「こんにちは、恵子。体調はどうかしら」
「うん、特に変わりないよ。元気」
「そう。でもなんだか少し疲れてるように見えるけれど……」
「え? そ、そうかな」

 今日もお見舞いに来てくれたお母さんがじっと私を観察するように見つめて言うので、ギクリとした。正しくお母さんの言う通り、私は疲れていた。何故ならそれはもちろん、昨日の女の子のせいだ。
 彼女とのやり取りがずっと頭の中をぐるぐると巡っていて落ち着かない。目が覚めてから初めて感じた恐怖の感覚。彼女が人間では無いというあり得ない推測の現実味。何も覚えていない過去の自分を知っているかもしれない彼女への期待と不安……そんなものがぐるぐるとしたままたった一人の病室でぐっすりと眠る事は不可能に近かった。
 一目私を見て、一言言葉を交わしただけでそれがわかるなんて、さすがお母さんだ。
 ……だけど。

「別に、ちょっとだけ寝れなかっただけだよ」

 人間ではない女の子と話をしたなんて、それで怖くなって眠れなかったなんて、そんな事をお母さんに説明するつもりは無かった。ただでさえ記憶が戻らなくて迷惑を掛けている身だ。その上疲れてる理由が怖い事があったから寝れなかっただけなんて、小さな女の子ならともかく二十歳を迎えたらしい女が言い出したらもうおしまいだろう。記憶が無くてもそのくらいの分別はつけられる人間で良かったと思う。

「そう……眠れなかったのね」

 すると、私の言葉を受け取ったお母さんは、そう言って私の事をじっと見つめる。それはまるで真実を探る探偵のような眼差しで、嘘をついた訳では無いのに何故か後ろめたく感じてしまい、そっと目を背けた。きっと何かを誤魔化そうとしている節は伝わっているのだと思う。

「……そうよね。昨日は突然ぞろぞろと知らない人間が押しかけたんだもの。まだ家族と会うのは待った方が良かったかもしれないわね、ごめんなさい」

 そして、お母さんは眉尻を下げて申し訳なさそうにすると、私を気遣う謝罪の言葉を口にした。……どうやら私の何かを誤魔化そうとする気配に気づいたけれど、それを家族を連れてきた事で疲れてしまったと言い出せないせいだと捉え、母への気遣いからの言葉だと受け取ったらしい。

「もうあんな大人数で来るのはやめるよう言うわ。本当にごめんなさい」
「い、いいの。来てもらって楽しかったし、私の家族の事が知れて嬉しかったから。またいつでも来て欲しい」
「……優しいのね。あなたは目覚める前から、ずっと優しい子」

 慈しむ眼差しを私に向けるお母さんが、私の頬を優しく撫でる。

「その優しさに皆救われてるのよ。あなたは覚えていないけれど、皆が覚えてる」
「そ、そうかな」
「そうよ。正に恵子の名前にぴったり」
「恵子……恵みの子?」
「そう。恵みを受けて生まれてきて、その恵みを人々に与えられる子。あなたにぴったり」
「……それが、私の名前の由来」

 恵子。恵みの子。恵みを受けて生まれてきて、その恵みを人々に与えられる子。
 記憶を失って目が覚めたその日、初めて聞かされたのはその名前だった。しかし頭の中のどこにもその名前が引っかかる気配は無くて、ピンと来る何か第六感のようなものも無い、ただ私を表すだけの単語だったそれ。
 それが今、形を変える。私の名前として与えられた、心と願いがこめられたそれを、私にぴったりなのだとお母さんが喜んでいる。そうなって欲しいと、そうありますようにと願いを受けて、私はこの世に生まれて来たのだ。大事なお母さんの、家族の元に。

「……じゃあ今の私はお母さんに、家族に恵まれてるから、早く退院して恩返しをしないとね」

 それが恵子という素敵な名前をもらってここまで育ててもらってきた、私が出来る事なのだと知った。知る事が出来た事が、とても嬉しい。私は一体今まで、どれだけの愛情をもらって生きて来たのだろう。私はそれをこれからどれだけ返すことが出来るだろう。

「私、早く思い出せるように頑張るね。早く、本当の私になれるように」
「……良いのよ。あなたはあなたなんだから」

 ぎゅっと涙を堪えるように微笑むお母さんが私の言葉に喜んでいるのを感じた。お母さん、お母さん。私のお母さん。早く安心させてあげたい。それが今の私の目指す所だと、今まで何も見えていなかった目の前の景色が一気にひらけた瞬間だった。
 ——だから、もう怖くない。