「恵子、復帰したんだ」

 お姉ちゃんに声を掛けられて、それに笑顔を作ってみせる。

「もう良いの?」
「何が?」
「ここを引き継ぐ覚悟」
「……もう、それしかないから」

 地下室から私が戻ると、私の記憶が戻った事を家族は皆知っていた。知った上でまた、今まで通りの生活に皆戻っていた。お兄ちゃんも、無事に家で顔を合わせる事が出来てほっとしている。全てが元に戻り、いつも通りの毎日がまた始まった。
 平和な日々だった。私さえ納得して受け入れれば、何も問題の無い毎日がここに生まれる。実際は歪な繋がりを持つ家族だとしても。

「恵子が戻って来て良かった」

 お姉ちゃんの言葉にまた笑顔を返して、一人の部屋に戻る。祭壇の部屋とは違い、そこは私の為の居場所だった。恵子である限りここは私の部屋だ。あんな場所、もう二度と戻りたくない。

 ——逃げただけでしょ?

「!」

 声がした気がして振り返ったけれど、そこには誰もいなかった。私は、逃げた訳じゃない。私という存在と向き合ったからこそ恵子である自分を受け入れられたと思っている。だってこれしか道は無いのだから、仕方ない。
 お姉ちゃんの言葉の意味を考えれば、余計に受け入れる事が正しくて、それを私の人生にしてしまえば何も問題が無いのだという事がよくわかった。そう、何も——だって私は何者でも無い。
 私は私という人間ではない。恵子を存在させる為に産み落とされた器、ただそれだけだから。このままこの宗教を続ける事になるといずれ新しい恵子を生む事になってしまうけれど、私がここに恵子として存在し続ける限り、その役目を次の恵子に引き継ぐ必要が無い間は平和でいられる。私は恵子だ。私が恵子である内は問題無い。
 ——それなのに。

「恵子さん」

 お客様にそう呼ばれる度に、心をぎゅっと絞れられるような苦しみを感じた。記憶が戻ってしまったせいだ。その名前を聞く度に、拒否感と嫌悪感が心に生まれ、途端に吐き気に悩まされる。

「恵子さん、聞いてます?」

 そのうちに頭の中に閉じ込められたように自分を責める言葉とこの先の不安の事しか考えられなくなって、ギシギシと、あの音が聞こえてくる。あの私はきっと、今もあの縄に吊るされているのだろう。

「恵子さん? 恵子さん」

 もうやめて。頭の中で色んなものが混ざり合ってどの処理も追いつかない。これ以上話しかけないで。私は恵子として上手くやってる。大丈夫。私が恵子だから、考え事を増やさないで。お願いだから。

「はぁ……お疲れなんですね。昔のあなたもそうでした。仕方のない事ですが……残念です」
「…………」
「私達の為に辛さに耐え抜くそのお姿はご立派ですが、目の前の私達の事も忘れないで下さい。あなたに会う為に皆、尽くしているものがあるのです」
「…………」
「すみません、我儘を言いました。ですが、これも恵子さんの為です。これからの未来の為です」
「…………」
「先代はご立派でしたよ」

 刺々しい言葉の全てを、黙って受け止めた。多分、私が地下室にいた間に業務が止まっていた為、ご迷惑をお掛けしてしまった分の苛立ちの上に私のこの態度で不満が爆発してしまったのだろうと思う。わかってる。頭ではわかっているけれど。

「では、私は恵子としての務めが果たせない出来損ないだとおっしゃるんですね」

 私の言葉に、目の前の彼女が凍りついた。

「いっ、いえ、決してあなた様を否定している訳ではっ、」
「はは、それで正解です。よくわかってらっしゃる。よく、よーくあなたは私の事が見えている」
「っ……」
「あなたの目には、私が恵子として映っていないのですね」

 当たり前だ、私はあなたの思う恵子じゃないのだから。理想の恵子なんてものは概念なのだから、その人の心の中にしか存在しないものだ。目の前に存在する事の方がおかしいって、なんでここまでわかっててこの人はわからないんだろう。
 馬鹿ばっかり。その理由は簡単、全員自分の事しか考えて無いから。自分が救われる事しか考えて無いから。家族も、この人も、私も、ここにはそんな人しか存在しない。
 ……あぁ、違う。駄目だ駄目だ。

「ごめんなさい。これからも頑張ります」
「いえ……いえ」

 もう情緒がおかしくなっている。これじゃあ八つ当たりだ、このままではいけない。私は恵子でないとならない。だって、私にもこの人達にもここにしか居場所が無いのだから。私なんて……人でもないのに。

「私は恵子、恵子なんだ。恵子……恵子」

 上手くやらないと。じゃないとまた、地下室に連れてかれる。

「恵子なので……あなたの話を聞きます。何かお話が?」
「……っ、」
「お悩みを聞かせて下さい。それとも私の話をしましょうか。私はあなた方の為にあるのですから」
「い、いえ、いいのです。十分です。少し早いですがお暇させていただきます」
「そうですか……お気をつけて」

 お客様は出て行って、気持ち悪かった胸のむかつきもおさまった。疲れた脳がオーバーヒートしたみたいに怠くて重い。ぼんやりと水中を漂っているような気怠さに身を預ける。
 恵子を受け入れる決心をしたはずなのに。もうやるしかないとわかっているのに、上手く出来ない。これが心がついていかないという状況か……頭でわかっていても、身体の不調に引っ張られるように心のアクセルとブレーキが上手く効かない。急発進と急停止を繰り返している。
 ……けれど、その不調を家族にバレてはいけなかった。そんな事になったらまた地下に閉じ込められて、今度こそ私は縄に吊るされる事になる。
 私は恵子だ。恵子でないといけない。その為にはなんとかこのストレスを解消してやり過ごさないと——そんな時だった。

「恵子。またお散歩行かない?」

 その提案は、お姉ちゃんから差し伸べられた救いの手のように見えて、私はすぐに承諾した。またお母さんからの指示かもしれない。何か思惑があるのかも。だってこの間のお客様への対応は上手くいかなかったし……色々思う事はあったけれど、前回の時に感じたあの清々しい開放感が私を変えてくれないかと、藁にもすがる思いだった。