「……お、かあさん」
「恵子! 良かった、良かった……!」

 憔悴した様子のお母さんを見て、あぁ、また私はやってしまったのかと思う。心配を掛けてしまった。安心させるのだと心に決めたばかりだったのに。
 何とか元気な様子を見せる為に身体を起こそうと試みたものの、動いた瞬間ズキリと酷く頭が痛み、頭のみならず身体の全てが重怠くなっている事に気がついて、頭でイメージした通りに起き上がる事が出来なかった。
 そんな私の様子を見て慌ててナースコールを押しながら、「起きなくて良いのよ」と身体を支えてくれるお母さんに、仕方なく身を任せる事にした。自分ではもうどうにもなりそうになかったからだ。なんだか言葉を口にするのも怠くて、眠さと重さの微睡の中にいる。
 ——でも。

「お、かあさん」
「何?」
「あのこ、は、だれ?」
「!」

 お母さんの背後に立つその子を見て見ぬ振りなんて出来なくて、何とかその問いを口にする。あの子がお母さんと同じタイミングで病室内に現れたのは初めての事だったから、もしかしたらと思ったのだ。もしかしたら、お母さんも彼女の事を知っているのかもしれない、と。
 するとお母さんは驚いた様子で私の視線を追うように振り返る。その目の前にはじっと私を見つめる彼女が佇んでいた。そしてそのまますぐにお母さんは私へと向き直ると、

「……誰もいないけれど、誰かいるの?」

 と、困惑した表情でそんな事を訊ねるので、なるほどなと、やっぱりかと納得した。やっぱり、彼女は私にしか見えないし、その声も私にしか聞こえないのだ。何故なら、

「大丈夫。ずっと側にいるからね」

 たった今そう私に告げた彼女の言葉が、お母さんには聞こえていなかったから。彼女はやっぱり人間ではない何かで、私はその何かが見えてしまう人だった。それが、私と彼女だったのだ。

「……なんでもない」

 では一体、彼女の言葉のどこまでが真実?
 ぼんやりと天井を見上げる私をお母さんが心配そうに覗き込むと言った。

「まだ混乱しているのかもしれないわ。無理をしないで大丈夫。側にいるからね」
「……側に……」

 しかしそこにあるのは、二つの頭。ベッドに横たわる私を覗き込む、二つの視線。

「いつから、側にいるの?」
「あなたの様子がおかしいと連絡があってからよ」
「あなたが記憶を無くす前から、ずっと私はあなたと一緒」

 二つの答えがぼんやりとする私の上に降ってくる。

「そう……これからも、側にいる?」
「もちろん。ずっと一緒よ、恵子」
「これから先、全てが終わるその時までね」

 ノック音と共に病室の扉が開かれる。また、私の診察が始まる。
 その間、二人は本当にずっと側にいた。痛む頭と怠い身体のせいで考える力がこれっぽっちもわかなくて、もう何が何だかわからない状態で寝ている事しか出来なかったけれど、先生が点滴の中身を取り替えてからある程度の時間が経つとようやく症状がおさまってきて、お母さんを安心させて家へ帰す事が出来た。
 ……しかし、まだ彼女はこの病室にいた。私の横で、じっと静かに、その点滴を恨めしい瞳で見つめていた。

「……このままじゃいけないね」

すると、急にそんな事をぽつりと呟く。

「これのせいかな」

 忌々しいものを見るような目で私の腕の先に吊り下がっている透明の袋を睨みつけた彼女は、苛立ちを隠さない。

「もっと本気出しなよ、良い子ぶってないでさ」
「…………」
「でもそうなるとあなたがもたないって事? こうして同じ事を繰り返すの? 私がいるのに?」
「…………」
「やるしかないんだよ、自分から進まないと。過去を取り戻さないと。じゃないと手遅れになる。それがわかったんじゃないの?」
「…………」

 頭の痛みはだいぶ落ち着いたけれど、ぼんやりとした脳はまだ目覚めないままだ。何かを考えようとすると頭の中に詰められた固い何かが邪魔をするように思考を遮ってくる。動かない。脳が、思考回路が、カチカチに固まって身動きが取れない。

「……負けちゃ駄目」

 私を冷たく見つめる彼女は言う。

「逃げちゃ駄目」
「…………」

 それは、一体何から?
 突き刺さるのだ、毎回彼女の全てが。私の中の嫌な部分に触れられているような気持ちになる。何もわからないのに、まるでわからないままでいる事は許さないとでも言うように、今彼女は寝た切りになった私を責めている。
 彼女はきっと全てを知っているのだろう。きっと彼女には彼女の目的があって、だから私の嫌な部分と向き合わせてくる。それが必要な事なのだろうと思うけど、でも、無理だ。今の私には出来ない。だって頭が働かない。記憶が戻る気配が無い。何も出来ない。こんな状態の私には何も……。
 けれど、そんな私に今彼女は苛立っている。彼女は私を責める。責め続ける。きっとずっとそう。彼女と向き合うと嫌な気持ちにしかならないのはきっとそのせい。彼女の言葉が、彼女の仕草が、彼女の存在が、私を追い詰める。きっとそれが、彼女の目的。
 もう、何も考えたくなかった。

「……帰って」
「……は?」
「帰って、今すぐに」

 顔も見たくない。消えて欲しい、今すぐここから。

「もう私に関わらないで!」

 私の中から飛び出した心の叫びが室内を満たした瞬間だった。それはまるで幻だったとでもいうように、パッと消え去った。あっけない程に一瞬にして、彼女は姿を消したのだ。
 今はもう、何も、誰もいない病室。ベッドに横たわる私、ただ一人きりの。

「はぁ、はぁ……」

 息が上がっていて、いつの間にか心臓が走り切った後のように大きく脈打っている。おさまらない鼓動を落ち着かせるように手の平で胸をおさえると、体温が上がった熱い身体の熱を知る。
 消えた——彼女は、消えた。私の叫びに消し飛ばされるように。
 それが良いことだったのかはわからない。ただ、彼女のあの冷たい瞳から、心が苛立つあのやり取りから逃れられたのだと思うと、ほっと一息ついてから泥のように眠りにつくのだった。