ずっとずっと、辛かった。
 でも、誰も私の辛さに寄り添ってくれる人はいなかった。だって私は恵子だから。恵子である私にとって辛さは耐え抜くべきもので、人々の代わりに耐え抜く事こそ恵子の役目であるとされてきたから。

 私という人間には、生まれた瞬間から恵子という在り方以外の道は用意されてなどいなかった。
 次の恵子にする為に生まれてきたのだから当たり前の事で、そこから逃げ出す事は出来なかった。命を落とす覚悟を持ってなお、逃れられない事を知り、死ぬ事すら許されなかった。次の恵子を用意するまで私はたった一人の恵子であるからだ。

 だから、私を恵子とする全てを壊そうと思った。壊して全てを取り戻そうと思った。
 それなのに、取り戻すべきものなど私には無くて、感情のまま壊してしまった先に、恵子と共に背負っていた責任の分だけ人々の命を脅かす事になると知らされた。知ってしまえば行動に移す事は出来なくなり、私には恵子として生きる他に道は無くなった。

 けれどその道でさえ、次の恵子という被害者を生む未来が待っている……負の連鎖の上に、私は立っていた。きっとずっと、おばあちゃんも、お母さんもそうだったのだろう。

 恵子を受け入れる事は苦しみを背負って立つ事で、けれどその苦しみを生み出す責任者は私という、正に地獄へ足を踏み入れた状態で生きる事が約束されていた。逃げる事は出来ない。続ける事も出来ない。でも、やめる事も出来ない。八方塞がりだった。

 ——けれど、ようやく目が覚めた。

“だってあなたは教祖様なんだから”

 お姉ちゃんの言葉の意味がやっと理解出来た。
 私はこの宗教の教祖である。信者は皆、私の元に救いを求めてやってくる。私が神の恵みを与える者だと信じているからだ。そして、本当に救われたのだと心を軽くして帰っていく。そこにいたのは神では無く、ただの私だったなのに。

 つまり、信じる神は心の中にいるかもしれないけれど、この場所には存在しないという事。そんなものは初めから現実に存在していないのだ。恵子も、お恵様も、その祝福とやらも全て。
 あるのだとしたら——そう。そこにあったのは、私とあなたの剥き出しの心。辛さ、苦しさ、悲しさ、やるせなさ……そんな簡単には人に見せられない心の奥底にある不安の塊を、私達は見せ合って、ひとりぼっちの心を支え合っていた。

 きっと記憶を失わなければわからなかった。全てを無くした迷子の私を受け入れてもらった事。あの経験が無かったらきっと、こんな風には思えなかった。こんな答えには辿り着けなかった。


「あのさ」

 家族全員で食卓を囲む中、突然の私の声掛けに皆箸を置いた。「何?」と、お母さんが答え、全員の視線が私に集まる。

「私、ずっとみんなを振り回してきたよね。家族の事も、お客様の事も。でももう終わりにしようと思う」
「……どういう意味?」

 訝しげにお母さんが私に問う。家族もどこか不安気に私を見ていた。でも大丈夫なのだと、私は頷き返した。

「私、生まれ変わるよ。心を決めたの。私がこの場所の責任者である自覚を持って、皆を引っ張っていく存在になろうと思う。だからお客様にも安心して貰えるようにお話しがしたいから、集会を開いて欲しい」
「……なんでわざわざ開く必要があるのかしら」

 お母さんは警戒している。無理も無い。これまでの私のしてきた事を考えれば当然の反応だった。けれど、これは絶対に必要な事だ。ここで引く訳にはいかない。

「最近お客様の中で私について納得がいっていない方がいるらしいね」
「…………」
「色々心が不安定だったせいでお休みもしちゃったし、迷惑ばかりかけてしまったもんね。でももう大丈夫だって伝えたいの。一人一人だと伝わるのに時間が掛かるから、全体に伝わる集会を開いて、その時ライブ配信でもしたらどうかなと思うんだけど……お兄ちゃん、出来るよね?」
「あ、あぁ。出来るよ」
「そしたらお姉ちゃんは会場の手配出来る?」
「いいよー」
「お母さんは開催の連絡をして欲しいの。お願い出来るかな」
「…………」

 お母さんがじっと私を見つめている。信じられない、何を企んでいるのかと——でも。

「お母さん」

 私は、その視線を受け止めて、お母さんの手を取った。

「お母さんも、今まで大変だったんだよね。ごめんね、私がグズグズしてきたばっかりに。お母さんもずっとずっと、小さな頃から頑張ってきたんだよね」
「…………」

 お母さんの瞳が揺れる。そこにはきっと小さな身体で辛さも苦しみも抱き締めてきた女の子がいるのだろうと思った。きっとそう。ずっとずっと、何人もの恵子がそうしてきたのだ。私にはわかる。

「でも、もう大丈夫。私がいる。私が全部背負っていくから。家族も、お客様も、これからの未来も、全部私に任せて欲しい」
「…………」
「安心して欲しいの。もう大丈夫だから。この先どうなっても私は皆を見捨てないよ。ずっと味方だから。だってそれが家族でしょう?」
「……そう、ね」

 うんと一つ、お母さんは頷いて、

「わかったわ、恵子」

 そう言って、涙を拭いた。それを聞いたおばあちゃんが同じように頷きながら涙を流して、家族会議の元、集会の開催は決定したのだった。