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晴れている中降っている雨のことを狐の嫁入りとは言うけれど、まさか本当に晴れている小雨の中、涙を流す花嫁に遭遇するとは思わなかった。彼女はもしかしたら狐なのかも知れない。

「うわっ、うそ、誰もいないと思ったのに、ごめんなさい!」

目から大粒の涙を流しながら、下手くそな笑顔をはらりと浮かべて頬を拭う。綺麗に束ねられていたであろう髪は走ってきたせいか小雨のせいか乱れていて、純白なはずのドレスの裾は薄汚れてしまっている。

「やだな、ははは、こんなところ誰かに見られるなんて恥ずかしい」

だけど、少しだけいてもいいですか、ごめんなさい、泣きながらそんな風にヘラリと笑う。最後の謝罪は尻窄みで殆ど声にはなっていない。反射的に頷くと、安堵したように僕の横に座り込む。

初対面なのに、いいんだろうか。

川沿いの高架下。真夏でも涼しいここは僕の最近見つけたお気に入りだというのに。

雨が止むまで、と思っていたけれど、こうなれば話は変わってくる。僕に気を使ってか、息を殺して泣いている彼女にかける言葉はなく、元々読んでいた文庫本に視線を戻した。何もしない、が正解な時だってきっとある。


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「……何も聞かないの?」
「なにを?」
「だって、いろいろおかしいでしょ、こんなシチュエーション」

3.40分経っただろうか。やっと涙がおさまって口を開いたかと思えば、「こんなシチュエーション」を作り出した張本人がそれを言うのか。

というか、ずっと鼻を啜って泣いていたのに。絞り出したような声だけれど、何故だか、心地いい響きなことも、いい気はしない。

「別に、他人だし、というか、言いたくないことだってあるでしょ、誰だって」
「そっか、きみはやさしいね」
「やさしいとかじゃないですけど」
「はは、興味ないだけかあ」
「聞いてもいいなら聞きますけど」
「答えるかどうかは質問によるなー」
「……めんどくさ」
「ね、自分でもそう思う」

雨は止まない。

高架下の小さな空間にふたり。ゆっくりと彼女を見ると、赤く腫れた目を隠すように、決して僕の方へ顔は向けない。

「……汚れていいんですか、それ」
「え?」
「ドレス、」
「ああ、そうだよね、雨にも濡れたし、ボロボロだ」
「綺麗なのに、勿体無い」
「はは、褒め言葉かな? ありがとー」

綺麗、とか。別に気を引きたいわけじゃないけれど、思ったことがするりと口から出てしまった。のにも関わらず、軽く流されたことに少々悔しさを感じつつ。

「……失恋?」
「はは、いきなりストレートに聞くねえ、少年」
「少年…」
「高校生?」
「まあ、そうですけど」
「じゃ、少年だ」
「まあそれでいいです」

少し、声に明るさが戻る。初対面なのに、戻る、というのも何だか変だけれど。

「失恋、なのかなあ」
「疑問系なんですか」
「だって、恋愛が終わる時って、突然じゃないでしょ?」
「……」
「なんとなく、どこかで、この人とはいつか終わるんだろうな、と思っていたりするんだよ。そろそろ、恋の賞味期限が切れてしまうな、って、頭の片隅で、感じてるの」
「そういうものですか?」
「わかんない、これが、運命じゃなかったからかな」
「運命なんて死ぬ時にしか答え合わせはできないですけどね」
「そう、だから、運命を信じたくなって、切れそうな糸をずっと、無理やり結び直してただけなんだよね、きっと」

なんだかずっと抽象的な表現をするひとだ。変わっている、けれど、嫌いじゃない。むしろ惹かれるーーなんて、ウエディングドレスを身に纏った彼女を相手にしてそんなことを思うなんて、どうかしている。

「この人が運命なんじゃないかって、どこかでもうダメだってわかっていたのに引き延ばして、でも、直前で、結局ダメになっちゃった」

それはきっと、ドレスが全部、物語っている。

「水面張力と同じだった、あと一滴で全部こぼれちゃう、わかってたのに、ずるずる、まだ、もしかして、きっと、そんな期待ばっかりしてね」
「よくわかんないです」
「わからなくていいよ、ごめんね、私話すぎてるよね」
「いや、いいんじゃないですか? 何も知らない人間の方が、話しやすいと思うし」
「高校生なのにきみは大人だなあ」
「よく言われます」
「生意気な少年だ」

この花嫁が何歳かはわからないけれど、正直そこまで歳が離れているようには感じない。

何も知らない、でも、何も知らないからこそ、何でも言える。それは、ある意味、特権だったりするのかも、とか。

「ねえきみは、恋ってなんだと思う?」
「突然?」
「はは、変なこと聞いてごめんね」

変なこと、ではないと思う。
そもそも、ウェディングドレスを身にまとった彼女の涙の理由には、少なからずそういった恋と呼ばれるものが含まれているに違いないわけで。

「どうなんですかね、人を好きになったことがなくて」
「ええ、そんなことある? きみ何歳?」
「高3ですけど」
「まさか、きみみたいな男子高校生がいるなんてびっくりだよ」
「そうですか?」

確かに、そう言われれば、そうなのかもしれない。でも、誰か、それも異性に対して、何か特別な感情を抱いたことがない。容姿が整っているな、とか、賢いな、とか。それくらい。

「じゃあ、初恋も、片思いも、両思いも、これからなんだ、いいなあ、男子高校生」
「お姉さんは全部経験済みですか」
「なんか悔しいけど、流石にね」
「それって、いいものなんですかね。恋愛って、すべきものですか」
「おっと、急に鋭い質問するなあ、少年よ」

ふっと笑う。涙はもう止んだだろうか。声に震えはなくなっている。

昔から、そういった恋愛と呼ばれる類のものに興味がない。いや、興味がないと言ったら嘘になる。本当は、わからない、が正解だ。

人を好きになるのって、どういうことなんだろう。誰かを特別に思うって、どんな感覚なんだろう。

周りが当たり前に経験していく恋愛に、僕はいつもついていけずに、そっと蓋を閉じている。わからないことを、わからないまま、でもそれでいい、いつか、やってくるんじゃないかと思っている。

「すべきものかと聞かれたら、難しいね。そういう感情は人それぞれで、色も形も全部違うの」
「ふうん、じゃあ、お姉さんはどうやって人を好きになるんですか?」
「どうやって、とか、そういうものじゃないの。考えるより先に直感が落ちてくるんだよ。少年、きみは、まだまだ若いね」

バカにされたみたいでいい気はしない。

けれど「落ちてくる」という感覚にはハッとする。だって、ついさっき、僕は似たようなことを思って、それがずっと胸の辺りをぐるぐるしているのだ。

「誰に教えられたわけでもないのに、なぜか人を好きになって、好きになられて、変だよね。世の中の色んなことは、すべて恋愛に結びついているんだって、誰かが言っていたけど、多分その通りだよ。変だよね、どうしてか人を好きになって、繋がりを求めちゃう」
「……楽しいだけじゃなさそうですけど、それでも繰り返すんですかね、やっぱり」
「そうだね、そう言われると、バカみたいだけど、きっとわたし、また誰かを好きになるんだろうなあ」
「ふうん、」
「というか、なりたいな、人のこと、また好きになりたい」

逃げ出したのか、逃げ出されたのか。泣きながら現れた花嫁は、また誰かを好きになる、なんて無責任なことを言う。失恋したくせに。

好きになりたい、それはつまり、不確定な未来だ。

「恋愛は永遠じゃないの、迷うし、間違えるし、楽しいことだけじゃない、きみには理解不能だろうけど、さ」
「……お姉さんは、恋ってなんだと思うんですか?」

僕の問いかけに、一瞬間を開けて、口を開く。

「私は、雨みたいだと思う」

まるで詩人みたいなことを言う。

「どうしてですか?」
「人を好きになる時って、恋が終わる時と同じ。天気予報みたいに予兆があるの、あ、私この人のこと好きになる、って」
「また、運命論みたいなことを言いますね」
「ちょっと違うけど……でも運命論も信じてる」
「どうして?」
「今のこの感情が、今後くる幸せの伏線だと思わないとやってられないからだよ」

全部繋がってる、全部意味がある、それは運命論と同じことだと言う。鼻を啜った彼女の言葉は意志を持って、小雨に溶ける。

何があったのかわからないけれど、悲しいとか、苦しいとか、つらいとか、そういう感情より、きっと悔しい、がつよいんだろう。そんな気がする。

彼女は弱くない。あんなに大粒の涙を溜めていたくせに、もう今後来るであろう幸せを願っている。人生の伏線回収だなんて出来すぎているけれど、そういう考え方は、少しだけ、いいな、と思う。

落ち込んだ時、悔しい時、これがすべて今後の幸せの為にあるものだと思えれば、それは中々良質な心理学だ。

この人の言葉の紡ぎ方や、考え方に、僕はどうしてか、ひどく興味を持ってしまっている。それはきっと僕よりも幾分か歳を重ねているせいでもあるんだろうけれど。

知りたい、という欲求は、ある意味、好意だ。

「じゃあ、幸せってなんだと思いますか」
「質問返すんだ、意外」
「意外って、今知り合ったのに」
「それもそっか、ごめん」

答えのない質問だ。でもそれでいい。

「幸せって、自分を認められることだと思う」
「意外に現実的な答え」
「さっき知り合ったのに意外って言うな」
「すみません、もっと抽象的な答えが返ってくるのかと思って」
「期待外れってこと?」
「そういうことじゃないですよ、色んな面があるなって思ってます」
「人間だもん、思考はひとつじゃないのだよ、少年」
「誇らしげですね」
「はは、じゃあきみはどう思うのよ、少年」

そういえば年上(と、ほぼ確定で推測する)と話すことなんて教師以外にほぼないので、少年なんて初めて言われたな、と思いながら、思考を巡らせる。さっきからずっとそう呼ばれていることに若干違和感を覚えつつ、初対面だから仕方ないか、と納得させる。

それにしても、概念を言葉にするのは案外難しい。僕にとっての幸せは、あまり特別なことじゃない。

「そうですね、例えば、朝焼いたパンのにおい、」
「え?」
「猫が丸くなった日の当たるベランダ」
「うん、」
「半額シールのついたコロッケ」
「ふふ」
「風呂あがりに飲む牛乳」
「わかったよ、つまりきみが言いたいことは、日常だ」
「うん、そうかも」

僕が思う幸せは、ありきたりで、でも当たり前で、常にありそうで、でも本当は当たり前じゃない、そんな日常のこと。

「きみは意外とポエミーだね」
「恋を雨に例えるお姉さんには言われたくないですけど」
「ふふ、そうだね、なんか親近感」
「初対面なのに」
「初対面だけど、今日出会ったのが君でよかったな、と思うくらいにはもう心開いてるよ」
「無防備ですね」
「人懐っこいってよく言われるの」
「お姉さん、ちなみに、天気予報みたいに予兆があるって言いましたけど、それってどんな感じですか」
「突然話変わるね、きみ」
「すみません」
「そうだな、それこそ、今日の雨みたいなものかもしれない」
「どういうことですか?」
「突然降ってくるの、今日だって、晴れてたのに、いきなり降ってきたでしょ?」
「それは、そうですけど」
「さっきも言ったけど、そんなふうに落ちてくるんだよ。あ、この人、いいな、とか。綺麗だな、とか。この人のこと、もっと知りたい、とか。そういう些細な心の変化が予兆。ポツリと降ってきて、そういう小さな気持ちがポツポツ降り積もるの」

さすが、恋を雨に例えるだけある。

「降り積もったら?」
「突然の雨が降ったら、その後きっと晴れるはず。運命だったらね」


その時、はじめてこちらを向いて、笑った。

ーーー落ちてくる。

彼女が言ったその言葉は、もしかしたら本当なのかもしれない。これは、予兆、なのかもしれない。だって、出会った瞬間からずっと、彼女のドレスの裾からまつ毛の先まで、驚くくらい、きれいで、こんなことを言うのはおかしいけれど、あまりにも儚くて、明媚で、どうしようもないくらい。


雨は降る、僕たちは傘を持っていない。


その後は、何も聞かなかった。踏み込みすぎると、もしかしたら水面張力と同じように、元に戻らなくなるかもしれない。僕は平然を装って本を読んだり、時々会話したり。また突然涙を流すこともあったけれど、それには気づかないふりをして。数時間僕の横に居座った花嫁は、しばらくして立ち上がった。いつの間にか雨がやんだからだ。

「また御礼しに来るよ、ありがとうね、少年」なんて腫れた目をして笑った。僕はその背中を追いかけることもできずに、ただ、遠くなる汚れてしまったドレスの裾をそっと、見つめていた。