ふわふわと、暗闇の中を彷徨っていた。正確には、浮かんでいた。だって、脚動かないんですもの。
ゆっくり、何かが遡る気配がする。それが何なのか、私には理解できない。
あれ……? そもそも、ここはどこなのだろう。
右を見ても、左を見ても暗闇。それなのに、恐怖なんて感情は抱かなかった。きっと、冷たげな黒の世界が、やけに温かかったからだ。
私は何をしていたんでしたっけ……。
何にせよ、不思議な夢だ。……ゆめ?
暗闇に小さな気泡が浮かぶ。下から上へと、どんどん数を増やしていった。徐々に明るく染まっていく世界。
そして、視界一面が真っ白に輝いた刹那、意識が覚醒した。
「――……ァー。……ナァー!」
ぱっと目を開けると、目と鼻の先に黒猫の姿がでかでかとあった。
「ひぃ……!?」
勢いよく身体を起こすと、黒猫はすいっと私を避ける。その仕草に、思わず目をこする。
私はまだ、夢を見ている途中なのだろうか。
だって、猫は空を飛ばないでしょう?
私の周りをふよふよと浮かぶように飛び回る黒猫に、思わず頭を抱える。まだ、意識がぼんやりしていた。
「ナァー!」
耳心地の良い鳴き声を一旦、意識の外へと置いて冷静に状況を振り返る。ひんやり四肢を撫でる若草、木漏れ日が射し込む木陰。どうやら、私は大きな木の下で倒れていたらしい。
ゆっくりと周りを眺望する。そして、思わず息を呑んだ。
「――わぁ……! す、すごい景色……!」
一面の平原だった。どこまでも続く地平線は終わりが見えない。燦々と降り注ぐ陽射しが、見るもの全てをきらきらと輝かせ、まるで宝石のようだ。
こんな美しい景色、いつぶりに見ただろうか。
「ナァー! ナァーッ!」
ちらっと私の視界に入りこむ黒猫に意識を引き戻される。そして、ようやく思いだした。
「そうか……時流しの魔法だ」
一度、記憶が取り戻されると、まるで濁流のようについ先ほどまでのことが脳内を駆け巡った。
「では、さっそくお仕事ですよ」
そう言い、タリスさんはにっこりとほほ笑んだ。最初のように純粋な眼差しで彼を見ることが出来ないのは、なぜだろうか。
「い、今からですか?」
まだ、店に連れてこられてから一時間と経っていない。いきなり仕事と言われても、業務内容すらしっかりと聞いていないんだけど。
ちりんっと店の呼び鈴が鳴る。すると、タリスさんは早急に、かつ柔らかな動作で入口の方へと身体を向ける。遅れて、私もそれに倣う。
扉の前に、ずんぐりとした体型の男性がいた。もじゃもじゃの髭に、恰幅の良い小柄な体躯。間違いない、ドワーフ族だ。
その男性はなぜか少し頭を下げて店内に入った。
「いらっしゃいませ、お待ちしておりましたロムガさん」
タリスさんが言うから、
「い、いらっしゃいませ……」
遅れて私もひとまず同じように口にした。
一応、もう店員ってことらしいですし?
言い慣れない挨拶にぎこちなさが浮かぶ。前世もこんな不自由な身体だったから、アルバイトすらしたことなかった。
「ふんっ、二度手間だわい。――それで、今日は買い取ってもらえるんだろうな?」
「はい、その予定です。といっても、まずはこちらの者による軽い調査をさせていただきますね」
タリスさんが私の背を押す。
「えっ……?」
ロムガさんと言っただろうか。ずしっと座った大きな瞳が私を力強く捉える。近くに寄られると、余計に圧を感じてしまう。有り体で言えば、ちょっと怖い。
少しだけ甘い香りがした。失礼な話だけど、似合わないなと素直に思った。
「一体、何を調べられるんだ? 見ての通り、ただの鍛冶師だぞ?」
見ての通り、なのだろうか。
ドワーフ族というのは鍛冶技術に優れているから、つまりそういう共通認識なのかな。
もう一度、タリスさんの手が私の背をぽんっと優しく叩く。
「マナさん、説明して差し上げてください」
「わ、私ですか……?」
「そうです。いいですか、真摯にお客さんと向き合ってくださいね」
きゅっと喉が締まる。もう一度、ロムガさんを一瞥する。
ここはちゃんとしたお店で、彼はお客さん。そして、私はもう中古魔法店『ノイアッシェ』の店員なのだ。
夢心地だった気持ちが、一気に引き絞られる。
そうだ、私の仕事なんだから、ちゃんとしないと。
「では、今から調査の方法と、内容の方をご説明させていただきます」
で、実際に時流しの魔法で、過去へと飛んできたと。
「よし、ちゃんと覚えています」
あまりの壮大で明媚な景色に圧倒されて忘れていたけれど、私は今、絶賛お仕事中なのだ。
それから、事前にタリスさんに伝えられたことを一つずつ思いだしていく。
――1、五日以上、過去に滞在しないこと。
それ以上は魔力が足りなくなって、帰って来ることが出来なくなる。
時流しの魔法は過去に飛んでいる間、ずっと魔力を使い続けるらしい。一般的な人だと、ものの数分しか過去に滞在出来ないとのことだ。タリスさんでも、数時間が限界だったとか。
私くらいの規格外でも、五日以上は危険らしい。
――2、過去では人の運命を大きく変えるようなことはしないこと。
過去で何かを大きく変えると、現実に戻って世界が再構築された際に重大な変革が起きてしまうとか、何とか。
もしかして、時流しの魔法も実はとんでもない魔法なのではないだろうか……。いや、しないですけどね。そんなこと。
――3、万が一、身に危険が及びそうになったら、すぐに戻ってくること。
過去とはいえ、私は実際にそこにいるわけだ。神様みたいに上空から見渡すことなんて出来ないし、ちゃんと怪我もするらしい。過去で負った怪我は戻っても反映される。つまり、過去で死ねば、現実の私も死んでしまうらしい。
夢のように思えて、その実、紛れもないリアルなのだ。
「ナァー!」
そして、最後にこの黒猫だ。
「あなたがタリスさんの言っていた、ケット・シーという生き物なのね」
タリスさんが私の護衛用に召喚魔法で召喚してくれた魔物だ。見た目は本当、ただの愛らしい黒猫。しかし、飛ぶのである。
それなりに強い魔物らしいけれど、あんまりそうは見えない。だって、ただの飛ぶ猫だし。
それでも、独りじゃないのは心細くなくて助かる。私とこの黒猫は一蓮托生だ。
「名前、つけてあげないとね」
軽く背を撫でる。柔らかな体毛が心地いい。
「あなた、ナァー、ナァーって鳴くから……。あなたの名前はナーです」
我ながら、何という浅はかなネーミングセンスなのだろうか。しかし、当のナーは私の言葉を理解しているのか、嬉しそうにやっぱり「ナァー! ナァー!」と鳴きながらくるくると私の周りを飛び回った。
「気に入ってくれましたか?」
「ナァー!」
それなら、よしとしましょう。
「さて、それじゃあ、ナーの名前も決まったことだし、さっそくお仕事に取り掛かりましょう」
そこでようやく、気が付く。
一面の平原。そこにポツンと佇む私。もちろん、動かない脚。
「あれ……? 詰んだ……?」
からっ風が、私とナーの間を通り過ぎて行った。
結論から言おう。
詰んではいなかった。
そもそも、私が不自由なことはタリスさんも重々承知なのだ。そりゃ、無策で放り出すようなことはしない。……そうですよね?
あの人、どうにもミステリアスというか、ちょっと変わってる人だから、断言は出来そうもない。
さて、それでは過去に降り立ち数刻。私はどうしているのかと言うと――
「ナァー!」
「ナー、もう少し優しく持ってもらえるかな。首が絞まります……グぇ……」
空飛ぶ相棒に首根っこを掴まれて浮きながら街を歩いてます。いや、運ばれています。
本当、周りの目が痛い……。
確か、現代に戻ったタイミングで私が過去に行ったことの辻褄合わせで、人々の記憶とかが再構築されるんだったっけ。
バタフライエフェクトとか、タイムパラドックスとか、色々考えたけど、すぐに頭の片隅に追いやった。だって、異世界ですし。そもそも、私が前世の記憶を持ち合わせていることが、SFの枠を超えているって話だ。
私の人生にそんな壮大な事件は必要ないのだ。
「ナー、とりあえず街の鍛冶屋さんを片っ端から覗いてみましょうか」
「ナァー!」
私の仕事内容は二つ。
一つは魔法の売り手の過去を覗き、魔法の使い方や、その人から魔法を買い取ることで店への不利益を起こさないかどうかを調べること。
もう一つは買い手の過去を覗き、その魔法がその人に相応しいかどうかを見定めること。犯罪等に利用される恐れが無いかの調査。
今回に関して言えば、前者だ。
ロムガさんの魔法は『擬態』というものらしい。使用者もしくは他者の姿かたち、さらには声などを別のものへと変身させられるという、使い勝手のよくわからない魔法だ。
ぱっと思いつくのはスパイとか、詐欺師に向いていそう。この世界にそんな存在がいるのかは知らないけれど。
どのみち、一般人にとっては使い道の乏しい魔法だ。ロムガさん曰く、「商売人がそんな魔法持ってちゃ、信用に欠けちまう」らしい。確かに信頼第一の職人にとっては無用の長物だ。
魔法って、案外面倒なものなのですね。
ロマンはあるけれど、実際に与えられる魔法が選べないというのは、割とギャンブルな話だ。
街の鍛冶屋を数軒回ってみるも、ロムガさんは見つからなかった。ドワーフ族の鍛冶師に尋ねてみても、ロムガというドワーフは知らないらしい。
「本当にこの街にいるのでしょうか……」
ロムガさんが指定した街が間違っていたとか?
しかし、ここは私の住むリムガシアの街の、北東に位置するストゥニラの街で間違いないはずだ。ちゃんと衛兵さんに訊いたわけですし。
何より、時流しの魔法は対象となる人物の半径ニ十キロメートル以内に飛ばされるはず。つまり、絶対にこの街にいるはずなのだ。
いつの間にか、てっぺんでふんぞり返っていた太陽が西の地平線へと沈みかけていた。斜陽に照らされた街並みを高台から眺め、思う。
同じ異世界の街といえど、こうも景観が違うものなのですね。
まるでイルミネーションのように輝く姿に、思わず言葉を失う。まさか、こんな経験が出来るなんて、先日までは思ってもいなかった。
「まあ、ここは先日よりもさらに二か月過去なんですけどね」
時流しの魔法は過去五年以内をランダムに到着地点とするっぽい。今回は比較的浅めの地点が選ばれた。初めての過去旅行なので、それだけでちょっと安心したりする。
「ナァー?」
ナーが不思議そうに首を傾げる。
「ごめんなさい、ずっと私を持っていて疲れたでしょう? 今日はもう宿を取りましょうか」
こうして、私の中古魔法店員としての一日は終わったわけです。
次の日、街の鍛冶屋も全て回りつくしてしまった私は、路頭に暮れていた。街の中央広場を行き交う人々をベンチで眺めて、思わずぼんやりとしてしまう。
膝に座ったナーもどこか退屈そうだ。
「こんなはずではなかったのですけど」
「ナァー……」
過去に行くということにばかりリソースを割いていたけれど、まさか本題の調査で躓くとは思っていなかった。
そもそも、まだロムガさんを見つけてすらいない。仕事が始まってもいないのだ。
「とにかく、こうしていても始まりません。ナー、休憩は終わりです。行きましょう」
「ナァー」
すると、ナーは私をその小さな手で持ち上げ、ゆるっと飛ぶ。不思議なもので、一日もすると周囲の訝し気な視線は気にならなくなっていた。
広場を抜ける寸前、ナーが突然進路を変える。
「ナー、そっちではありませんよ」
言葉は通じているはずなのに、どうしてかナーは言うことを聞かず、反対方向へと飛び続ける。
「どうしたのでしょうか……」
不意に甘い匂いが鼻を衝く。
あぁ、なるほど。
ナーはまっすぐに前方の露店を目指していた。甘い香りもそこから漂っている。
「仕方ないですね。おやつにしましょう」
「ナァー!」
その露店は円形の厚みがあるお菓子の店だった。パンケーキ……いや、どちらかと言うとどら焼きや大判焼きに近いように思える。
「店員さん、こちら二ついただけますか?」
若い女性の店員さんは、猫に首を掴まれている私を見て少し驚いていた。
そうですよね。当たり前です。
しかし、流石は接客のプロだ。すぐににっこりとスマイルを浮かべ、お菓子を包んでくれた。
「可愛い従魔ですね」
「ええ、食いしん坊なのが困りものですけれど」
「ふふっ、では私はこの子に感謝しないといけませんね」
淡い風が吹いて、店員さんの肩まで伸ばした白金髪がふわっと揺れる。同時に甘い匂いが鼻腔をくすぐる。まるで、彼女から香っているみたいだった。
整った容姿に、タリスさんほどのすらりと背の高いプロポーション。こんな人に接客をされてしまえば、誰だって常連になってしまうに決まっている。
店員さん、可愛いな。明日もロムガさんを見つけられなかったら、また買いに来るとしましょう。
お菓子の名前はわからなかったけれど、味は大判焼きそのものだった。表面がさっくりとしたもちもちの生地。一口噛むと、その瞬間ミルクと卵をふんだんに使った生地の甘美な匂いに包まれた。中からはとろりと甘いカスタードの餡が溢れんばかりにとろけ出して、口中を満たす。
前の世界を思いだして、すごく懐かしい。少し切なくもなった。まさか、異世界でこんなお菓子と出会えるとは思ってもいなかったのだから。
ナーもとても美味しそうに一心不乱となって食べていた。今さらだけど、猫にカスタードとかって大丈夫なのだろうか……。
結局、二日目もロムガさんに関する収穫は無かった。鍛冶屋を営んでいないドワーフ族もしらみつぶし訊いて回ったが、やっぱりロムガさんには会えなかった。
宿のベッドに身体を投げ出す。一日中、外にいたせいか眠気がすっと訪れる。ナーも隣で丸まって小さな口を大きく開けて欠伸をしていた。
「今日もお疲れ様。私より、ナーの方が疲れていますよね」
「ナァー? ナァー!」
余裕だと言っているみたいだった。段々、ナーの言葉も何となくわかるようになってきた。
「明日こそ、お勤めを果たしましょう。後、三日しかないのですから」
こうしている間にも、私の魔力は消費され続けている。昨日よりも僅かに気怠さを感じるのは、きっとそのせいだろう。
これは五日と言わず、なるべく早くロムガさんのことを調べる必要がありますね。
三日目、私はやっぱり路頭に迷っていた。昨夜の意気込みは何だったのか。そう思うくらい、露骨にテンションが下がっていた。
だって、もう手の打ちようがありません。
街のドワーフは全て一人残らず確認済み。もちろん、ドワーフ族以外が営む武具店や鍛冶屋も網羅した。それでも、やっぱりロムガさんは見つからない。
あてもなく街をふらつき、いつの間にか人気のない場所まで来てしまった。街の南、貧民街の奥だ。
喧騒的な中心部と打って変わって、静寂が辺りを漂う。
「こんな場所にいるはずもありませんね。ナー、引き返しま――」
気配のない広間の木陰から、何者かが私をじっと見つめていた。
「ナァー?」
私が声を発するよりも先に、ナーが不思議そうに鳴く。
小柄な少女だった。私の胸元程の伸長で、暗灰色の肌。フード越しの頭の先を二つのコブがツンと伺える。アーモンドのような大きなくりっとした瞳も相まって、やたらと猫っぽい。
私、猫に好かれるタイプだったっけ?
「あなた、そんなところでどうしたの? 獣人族の方かしら」
貧民街の孤児だろうか……。それにしては身綺麗だし、着ている服もそれなりに値が付きそうなものだ。
やっぱり、じっと私を見つめてくる。
そして、ゆっくりと私に歩み寄る。しっかりとした足取りに、情けなくも少しだけ嫉妬してしまう。
「……パンダ」
「えっ……」
突然、少女が喋った。彼女の発した言葉を私は聞き間違えてしまったに違いない。
「すみません。聞き逃してしまいました。もう一度、よろしいですか?」
少女はゆっくりと口を開く。
「パンダ」
「ぱん……だ?」
聞き間違いじゃなかった。しっかり、〝パンダ〟と言っていた。
パンダって、あのパンダのことだろうか。リンリンだとか、シャンシャンだとか。そう、あれのことだ。
「それがあなたのお名前?」
少女がこくっと頷く。偶然なんだろうか……。
パンダ……。パンダねぇ……。まっ、たったの三文字ですし、そういうこともあるでしょう。
「それでパンダさんは私に何かご用ですか?」
「用……は無い」
「そ、そうですか……」
不思議な人もいるものだ。いや、獣人族なら人ではないのだろう。
不意に、ぱさっと彼女がフードを取る。その中に隠れていたものを見て、私は吃驚した。
「ツ……ツノ!?」
耳だと思っていた二つのコブは、小さな白い角だった。思わず身体を大きく逸らす。こういう時、自由に脚が動かないというのは不便だ。
実物を見たことが無くてもわかる。紛れもない、魔族だ。
「ナー! 下がってください!」
じっと動かない少女から、すぐに距離を取ってもらう。心臓が痛いくらい跳ねていた。
魔族とは、人類や亜人種の共通の敵。魔王の下で人々を蹂躙する畏怖すべき対象。
そんな魔族が、どうしてこんなところに!? とにかく、早く衛兵さんに伝えなくては……。
「ナー、引き返してください!」
しかし、ナーは動かない。どうしたというのだろうか。
私は自分の脚で走れない以上、ナーに頑張ってもらうことしか出来ないというのに。
突然、魔族の少女が袖から何かを取り出す。丸い、林檎のような果実だった。ただし、その色は鮮やかな紫色で、どう見ても食べてよさそうに思えない。絶対、毒があるタイプの果実だ。
その果実を少女は一口喰らう。皮が裂け、果肉が姿を見せるも、やっぱり不気味な黒紫色。
怪しげな果物を無言で食べ続ける少女。その瞳はずっと私から離れることはない。一体、どういう状況なのだろうか。ナーは依然として動こうとしないし。
私は腹を括ることにした。大きく深呼吸をし、少女と目を合わせる。
「それ、美味しいですか?」
もう対話するしか術がない。
私の言葉に、少女が力強く首を振る。
「すっごく、まずい……!」
そんな堂々と言うことだろうか。
「そ、そうですか……。見たことのない果物だったので、気になってしまいまして」
「ウルの実。信じられないくらい、まずい」
やたら美味しくないことを力説するな、このパンダさんは。さぞ、酷い味わいなのだろう。それほどに血走った目が物語っている。
「それほどとは逆に気になりますね」
少女は猫のような瞳をぱちりと瞬く。
「……今はあげることは出来ない。においだけだったら、いいよ」
存外、魔族とも会話って出来るものですね。もっと、出会った瞬間食い殺されるものだと思っていました。本にもそう書いてありましたし。
「では、失礼して……って、くっさ……」
おっと、思わず汚い言葉が。いけません、いけません。この可憐な容姿に相応しい言葉遣いでないと。
少女は嬉しそうに頷いていた。なぜだろう……。
「私、もう行く」
少女はくるっと踵を返す。
「えっ、どこに……」
返事をすることもなく、少女はさらに人気のない街の奥へと姿を消してしまった。
「不思議な人でしたね……。人じゃないですけど」
「ナァー?」
衛兵さんに報告したほうが良いのでしょうか。
しかし、あのパンダと名乗った魔族の少女からは、悪意の欠片も感じられなかった。だから、すごく戸惑う。
結局、すごく悩んで、私はこの一連を無かったことにした。だって、もし悪くない魔族がいたなら、それでいいではないですか。
あと、どうせ衛兵に伝えれば事情聴取やら何やらで、少ない時間をさらに削ることになる。それだけは避けたかった。
「ナァー! ンナァー!」
私よりも嗅覚の良いナーには、ムムの実の臭いは余計にきつかったのだろう。空いた片手で鼻をごしごしと擦っている。
「ふふっ、本当に酷い臭いでしたね。……におい?」
瞬間、私は閃いた。ぽこっと底から湧いた気泡が、徐々に数を増していく。仮説の域を出ないものの、ちりばめられた違和感が一つにまとまっていった。
もしかして……。
私の予測が正しければ、そりゃ、どれだけ探しても見つからないはずだ。
「ナー、行きましょう。当てが付きました」
タリスさんは知っていたのだろうか。だとすれば、やっぱりあの人は少し性格が悪いのかもしれない。
念のため、次の日朝から夜まで対象を尾行し、私は時流しの魔法を解いた。
刹那、脳を揺らす衝撃に視界がばちんっと総変わりする。ぼやける世界で、私の身体を支える男性が目に入った。
なぜだろう、すごく気持ちが悪い。思考が濁流のように流れる。
「マナさん、大丈夫ですか?」
芯の通った優しい声にいくらか落ち着く。
先ほどまでは宿屋のベッドにいた。今は……どうやら戻って来れたようだ。ずらりと並ぶ棚と陳列された意味のない飾りの本たち。
「ナァー!」
どこからかナーの声も聞こえてきた。
良かった、一緒に戻って来れたのですね。
「落ち着いて、ゆっくりと呼吸してください」
生唾を飲み込み、言われた通り規則的に深呼吸をする。
「――ふぅ……。お騒がせいたしました」
タリスさんに支えてもらい、倒れ掛かった身体を起こす。まだ、身体は気怠く重たいが、すぐによくなるだろう。
「初めて大量の魔力を使ったのです。辛かったでしょう。徐々に慣れていきますよ」
この倦怠感は魔法の副作用というわけではないのかと安堵する。毎回、帰って来る度にこんな辛い思いしなければならないのかと思った。
私が十分に落ち着くのを待って、タリスさんはゆっくりと話し出す。
「こちらの時間にして四時間いかないくらいですか。随分、苦戦したと見えますね」
言われて、ようやく壁掛けの時計に目を向ける。本当だ、魔法を使ってから四時間しか時間が進んでいない。
つまり、向こうの世界での一日は、こちらの世界で一時間程度ということだ。
「それはもう、すごく大変でした。だけど、楽しかったです」
素直に伝えることにした。少しだけ、この世界の一端を見ることが出来た。その機会を与えてくれたタリスさんにはちゃんと感謝しているのだ。
タリスさんは濁りの無い笑みを零し、隣に座るロムガさんを横目で見る。
「さて、それでは『擬態』の魔法。いかがでしたか?」
ロムガさんも私に目を向ける。相変わらず、ドワーフの圧のある瞳だ。しかし、それはもう怖いとも思えなかった。
「ロムガさんの人柄については十分に把握しました。問題無しということで大丈夫だと思います。そして、『擬態』の魔法に関してですが、それはこちらで伺った方が早いと思いまして」
「ほう、それはどういうことですか?」
タリスさんの表情を見るに、やっぱりこの人、全部知っていたんだなと心の中で悪態をつく。
何か意図があるにしろ、意地悪な人ですね。
ロムガさんに向き直る。
「味の感想、まだでしたね。買わせていただいたお菓子、とても美味しかったです」
「ナァー!」
急にナーが私の肩で顕現する。お菓子という単語につられたのだろうか。
すると、ロムガさんはドワーフの見目に似合わない可愛らしい笑いを漏らし、その姿を光に包ませる。すっぽりと全身を包んだ丸い光が、徐々に縦に細くなる。
光が晴れると、そこには露店の店員さんの姿があった。緩く内に巻いた白金色の髪が音もなく揺れる。
やっぱり、そちらの姿が本物でしたか。
「気に入っていただけたようで何よりです。そちらの黒猫さんも」
「ナァー!」
とまあ、『擬態』の魔法については調査出来ていないふりをしたが、実はちゃんと過去でも『擬態』の魔法を見ていた。
まさか、あんな夜更けに『擬態』の魔法を使っていたなんて。一日目も、二日目も私が宿に戻った後の時間帯だ。
ロムガさんは美人のお姉さんからドワーフの姿へ『擬態』し、冒険者で賑わう酒場に赴いていた。そして、それはもう至福の様で大酒を食らっていた。
大丈夫です、ロムガさん。私、口は堅い方ですので。
それにしても、まさか残業必須の調査だったとは思いもしませんでした。
私はタリスさんを窺う。その視線に気が付いたのか、彼は少し気まずそうに頬を掻いた。
「タリスさん、最初からロムガさんが『擬態』で姿を変えていることわかっていましたね?」
観念したのか、タリスさんは肩を竦ませる。どうやら、話す気になってくれたようだ。
「騙すようなことをしてすみません。これはマナさんへの試験だったのです」
「試験……?」
「はい、時流しの魔法に耐えられるか、予想外の事態に焦らず対処出来るか。どちらが欠けても、危険なお仕事ですからね」
なるほど、私は最初から試されていたということですか。
事実、四日もかかってしまったから、試験という意味ではぎりぎり合格ってところだろう。
「彼女は私の昔からの友人でして、今回の試験に協力していただきました」
「ごめんなさいね、マナさん」
ロムガさんを最初からドワーフ族の男性だと決めつけていたせいで、探すのに手間がかかってしまった。
合格といえど、反省するべき点は多そうですね。
「参考までに、なぜ彼女がロムガだとわかったのか、教えていただいてもよろしいでしょうか」
タリスさんに訊かれ、頭の中でごちゃごちゃな情報を整理する。
「そうですねぇ……。色々ありましたけど、やはり染みついた甘い匂いでしょうか」
そういう今も、ロムガさんからはほのかに良い香りがしている。ナーがロムガさんの周りをせわしなく飛び回るのもそういう理由だ。
「ドワーフの方にしては甘い匂いがして、なんか似合わないなぁと最初に感じたのを思いだしました」
「マナさん、結構ずばりと言う性格なのですね」
タリスさんほどじゃないと思うのですが。
「あとは身長ですね。よく考えたら、最初に入店した時ドワーフの姿では絶対に頭をぶつけることは無いのに、タリスさん同様に軽く頭を下げて入ってきていました。あれは背が高い人の癖みたいなものなのでしょう」
タリスさんが「ほぅ……」と声を漏らす。感嘆と受け取っていいのだろうか。
魔族の少女のことは……言わない方がいいだろう。流石にタリスさんでも魔族の仕込みは無理だろうし。
あの世界は今よりも二か月も前の場所。この二か月の間に隣街で魔族が出たなんて噂は聞いていないし、大事に至っていない証拠だ。
「いいでしょう。マナさん、合格です」
タリスさんが私の手を取る。破壊力のある微笑みを向けられていることも相まって、ほんのり頬が熱を帯びた。
この人、セクハラは気にするのにどこかズレているんですよね。
「私と共に、魔法店『ノイアッシェ』をよろしくお願いしますね」
ずくんと胸が熱く疼く。前世でも、今世でも、文字通り足手まといだった私が、初めて認められた瞬間だった。
今さら、魔力を誰よりも多く授けてくれた神様に感謝した。
誰かの役に立てる。私にしか出来ないことがある。
そして、何より、まだまだこの世界のことを知りたい。見て回りたい。
だから、私はタリスさんの手を強く握り返した。
「はい、私の方こそ、よろしくお願いします!」
こうして、私は正式に〝異世界中古〟魔法店『ノイアッシェ』で働くことになったのです。
ちなみに時流しの魔法による辻褄合わせ、人々の記憶の再構築はしっかり機能しているようで、隣街でケット・シーに首を鷲掴みにされる少女がいるという噂話が広まっていたのは、また別のお話。
「ひぃぃいいいいっ!」
間抜けな声と共にこんにちは、過去の皆さん。
『ノイアッシェ』の店員として働き始め、早いもので一か月が経過しました。時流しの魔法で過去に滞在している日数も合わせたら、もっと経っているのですが、私は一か月分のお給料しかもらっていません。
ケチだな、と思いましたが、その金額を見て目ん玉が飛び出してしまうかと思いました。魔法って、すごく高値で取引されているんですね。
『ノイアッシェ』に競合のお店が無いのと、魔法をお求めの方が貴族や訳アリの人が多いのも理由でしょうか。
そんなわけで、私は日々、過去へとせわしなく飛んでいます。忙しいのは良いことです。しかし、癖の強いお客様が多いということは、その分問題も多いわけで――
「ナー! 避けてください! 避けてぇえッ!」
轟音の唸りを上げ、すさまじい速度で飛んでくる火球を前に、私は悲鳴を上げていた。あまりの熱気に肺の奥まで熱く痛みを帯びる。
「ナァー!」
ナーは私の指示を聞いてくれないことの方が多い。私の首根っこを掴んだまま、その場でぴたりと宙に静止する。
私――というより、ナーの前方に青白く輝く魔方陣が展開した。刹那、空気を焦がす熱波がぴたりと止まる。同時に目と鼻の先まで迫っていた火球の先端にぷつりと小さな霜柱が立つ。いつの間にか辺りを漂っていた白い冷気が、霜柱に向けて渦を巻いて集まり、火球を包み込むように広がっていく。
一瞬のうちに炎の塊を丸々包み込んだ氷塊が完成した。
「うそぉ……」
ゴトッとエネルギーの塊とは思えない音を立てて、火球が地面に転がる。氷の膜越しに未だ抵抗を続ける炎の揺らめきが徐々に小さくなっていく様を、私は口を半開きにして見守った。
「おい、何なんだよ!」
「化け物だ……」
「早く逃げろ! あの少女みたいに捕まってゾンビにされるぞ!」
調査対象の方々が散り散りになって逃げていくのを、私は重たい息と共に見送る。
「私、ちゃんと生きているんですけど……」
全く、何て失礼な人たちなのでしょうか。
「ナァー」
「ナーも化け物扱いされて災難でしたね」
「ナァー!」
「あれ……喜んでます?」
とにかく、今回も魔法を売ってよい方々ではなかったようです。ちょっと調べたら、すぐにボロが出ました。
魔法を売ってくれる人は問題が無いことがほとんどなのに、どうしてか買い手に関してはほとんど毎回、何かしら黒い理由がある。
魔法は簡単に力を得ることの出来る理不尽なもの。どんな魔法にも有益な使い道があるように、いくらでも悪用する手段はあるということなのだろう。
「ふぅ……。これ以上の調査は必要なさそうですね。帰りましょうか」
「ナァー!」
いつの間にか、辺り一帯が凍り付いていた。寒暖差に風邪を引きそうだ。
ナーもいつも通り派手に暴れられて満足そうですし。というか、本当に強いですね、ケット・シーというのは。
私は時流しの魔法以外は使えないので、本当にナーが魔法を使うことが出来て様様だ。戻ったらご褒美にお菓子でも買ってあげるとしよう。
人目のつかないところで時流しの魔法を解除した。瞬間、テレビのチャンネルを変えるように視界がぱちんっと変化する。
軽く揺らぐ頭。魔力酔いもだいぶ慣れてきた。
「おかえりなさい」
すぐ横で声がする。どうやら、タリスさんの肩を借りてしまっていたらしい。顔の右側面がやたら熱を帯びる。
「す、すみません! お邪魔でしたよね!?」
よし、今度から座って過去に飛ぶのは辞めましょう。
「いえいえ、お安い御用です」
タリスさんは私が時流しの魔法を使っている最中、片時も離れずに側にいてくれる。発動中、こっちでの私の身体は完全な無防備となってしまうからとのことだ。
過去ではナーに、こちらではタリスさんに、私は常に誰かに助けてもらいながらお仕事をしているのです。せめて、自分の役割くらいはしっかり務めなくてはいけませんね。
「それで、今回はいかがでしたか……? 『透明』の魔法を所望のお客様だったので、ある程度予想は付きますが」
軽く息を吐き、首を振る。
「レパーラス国のスパ――あ、えっと諜報人でした。国境を越えようとしていたところをお声がけしたら、いきなり魔法を放たれましたよ」
「それは災難でしたね。お怪我はありませんか?」
タリスさんが心配そうに私を隅々まで視診する。とても恥ずかしいのでやめていただきたい。この容姿に不備はないけれど、浅ましい心の内まで見透かされてしまいそうだ。
「大丈夫ですよ。ナーが今回もしっかり守ってくれました」
「ナァー!」
すっと肩に黒猫が顕現する。
「そうですか。ナー、よくやりましたね」
タリスさんがナーを撫でようと手を伸ばす。が、ナーの右手が勢いよくタリスさんを払いのける。
「ナァー! ナァーッ!」
威嚇するように声を上げるナーにタリスさんは苦笑いだ。
「やっぱり、私には懐いてくれませんね」
「もー、いつも仲良くするように言ってるんですけど……」
「ナァ」
ぷいっとそっぽを向くナー。一体、タリスさんの何が気にくわないのだろうか。
「ははっ、私にマナさんを獲られると警戒しているのでしょう」
「なっ……!?」
突然、何を言い出すのだろうか。思わずナーに目を向ける。まだほど近いタリスさんを私から遠ざけまいと手でぐいぐいと押していた。
「ナー、やめなさい。タリスさんに失礼ですよ」
「ナァー!」
まるで言うことを聞かない子供みたいだ。
「安心してください。マナさんは割と私の好みの女性ですが、従業員に手出しはしませんよ」
本当、勘弁してください……。
「お世辞はそれくらいにしてください」
「おや、そう捉えられてしまいますか」
え、もしかして冗談じゃない……?
しかし、ロムガさんみたいにすごく綺麗なお知合いがいて、わざわざ私に靡くこともないのではないだろうか。そう思うと、赤面しそうな頬も熱をいくらか冷ました。
ちりんっと呼び鈴が鳴る。その音で、私とタリスさんは即座に入口の方へと身体を向ける。
「「いらっしゃいませ、ようこそ魔法店『ノイアッシェ』へ」」
「ナァー!」
最近、ようやくタリスさんの挨拶に間に合うようになった。店員としての自覚が出てきたというものだ。
さて、今回のお客さんはどんな方でしょうか。
視線を上げると、まず黒曜色の艶やかな肌が目に入った。随分と引き締まったスタイルの良い女性だ。周りの彩色を吸収してしまいそうな銀髪は私とそっくりで、鋭い金瞳がまっすぐに私とタリスさんに向けられている。暗色のタイトな衣装は、私がその種族を想像するのにぴったりだ。凛々しい顔つきも前世でゲームの中に登場したまんまで、妙に感心してしまった。
「これはまた珍しいお客様ですね」
タリスさんがそう言うのも頷ける。私だって、この世界で初めてお目にかかる種族だ。彼女のツンと突き出す耳につい視線が向いてしまう。
そう、次のお客様は人嫌いで有名なダークエルフ族の方でした。
今回の依頼人であるダークエルフの女性は、〝ネメリス〟と名乗った。
凛とした、楽器のようによく通る声色だ。女性の私から見ても、とてもカッコいい。まさに、女性があこがれる女性像を体現したようだ。
「それで、さっそく取引の話をしたいのだが」
基本的にはお客様との話はタリスさんが進める。私はいつも横で会話を聞くに過ぎない。しかし、今回はタリスさんが表情も変えずに、押し黙ってネメリスさんをじっと見つめる。
途端に訪れる静寂。
一体、どうしたというのでしょうか。
「あの、タリスさん……?」
堪らず声を上げた私の唇に、タリスさんの人差し指がそっと触れる。
黙れ、ということは伝わった。
でも、今はお客様の前なんですけど……。いや、お客様の前じゃなかったら、良いとかそういうわけでは……。
そんな自問を心の中で独り言ちる。
だって、喋るなと合図されているわけですし。
じっと、まるでにらみ合うように視線を交わす二人。私は未だに状況が理解できないでいた。
「取引の前に、」
ようやく、タリスさんが口を開く。
そして、前置きの後、タリスさんを中心に床一面を大きな魔方陣が広がる。
「――えっ……?」
肌が粟立つほどの威圧。空気が振動し、棚から本が落下する。今にも魔法を発動しそうなタリスさんの瞳には、明確に敵意が伺えた。
ネメリスさんはそれを見て、瞬時に腰の短剣に手をかける。
ナーも先ほどからずっときょろきょろしているし、何が起きているのだろうか。
「店を取り囲むように身を隠した方々は、あなたのお仲間ですか?」
静かに、低くタリスさんが問う。
その様に私はちょっとした畏怖を覚える。が、同時に見惚れてしまっていた。
私を背に隠すように、タリスさんが一歩前へと躍り出た。
震撼する空気が一層強まる最中、ネメリスさんはそっと短剣から手を離す。そして、いつでも動けるように曲げた膝をゆっくりと伸ばした。
「すまない。敵意があるわけではないのだ」
彼女の目尻がわずかに下がる。
ふっと、空気が軽くなった。それでも、まだタリスさんは魔方陣を消さない。
「ご説明を」
「……彼らは私の護衛だ。必要ないと言ったのだが……」
どんどんしおらしくなっていくネメリスさんを見て、何だかこちらが申し訳なくなってきた。
「護衛、ですか?」
タリスさんに代わって聞き返す。
「あぁ、私は砂の都カシェットから来たのだ」
カシェット……聞いたことのない地名ですね。
とりあえず、この周辺の街町でないことは確かだ。そもそも、ダークエルフは他大陸にしか集落を持っていなかったはず。もしかしたら、ネメリスさんはとても遠いところから来たのかもしれない。
このお店、一体どこまで噂が伝わっているのだろうか。
タリスさんを一瞥すると、彼は先ほどまでの殺気を解き、いつも通りの柔らかな表情に戻っていた。
やっぱり、タリスさんにはこちらの方が似合っていますね。
私の言わんとしていることがわかったのだろう。タリスさんが難しそうに唸る。そして、ややあって彼は「行けばわかりますよ」と言った。
この感じ、きっとタリスさんはまた少なからず知っていることがあるなと、私の直感が囁く。
そんな意地の悪い店長を横目に、私は過去へと潜った。
「いってらっしゃい」
タリスさんの言葉に見送られ、意識が微睡む。結局、身体の自由が利かなくなり、またタリスさんに肩を借りる羽目になってしまう。
ぐにゃりと歪んだ視界が暗転し、程なくして小さな気泡の群れが私を包み込んだ。
今回、私がしなければならないことは二つ。
ダークエルフの秘魔法の調査。そして、ネメリスさんが『擬態』の魔法を買う資格のある方なのかの調査。
おっと、そもそもネメリスさんがどんな人なのかも調べる必要がありますね。
魔法の等価交換を持ちかけてくるお客様は少なくない。
タリスさんが定める魔法の価値が違う場合は別途差額が出るのだが、今回に関してはダークエルフの秘魔法の方が『擬態』よりも価値が高いと判断された。
一体、ダークエルフの秘魔法とはどんなものなのでしょうか。
私が過去で得た情報と、タリスさんが売り手本人から直接聞いた内容が一致した場合のみ、正式に問題なしと判断される仕組みだ。
誰も、私が時流しの魔法で過去を調査できるとは思うまい。傍から見れば、調査するとか言って急に眠りだすおかしな店員だ。
嘘を炙り出すことは重要。嘘をつく人は信頼に置けない、というのが店の本意だ。
それにしても、砂の都ですか。やはり、砂漠なのでしょうか。
まだ見ぬ世界の景色を想像し、胸が躍った。
さて、今回の旅はどんな出会いが待っているのでしょう。
ふっと意識が覚醒する。今回も問題なく過去へと飛べたらしい。
ぼやける視界に人工的な灯りが浮かぶ。どうやら、室内のようだ。
「ナァーッ!」
鋭い耳鳴りの奥から微かにナーの声が聞こえた。徐々に、喧騒が身を包んでいく。
ゆっくりと、身体を起こした。
「ふぅ……さて、今回の出発地点はどこになりまし――」
「――侵入者だー! 捕えろー!」
四方八方から突きつけられる無数の槍。
「んぇ!?」
我ながら間抜けな声が出る。
晴れた視界に映るのは、きらびやかな広いホールで私とナーを取り囲む無数の甲冑を着た人たち。長い赤絨毯の先には、玉座と思しき絢爛な椅子に座る一人の若い男性。横には執事か宰相のような初老の男性が何人か、固唾を呑んでこちらを伺っている。
「貴様、どこから現れた!」
なるほど。なんとなく状況は把握できました。
「えっと……」
動かない脚を二度擦る。最近決めたナーとの合図だ。瞬間、ナーは私の首根っこを掴み、高く飛び上がる。
「とりあえず、逃げましょう!」
「ナァー!」
どうやら、今回も一癖ありそうな旅になりそうです。
砂の都――カシェット。
そこは一帯を砂漠に囲まれた都市だった。『ノイアッシェ』のあるリムガシアの街から、海を跨いだ西の大陸に存在する小さな一国だ。
ついに、大陸すら飛び越えて旅が出来るとは。感無量ですね。……開幕王城に召喚されて、犯罪者扱いになってしまいましたが。
「あ、暑すぎる……」
私は着ていたタリスさんとお揃いの魔法ローブを脱ぐ。店員着らしいが、実はすっごく高価な物だと私は知っている。きっと、タリスさんのご厚意なのだろう。
あの人はどうせ、「従業員の安全のためですので」とか言いそうだけど。素直に嬉しかったりする。
じりじりと照り付ける熱波をかいくぐり――あと、追手の兵士たちを振り切るために、裏路地へと転がり込む。
「ナァー……」
ナーも暑いのは苦手らしい。猫だから、当然か。
「しかし、困りましたね……。いきなり動きづらくなってしまいました」
兎にも角にも、ネメリスさんを見つけないといけない。私の過去旅行はいつも、対象を探すかくれんぼから始まるのだ。
陽炎の揺らぐ表通りを覗き見る。どうやら、ナーの素早い移動のおかげで追手は撒けたらしい。
「ナー、行きましょう。夜までに色々と進めておきたいのです」
「ナァー……」
ナーが渋る気持ちもわからなくない。ひび割れた砂地の地面と雲一つない快晴過ぎる空。
世界は広いですね。
「冷たいものが売っていたら、買ってあげますから。早く行きますよ」
ひとまず、街を散策してみることにした。まっすぐ、外壁まで直進してみる。
王城は大抵、街の中心にそびえることが多い。王城から外壁までの距離で、おおよその国の大きさがわかる。
これは私がこの一か月で、色んな国を巡って得た知見だ。
思いのほか、すぐに決して高くない防壁が見えてきた。つくりも甘く思える。きっと、外敵があまり存在しないのだろう。そんな想像も、容易につく。
周りに人の目が無いことを確認し、ナーに壁を飛び越えてもらう。
「これはまた壮観ですね……」
街の外はどこまでも続く砂、砂、砂。地平線の隅々まで見渡しても、灰色がかった薄い黄色が広がっていた。
砂丘が至る所で凸凹を成し、確かにこれでは外敵の心配をする必要は無さそうに感じる。
「サボテンとか生えてないんですね。流石にピラミッドもありませんか」
私の浅い砂漠へのイメージ。仕方がない、前世を含めて初めての景色なのだから。
「ナァー?」
「ふふっ、何でもありませんよ」
高く昇ってもらい、街を一望する。
「何だか、奇妙なつくりですね」
というのも、振り返った先は一面の砂漠というわけではなかった。色どりに欠ける街並みの先に、鮮やかな緑が茂っている。森と呼ぶには規模が小さい。なんせ、そのさらに奥にはやっぱり砂塵が見える。
一帯が乾ききった世界で、そこだけは不自然なほど瑞々しい自然に満ちていた。
「とりあえず、行ってみましょうか」
滲む汗を拭い、ナーを促す。
それにしても、今回は過酷な旅になりそうですね。
むしろ、陽が落ちてから動いた方が良いのかもしれない。
街を横断し、目的の緑の地へと向かう。
「ナー、止まってください」
私が言う前に、ナーは既に私の身を建物の陰に隠すように動いていた。
流石、私の相棒です。
「何でしょうか……随分と厳重な見張りですね」
林地を含めての街だと思っていたが、どうやら違うらしい。むしろ、林地を阻むように外壁がつくられている。そして、そこには何人もの見張りの兵士が目を光らせていた。
「ふーむ……何だか益々気になってしまいますね」
林地を重要な場所としているのなら、その見張りの配置には納得だ。しかし、林地を阻むように建てられた外壁。
もう一度、上空から眺め見ても、林地と砂漠の境目は壁以外に特に何か建てられているわけでもない。ただ、そこに存在しているだけの木々の集まりだ。
「エルフと種族名に入っているくらいですし、どうしても気になりますよねぇ」
「ナァー」
ここまで結構な種族の方とすれ違いはしたが、ダークエルフは一人として見当たらなかった。しかし、ネメリスさんはこの国にいるはず。やっぱり、こんな絶好の違和感ある場所は見過ごせるはずがない。
とはいえ、流石にこの見張りの数では動きようがないですね。
砂漠側から回り込んでもいいのだが、どうやらナーが限界そうだ。
「仕方ありません。明日に備えましょう」
この暑さで一日飛び回ってくれたのだ。目いっぱい労ってあげなければならない。
宿を取り、その足で酒場へと向かう。この一か月でわかったことその二、情報は酒場で得るべし、だ。
酒場には現地の人、そして外から来た人が入り乱れている。ちょっと怖そうな冒険者や、流れの商人、中には危なげな職業の方々もちらほら。
ひとまず案内された席に着く。今日はまだ時間があることだし、焦る必要もない。
「ナー、今日もありがとうございました。好きなもの頼んでいいですよ」
「ナァー!」
小さな身体のどこにそんな入るのか、と毎回思うほどナーはたくさん食べる。しかも、野菜からお肉、魚まで何でもだ。
絶対、猫に与えてはいけないものも食べているのだろうけど、まあケット・シーですし。
しばらく、豪快に貪るナーを眺め見ながら、周りの席の会話に耳を立てる。が、取り立てて有用な話は無さそうだ。
「ナー、それ食べ終えたら、情報を取りに行きますよ」
ナーが皿の隅々まで綺麗にしたのを見て、合図する。
「あの方々にしましょう」
酒場の端のテーブルに向かう。私が選んだ人たちは、少し年を重ねた男性四人組。風貌からして、冒険者では無さそうだし、恐らくこの街に住む人たちだ。
私が欲しいのは、外界の情報じゃない。この国の内情について。それにはこの街に住む人に訊くのが一番効率的だ。
「あのー、すみません」
四人が一様に振り向く。そして、私を見て目を見張るのだ。
やれやれ、やっぱりどこでも同じ反応をされますね。
どこか、黒猫に首根っこを掴まれている少女を見ても、何も疑問すら持たないでいてくれる国は存在しないものだろうか。
「ど、どうしたんだい、嬢ちゃん」
「少しお尋ねしたいことがありまして」
ニコッと必死に練習した笑みを零す。この一撃で、男性たちは私を見る目をがらりと変える。
本当、見目美しく転生させてくれた神様に感謝ですね。
念のため、ウェイターに声をかけて彼らに一杯ずつ酒を振る舞う。情報とは、見た目と金で買い取るものだ。
何だか、偏った知恵ばかり身について行っている気がするのは、気のせいでしょうか。
「それで、嬢ちゃんは何が訊きたいんだい?」
「そうですね。私はこの街に来たばかりでして、国の内情だったり、後は――」
小一時間、彼らに話を伺って酒場を後にする。
随分と長居してしまったようで、外はすっかり帳を降ろしていた。昼間の茹だる様な暑さとは打って変わって、かなりの冷え込みだ。
欲しかった情報も得たことだし、今日は流石に引き上げるとしましょう。
宿は酒場が点在する南区とは違い、西区に取っていた。昼間は結構な人がいたが、夜は見回す限り静寂に包まれている。この街では娯楽が乏しいのだろうか。街によって昼の顔も夜の顔も変わるのは、実際に巡ってみるとよくわかる。
「ナァー……」
突然、ナーがぴたっと動きを止める。
「どうしましたか?」
「ナァー、ナァー」
どうやら、前を見ろと言っているみたいですが……。
私の前方には真っ暗な闇が広がっているだけだ。明かりと言えば、私の持つ手元のランプが照らす範囲だけ。
じっと、目を凝らしてみる。すると、暗闇の中をこっそり動く人影が見えた。
猫って、本当によく夜目が効くんですね。
「こんな時間に明かりも持たずにどうしたんでしょうか……」
物陰に入る振りをし、ランプをそっと消す。
その人影は、西区の奥へとこっそり足を運んでいるらしい。というのも、明かりを消したせいで、私の視界は人影を捉えることが出来ない。
暗闇の中でもしっかり見えているナーに尾行してもらっているのだ。
そして、その人物は突き当り、つまり外壁に備え付けられた門の前で足を止めた。左右に付いたかがり火がその人物を照らす。
あれ……? あの人は……。
「ナァー……」
ナーも見覚えがあるみたいだし、やっぱり思い違いということではなさそうだ。
質の良さそうな外套を羽織り、腰には装飾の施された鞘がちらりと見える。この国では珍しく日に焼けていない肌。そして、手入れの行き届いた金色の髪。
間違いない、王城の玉座に座っていた人だ。
この一か月で得た知見その三、面倒事に首は突っ込むな。こっそり、眺め見るべし。
「仕方ないですね。残業と行きましょう」
「ナァー……」
気怠そうな反応。ナーには申し訳ないですね。しかし、流石に見過ごせない状況なのです。
男性はきょろきょろと周りを伺い、見張りが席を外していることを確認すると、こっそり門をくぐって林地へと足を踏み入れた。
「追いますよ」
「ナァー……」
玉座に座っていたということは、つまりあの男性はこの国の王様ということだろう。そんな重要人物が、こんな夜更けに護衛の一人も無しにいるのだ。何かあるに決まっている。
外壁を飛び越え、林地へと踏み入る。いや、浮かび入る。
そこはひんやりとした清涼な空気で満ちていた。まるで、全く違う場所へと急にワープしてしまったみたいだ。明らかに、空気の質が外壁を境に変わった。
さて、王様はどこに行ったのでしょうか。
もちろん、林地の中は真っ暗だ。木々に阻まれ、ナーにも見つけられないらしい。
すると、前方から小さな明かりがぽうっと浮かぶ。
「こっそりですよ。お願いします」
小声でナーに頼む。草木を上手く避けて、音を立てずに光源へと近づくと、やがて小さな話し声が聞こえてきた。どうやら、誰かと密会しているようだ。
地面に降り立ち、盗み聞く。
「ようやく会えたな。五日ぶりだろうか……。相変わらず、お前は美しい」
なーるほど……。どうしましょうか、急にものすごい罪悪感がこみ上げてきました。
流石に男女の逢引きに付き合う必要もないだろう。私からすれば虚しいだけだ。
その場を離れようとしたその時、私は相手の女性の声を聞いてピタッと動きを止めた。
「リンデルも相変わらず世辞が上手だ」
凛としていて、明瞭度の高い声色。私はその声に聞き覚えがある。
大木の陰からこそっと見る。やっぱり、そうだ。
「これは世辞などではない。本意だぞ――ネメリス」
「ふんっ、会って間もない頃は散々な物言いだったではないか」
一人のダークエルフと一人の人間は、肩を寄せ合い、互いを見つめ合っていた。
「あ、あれはその……いわゆる照れ隠しだ。本当は一目惚れだったのだ」
「ふっ、まあいい。今日も会いに来てくれたことに免じて許そう」
……いや、いいんですよ。存分にいちゃついてください。私としては、ネメリスさんを見つけられて万々歳なのですから。
そうですとも。決して、羨ましいとか思っていませんよ。これっぽっちもです。
感覚すらない脚に触れる。
こんな脚では、恋愛なんて出来るはずがありません。前世でも、この世界でも。不完全な私を愛してくれる人など、いないのでしょう。
感傷的な思いを切り離し、冷静に考える。
酒場の男性たちから聞いた話では、この街はダークエルフの森を解体してつくられた場所らしい。それこそずっと昔の話、互いに戦乱に明け暮れていた時のことだとか。
つまり、人間とダークエルフは争い合い、勝利した人間がダークエルフの棲み処の一部を奪い取ったということだろう。
そして、二種族の禍根は今でも根強いらしく、互いに接触を禁止し合っているほど。お隣さん同士なのに、ものすごく仲が悪いのだ。
そんな状況で、彼らが逢引きに会っていると。何だか、話が見えてきたような気がする。
「それで、この前話したこと、考えてきてはくれただろうか……」
真剣な眼差しでネメリスさんを見つめるリンデルさん。
本当、盗み聞きなんてしてごめんなさい。
「あ、あのことは……。すまない。やっぱり無理だ……リンデルと婚姻は結べない……」
まぁ……!? そこまで発展したお話なのですね。
「どうしてだい!? 僕は絶対に君を幸せにしてみせるよ!」
「……リンデルは王だ。そして、私はダークエルフ族の族長の娘。ゆくゆくはその座を継ぐことになる」
「人間とダークエルフはわかり合えるよ。僕たちがその証じゃないか!」
若いですね。きっと、ネメリスさんはもっと大きな話を、現実の話をしている。リンデルさんの言いたいことはよくわかる。しかし、凝り固まった風習を正すことほど面倒なことはない。
「それこそ、暴動が起きるぞ。カシェットにも多くの過激派がいるのと同様、ダークエルフの中にも隙あらば戦争を仕掛けようとする馬鹿者も多くいる。そんな奴らが私たちの婚姻など、受け入れるはずがない……」
「それは……」
「お前は私たちのために民に血を流させると言うのか……?」
これは完全にネメリスさんが一枚上手ですね。
しかし、そう言いながらも寄せた肩を離せないことが、ネメリスさんの心情をしっかりと現している。彼女もまた、本意ではリンデルさんと一緒なのだ。それを互いの地位と環境が邪魔をする。
いっそのこと、責務を投げ出して二人で駆け落ちが出来るのなら、どれだけ幸せなのでしょう。
「――話、長い……」
「ナァー」
「そうで――えっ……?」
真横を振り向く。そこに少女がいた。あの変な果実を手に持ち、白い角をローブに隠したパンダさんだ。
「――ッ!?!?」
とっさに大きな声が出そうになるのを、パンダさんの手が私の口を塞いで阻止する。しかし、その際に足元の草がわずかに音を立てた。
「――誰だ!?」
ネメリスさんがばっと立ち上がる。その矢のような瞳がまっすぐにこちらの方角を向いていた。幸い、姿は見られていないようだけど、これは非常にまずい。
どうしましょう……!? バレるのも時間の問題です……。
「ナァー!」
不意に、ナーがいつものように声を鳴らす。
「……なんだ、猫か」
ネメリスさんはほっと胸をなでおろし、再びリンデルさんの横に座る。
なんて古典的なのでしょう……。いや、本当に猫なんですけどね。
「ど、どうしてここにパンダさんがいるんですか……!」
超小音で尋ねる。
「……たまたま」
「そんな馬鹿な……」
相変わらず、神出鬼没のよくわからない少女だ。何か怪しく感じるのは彼女が魔族ということだけじゃないだろう。だって、偶然にしては出来過ぎている。
「ぼ、僕は本気だ!」
リンデルさんの大きな声で意識が引き戻される。どうやら話が進んでいたようだ。彼の手にはどうしてか、今まさにパンダさんが横でむしゃむしゃと食べている果物とまるっきり同じものがあった。
「これはエルフ族から取り寄せたウルの実だ。一口かじれば、龍すらも卒倒する猛毒……」
えっ? それ本当ですか……?
チラッとパンダさんを一瞥する。すると、彼女は得意げにその黒紫色の果肉を口に運ぶ。
うわぁ……。
「なぜ、そんなものを持ってきた」
「……僕はネメリスを愛している。ネメリスはどうだい?」
「そ、それは……。私だって、」
二人が居たたまれなくなってきました。悲しいお話ですね。
「なら、僕はネメリスに命だってかけるよ。その証だ。ズルいのはわかっている」
長く息を吐き、リンデルさんが大きく口を開ける。その瞬間、私は飛び跳ねるくらい焦った。今、まさに猛毒を食らおうとしているのだから。
「よ、よせっ!」
ネメリスさんが止めようとするも、既にリンデルさんの歯はウルの実の皮に触れていた。
「だ、駄目だ……。そんなの駄目だぁあっ!」
ネメリスさんの手がウルの実に触れる。
刹那、魔力の気配がした。ネメリスさんの手とウルの実が鮮やかな紫色に輝く。暗闇を切り裂く、鋭い光だった。
そして、リンデルさんが意を決してウルの実を大きくかじる。
思わず立ち上がってしまいそうになり、パンダさんに袖を引かれた。彼女はまさに猛毒の実を食らったリンデルさんをぼんやり見ているに過ぎない。
「大丈夫。もう、あれ毒ない」
私がかがむのと引き換えに、パンダさんがすっと立ち上がる。
「パンダさん……?」
彼女は私を見下ろし、小さく笑みを零す。
「また、会おう」
そう言い残し、彼女は木々の奥へとぺたぺた歩いて消えてしまった。
またですか……。
相変わらず、おかしな魔族だ。しかし、やっぱり悪いようには見えなかった。
実際、二回とも私は何もされていないわけですし。
「ナァー」
ナーが鼻を手でくしくしと搔いている。この距離でも、ナーにはウルの実の臭いが伝わるのだろう。
視線を戻すと、リンデルさんはひどく顔を歪めていた。しかし、それだけだ。倒れるとか、嘔吐するとか、そう言ったことは起きていない。
そこでようやく、私は自分がここにいる意味を思いだす。
「そうか、あれがダークエルフの秘魔法なのですね」
触れたあらゆるものを浄化する魔法。それがダークエルフの秘魔法の正体だった。だとすると、この神聖さすら感じる空気も納得がいく。
間違いない。ネメリスさんはウルの実に対して魔法を行使したのだ。
「何をしているんだ。この馬鹿者……! ウルの実を食べるやつなんて、聞いたこともないぞ!」
ネメリスさんの瞳が手元の輝きに合わせて潤いを浮かべる。
「これが君の答えということでいいのかい?」
「それは……」
ネメリスさんは黙り込んでしまう。きっと、今も心の内で激しく葛藤しているのだろう。その様子を見て、リンデルさんが口を開く。
「なあ、ネメリス。東の大陸には魔法を売ってくれるおかしな店があるらしい」
……おや? ここで『ノイアッシェ』のことが話題に上がるとは予想外です。
「それがどうかしたのか……?」
リンデルさんはネメリスさんの肩に手を添え、意を決したように言う。
「――二人で、世界を騙さないか……?」
微睡む意識から覚める。懐かしさすら感じるようになった魔法の香りがする空気に、疲れがどっと浮かぶ。
「おかえりなさい」
いつも通り、タリスさんが傍で迎えてくれた。
私は返事をすることも忘れ、先ほどまでのネメリスさんリンデルさんの会話にぼんやり思い返していた。
中々、難しい話だ。帰って来たものの、まだ私の中で結論は出ていなかった。
――二人で、世界を騙そう。
その言葉から先の内容が、どうしても客観的に受け止められなかった。
「姿かたちを変える『擬態』という魔法がある。ネメリス……どうか僕のために人間として生きてはくれないだろうか」
リンデルさんは苦しそうに告げる。この人もまた、何も考えていないわけではないのだろう。たくさん葛藤して、悩み抜いて、出した結論はどんなことをしてでも、ネメリスさんと添い遂げたい。その一心なのだ。
リンデルさんの言葉にネメリスさんは困惑の色を浮かべた。
「あまり、話が見えないのだが……」
「数の少ないダークエルフに僕がなるのは流石に無理がある。その点、人間は数多といる。貴族の一人や二人、偽造することだって僕ならできる」
……まあ、こうやって聞くと良いことではないのは確かなんですよね。でも……。
トンっとタリスさんの肩に頭を乗せる。どうせ、いつも過去に潜る時は借りているのだ。少しくらい、私に考えをまとめさせる安定材料として使わせてもらおう。
「あの、マナさん……」
「どうしましたか。私は今、タリスさんにお力を貰っているのです。駄目ですか?」
「駄目ではないのですが……。その、お客様の前ですので」
瞬間、私は勢いよく身体を起こす。まるで、ねじ曲がったばねが強く戻るような勢いだ。
耳まで真っ赤に染まる私に、ネメリスさんが戸惑いがちな笑みを向ける。
「あ……えっと、その……」
言葉が出てこない。というか、完全にネメリスさんがいることを忘れていた。
何だろうか、このやり返された感。今回は過去で本人と接触していないから、時流しの魔法の辻褄合わせは起きていないはずなのに。
「二人は仲が良いのだな。いいではないか、恥ずかしがることではない」
「あぁあああっ……!? 本当にすみませんでした……。何といいますか、お見苦しいところをお見せして……」
こればっかりはタリスさんも苦笑いを浮かべる。
私、一体何をしているのでしょうか。
「それで、早かったですが、ちゃんと調査はしてこれましたか?」
急に話を戻され、余計に感情がぐちゃぐちゃになってしまう。
「それなんですが……」
次の言葉が出てこない。ダークエルフの秘魔法を買い取ることは何ら問題はない。しかし、『擬態』の魔法を売っても良いのか、その決断はまだしかねていた。
ネメリスさんを一瞥する。すると、彼女は少し悲し気な自虐じみた笑みを浮かべた。
「タリス殿から訊いた。見てきたのだな。私の過去を」
「はい……」
「ならば、私はマナ殿の決断に従おう。何ら、異を唱えることもないと誓う。私自身、ここまで来てしまったものの、答えの出しようがないのだ」
微かに彼女の手は震えていた。
半端な気持ちで答えられる話じゃない。
大きく深呼吸をして、未だに暴れる心臓を沈める。
「もう少し、お時間をください」
結局、私にはまだ考える時間が必要だった。
宵闇に包まれる小川を眺め、ため息が零れ落ちる。ここに来た時には夕照にすら染まっていなかったのに、どれだけこうしていたのだろう。
いつの間にか膝の上で丸まって眠るナーを起こすのも気が引けて、身動きが取れない。
……いや、そんなのは言い訳に過ぎない。結局、私は自分の中で答えが付かない限り、『ノイアッシェ』には戻れないんだと思う。
ネメリスさんとその護衛の方々には一日だけ待ってもらうことになった。だから、明日までに結論を出さなければいけない。
タリスさんに相談することも考えた。あの人のことだ、きっと親身に相談に乗ってくれるだろう。しかし、元々彼は私を信じてこの仕事を任せてくれているのだ。だから、私なりの答えが出たうえで、タリスさんに事を告げたい。
「こんなところにいたのですか」
本当、間が悪い。今、独りで考えるべきだと再度、決心を固めたばかりなのに。
「タリスさん……」
「探しましたよ。いくら経っても戻ってこないので、心配しました」
「ご、ごめんなさい。つい、ぼーっとしてしまって……」
タリスさんは少し間を置き、隣に座った。そして、私と同じように川辺を眺める。
「ネメリスさんに大方の事情は伺いました。そのうえで、きっとマナさんが悩んでいることも予想が付きます」
「そうでしたか。見ての通り、すごく悩んでいます……」
タリスさんはそっと私の膝の上のナーを撫でる。流石にナーも寝ていれば無防備だ。
「私なりの結論を述べてもいいのですが、それでは意味がありません。私はたとえ、マナさんが出した答えが私の考えと違くとも、マナさんの意見を『ノイアッシェ』の総意とします」
すっと私の心の奥までタリスさんの瞳が射抜く。
「タリスさんはどうして、そこまで私を信用してくれるのですか……?」
私の質問にタリスさんは微笑みで返した。
そして、タリスさんは手元で魔方陣を浮かび上がらせる。小さかった魔方陣が、魔力を放ちながら拡大し、すっと空気に溶け込む。
一拍置いて、水中を小さな光球が浮かんだ。その光は瞬く間に無数に広がり、形を変える。色とりどりの光輝く魚の群れが、小川を踊るように回遊する。
その様子に、私は目を奪われた。
優雅に泳ぐ魚たちが、パシャっと水面を飛び跳ね、そのまま今度は輝く小鳥となって、私とタリスさんの周りを飛び回る。
「綺麗……」
無意識に口を衝いていた。
タリスさんはそんな私に柔らかな顔を向けて、尋ねる。
「マナさん、この一か月どうでしたか?」
「と言いますと?」
「色々な場所を巡り、景色を見て、たくさんの人々とふれあって、何を感じましたか?」
その言葉に濃密な一か月が思い返される。
そうか、私はまだ『ノイアッシェ』で働きだして、一か月しか経っていないんですね。
それにしては、随分と色々なことがあった。たくさんの魔法を見たし、人の良いところ、悪いところにもいっぱい触れた。
「私が何よりも信頼に置いているのは、マナさんが見て、感じた全てのことです。そうして出した結論に、誰が異を唱えられるというのでしょうか」
「ナァー!」
いつの間にか、ナーが起きて私を見上げていた。
「難しく考えなくてよいのです。マナさんが過去を体験して、その上であなたが望む未来を思い描けばいい。そうすれば、自ずと答えが出ると思いますよ」
「私が、見たい未来……」
すっと浮かんでしまった。あの二人の姿が。
そうして出した結論が正しかったのかは、やっぱり良くわからない。けれど、次の日、少なくとも私は笑顔でネメリスさんを見送ることが出来た。