それからというもの、彼女が私の前に現れる事は無くなった。
あの日までが嘘のようにあっさりと、彼女は痕跡一つ残さず消えた。あんなにも私に何かを訴えてきている様子だったのに。だとしてもその後の彼女のいない毎日はとても平穏で、彼女の存在は頭の中から少しずつ薄れていった。それは私の心が安定している証拠のようだった。
穏やかな日々の中、私の病室に訪れる人といったら医師と看護師、それにお母さんとたまに他の家族くらい。家族がお見舞いに来る他に、私に何か刺激を与えるような出来事は一つも起こらず、あれから一週間が過ぎようとしていた。
「恵子、元気?」
「うん、元気」
「今日も良い天気だね〜。ちょっと散歩でもしに行く?」
「うん、行く」
ぼんやりと何も考えないまま、私は家族達の優しさに甘える日々を送っている。心は風のない湖面のように凪いでいた。何も、何も動かない。私の周りには私の心に変に波風立てるような人はいないから。
「恵子、足元気をつけてね」
「うん」
「あ、ベンチ空いてる。何か飲もう。買ってくるよ」
そう言って、お姉ちゃんは私をベンチに座らせると、すぐそこの自動販売機でオレンジジュースを買って戻って来てくれた。どうやら記憶を失う前の私はオレンジジュースが好きだったらしく、いつもお姉ちゃんはこれだよねと買ってくれる。それを毎回有り難く受け取っていた。
お姉ちゃんがお見舞いに来てくれる時はいつも私を外に連れ出してくれて、それが今の私の楽しみだった。心配性のお母さんはその事に良い顔をしなかったけれど、「内緒だよ?」と二人きりの時にこっそり連れ出してくれるお姉ちゃんの悪戯っ子な笑顔は眩しくて、その笑顔を見ると石のように重たい頭が少しだけ軽くなるような気さえする。
お姉ちゃんは、私にとって自由の象徴のような人だった。
「お日様が気持ち良いね」
「うん。気持ち良い」
「出れる時は外に出てお日様浴びないとね。人間には必要な事なんだから」
「うん。いつもありがとう」
のんびりとそう返すと、「別にお礼のタイミングじゃないでしょ」と、お姉ちゃんは笑った。でも私にとってはこのお散歩が、ぼんやりと何も難しい事を考えないでうん、うんと頷く時間が、人間として本当に必要なものだと感じていたから、お姉ちゃんには感謝しかなかった。
「あれからだいぶ経つけど恵子の頭痛、どう? 良くなってる?」
「うん。薬を変えてから痛くなってないんだ。だから大丈夫」
薬を変えてから……と、もう一つ。私にだけ見える彼女がいなくなってから、急に激しい頭痛に襲われたり、精神的に上下して体調が崩れてしまうような事が無くなっていた。
安定した精神はぼんやりと、ただその日の出来事を追って生きている。今はもう記憶が戻らない事も、脳みそが固められているような感覚の事も、それが私の通常の状態なのだと受け入れて特別何か思い悩む事も無かった。
無理に向き合っていく事は無い。周囲の優しさに包まれて、身を委ねるように生きている内に、それがこうして日常になっていくこともあるのだと知った。そう、あの頃の私は焦っていたのだ。今はもう、これで良いのだと受け入れた自分が心地良い。そしてそんな私を家族の皆も受け入れてくれる。
「そう……じゃあもうそろそろ退院かな」
そう言ってコーヒーを飲むお姉ちゃんの横顔を見つめると、「何?」と私を見てお姉ちゃんはにっこり笑う。
「あ……いや、なんでもないの」
誤魔化すように目を逸らした先には青空が広がっていた。雲一つない青空は晴れ晴れと私達を受け入れてくれているのに……何か、その澄み切った様子に不安を覚える。
“そろそろ退院かな”
その事実を目の前にして、この穏やかな毎日の終わりを感じたのかもしれない。けれどそこに何の問題があるというのか。順調だ、何もかも。何も邪魔するものの無い青空はまるで、私のこの先を示しているよう。それは何も間違っていない未来のはずなのに。
「何? 緊張してんの?」
笑顔のお姉ちゃんは私の頭を撫でると言った。
「退院の事、お母さんに相談したら良いよ」
「お母さんに?」
「そう。何事もお母さんにまず相談した方が良い。お母さんすぐ心配するし、それが一番間違い無いから」
「……そうだね」
それにうんと頷いて、ちらりと思う。
「お姉ちゃんでもそう思うんだ」
「そりゃあ、私が一番お母さんに怒られてるからね。恵子は良い子だから大丈夫」
そう言ったお姉ちゃんの笑顔はまるでお手本のように綺麗な笑顔だった。
あの日までが嘘のようにあっさりと、彼女は痕跡一つ残さず消えた。あんなにも私に何かを訴えてきている様子だったのに。だとしてもその後の彼女のいない毎日はとても平穏で、彼女の存在は頭の中から少しずつ薄れていった。それは私の心が安定している証拠のようだった。
穏やかな日々の中、私の病室に訪れる人といったら医師と看護師、それにお母さんとたまに他の家族くらい。家族がお見舞いに来る他に、私に何か刺激を与えるような出来事は一つも起こらず、あれから一週間が過ぎようとしていた。
「恵子、元気?」
「うん、元気」
「今日も良い天気だね〜。ちょっと散歩でもしに行く?」
「うん、行く」
ぼんやりと何も考えないまま、私は家族達の優しさに甘える日々を送っている。心は風のない湖面のように凪いでいた。何も、何も動かない。私の周りには私の心に変に波風立てるような人はいないから。
「恵子、足元気をつけてね」
「うん」
「あ、ベンチ空いてる。何か飲もう。買ってくるよ」
そう言って、お姉ちゃんは私をベンチに座らせると、すぐそこの自動販売機でオレンジジュースを買って戻って来てくれた。どうやら記憶を失う前の私はオレンジジュースが好きだったらしく、いつもお姉ちゃんはこれだよねと買ってくれる。それを毎回有り難く受け取っていた。
お姉ちゃんがお見舞いに来てくれる時はいつも私を外に連れ出してくれて、それが今の私の楽しみだった。心配性のお母さんはその事に良い顔をしなかったけれど、「内緒だよ?」と二人きりの時にこっそり連れ出してくれるお姉ちゃんの悪戯っ子な笑顔は眩しくて、その笑顔を見ると石のように重たい頭が少しだけ軽くなるような気さえする。
お姉ちゃんは、私にとって自由の象徴のような人だった。
「お日様が気持ち良いね」
「うん。気持ち良い」
「出れる時は外に出てお日様浴びないとね。人間には必要な事なんだから」
「うん。いつもありがとう」
のんびりとそう返すと、「別にお礼のタイミングじゃないでしょ」と、お姉ちゃんは笑った。でも私にとってはこのお散歩が、ぼんやりと何も難しい事を考えないでうん、うんと頷く時間が、人間として本当に必要なものだと感じていたから、お姉ちゃんには感謝しかなかった。
「あれからだいぶ経つけど恵子の頭痛、どう? 良くなってる?」
「うん。薬を変えてから痛くなってないんだ。だから大丈夫」
薬を変えてから……と、もう一つ。私にだけ見える彼女がいなくなってから、急に激しい頭痛に襲われたり、精神的に上下して体調が崩れてしまうような事が無くなっていた。
安定した精神はぼんやりと、ただその日の出来事を追って生きている。今はもう記憶が戻らない事も、脳みそが固められているような感覚の事も、それが私の通常の状態なのだと受け入れて特別何か思い悩む事も無かった。
無理に向き合っていく事は無い。周囲の優しさに包まれて、身を委ねるように生きている内に、それがこうして日常になっていくこともあるのだと知った。そう、あの頃の私は焦っていたのだ。今はもう、これで良いのだと受け入れた自分が心地良い。そしてそんな私を家族の皆も受け入れてくれる。
「そう……じゃあもうそろそろ退院かな」
そう言ってコーヒーを飲むお姉ちゃんの横顔を見つめると、「何?」と私を見てお姉ちゃんはにっこり笑う。
「あ……いや、なんでもないの」
誤魔化すように目を逸らした先には青空が広がっていた。雲一つない青空は晴れ晴れと私達を受け入れてくれているのに……何か、その澄み切った様子に不安を覚える。
“そろそろ退院かな”
その事実を目の前にして、この穏やかな毎日の終わりを感じたのかもしれない。けれどそこに何の問題があるというのか。順調だ、何もかも。何も邪魔するものの無い青空はまるで、私のこの先を示しているよう。それは何も間違っていない未来のはずなのに。
「何? 緊張してんの?」
笑顔のお姉ちゃんは私の頭を撫でると言った。
「退院の事、お母さんに相談したら良いよ」
「お母さんに?」
「そう。何事もお母さんにまず相談した方が良い。お母さんすぐ心配するし、それが一番間違い無いから」
「……そうだね」
それにうんと頷いて、ちらりと思う。
「お姉ちゃんでもそう思うんだ」
「そりゃあ、私が一番お母さんに怒られてるからね。恵子は良い子だから大丈夫」
そう言ったお姉ちゃんの笑顔はまるでお手本のように綺麗な笑顔だった。