「恵子さん」

 なんだかもうわからなかった。私は何がしたいんだっけ。何をするべきなんだっけ。

「恵子さん」

 そう、恵子でないとならない。でも、それが結局何になるの? だって救われたいのはあなたじゃないで私。私はいつ救われるんだろう。私は……でも、救われてた。記憶がない頃の私は、確かにこの部屋で救われていた。私達は同じここにしか居場所のない存在だった。

「恵子さん」

 ……そう。私には責任がある。生まれてしまった責任が。この宗教の人々を守らないと。悪い人達ばかりでは無いのだ。皆優しかった。ここで私は息をしていた。記憶が無い私はここで一緒に生きていた。

「恵子さん、大丈夫ですか?」

 ハッと我に返って目の前のお客様に目をやる。見覚えのある女の子だった。
 あ、この子は……。

「……三回目ですか?」
「! そうです三回目です! 前回は高校卒業出来そうだってお礼をしに来て……え〜、覚えていてくれたなんて嬉しいです……!」
「……私の話も聞いてもらいましたから。お元気そうで何よりです」

 確か、以前私が過去の私について初めて訊ねたのが彼女だった。嬉しそうに私を語る彼女は印象的で、純粋な笑顔が眩しかったのを覚えている。

「恵子さん……またお悩み事がありますか?」
「はい?」
「でも前回ともちょっと違うな……疲れて見えます、とても……。なんというか、制服の頃の恵子さんみたい」
「…………」
「あっ、でも私まだ三回目だからわかっていないのかもしれませんよね。失礼な事を言ってしまっていたらごめんなさい……でも恵子さん、顔色が……心配です」

 “心配です”純粋にその感情だけでその一言が私に向けられたのは、随分と久し振りの事のように感じた。信者の言葉だ。ただ恵子がいなくなったら困るから、という意味合いを含んだ“心配です”は何度も聞かされてきた。けれど彼女の言葉は……なんだろう。本当に私の身を案じてくれているような、そう受け取れる空気感が彼女にはあった。
 純粋なのだ。彼女の醸し出す全てが。
 
「……ありがとうございます」

 ——でも、そんな彼女も信者の一人だ。

「これも私の仕事なので、平気です」 

 この受け答えで間違い無い。こう言わないとならない。そして彼女は納得するだろう、そう思っていた。
 けれど、彼女は違った。

「……それが、私達の辛さを引き受ける、という事ですか?」

 彼女は衝撃を受けたような表情をしていた。驚いたというよりはまるで、傷ついた時のような。

「私……私、全然わかってなかったんですね、恵子さんの事」
「……何がです?」

 何を言われるだろうと身構える。さっぱり想像つかなかったからだ。気づけば真っ直ぐに私を見つめる彼女と目が合っている。彼女は、ゆっくりと口を開いた。

「私、恵子さんが私達の辛さを引き受けてくれているから私達は笑顔で生きていけるんだって聞いて、それを信じてて、実際に恵子さんにお話を聞いてもらって心が軽くなったし、良い方向へ進めたし……でも、だから不思議に思ったんです。私の辛さを引き受けた後、恵子さんはその辛さをどうするんだろうって」
「…………」
「お恵様の祝福のおかげで恵子さんは大丈夫なんだって他の人は言っていました。でも、お恵様は神様だけど、恵子さんは人間じゃないですか」
「……え?」

 今、何て言った?
 当然の事のように彼女が口にしたその事実は、私の中にある常識を覆す言葉だった。けれど彼女はまだそれに気づいていない。

「いくら神の子だとしても、引き受けるものが多ければ当然倒れてしまいますよね。人間なんだから当たり前です。でも私は気づけなかった……こんなに恵子さんに助けて貰ったのに、私達の幸せの分、恵子さんが辛さを背負ってこんなにぼろぼろになるなんて……」
「…………」
「私、恵子さんを支えられる人間になりたい。恵子さん、言って下さい。皆の分は無理だとしても、あなたの辛さは私が背負いたい」
「…………」

 あまりの衝撃に言葉も出ない私の反応を見て、ハッと我に返った彼女はあたふたとして、「さ、差し出がましい事を言いました、すみません……」と頭を下げた。私は、その姿をじっと見つめていた。
 そして、言葉が音になって口からこぼれ落ちた。

「……私は、人間ですか?」

“お恵様は神様だけど、恵子さんは人間じゃないですか”
“いくら神の子だとしても、引き受けるものが多ければ当然倒れてしまいますよね。人間なんだから当たり前です”

「あなたの目から見た私は、人間ですか?」

 私の問いに、彼女は驚いた顔をしたけれど、真っ直ぐに私を見つめて頷いた。

「はい、人間です。私を助けてくれた人です」
「……っ、」

 その瞬間、目から涙がこぼれ落ちた。
 
「! け、恵子さん? ごめんなさい、大丈夫ですか? わ、私失礼な事を……!」
「大丈夫です。……嬉しくて」
「嬉しい?」
「はい。嬉しくて……私も、私もここで、私として皆さんとお話ししていたから……」

 そう。私は恵子だけど、恵子じゃない。私は私だった、ずっとずっと。恵子の役をして、ここにいたのは私という人間。

「ここには……いつも、私とあなたがいました。恵子という名札をつけた私と、名前を伏せたあなたの、二人の場所です。ここではずっと、私は私だった」
「? そうですね」
「そうだ、記憶を無くして恵子として仕事をしていた時が、一番私が私らしく生きていた瞬間だったんだ。だから私は救われた。同じ人間だったから私達はここで、ひとりぼっちの寂しさを埋め合い、支え合い、辛さを分け合っていた」
「……恵子さん?」

 どうしたんだろう、という表情で彼女が首を傾げる。純粋な彼女。きっとまだ三回目の面会で、この宗教に染まり切っていないのだと思う。そんな彼女のおかげで今、私の世界に光が差した。思いがあふれてやまなくて、喜びから思わずその彼女の手を取る。

「ありがとう。おかげで答えが見つかりました。感謝してもしきれません」
「え⁈ いやそれはこちらの方です」
「いえっ、あなたが私を認めてくれたから。あなたは命の恩人です!」
「えぇ⁈」

 訳がわからないと、目をチカチカさせている彼女の手を両手でぎゅっと握った。あ、これよくお母さんとおばあちゃんがやるやつだ、と、ふと頭の隅で思う。二人もこんな気持ちで私の手を握っていたのだろうか。

「……もし、もしもお互い名前が変わっても、あなたとお話しした今までの時間は何も変わりません。だってそれは全て私だったのだから。そしてこれからも、私は私です」
「……はい」
「私が、あなた達を導きます」

 それは、宣誓の言葉。私に向けて。あなたに向けて。これからの進むべき未来に向けて。
 埋もれて見えなくなっていた一本の道が切り開かれた瞬間だった。