約束は、今でも生きているのか。

 あの約束を覚えているのは、縛られているのは、俺だけなのか。

 茜音の笑顔を見ていたくて、この日の俺はあの約束について訊くことを諦めた。



 一人暮らしをするようになったら、自炊するのだ。

 俺にもそう思っていた時期があった。しかし、それは一か月程度で挫折した。日々のアルバイトで消耗する日は当然のことながら、アルバイトがない日でもスーパーの惣菜やカップ麺で済ませるようになってしまった。理由は特別なものではなく、ただ面倒だからだ。同じことを考えて自炊をやめた人間がたくさんいることだろう。

 アルバイトがない日の夕方、俺は講義が終わってから家に鞄を置いて、近所のスーパーに向かった。このスーパーは大きな店舗で、一人暮らしの学生が必要とするものは概ね何でも揃うことで有名だった。惣菜に力を入れているのか、毎日のように違う種類の惣菜が店頭に並んでいる。俺が通う大学から近いこともあり、この大学の生徒ならばよく足を運ぶスーパーだった。実際に同学年の学生に出会ったこともある。

 俺は何を食べようか迷いながら、惣菜コーナーを物色していた。米を炊くくらいならやるから、おかずになりそうなものを探すことになる。鶏の唐揚げ、ハンバーグ、トンカツ、アジフライ、コロッケ、鶏の照り焼き、など、今日も実にたくさんの種類の惣菜が並んでいた。

 さて、どれにしようか。栄養バランスなんてものは考えていないから、俺は好きなものを買うことにしている。とはいえ、いつも同じものでは飽きてしまう。これだけの種類があるのだから、普段は選ばないようなものを選んでもよいのかもしれない。

 そうやって俺が悩んでいると、横に人が立った。邪魔なのかと思って横にずれると、肩をとんとんと叩かれた。

「よっ、しょーいちくん」
「茜音。どうしたんだよ、こんなところで」

 そこにいたのは茜音だった。手に持っているカゴは空で、今スーパーに来たことを窺わせる。あるいは、惣菜以外を買うつもりがない、とか。

 茜音は俺のカゴの中を見て、にやりと笑った。俺のカゴには先程確保した鶏の唐揚げのパックが入っている。

「しょーいちくんは自炊しないタイプなんだね」
「そうだな。最初は頑張ってたんだけど」
「まあ面倒だよねえ。わかるわかる」
「茜音は何買いに来たんだ? 自炊するって言ってたよな?」

 昼は家に帰っているという話を思い出す。家に帰っているイコール自炊ではないかもしれないが、その可能性は高いだろう。

「あたしだってご飯作るのめんどくさい時はあるよお。で、来てみたらしょーいちくんがいたからさ、これはラッキーと思って」
「何がラッキーなんだよ?」
「しょーいちくん、今日はバイト休みなの?」

 茜音は俺の質問には答えず、俺の予定を訊いてくる。やむなく、俺は頷いた。

「今日は休みだよ。だから家でのんびりしようと思って」
「じゃあしょーいちくんの家に行ってもいい?」
「は?」

 思わず声が裏返ってしまう。俺の家に来たいとは言っていた気がするけれど、今、これから?

「だめ?」
 茜音は小首を傾げてくる。その動作が愛らしくて、断ることなんてできるはずもない。茜音はそれがわかっていてそんなことをしているのではないかと疑いたくなる。やはり、茜音は自分の可愛さを自覚しているのではないかと思ってしまう。

 そして、可愛い女の子に頼まれたら、男は簡単に折れてしまうということも。

「まあ、いいけど、散らかってるぞ」
「いいの? やったあ、言ってみるもんだね」
「だめって言われると思ってたのかよ」
「ううん、全然。しょーいちくんならいつでもいいって言ってくれるって信じてた」

 茜音の信頼が痛い。俺は友情だけで茜音を家に連れ込むわけではないというのに。俺にだって下心はちゃんとあるのに、茜音にはそれが伝わらない。

 茜音は空のカゴをカゴ置き場に返してきた。そして、俺と一緒に惣菜を物色する。

「しょーいちくん、今も鶏の唐揚げ好きなんだね。変わってないなあ」
「世の中の男のほとんどは好きだと思うぞ」
「そうなの? まあ、確かにおいしいよねえ。あたしも好き」
「茜音の好きなもの買えばいいよ。俺は何でも食べられるから」
「じゃあピザ買っちゃおう。しょーいちくんがいるから半分こできるし」

 茜音は惣菜売り場のピザを買う。生地が厚めでふっくらしていて、トマトソースにチーズとコーンとサラミが乗っているだけだけれど、おいしいやつだ。以前に食べたことがある。ひとりで食べたら相当に腹一杯になった記憶がある。

「あとはサラダとお菓子とジュースだね。しょーいちくんのお部屋に何かある?」
「麦茶くらいしかないな。買っていったほうがいい」
「はいはーい。どうしよっかな、何買おっかなあ。あ、これ新しい味出たんだ」

 茜音はそうやって脱線していく。サラダを買いに行くのかと思ったら、近くにあった惣菜に目を引かれていた。

 こうやって誰かと一緒にスーパーを回るのは久しぶりだった。ひとりでスーパーに来る時は、目的のものを買ったらさっさとレジに行ってしまうが、茜音と二人だと寄り道が多い。それがなんだか嬉しくて、心の中がじんわりと温かくなる。そう、これはきっと、茜音とデートしている感覚なのだ。茜音にそのつもりはないだろうけれど。

 俺たちは寄り道しながらシーザーサラダを買って、ジュースはああだこうだ言いながらオレンジジュースに決まった。あとは、茜音が買いたいと言うから、コンソメ味のポテトチップスを買った。ピザだけでも結構腹にたまると思うが、こんなに食べきれるのだろうか。

「ふふ、これで準備はばっちりだね」

 レジに並んでいる間に、茜音は満足げに言った。俺は今更ながら茜音を家に連れていくことに焦りを感じ始めていた。部屋はそんなに散らかっているわけではないが、これで幻滅されてしまったらどうしようか。そんな不安さえ抱いてしまう。

「お、てんちゃんだ」

 茜音は知り合いを見つけたのか、胸の前で軽く手を振って挨拶している。見ると、眼鏡をかけた同い年くらいの女性がこちらに手を振っていた。彼女には、俺たちはどう映っているのだろうか。ちゃんと友人関係であるとわかっているのだろうか。

 てんちゃんと呼ばれた女性はこちらに来ることもなく、スーパーの中に消えていく。俺が茜音に訊こうとしたら、茜音に先手を打たれた。

「てんちゃんはねえ、あたしの仲良い子なんだ。しょーいちくんと再会したことも言ってあるよ」
「ああ、そうか。それはよかった」

 何がよかったのか俺にはわからなかったが、そう口走っていた。茜音は何も言わなかった。

 茜音は何と言って俺を紹介したのだろう。小学生の頃の同級生。あるいは、それ以上の存在だったことまで言っているのだろうか。いや、それ以上の存在だったのは俺の中だけかもしれない。茜音は、そんなこと思っていないかもしれない。

 レジを通過して、代金を二人で割る。ちょうど割りやすい金額だった。買ったものを俺が持っていたエコバッグに入れて、スーパーを後にする。

 停めていた自転車を回収して、歩いて俺の家に向かう。ここからなら歩いて数分の距離だ。

 茜音は俺の自転車を見て、残念そうに言う。

「二人乗りできないね。残念」

 俺の自転車にはカゴも付いていないし、後ろの荷台もないスポーツタイプだ。二人乗りができるような設計ではなかった。

「二人乗りは禁止だぞ」
「固いこと言わないでよお。あたしの夢なんだから」
「高校生の頃に叶えておけよ。自転車通学だった奴くらいいただろ」
「仲良い子にはいなかったんだもん。みんな電車通学だった」
「残念だったな。自転車乗ってる奴は周りにいないのか?」
「うぅん、いないねえ。しょーいちくん、自転車買い替えない?」
「嫌だよ。なんでお前の夢のために自転車替えないといけないんだよ」

 俺たちは笑いあう。こんなくだらない話でも、俺の心の中では大騒ぎだ。茜音の笑顔を見るだけで、小学生の頃に抱いていた恋心を思い出してしまう。そして、もっと大きく膨らんでいってしまう。

 俺は今でも茜音のことが好きなのだと、思い知らされてしまう。

 歩いていると、向こう側から女性が歩いてくる。彼女は俺と茜音を見て、驚いたような表情を見せた。

「あ、ぶんちゃん。じゃあねー」

 茜音は爽やかに挨拶して、そのまま過ぎ去っていく。俺はぶんちゃんと呼ばれた女性にとりあえず会釈して、茜音と並んで歩いていく。

「友達多いんだな」
「え? そうでもないよ、たまたまだよ」
「なんか驚いてたみたいだったけど」
「ああ、あたしが知らない男の人と歩いてるからじゃない? ぶんちゃんにはしょーいちくんの話してないし」

 茜音はさらりとそう言った。俺は茜音のほうを見てしまった。茜音は視線に気づき、首を傾げた。

「どしたの、しょーいちくん?」
「いや、その、余計な誤解を生むんじゃないか、と思って」
「大丈夫だよ、なんか言われたらしょーいちくんだよって言えばいいんだから」

 その説明で周囲は納得するのだろうか。俺にはわからないが、誤解されて困るのは茜音のほうだし、茜音が大丈夫だと言うのなら俺は何も言えない。そうか、と返すことしかできない。

 そうしているうちに、俺の家に着く。二階建てのアパートの、二階の角部屋。大学もスーパーも近くて、それなりに新しい。我ながらよい物件を見つけたものだと思っている。

「へええ、これがしょーいちくんのアパートかあ」
「ミス・シラサキに比べたら小さいし、古いアパートだろ」
「でも大学生感あっていいじゃん。いいなあ、羨ましーい」

 鍵を開けて、部屋に入る。普段から掃除をしていると、こういう時に役に立つのだと身を以て実感する。茜音は遠慮もなく、まるで勝手知ったる我が家かのように入ってくる。

「お邪魔しまーす。わ、綺麗だねえ」
「一応掃除してるからな」
「さっすがしょーいちくん、抜き打ちチェックにも耐えられるとは」

 お前は何をしに来たのだと言いたい。俺の両親じゃあるまいし。

 キッチンで手を洗い、膝くらいの高さのローテーブルに買ってきたものを並べていく。大きなピザ、鶏の唐揚げ、シーザーサラダ、コンソメ味のポテトチップス。並べてみるとピザの存在感がすごい。取り皿も準備して、オレンジジュースもコップに注ぐ。

 俺が準備している間、茜音は「ほお」とか「ふうん」とか言いながら俺の部屋を眺めていた。何も面白いことはないワンルームの部屋だ。リビングの家具はテレビにベッド、ローテーブルくらいしかない。ミス・シラサキに比べたら狭いだろうし、古いだろう。ミス・シラサキで慣れている茜音にとっては珍しいのかもしれない。

 食事の準備ができて、ローテーブルに茜音と向かい合って座る。この部屋に他人を連れてくるのは初めてだった。まさかそれが茜音になるとは思いもしなかった。

「わあ、ピザなんて久々だなあ。いただきまーす」
「いただきます」

 二人で手を合わせて、ピザを一切れ取る。以前にも食べたことのある、厚めのパンのような生地だ。トマトソースがよい味を出している。

「うぅん、おいしいねえ」
「そうだな。ピザってひとりじゃなかなか食べないよな」
「うん、残っちゃうんだよね。ピザ食べたかったらしょーいちくんを誘えばいいんだね」

 他の友人でもよいのではないか、と思ったが、言うのはやめておく。少しでも茜音に近づきたかったから。

「そういえばさあ、一年生に櫻井さんって子いる?」

 茜音が唐突にそんな話を振ってきた。櫻井、櫻井、と考えて、ようやく顔が出てくる。眼鏡をかけていて、あまり目立たない女子だったはずだ。俺は話したことがないが、内気な子だと思っていた。

「ああ、いるけど、どうした?」
「うちの学年の羽鳥くんと結婚するんだって。交際0日婚」
「ええ?」

 俺は手にしていたピザを落としそうになり、すんでのところで取り皿の上に落とすことができた。

 あの櫻井さんが? 全然そんなイメージはない。むしろじっくりと交際期間を経て、相手のことを観察してから結婚に踏み切るようなイメージなのに。

 茜音はピザを食べながら、何でもない世間話のように言う。

「羽鳥くんが猛アタックしたらしいよ。三回プロポーズしたんだって」
「それで、櫻井さんが折れたのか?」
「たぶんねえ。羽鳥くんと結婚したら浮気されそうだけどなあ」
「そういう男なのか?」
「結構軽い人だよ。あたしも何度か二人でご飯行こうって誘われたし」

 櫻井さんはそれを知っていて、交際0日婚を受けたのだろうか。そんな軽い男と交際0日婚をするなんて、浮気されて離婚するのが目に見えているような気がするのだが。押し切られただけではないことを願いたい。

 茜音は指をぺろりと舐めて、ティッシュで拭き取る。そして、俺のほうを見ないままに尋ねてきた。

「しょーいちくんはさあ」
「うん?」
「交際0日婚ってどう思う?」

 俺は茜音を見たが、視線は合わなかった。茜音から意図的に逸らされているように感じた。

 茜音が求めている答えがわからない。何と答えれば、茜音にとっての正解になるのだろう。俺は唇を湿して、交際0日婚に対する意見を述べる。

「俺は、あんまり賛成しないな」
「どうして?」
「人となりがわかってから結婚するほうが失敗しないだろ。少しでも交際期間を設けたほうが、結果的に幸せになれるんじゃないかと思う」

 交際0日婚はギャンブルに近い側面があると思う。相手のことをよく知らないままに結婚するのだ。友人としてしか見てこなかったのなら、知らない部分はたくさんあるだろう。せめて一か月くらいは同棲の期間を挟むほうが、結婚が失敗しないのではないだろうか。少なくとも、思いもよらなかった相手の一面を見つけられる確率は高くなる。

 俺の意見には、茜音は満足していないようだった。俺とは違う意見だということが、その目にはありありと浮かんでいる。

「そっかあ。あたしは交際0日婚でもいいと思うんだけどな」
「そうなのか?」
「だって好きな人と早く一緒にいたいじゃん。まあ、それなら同棲でもいいんだろうけどさ、結婚のほうが強く束縛できるでしょ?」

 茜音の意見も一理ある。好きな相手と長い時間を一緒にいたいのなら、さっさと結婚してしまうのがよい。同棲とは違って、そう簡単に浮気することもできなくなる。交際0日婚にはそういうメリットもあるのだと気づかされる。

 しかし、それでも俺は交際0日婚には否定的だ。どうしても交際期間を経ないと心配になってしまう。俺は何も感じなくても、相手側から振られる可能性だってあるのだ。そこを見極めるためにも、多少なりとも交際期間があるほうが安心だと思う。

「じゃあしょーいちくんと結婚する人は、きっと同棲から始めるんだね」
「まあ、そうだな。結婚を前提にした同棲、っていう感じだな」
「ふうん。どれくらい同棲したらいいの?」

 茜音は興味津々といった様子で俺に尋ねる。あまり深く考えたことがなかった俺は、腕組みをして思案する。

「どうだろう、半年くらい?」
「長っ。そんなに?」
「どれくらい相手のことを知ってるかにもよると思うけどな」
「じゃあ、もしあたしだったら?」

 その仮定は難しい。茜音なら交際0日婚でもよいような気もするし、七年の時を埋めるために少し時間が必要かもしれない。俺があの頃から変わってしまったように、茜音もこの七年で変わってしまっているだろうか。

 というか、この質問は俺を勘違いさせるぞ。まるで茜音が俺と結婚したいかのように聞こえてしまう。

 俺は苦笑して、食い入るように見つめてくる茜音に答えた。

「茜音だったらもっと短くていいんじゃないか。三か月とか」
「三か月かあ。ふうん、そっかあ」

 茜音は納得したような、残念そうな、複雑な表情を見せた。

 逆に、茜音は俺が相手だったら交際0日婚でもよいのだろうか。俺が相手だったら結婚してくれるのだろうか。あの時の約束は叶えられるのだろうか。

 そんなことを訊く勇気はなかった。俺はピザを口に運び、オレンジジュースで思考を奥へ押し流す。茜音に下心はない。昔のように純粋なのだ。相手が変な勘違いをするかもしれないなんて考えていないのだろう。

「しょーいちくんは慎重派なんだね。変わってないなあ」

 茜音はそう言って笑った。その笑顔の裏には何が隠されていたのだろう。



 茜音と再会してから大きく変わったのは、昼食だ。茜音と食堂で待ち合わせて、二人で昼食を摂ることが多くなった。ほとんど毎日のように、俺たちは食堂で顔を合わせている。茜音が言うには、俺は夕方も夜もアルバイトで忙しいのだから、会うなら昼しかないじゃん、ということだった。茜音と会うことができるのなら、時間帯なんていつだって構わない。

 もうすぐ梅雨になるという頃、俺と茜音は食堂で会う約束をしていた。講義の問題なのだが、基本的に茜音のほうが早く終わることが多く、茜音を食堂の入口で待たせてしまうことが多い。その日も、俺のほうが遅れて食堂に着いた。

 食堂の入口で待っていた茜音は、男子学生と何か話しているようだった。茜音らしくないぎこちない笑みを浮かべながら応対している。その顔は困っているようにも見えた。

 俺が近づいていくと、茜音は俺に気がついて、男子学生に別れを告げてこちらにやってくる。男子学生は俺をひと睨みしてから、立ち去っていく。なんだ、あいつ。

 茜音は俺に寄り添うようにしながら、俺を見上げて言った。

「明日からしょーいちくんの講義室の前で待ち合わせにしようかなあ」
「うん? 今の、ナンパ?」
「そうそう。うるさいんだよねえ、あたしは人を待ってますって言ってるのに」

 茜音はふうっと深く息を吐いた。その吐息に乗って茜音の苛立ちが飛んでいく。ミスコンで優勝してしまった名残が今でも続いているのだと思うと、茜音が可哀想に思えてくる。

「俺がもっと早く行けたらいいんだけど」
「講義じゃん、仕方ないよ。あたしが待つ場所を変えればいいだけだし」

 そう言いながら、二人で食堂へと入っていく。今日はなかなか盛況のようで、席を取るのに少し苦労しそうな予感がした。相席もやむを得ないかもしれない。

 俺はチキンカレーを、茜音は醤油ラーメンを注文して、受取口から料理を受け取る。席を探して、入口に近い四人掛けの席を確保することができた。

「いやあ、席があってよかったねえ」
「そうだな。もっと取れないかと思ってたけど」

 二人で向かい合うように着席して、食べ始める。チキンカレーは鶏肉がごろごろと入っていて、甘口のカレーだ。まったりとした味わいが癖になる一品である。

「しょーいちくん、講義で困ってることとかない? あたしの去年のプリントなら見せてあげられるよ」
「テスト前はぜひお願いしたいところだな」
「ふふん、任せて。あたしこれでも成績上位なんだから」
「小学校の頃から頭良かったもんな」
「お、いいよいいよ、褒めて褒めて」
「そう言われると褒める気をなくすんだけど」
「ええ? いいじゃん、あたし褒められるの好きだよ」
「そりゃあ誰だってそうだろ。褒められて嫌になる奴なんてそんなにいないぞ」

 二人で笑いあう。かけがえのないこの瞬間が愛おしかった。茜音が約束を覚えていなかったとしても、こうして茜音の側にいられるだけで、俺は満足していた。あの約束を蒸し返すことで二人の関係性が変わってしまうくらいなら、俺もあの約束は封印してしまったほうがよいと思っていた。

 茜音からは、あの約束を思い出せるような言葉は出てこない。きっと、茜音は忘れてしまっているのだ。七年も前のこと、子どもがした約束なのだから、茜音を責めることはできない。俺は少しの寂しさを覚えながらも、今の幸福感に浸っていた。

 茜音と二人で話していると、横を通りがかった男子学生が茜音に声をかけた。

「茜音ちゃん、彼氏?」

 茜音はちらりとその男子学生の顔を見て、にこやかに笑って答えた。

「ふふ、どうでしょう」
「どうでしょう、って何だよ」

 茜音の曖昧な答えに、男子学生が笑いながら言う。それでも茜音は明確に答えなかった。

「とぉっても仲良しなの。ね、しょーいちくん」
「えっ、ああ、うん」

 頷けと命令されているような気がして、俺は従った。男子学生は俺を一瞥して、俺に訊いてきた。

「最近茜音ちゃんとよく一緒にいるみたいだけどさ、どういう関係なの?」
「ええと、小学校時代の同級生で」

 俺も、彼女であることを明確に否定しない。そうするほうが茜音は喜ぶのではないかと思った。茜音はやわらかく微笑み、俺の言葉を引き取った。

「小学校でいちばん仲良かったんだよ。運命の再会だよねえ」
「へえ、そうなんだ」
「また後でね。ねえしょーいちくん、次のお休みはいつ?」

 茜音は男子生徒がいるのを無視して、俺に話題を振る。男子生徒は軽く手を振って立ち去っていく。茜音と喋りたかっただろうに、俺が邪魔をしてしまったようだ。少しだけ申し訳ない気持ちになる。

「次は明後日だな」
「またお家に遊びに行ってもいい?」
「ああ、いいよ。今度はもう少し片付けておく」
「別にいいのに。充分綺麗だったじゃん」

 茜音がいつ来るかわからないから、あの日以来、掃除をまめにするようにしていた。明後日だとわかっているのなら、明日辺りにも掃除すればよいだろう。元から散らかっていなければ掃除はすぐに終わる。

「それよりも茜音、どうして否定しなかったんだ?」
「ん、なにを?」

 茜音は何のことだかわからないという顔をした。

「だから、彼氏かって訊かれた時だよ」
「ああ、あれ。ああいうのはうやむやにしておくほうがいいの。しょーいちくんには悪いけどね」
「どうして?」
「彼氏だって思ってくれたら、あたしに近づいてこなくなるでしょ? 彼氏持ちの女子をひっかけようなんて思わない。それでも近づいてくるような人はまともな人じゃないから」

 つまるところ、茜音は本当に俺を隠れ蓑にしたのだ。俺を彼氏かもしれないと誤解させることによって、厄介な誘いを断りやすくしたのだ。ここまで手慣れているところを見ると、昔から同じような手段を取ってきたのではないかと勘ぐってしまう。

 それなら、本当の彼氏にしてくれればいいのに。そう思ってしまう自分がいることに気づいて、俺はその思考を隅に追いやった。それとこれはきっと話が違うのだ。俺は体のよい盾であって、それ以上の存在ではないのだ。

「しょーいちくんのおかげで、誘われるのはちょっとずつ減ってるんだよ。ほんと、しょーいちくんがいてくれてよかった」
「効果は出てるんだな」
「うん。あたしがしょーいちくんにべったりだからね。あたしにも彼氏ができたんだって噂になってるみたい」
「そうか。それはよかった」

 俺がそう答えると、茜音は少しだけ表情に影を落とした。

「しょーいちくんは、それでいいの?」
「いいよ。俺が茜音の役に立てるなら、気にせず使ってくれ」

 本音を言えば、本当の恋人になりたい。あの約束を叶えるために、一歩踏み出したい。

 でもその本音を出してしまえば、この緩やかな関係性も変わってしまいそうだから、俺はその本音を飲み込むことにするのだ。

 茜音はじっと俺を見つめてから、ふっと微笑んだ。

「相変わらずしょーいちくんは優しいなあ」
「そうかな。普通だと思うけどな」
「ううん。あの頃と全然変わってない。卒業式に話した時と、全然」

 卒業式。俺はその言葉に過敏に反応してしまった。

 もしかして、茜音はその時に話した内容を覚えているのではないだろうか。覚えているからこそ、こんなにも俺に近い距離で話してくれているのではないだろうか。茜音も、俺が覚えているのかどうか探っているのではないのか?

 いや、考えすぎだ。茜音があの頃の約束なんて覚えているはずがない。全ては偶然だ。茜音は扱いやすい隠れ蓑を見つけて、うまく手のひらで転がしているだけなのだ。俺が一歩踏み出せば、他の男子学生と同じように振られるだけだ。

「どしたの、しょーいちくん?」
「あ、ああ、いや、なんでもないよ」

 思考に耽りすぎていたようで、茜音から心配されてしまう。俺は首を横に振って、チキンカレーを食べる手を動かす。

 後から思えば、この時、俺はもっと深く考えるべきだったのだろう。



 休日。綺麗に晴れた日の午後、俺は自転車に乗ってあの川原に出かけた。

 最近は寝ても覚めても茜音のことばかり考えてしまう。茜音はそんな俺の苦悩を知ってか知らずか、距離がどんどん近づいてきている。このままでは俺が勘違いしてしまうのも時間の問題であるような気がして、心を落ち着けるために川原にやってきた。この静かな環境でゆっくりと考えれば、俺の気持ちも固まるような気がしている。

 川べりに降りていく階段の前に自転車を停めて、階段に座ってまずは本を読み始める。正直なところあまり内容は入ってこないが、何もしていないと心が落ち着かない。しっかりと冷静になった状態で、今後の茜音との付き合い方を考えなければならない。

 鞄と水を傍らに置いて、本に目を落とす。並んでいる活字を読み進めていくと、幾分か心に余裕が生まれてきて、本の内容を理解することができるようになってくる。

 そこで、ポケットに入れていたスマートフォンが震えた。見ると、茜音からのメッセージだった。

『いまどこ?』

 何とも端的なメッセージだと思った。何か用事があるのだろうか。

『川原』

 それだけではわからないだろうと思い、俺は写真を撮って位置情報と合わせて茜音に送る。

『会いたいから行くね』

 会いたい。その言葉だけで俺の心臓が跳ねる。茜音が俺に会いたい。いったいどうしたのだろうか。

『わかった。待ってる』

 俺はそう返信して、また本を読み始めた。茜音がこの場所を特定するのには時間がかかるだろうと思った。その間に少しでも平常心を取り戻さなければならない。好きな女子から会いたいと言われてしまった俺は、舞い上がるような気持ちになってしまっていた。

 しかし俺の予想に反して茜音はすぐに来た。ミス・シラサキからは少し遠いような気もするが、出先だったのだろうか。その割には手ぶらで、何も持っていないように見える。

 茜音は俺がいるところまで下りてきて、俺に声をかけた。

「しょーいちくん、こんなところで何してるの?」
「いい場所だろ。風が抜けて、川の音がして」
「意外とアウトドア派なんだねえ。気持ちいいのはわかるよ」

 茜音は俺の横にしゃがみ、ちらりと俺が読んでいた本を見る。売れ筋の作家のミステリ小説だ。

「外で本を読むっていいねえ。なんか、大人って感じ」
「結構落ち着くんだよ。なんか考えたい時とかはよく来るんだ」
「なになに、悩みでもあるの? あたしが聞こうか?」

 茜音は目を輝かせながら言ってきたが、お前の話だよと返したい。ある意味では茜音のせいで俺の悩みが増えているのだ。

 俺は深く息を吐いて首を振り、茜音に言った。

「それよりも、俺に何か用事があるんだろ。会いたいって」
「ああ、そう、そうなの。しょーいちくんに言いたいことがあって」
「俺に?」

 わざわざ休日に会いに来てまで言いたいこととは何だろうか。見当もつかず、俺は茜音の言葉を待つ。

「言いたいことっていうか、訊きたいことっていうか」
「なんだよ?」
「あのね、その、ええと」

 茜音らしくない、歯切れの悪い言葉がもごもごと出ていく。ほのかに頬が紅潮しているのが見える。俺はますます訳がわからなくなる。

 やがて、茜音は俺をまっすぐに見て、言った。

「あたしたち、結婚しない?」
「……ええ?」

 俺は持っていた本を取り落としそうになった。みるみるうちに自分の頬が赤く染まっていくのがわかる。

 結婚? 俺が、茜音と? 結婚?

 茜音は一度口にしてしまえば恥ずかしさは過ぎ去ったのか、動揺している俺を見て微笑む。

「そう、結婚」
「な、な、なんで」
「覚えてるでしょ? あたしとしょーいちくんの約束」

 俺は金槌でがつんと頭を殴られたような衝撃を受けた。あの約束を茜音も覚えていたのだ。俺をずっと縛り付けていた、あの約束を。

 俺は予想外の出来事にうろたえてしまい、すぐには反応することができなかった。音も出せずにぱくぱくと口を動かしていると、茜音は笑った。

「迎えに来てくれるって言ったよね? あたし、ずっと待ってるって言った」
「茜音、覚えてたのか」

 俺がやっと口に出せたのはそんな言葉だった。茜音が覚えていたという喜びと衝撃が大きすぎて、俺の頭は混乱していた。

 茜音は俺の反応を見て、悪戯っぽく微笑んだ。

「忘れるわけないじゃん。あたし、ちゃんと待ってたんだよ。いつしょーいちくんが迎えに来てもいいように、ずっと待ってたんだよ」
「そう、だったのか。もう忘れてたのかと思ってた」
「しょーいちくんはきっと覚えてるだろうなって思ってたのに、いつまでも言ってくれないんだもん。だから、あたしから言ったんだよ」

 茜音はふざけて俺を責めるように言う。俺は何も言い返すことができなかった。

「さて、しょーいちくん。約束を果たす気はあるのかな?」

 茜音が俺の顔を覗き込みながら尋ねてくる。

 俺の答えは決まっている。俺をずっと縛ってきた約束を果たさないわけがない。

 しかし、大人になってしまった俺は、すぐに頷くことはできなかった。

「俺も茜音と結婚したい。ただ」
「ただ?」

 俺が条件を提示しようとしても、茜音は冷静だった。まるで最初からその条件があることを知っているかのように。

「交際期間が欲しい。交際0日婚は無理だ」

 俺の言葉に、茜音は不満げに唇を尖らせた。その表情も可愛くて、俺はつい見惚れてしまった。

「言ってたもんねえ。あたしが相手でもだめ?」
「茜音だって、俺が七年前と同じだとは思ってないだろ。お互いのために、交際期間はしっかりと設けたほうがいい」
「そっかあ。まあ、しょーいちくんが言うなら仕方ないよね」

 思いのほか、茜音はすんなりと納得してくれた。事前に話していたのがよかったのかもしれない。思えば、あの時から茜音は俺に約束を思い出させようとしていたのだろう。俺が日和って言わなかったからこうなったわけで、茜音はずっと俺から約束の話を切り出せるようにしていたのだろう。

 茜音はそっと俺の手を握った。小学生の頃のように、けれどあの頃とは違う意味合いで。

「じゃあ、同棲から始めるよね?」
「えっ、いや、少しずつ会う頻度を増やしていけば」
「そんなのんびりしてたらいつまでも結婚できないでしょー? あたし、今日からしょーいちくんの部屋に行くからね」

 譲らないという強い意志を感じて、俺は黙って首肯した。茜音は満足そうに頷く。

「いつまでにする? 一か月くらい?」
「もうちょっと長く」
「じゃあ、一か月半?」
「刻みすぎだろ。三か月」
「長いよお。もっと早く見極められるでしょ」

 早く結婚したい茜音と、多少なりとも交際期間を設けたい俺の戦い。俺だって早く茜音と結婚したい気持ちはあるけれど、七年の時を埋めるには少し時間が必要なのではないかと思う。俺がよくても、茜音にとってはよくないことがあるかもしれない。

 茜音は少し悩むそぶりを見せて、言った。

「じゃあ、夏休みまでにしよ。それなら二か月くらいあるし、いいでしょ?」

 今は六月初旬。夏休みというと、八月の頭からだ。だいたい二か月くらい。これ以上は茜音も譲らないだろうと思い、俺は受け入れることにした。

「わかった。夏休みまで同棲して、問題なさそうだったら結婚しよう」
「うん。夏休みになったらしょーいちくんからプロポーズしてね」
「考えておく」
「だめだよ、あたしちゃんとしょーいちくんから言ってほしいもん」
「わかったよ。ちゃんと言うから」

 確かに、このままだと茜音からプロポーズされたことになる。俺が迎えに行くと言ったのだから、俺からプロポーズするところまで約束に含まれているような気がした。恥ずかしいけれど、あの頃の約束を果たすのならば、やるしかない。

 茜音はにこやかに笑って、俺の手をぎゅっと握った。

「ねえ、しょーいちくん」
「どうした?」
「約束のキス、して」

 あの頃と同じ言葉だ。茜音が覚えていて同じ言葉を使ったのかどうかはわからない。

 けれど、あの頃とは重みが違う。これは結婚を約束するキスだ。子ども同士がする約束よりも、ずっとずっと重い。俺は茜音の人生を背負うことになるのだ。

 それでも、俺は自然と笑うことができた。不思議と、不安も恐怖も感じなかった。

「いいよ」

 そう言って、俺は茜音と唇を重ねた。小学生の頃と同じような、触れ合うだけのキスだったけれど、大きな意味を持つキスだった。

 唇を離すと、茜音は照れたように笑った。

「ふふ、やっとしょーいちくんがあたしのものになったね」
「これからは彼氏ですって名乗れるんだな」
「夫ですって言ってもいいんだよ?」
「それは結婚した後だろ」
「あたしは今すぐ結婚してもいいのに。しょーいちくんは相変わらず慎重だなあ」

 茜音は笑いながらそう言った。結婚ってもっと慎重になるものだと思うのだが。

「じゃあ、あたしは荷造りしてくるから、終わったら呼ぶね」
「ああ、うん。運ぶのは手伝うよ」
「ありがと。また連絡するね」

 茜音は立ち上がり、ひらひらと俺に手を振って去っていく。

 まだ実感が湧かなかった。茜音が俺との約束を覚えていて、茜音と結婚することになる。まるで夢のような話だ。事実、俺が見ている夢なのかもしれない。夢なら覚めないでほしいと思った。

 俺も、いったん家に戻ろう。そして、心を落ち着けよう。

 帰り道にも、茜音とのキスが思い出されて、俺はひとりで顔を赤くしていた。



 テストが終わって、夏休みがやってきた。

 初めてのテストがどうこうというよりも、俺はテストの後に控えていたことのほうが気がかりだった。それの日程調整はテスト直前に行われたので、俺はテスト期間もそのことで頭がいっぱいだった。

 そう、茜音の両親との顔合わせである。

 いわゆる「お嬢さんをぼくにください」だ。ミス・シラサキに入居させるような親なのだから、娘を大切に大切に思っていることだろう。その娘からいきなり彼氏を連れていくと言われて、どのような胸中なのだろうか。俺には推し量ることもできない。

「大丈夫だよ、普通のおじさんおばさんだから」

 茜音はそう言うけれど、それは娘だからそう言えるのであって、訪ねていく男の立場からすればそうではない。高い壁に独りで挑戦するような感覚である。

 茜音の実家は飛行機で行くことになっていた。新幹線を使っていくよりも、飛行機のほうが早いという理由だった。飛行機に乗るなんて久しぶりだった俺は、チェックインや手荷物検査でまごついてしまった。茜音は俺が緊張しているのだと言い、笑っていた。

 飛行機を降りたら、空港まで茜音の両親が車で迎えに来ることになっている。つまりそこが顔合わせの瞬間だ。いかに第一印象をよく見せるかということに俺は気を遣っていた。その一方で、飛行機が何らかの理由で出発した空港に引き返してくれないかとも思っていた。そうしたら、顔合わせの日までまた時間が延びるだろうから。

 しかしそんなトラブルが起こるはずもなく、飛行機は予定通り空港に到着した。飛行機が着陸してから、茜音は俺の顔を見て笑った。

「しょーいちくん、すごい顔してるよ」
「うるさいな。緊張するに決まってるだろ」
「大丈夫だよお、しょーいちくんのことは知ってるんだから」
「小学生の頃の話だろ。今と昔じゃ違う」
「そうかなあ。しょーいちくんと帰るねって言ったら、お父さんもお母さんも、ああそう、って感じだったよ。全然驚いてなかった」

 それはよい情報なのだろうか。茜音の両親は俺と茜音の約束を知っていたわけでもないだろうに、どうして俺が行くことに驚かなかったのだろうか。再会した時点で、茜音から事前に話がいっていたのかもしれない。

 いずれにせよ、俺の緊張を和らげるような情報ではなかった。ベルトを外してよいという状態になって、機内が荷物を下ろす客の動きで慌ただしくなる。俺はできるだけ遅く行きたくて、座ったまま動かなかった。茜音もそんな俺の心中を察したのか、立ち上がろうとしなかった。

「茜音だって、俺の実家に行く時は緊張すると思う」
「そうだろうねえ。でもしょーいちくんよりは平気だと思うなあ。それくらいひどい顔してる」

 茜音は自分の手を俺の手に重ねた。茜音の温もりが伝わってくる。

「大丈夫。怒られるわけないよ、うちの両親だって交際0日婚なんだから」
「そうなのか? いや、だからってなあ」
「しょーいちくんは心配しすぎなんだよ。いつものしょーいちくんなら大丈夫。さ、行こ?」

 茜音はベルトを外し、荷物を持って立ち上がる。いつまでもこうしているわけにもいかず、俺も立ち上がった。荷物がやたらと重く感じられる。今日は茜音の実家に泊まるのだ。せめてどこかのホテルに泊まれるのなら、もう少し気が楽だったかもしれない。

 飛行機を降りて、出口に向かって茜音と二人で歩いていく。この通路が永遠に続けばいいのに。俺はそう思いながら、重い足を動かして進んでいく。

 茜音は俺の手を取り、指を絡める。あの頃とは違い、誰の目も気にすることなく手を繋ぐことができる。茜音の両親の目が怖い気もしたが、俺はそのまま茜音と手を繋ぐことにした。

「ふふ」

 茜音は嬉しそうに笑う。手の感触を確かめるように、茜音が手に軽く力を込める。

「どうした?」
「ううん、なんでもない。昔を思い出しただけ」
「そうか」
「さあさあ、ご挨拶だよ。最初が肝心って言うよね」
「プレッシャーかけるなよ。余計に緊張するだろ」
「大丈夫だってばあ。しょーいちくんは緊張しすぎ」

 出口に着いてしまう。すぐに茜音の両親だとわかる夫婦が手を振っていた。茜音も空いている手を振り返している。

 さあ、戦いの時だ。面接だと思えば、どうということはない。どうということはないんだ。

 俺は小さく会釈して、茜音と一緒に茜音の両親に近づいていった。