「退院、か……」

 ぼんやりとした頭で何も考えない日々は、まるで温かなお湯に浸かるように私の心に安堵を与えてくれた。不安なものなどそこには無い。ただ私を受け入れてくれる毎日を、その時を生きているだけの日々を、その怠惰とも思える平穏を受け入れる事こそが正解なのだと、私に教えてくれたのだ。正解だったから今、ついに私の入院生活の最終地点、退院というキーワードが目の前に現れたのである。

「……大丈夫。だって私には優しい家族がいる」

 早く退院したい、しなければ。皆を安心させる為に。始めの頃のその考え方は今の私の中に無い。今の私は自分の事で精一杯だった。意識を失ったあの日から、ずっと。
 私はもう、とにかくこのまま穏やかな日々を送れたらと、何も考えないでいられたらと、ただそれだけだった。私が退院して家に帰ったとして、その先の日々はどうなるのかなんて考えたくない。不安が生まれると浮かび上がるのは、込み上げてくるのは、あの子と対峙した時の感覚だったから。
 もうあの子はいない。だってあれから一度も現れて無いのだから、私が私のままでいればそんな事は起こらないはず。今は……そう、退院と聞いて、それを想像して少し緊張しただけ。だから、大丈夫。
 不安の元から目を逸らし、心の色を塗り替えて目を閉じる。そうすればまた明日がやって来て、そんな事を繰り返す毎日にはぼんやりとした頭がちょうど良かった。

 コンコンと、今日もまたこの病室に人がやって来る。

「こんにちは、恵子」
「……お母さん」
「昨日はお姉ちゃんが来たんだってね。体調は大丈夫?」
「うん、大丈夫」

 いつものようにお見舞いにやって来たお母さんがそんな事を口にしながら一つだけ用意されている椅子に座る。そして、

「恵子、何か相談があるんじゃないの?」

 にっこりと微笑みを浮かべた顔で、私に訊ねた。

「あ……うん。えっと……」
「うん?」
「その、私の退院について……そろそろかなぁって話を昨日して……」

 うんうんと頷くお母さんの視線は真っ直ぐに私に向けられていて、まるで全てを見通されているような心地だった。きっとお姉ちゃんから聞いているのだろう。お母さんはいつも、なんでもわかっているのだ。だからきっと私のこの心の内もわかってる。

「それで? 恵子はどう思ったの?」

 わかっていて、そう訊ねている。私が気持ちを言葉に出来るように。きちんと解決出来るように。

「私は……」

 ——自殺未遂だよ。

「!」 

 はっと頭に浮かんだそれは、あの日からずっと目を逸らしてきた、あの子の言葉だった。

「……恵子?」
「…………」

 ぼんやりと膜を張るようにして、無いものとしてずっと扱ってきた。そうする内に彼女の事は頭の隅に追いやられ、今日まで一度もあの日を振り返った事は無い。
 もう私には必要無いものだと割り切ったからだ。彼女の言葉にあり得ない、そんな訳ないと私はあの日に言い切ったし、もう関わるなと告げてから彼女は一度たりとも現れていない。
 彼女との事を無い事にすれば、残るのはただ皆を信じる心だけで、真っ直ぐに家族との全てを信じる事が出来たから。ただ暖かな温もりの中で、穏やかな日々の中で、幸せだけを感じて生きていくことが出来たから。
 ……でも、そんな日々の終わりを感じて、その中に飛び込む未来を受け入れなければならない時が来て、見ない振りしていただけでずっとそこにあった疑問が明確に目の前に現れた。それが、きっと今突然頭に浮かんだあの言葉。退院への不安の元凶。

「……お母さん」

 どうしよう。これは口にするべき?
 ちらりとお母さんの様子を窺うと、じっと私を見据える瞳が私をとらえた。
 その問いを口にしてしまったら、きっともう平穏は帰ってこない。そんな気がしてたまらない。でも、このまま退院する事なんて出来るだろうか。こんな気持ちを、こんな疑問を抱いたまま——。

“お母さんに相談した方が良い、それが一番間違いないから”

 そう……だよね。そうだ。私一人で決められないのなら、お母さんに、お母さんだけには相談した方が良い。だってお姉ちゃんがそう言っていたのだから。そうだ、それが良い。

「……退院、出来ると思う。日常生活を送る事に関しては何の支障も無いと思うの」
「うん」
「でも……でも、私の中に、不安、みたいなものがあって」

 ——ここまで来たんだ、言うしかない。聞くしかない。

「私……どうして入院したのかな」

 その瞬間、ハッとお母さんの纏う空気が変わった。その動揺を隠しきれない反応に、どこか裏切られたような気持ちになる。
 ——もしかして、やっぱりあの子の言葉は本当だったって事? お母さんは、家族は私に嘘をついてたの?
 心が、急に冷めていく。

「それは、前にも言った通り事故に遭ったのよ」
「じゃあどうして事故に遭ったの?」
「……夜道を歩いている時に、通り掛かりの自転車を避けようとして転んで頭を打ってしまって、」
「でも目覚めた時から私の身体に打撲の跡も切り傷一つ無いよね? 後遺症が残る程強く頭を打ったのに」
「…………」
「一週間寝てたっていうけど、一週間寝てる内に綺麗に治るのかな……私がわかってないだけでそういうもの? それとも、他に何か理由がある?」
「…………」

 ——こんな風に問い詰めるつもりではなかったのに。
 ぼんやりと、思考から手を離してしまえば大した事じゃない。わからない振りをして全て受け入れる事は容易だった。そういうものだとしてしまえば、そこにはただの家族愛しか残らないから。
 ……でも。

「……もし、違う理由があるなら教えて欲しい」

 じゃないと私はきっと、あの子が言った自殺未遂という言葉が頭の中から消えないまま退院し、家族と共に暮らす事になる。
 知らない振りは出来るだろう。でも、知ってしまった事は消えない。否定して欲しい。そうすればお母さんの言葉を信じるから。あの子の言葉を無い事に出来るから。可能性を、潰して欲しい。
 この問いには、そんな私の願いが込められていた。

「…………」

 お母さんは、じっと黙って私を見つめていた。その瞳にはもう動揺の色は無く、ただ真っ直ぐに私の言葉の真意を探っているように見える。そして目を閉じて一拍置くと、諦めたように私をもう一度見て言った。

「誰かにそう、言われたのね」
「…………」
「それはもしかして、あなたにしか見えない人?」
「……え?」

 お母さんにあの子の事をきちんと説明した事は無い。存在を匂わす事を口にしたのはあの二度目に目覚めた時の一度きりだ。
 だけどお母さんは、

「あの子の事、知ってるの?」

 私の問いに悲しそうに微笑むと、首を縦に振った。

「それがどういったものか、詳しくは知らない。けれど、ずっとあなたがそれに苦しめられていたのは知ってるわ」
「……ずっと?」
「えぇ。忘れてしまえた方が良いと思って隠していたのだけれど……また見えてしまっているのなら、話した方良いのかもしれない」
「…………」

「どうする?」と、優しく訊ねるお母さんに、私は少し悩みつつ、

「お願いします」

 と、意を決して頷いた。