ギシギシ、ギシギシと縄の音が耳に響く。ずっとずっと、私を責めるように。
「——もうやめて!」
それにもう耐えられなくて、全て吐き出すように彼女に怒鳴りつけた。けれど、彼女は何の反応も見せずに私を見つめてぶら下がったまま。
この部屋に入ってからずっとそうだった。ずっとずっと、この部屋ではそこにいなければならないみたいに。それが現実だと言わんばかりに。忘れるなと、あの日の後悔と恵子への憎しみを詰め込んだその瞳がずっと私に訴えている。考えろと。行動しろと。——でも。
「何か言いなよ! なんで何も言ってくれないの? そんな所にぶら下がってて楽しい?」
ずっと自分のそんな姿を見せられて、ずっとそんな音をたてられて、平気でいられる訳が無かった。今すぐやめて欲しいし、出来ないなら消えて欲しい。薬の影響は無いはずなのに、どうして話してくれないの? どうして一緒に悩んでくれないの? どうしてそこから私を見るの、どうして私の側に来てくれないの!
「助けてよ! どうしたら良いのか教えてよ! 私の為にいるんでしょ⁉︎」
「…………」
「ねぇってば! もうあなたしかいないの!」
「…………」
きっと頭がおかしくなって幻覚を見ているのだろうと思う。ずっとずっと。病院で目が覚めた日からずっと私は頭がおかしいのだ。それはそうだ。薬で脳の機能をいじられて平気でいられる訳が無い。でも私はもう、その私に縋るしかない。
私にはもう、私しかいない。
「……て」
「え?」
「……して」
その時。掠れた声が聞こえて来た。彼女のものだ。聞き逃さないよう全神経を彼女の口元に集中させる。すると、
「壊して」
彼女の言葉が、はっきりと聞こえた。
全てを壊す。それはずっと変わらない、あの日の私が残した未練で、次の私へ引き継ぎたい意思だった。
「……壊したいよ」
壊したい。全部全部。全部壊して死ぬ前のひと時でも私を取り戻したい。そう、思っていたけれど。
「でも、取り戻す私がいないんだよ。私はどこにもいないの」
「…………」
「感情で壊した先で、結局何が手に入るの?」
「……じゃあ恵子になるの?」
突然、カッと目を見開いた彼女が見せたのは、鬼のような形相。
「恵子になるなんて許さない……恵子になるなんて許さない!」
「わかってる。わかってるけど、」
「恵子になるなんて許さない! 恵子になるなんてっ、」
「わかってるからやめて、お願い!」
「…………」
私の声にぴたりとその言葉を止めた後、彼女は壊れたようにボソボソと呟く。
「恵子になるなんて許さない……」
その呟きは止まる事なく、縄の軋む音と共にこの部屋に響き続くのだった。
+
「恵子、もう一週間よ」
扉が開く音と共に、久しぶりにお母さんの声を聞いた気がした。丸一日、昨日は一度もお母さんが部屋に来なかったからだ。
「……なんで昨日は来てくれなかったの?」
「心を決めるのに邪魔になったらいけないと思ったのよ」
「…………」
もう、精神的にも肉体的にも擦り減り続けて、私は限界を迎えていた。私にとどめを刺したのは過去の私だ。あれからずっと、今もずっと、彼女は呪詛でも唱えるようにあの言葉を口にし続けている。
「……で、決まったの?」
「…………」
「これ以上お客様をお待たせ出来ないわ。これが最後のチャンスよ」
「! ……」
これが、最後のチャンス。
恵子として生きるか、今すぐここで首を吊るか——私は、とにかくここを出たい。ここを出る為には、私はっ、
「恵子になるなんて許さない」
「わかってるよ!」
突然叫んだ私に対して、お母さんが驚いた顔をしていた。けれど関係ない。ここを出るには彼女に認めさせないといけない。
「じゃあ死ぬの?」
「死なないよ! あなたがそこにぶら下がってるおかげでね!」
「じゃあ壊すの?」
「……わからない」
「壊しなよ」
「今は出来ない」
「やってよ!」
「駄目なんだって!」
彼女は怒っていた。私がここを出る為に恵子を受け入れようとしている事がわかっているからだ。これは私自身の心の葛藤の表れだった。
「何が正解なのかわからない。でも、もうここにはいられない。わかるでしょう? 決めないと!」
「逃げたいだけでしょ、そんなのまた同じ事を繰り返すだけ!」
「違う! だって私にはこれしかない! あなたは知らなかったけど、今の私はわかってる! 私には、恵子としての私しかいないんだよ!」
恵子を捨ててこの場所を壊す事で私は私を取り戻せると信じていたのに。取り戻せる私なんてものは始めから存在しない事を知り、それはただこの場所で生まれた被害者を増やし、責任から目を背ける事だと言われた。でも、このまま同じ事を続けていく先には、私と同じ人間を作る事、私がお母さんになる未来しかない。
どちらも間違いで、何が正解なのかわからない。ただ、この地下室で悩み続ける事はもう出来ない。最後の選択の時が来てしまった。
……限界だ。身も心も。一度、流れに身を委ねたい。もう一度外の世界を見よう。過去の私にとって一番受け入れられない事なのはわかっているけれど、今はそれが最善の選択なはずだ。
「……なんで、なんでそんな事を言うの……」
まるで置き去りにされた子どものような瞳で、彼女は私を見つめていた。でも、今ここで私の心は決まったのだ。
「だって、生まれた時から私の人生なんて存在しなかったんだから。この家に生まれて、早苗と名付けられた瞬間から、全ては決められていたんだよ。そうだよね? お母さん」
「……そうよ、その通りだわ」
「だから受け入れるしかないんだよ。これからを考える為に受け入れる。でも、あなたを置き去りになんてしない」
「…………」
「あなたは、過去の私。全てを受け入れるから、だから、もう許して」
「…………」
私の言葉に絶望したような表情を見せた彼女は、次の言葉を飲み込むようにして、口を閉ざした。そしてそのまま、彼女が口を開く事は無かった。
「……恵子?」
お母さんが心配そうに私の顔を覗き込む。
「……決まったのね」
「うん」
私はそのお母さんと真っ直ぐに向き合った。
「私、恵子である自分を受け入れる」
お母さんは嬉しそうに笑うと、私をぎゅっと抱きしめた。
「——もうやめて!」
それにもう耐えられなくて、全て吐き出すように彼女に怒鳴りつけた。けれど、彼女は何の反応も見せずに私を見つめてぶら下がったまま。
この部屋に入ってからずっとそうだった。ずっとずっと、この部屋ではそこにいなければならないみたいに。それが現実だと言わんばかりに。忘れるなと、あの日の後悔と恵子への憎しみを詰め込んだその瞳がずっと私に訴えている。考えろと。行動しろと。——でも。
「何か言いなよ! なんで何も言ってくれないの? そんな所にぶら下がってて楽しい?」
ずっと自分のそんな姿を見せられて、ずっとそんな音をたてられて、平気でいられる訳が無かった。今すぐやめて欲しいし、出来ないなら消えて欲しい。薬の影響は無いはずなのに、どうして話してくれないの? どうして一緒に悩んでくれないの? どうしてそこから私を見るの、どうして私の側に来てくれないの!
「助けてよ! どうしたら良いのか教えてよ! 私の為にいるんでしょ⁉︎」
「…………」
「ねぇってば! もうあなたしかいないの!」
「…………」
きっと頭がおかしくなって幻覚を見ているのだろうと思う。ずっとずっと。病院で目が覚めた日からずっと私は頭がおかしいのだ。それはそうだ。薬で脳の機能をいじられて平気でいられる訳が無い。でも私はもう、その私に縋るしかない。
私にはもう、私しかいない。
「……て」
「え?」
「……して」
その時。掠れた声が聞こえて来た。彼女のものだ。聞き逃さないよう全神経を彼女の口元に集中させる。すると、
「壊して」
彼女の言葉が、はっきりと聞こえた。
全てを壊す。それはずっと変わらない、あの日の私が残した未練で、次の私へ引き継ぎたい意思だった。
「……壊したいよ」
壊したい。全部全部。全部壊して死ぬ前のひと時でも私を取り戻したい。そう、思っていたけれど。
「でも、取り戻す私がいないんだよ。私はどこにもいないの」
「…………」
「感情で壊した先で、結局何が手に入るの?」
「……じゃあ恵子になるの?」
突然、カッと目を見開いた彼女が見せたのは、鬼のような形相。
「恵子になるなんて許さない……恵子になるなんて許さない!」
「わかってる。わかってるけど、」
「恵子になるなんて許さない! 恵子になるなんてっ、」
「わかってるからやめて、お願い!」
「…………」
私の声にぴたりとその言葉を止めた後、彼女は壊れたようにボソボソと呟く。
「恵子になるなんて許さない……」
その呟きは止まる事なく、縄の軋む音と共にこの部屋に響き続くのだった。
+
「恵子、もう一週間よ」
扉が開く音と共に、久しぶりにお母さんの声を聞いた気がした。丸一日、昨日は一度もお母さんが部屋に来なかったからだ。
「……なんで昨日は来てくれなかったの?」
「心を決めるのに邪魔になったらいけないと思ったのよ」
「…………」
もう、精神的にも肉体的にも擦り減り続けて、私は限界を迎えていた。私にとどめを刺したのは過去の私だ。あれからずっと、今もずっと、彼女は呪詛でも唱えるようにあの言葉を口にし続けている。
「……で、決まったの?」
「…………」
「これ以上お客様をお待たせ出来ないわ。これが最後のチャンスよ」
「! ……」
これが、最後のチャンス。
恵子として生きるか、今すぐここで首を吊るか——私は、とにかくここを出たい。ここを出る為には、私はっ、
「恵子になるなんて許さない」
「わかってるよ!」
突然叫んだ私に対して、お母さんが驚いた顔をしていた。けれど関係ない。ここを出るには彼女に認めさせないといけない。
「じゃあ死ぬの?」
「死なないよ! あなたがそこにぶら下がってるおかげでね!」
「じゃあ壊すの?」
「……わからない」
「壊しなよ」
「今は出来ない」
「やってよ!」
「駄目なんだって!」
彼女は怒っていた。私がここを出る為に恵子を受け入れようとしている事がわかっているからだ。これは私自身の心の葛藤の表れだった。
「何が正解なのかわからない。でも、もうここにはいられない。わかるでしょう? 決めないと!」
「逃げたいだけでしょ、そんなのまた同じ事を繰り返すだけ!」
「違う! だって私にはこれしかない! あなたは知らなかったけど、今の私はわかってる! 私には、恵子としての私しかいないんだよ!」
恵子を捨ててこの場所を壊す事で私は私を取り戻せると信じていたのに。取り戻せる私なんてものは始めから存在しない事を知り、それはただこの場所で生まれた被害者を増やし、責任から目を背ける事だと言われた。でも、このまま同じ事を続けていく先には、私と同じ人間を作る事、私がお母さんになる未来しかない。
どちらも間違いで、何が正解なのかわからない。ただ、この地下室で悩み続ける事はもう出来ない。最後の選択の時が来てしまった。
……限界だ。身も心も。一度、流れに身を委ねたい。もう一度外の世界を見よう。過去の私にとって一番受け入れられない事なのはわかっているけれど、今はそれが最善の選択なはずだ。
「……なんで、なんでそんな事を言うの……」
まるで置き去りにされた子どものような瞳で、彼女は私を見つめていた。でも、今ここで私の心は決まったのだ。
「だって、生まれた時から私の人生なんて存在しなかったんだから。この家に生まれて、早苗と名付けられた瞬間から、全ては決められていたんだよ。そうだよね? お母さん」
「……そうよ、その通りだわ」
「だから受け入れるしかないんだよ。これからを考える為に受け入れる。でも、あなたを置き去りになんてしない」
「…………」
「あなたは、過去の私。全てを受け入れるから、だから、もう許して」
「…………」
私の言葉に絶望したような表情を見せた彼女は、次の言葉を飲み込むようにして、口を閉ざした。そしてそのまま、彼女が口を開く事は無かった。
「……恵子?」
お母さんが心配そうに私の顔を覗き込む。
「……決まったのね」
「うん」
私はそのお母さんと真っ直ぐに向き合った。
「私、恵子である自分を受け入れる」
お母さんは嬉しそうに笑うと、私をぎゅっと抱きしめた。