「じゃあ、今日はこれで帰るわね」
「うん。みんな来てくれてありがとう」

「また来るからね」、「ゆっくりするんだぞ」と、皆が手を振りながら名残惜しそうに病室を出ていくので、私はそれを笑顔で見送った。そしてパタンと扉が閉まった瞬間、いつもと違う感覚に心が包まれる。

「……寂しいな」

 お母さんが帰ってしまった後も毎回寂しさを感じてはいたけれど、それともまた違う。大人数からの一人きりになった病室は、記憶が無い不安よりも、ここに居るのがひとりぼっちの自分だという虚しさの方が心の中を占めていた。

「早く退院したいな……」

 そうしたら、あの素敵な家族と一緒の家に帰れるのに。
 窓の外へ目をやると、笑顔で両親と手を繋ぎ、横断歩道を渡っていく小さな女の子が目に入った。幸せそうだった。きっと私にもあの経験があるはずなのに、今頭の中のどこにもそれは見当たらない。
 だけど、きっとあの人達の側にいられたら、記憶がなくても不安なんて感じない程の暖かな幸せに包まれるのだろう。確証は無いけれど、今はそう思えるようになっていた。だってあんなに穏やかで暖かな彼らが私の家族なのだから。

「……私だけひとりぼっちは、嫌だな」
「あなたが望んだ事なのに?」
「!」

 すると突如、聞こえてきたその声に咄嗟に振り返る。先程家族が出て行ったこの病室内には誰もいないはずだった。ノックされた音も、ドアが開いた音も聞いた覚えがない。けれどそこに、一人の女の子が立っていた。
 制服を着た彼女は高校生くらいの年齢に見える。あ、と思った。彼女に見覚えがあったからだ。

「あなた、さっき始めだけいたよね? 途中でいなくなっちゃったけど」

 彼女を見たのは家族が病室に入って来た時の事。ぞろぞろと入ってくる一番後ろに彼女がいて、制服姿だったからすぐに目に入ったのを覚えている。しかしその後、おばあちゃんとのやり取りをする内に意識が他へ向くと、気がついた時には病室内に彼女の姿は無くなっていたのだ。

「えっと、みんな帰っちゃったけど……大丈夫?」
「…………」
「あ、私にだけ何か話があったのかな」
「…………」

 彼女は、何も話さない。じっと彼女と向き合うこの時間が、なんだか嫌に心臓をドクドクさせた。
 何か意図があってここにいるはずだ。だって私に声を掛けてきたのは彼女の方だ。けれど彼女は私の問いに何も返してこない……なんで?
 そういえば先程彼女は何て言っていただろう。確か、『あなたが望んだ事なのに?』だっただろうか。今、その答えを待っているという事? だから話さないの? だとしたらあなたっていうのは私の事だよね?

「……えっと、私が何を望んだのかな」
「…………」
「ご、ごめんね。私、記憶が無くなってて。自分の事すら思い出せないんだ」
「…………」

 こちらを見もしない彼女からの責められるような沈黙が続く。一体彼女が何を求めているのかがわからない。彼女のセミロングの黒い髪が、俯き加減の彼女の表情を隠してしまっていて何を考えているのか私には読めなかった。
 ——が、その時。

「あなたは、自分の事が知りたい?」
「!」

 彼女が、口を開いた。

「もしかしたら、覚えてない方があなたの為かもしれないけど」
「……それは、どういう意味?」

 突然のその言葉に、置いていかれるようについてこない思考の中でそう答えると、彼女はゆっくりと私の方へと歩み寄り、そっと私の手を取った。

「あなたの名前は?」
「え?」
「名前は?」
「…………」

 名前。私の名前は、

「……恵子」
「…………」

 目の前の彼女がゆっくりと、顔を上げる。

「そう。待ってたよ、恵子」

 にこりと微笑む彼女と初めて目が合った。彼女が口にしたのは、家族から貰ったものと同じ言葉。——けれど、それを口にする彼女の瞳は他の家族のものとは全く違った。
 まるで氷のように鋭く冷ややかな視線。それが今、私に突きつけるように向けられている。

「一緒にやり直そうね」

 その声に私はひやりと心臓を撫でられた心地がして、ぞっと背中を悪寒が駆け上る。嬉しそうにぎゅっと私の手を握る彼女の手はとても冷たかった。まるで支配されたように私の身体はぴくりとも動かない。
 動かそうと思う事すら出来なくて、次第にカタカタと身体が震え出す。それは深い谷底を覗き込むような、崖のふちに立たされているような感覚だった。
 彼女は、そんな私を見て笑っていた。

「じゃあ、また来るね」

 満足気に彼女が病室を出て行くその姿を、私は黙って見つめる事しか出来なかった。言葉なんてものは一言も出てこなくて、今の私の頭は混乱の最中にいる。動きの悪い脳みそでは咄嗟に取るべき対応が出来ない。ただ、身体を震わせる事しか出来ない。
 ——怖い。
 それが、今残るあの子に対して抱いた感情。彼女の凍るように冷たい瞳に見つめられた瞬間、疑問や違和感、好奇心に困惑、そういったそれまでの感情全てを押さえつけて、恐怖一色に塗り替えられたのだ。
 怖い、怖い。なんて目で私を見るのだろう。
 私には記憶が無い。目が覚めてから出会った人間も数える程しかいない。それでも、あれは普通の人間がする目で無い事はわかった。
 ……人間じゃない?
 その答えが脳裏に浮かんだ瞬間、ぞくりと思い出したように背筋が冷える。そうだとしたら彼女の人肌にはあり得ない冷たさも、この理不尽に取り込まれた恐怖の理由も納得がいった。そうか、だから先程家族の皆から彼女に対しての言及が無かったのだ。そこまでようやく理解がいって、ふと気がつく。

「……あの子は、何かを知ってる」

 まるで勿体ぶるような物言いで、私の事を口にしていた。私が望んだ事なのに、と。覚えてない方が私の為かもしれない、と。

『また来るね』

 それは明日か、明後日か——。