「こんにちは、恵子。体調はどう?」
「……こんにちは」

 それはお母さんが病室を出て行った少し後の事。急に現れたその子は、まるで先程までのやり取りを聞いていたようにお母さんの言葉の真似をする。それに不快感を示す私を見て、にやにやと楽しそうに笑っていた。それに更に嫌悪感を抱く。
 彼女が何を考えているのかがさっぱりわからなかった。昨日に引き続きまた現れた彼女はやっぱりどこか嫌な気配がして、私の中にある警戒心のような、拒否反応のようなものが身体の中で疼いているのがわかる。それが恐怖に繋がって、飲み込まれて、昨日は何も出来なかった。夜も眠れなくて、次はいつ来るつもりだろうと怯える心が頼りなくて——でも今は、昨日までの私とは少し違う。

「昨日もそうだけど、あなたはなんでここに来るの?」
「…………」
「私の何を知ってるの?」

 向き合わなければ、訊ねなければと心が一歩前に出た。何故なら今の私には目指す所が明確に見えているから。お母さんや家族達を安心させる為に、早く元の記憶を取り戻さないと。その為にはこの人間では無い何かと向き合う必要があるのだと理解したのだ。
 私が私の為に記憶を探していた時よりも、誰かの為にと思うと力が湧いてくるのを感じた。それは恵子という名前のおかげなのかもしれない。私が恵子という名前を持って、私という人間がここに居る意味を知ったからかもしれない。私が私である理由がある。それを願ってくれる人達がいる。それが何も無くなった私を私として立ち上がらせてくれた。
 今度は私の番だ。私が私を取り戻す為に頑張る番。

「あなたは一体、何者なの?」

 真意をつくその問いを意思を固めて口にした、その時だ。

「あははははははは!」

 突如響き渡った、あまりにも大きな彼女の笑い声。その場違いな反応に私は思わず息を呑む。

「はははは! ははっ、あははは! はー、おかしいっ」
「っ、」
「おかしいよ恵子、何漲っちゃってるのさ……本当にあなたって人は、純粋で単純で嫌になっちゃう」

 そして、ぴたりと笑いをおさめた彼女がすっと真顔になると、室内がしんと冷えた切ったような緊張に包まれた。
 彼女は一歩一歩、私の方へ歩み寄る。冷たいその瞳で私を見据え、そっと撫でるような声色で、諭すように私に言う。

「だから、恵子なんて名前つけられるんだよ。恵子にぴったりだって言われてそんなに嬉しかった? あなたに名前を与えたのが家族だとして、じゃああなたに恵みを与えたのは誰? あなたが恵みを与えるのは?」
「……それはもちろん、私を大切にしてくれる家族のみんな」
「大切にしてくれる家族のみんな! 何も覚えて無いのによく言えるね!」
「……でも、起きた時の対応からわかるよ。みんなすごく心配してくれて優しいし、私の無事な姿を見て泣いてくれた」
「泣いたら大切に思ってる事になるの? 私が一番あなたを心配してるし大切に思ってるのに」
「もうやめて。嫌な気持ちで一杯になる」

 イライラと苛立って仕方ない。彼女の言葉一つ一つが否定の意味合いを含んでいる事が伝わってきて、なるべく冷静に対応したいと思う気持ちはどんどん消え去っていった。彼女の口から発せられるそれらは正面からぶつかりにくるのではなく、粘着質に纏わりつくようでうざったくて仕方ない。

「結局何が言いたいの?」

 責めるように強く告げ、もう隠す気持ちもなく苛立ちをぶつけるように睨みつけた先、彼女は笑っていた。それは先程までの人を馬鹿にした笑い方では無く、どこか嬉しそうに見えるものだった。まるで私の気持ちが動く様を見る事が目的であったように、満足したからこそ次へ会話を進めるとでもいうように。彼女は、こんな事を訊ねる。

「あなたが今ここに居る理由を知ってる?」
「……事故に遭ったって家族が」
「じゃあ、その事故の原因は?」
「…………」

 ふふっと、どこか色気を含んだ微笑みを浮かべると、彼女は言った。

「自殺未遂」
「……え?」
「自殺未遂だよ」
「…………」

 ——どういう事?
 飛び出したその物騒な単語を耳にした瞬間、息が詰まって思考が止まる。
 “自殺未遂”
 今、そう言った?

「……誰が?」
「あなただよ」
「わ、私?」

 私が? 自殺未遂?

「そんな、あり得ない!」
「なんで?」
「だって私、そんな、そんな怖い事出来ないっ」
「でもしたからここに居るんだよ」
「嘘だよ、だって誰もそんな事言ってなかった! あんなに素敵な家族に囲まれて生きてきたのにそんな事、起こる訳ない!」
「素敵な家族、ねぇ……」

 そう呟くと、彼女は哀れむような瞳で私を見つめる。

「肝心のその記憶が、これっぽっちも無いのにね?」
「……そ、うだけど、」

 途端、ズキンと頭が撃ち抜かれたように痛み出す。まるでこれをきっかけにでもするように。
 痛い……頭が、痛い。
 けれど、彼女の話は終わらない。

「記憶がないのに何でそう言い切れるんだろう。誰の事も思い出せないんだよね? それはなんで? なんで踏み込んだ話を誰もしないの?」
「…………」
「家族のみんなはなんで秘密にしてるんだろう。なんであなたが自殺未遂で病院に運ばれた事を隠してるの?」
「……やめて」
「自殺しようとするまでに追い詰められているあなたに気づいていたけれど、私達は止められませんでしたって? でもその原因は、」
「やめて!」

 口から静止をかける大声が飛び出した。両手で頭を押さえ込み、今はもう何も考えられない。ガンガンと内側からハンマーで殴られているような激しい痛みが頭の中に響き渡って、今すぐこの話題を打ち切りたくて仕方ない。
 もういい、もうやめて。そんな話聞きたくないっ!
 自棄を起こすように頭を掻きむしって首を振る。するとそんな私の肩に、そっと手が添えられた重みを感じた。

「……可哀想な子」

 そして、耳元で哀愁を漂わせる声色と共に聞こえてきたのは、その言葉。

「何も知らない、不憫なあなた」

 ガンガンと、頭の中で何かが暴れているようだった。痛い。眩暈がする。痛い、うるさい。

「大丈夫。私が元に戻してあげるからね」

 優しく響くその声は私の頭痛を煽るようで、あまりの痛みに涙が出る。ぼんやりと、世界が遠くなっていく。
 そしてそのまま私は意識を手放したらしい。次に目を覚ました時、私の側には涙目のお母さんの姿があった。