——まただ。また私はここにいる。
 部屋の中は地下特有の湿度があり、祭壇を保護する為に空調が設備されてはいるものの、じとりと嫌な空気が身体に纏わりつき、ひんやりと足元を冷たい空気が這っていく。
 目の前の壁一面に広がる祭壇にはお恵様と彫られた墓石のような艶やかな黒い石と、それを取り囲むようにたくさんの菊の花が飾られている。
 これは母の名前が菊である理由を表していた。恵子でなくなった者は菊となりお恵様を支える一部となる。そして菊としての任を次代に譲った後は綺麗なまま人生の終わりを迎えられるよう、その散り際になぞらえて、椿という名を与えられるのだ。
 ……そうか。そうなると、早苗というのも私の名前じゃないのかもしれない。
 今更そんな事に気が付いた。恵子から逃れる手段として縋ってきた名前だったけれど、早苗という字面は花になる前の状態を表しているように見える——あぁ、きっとそうだ。
 私には、始めから私の人生など用意されていなかったのだ。
 死ぬなら私の人生を取り戻してからだと心に決めていた。全てを壊し、恵子でなくなった私は早苗に戻れるのだと。でも……戻った所でそれは、恵子になる為に付けられた名前なら、意味が無い。だってそれは私じゃない。
 私がいない。どこにもいない。昔も、今も、これからも——なんで?

 コンコン、

 部屋の閉じられた扉が開かれる。お母さんだ。

「恵子、ご飯を持ってきたわ……あら? 朝の分、まだ食べてないの?」
「…………」
「食べないと元気が出ないわよ。あれから三日も経つけれど、いつまで意地を張るつもり?」
「…………」

 全てを思い出した私には薬を飲ませる必要が無くなったので、飲食に対しても必要最低限でしかお母さんは口を出さなくなっていた。あの薬は私の記憶に蓋をするものだったのだと隠す気も無くなったお母さんから当たり前の顔をして淡々と説明されたのだ。全ては私が恵子になる為に必要な事だったのだと。

「頑張るのは良いけれど、辛い時間が長引くだけよ。あなたには何も出来ないでしょう」
「…………」
「良い加減決めなさい。恵子として生きていくのか、また今の命を手放し、始めからやり直すのか」

 お母さんが指を指す先、吊るされた縄には過去の私がぶら下がっている。あの日からずっと、ずっとぎしぎしと縄が軋む音が部屋の中を響いている。

「そうしたら、身体が死んでしまう前にちゃんと助けて出すから、また病院からやり直しましょう。大丈夫。先生も手伝って下さるし、前回あんなに上手くいったんだもの。次はもっと上手くやってみせるわ。あなたは全て私に任せれば良いの」

 ……そうか、だから首を吊らせたいのか。自分から今の人生を捨てる意思確認と、身体の機能を一時的に停止させる為の手段なのだ。恵子ではない私の存在を消す為に、死なない程度に痛めつける方法。死んでしまう前に助け出された私は目が覚めた時に何も覚えていないように治療され、恵子として生まれ変わらせる。そういうシナリオだった。

「いつでもどうぞ。ずっと見ているからね」

 私は、私は一体何なのだろう。
 まるで人の扱いではなかった。物だ。供物であり、生贄である事の真の意味を理解した。
 この人達から見た私は、人間ではないのだ。

 ——バタンと、扉が閉まる。
 すると室内にはまたギシギシと、縄の軋む音がし始めた。ずっとずっと過去の私がそこにぶら下がっているからだ。恨めしそうに私を見つめながら——頭が、おかしくなりそうだった。

「……どうしてそんな所にいるの?」
「…………」
「金槌もバレてた。あなたが私に繋いでくれて、せっかく記憶を取り戻したのに……結局前と同じ事になっちゃった。もう、どうしたらいいんだろう」
「…………」
「どうしよう、どうすれば良い? わからないよ。だって私は早苗だけど、早苗は結局恵子なんだよ。じゃあ今の私は? あなたは?」
「…………」
「私達、この世のどこにもいないんだよ……」

 呟く私を彼女はじっと見つめていた。見つめるまま、何も答えてくれない。まるで私の意思はもう伝えてあるだろうとでも言われているようだった。

「……そうだよね。壊したいんだよね、あなたは。私もそう。何もかもが嫌だ。無くなれば良いと思う。でも、壊した所でもうその先に取り戻したい私はいないんだよ」
「…………」
「生まれた時から私は私じゃなかった……私は、人間として扱われてもいなかった。ずっとずっと、私だけが気づいてなくて……本当、馬鹿みたい」

 馬鹿みたい。馬鹿みたい。無駄だった、全部全部。命を捨てる覚悟すら、私の決意は、足掻きは、全てが無駄だった。

「もう嫌だ……」

 涙があふれて止まらない。その涙すら誰にも届かない無駄なものだとわかっているけれど、それでも止められるものでは無かった。



「……——恵子?」
「っ! お、姉ちゃん?」

 呼ばれた声にハッと目を覚ますと、目の前にはお姉ちゃんがいた。そこは変わらず地下室で、どうやら私は泣き疲れてそのまま眠りについていたらしい。次の日になり様子を見に来たお姉ちゃんがちょうど私を起こした所のようだった。
 でも、なんでお姉ちゃんが? ここはお母さんしか知らないはず。
 私のその疑問は、お姉ちゃんに伝わる程に顔に出ていたのだろう。

「お兄ちゃんに知られたからね。情報が解禁されたんだよ」
「……お姉ちゃんは知ってたんだ」
「うん。お母さんと私だけしか知らない。ずっとお母さん一人で監視しているのは不可能でしょ?」
「…………」

 ずっと、お姉ちゃんは知っていたんだ。家族の一員なのだから当たり前だけど、お姉ちゃん相手だと少しでも信頼した自分がいたから裏切られた気持ちが強くなる。

「……お兄ちゃんは?」
「元気だよ。お恵様に許されたんでしょ?」
「……そう」

 良かった、お兄ちゃんが無事で。あの時のやり取りでお兄ちゃんが救われたなら、私がここにいる事に一つでも意味が生まれたと思える。

「恵子、泣いたの? 瞼が腫れてる」
「…………」
「そっか、辛いんだね。じゃあまた首を吊るの?」
「……は?」

 それは、普通の態度でそんな事を口にするお姉ちゃんが違う生き物に見えた瞬間だった。驚く私に、「だってそうでしょ?」とお姉ちゃんは平然と続ける。

「あなたはいつも自分の責任と向き合おうとしない。前回は人のせいにして首吊って終わろうとしてたよね」
「何それ……私が悪いって言いたいの?」
「だってそうでしょ? 自分の心の問題なのに。受け入れないとここが無くなっちゃうんだよ?」
「別にいいよ、無くなればいい!」
「それじゃ困るんだよ。ここにしか居場所が無い人がいるんだよ? もっと冷静になるべきだよ。もう大人でしょ?」
「そんなのお兄ちゃんにも言われたよ! 知らないよそんな事!」
「でもそれがこの家の犯した罪じゃないの? あなた達お恵様と恵子が繰り返してきた事の被害者が存在する事。そこから目を逸らしちゃ駄目だよ」
「……っ、」

 お恵様と恵子が繰り返してきた事の被害者。そう言われると、違う視点から物事が見えた気がして怖くなった。違う。被害者は私だ……私だったはず。

「ちょっと酷い言い方をしちゃったけど、それも事実だよ。でもあなたが被害者なのも間違いでは無い。一体誰の何から始まったんだろうね」
「誰の、何から……」

 そういえば、ずっと続いて大きくなった事って、お兄ちゃんも言っていた。簡単に終わらせられる事じゃないと。

「私は良いんだ、始めから割り切ってるから。親の所にいた頃より衣食住に困らない良い生活が出来てるし。だから私個人としては私が生きてる間は無くならないで欲しいし、面倒事も起こらないで欲しいけど……何事も無く続けるって事はさ、あなたの次の恵子をまた生まないといけないって事だよね?」
「……え?」
「弟と妹も。あとお父さんもか。結構やる事あるよ?」
「…………」

 ——次の、恵子?
 そういえば、そんな事をおばあちゃんも言っていた。でも現実として考えた事も無かった。そんな先の事……だって私は今の私の事で精一杯で、私は私の事だって解決出来てないし、恵子である事だってやらされてるだけだ。この先の事なんてなんで私が考えなければならないの……?

「そろそろちゃんと考えなよ、自分の事」
「…………」
「あ、そっか。あなたが被害者って事は、次の恵子も被害者になるのか……色々難しいね」

 そう言い残して、お姉ちゃんは部屋を出て行った。私は……私は、間違っているのだろうか。

 ギシ、ギシ……ギシギシ……
 静かになった地下室内にはあの音が響いている。ずっとずっと、それは鳴り止まない。
 私はどうしたら良いのだろう。もう、何もわからなくなっていた。お姉ちゃんの話を聞いてからずっとそうだ。ずっとずっと、心が気持ち悪い。私はずっと間違い続けているのだと、何かから責められ続けている。
 何を選択するべきなのかわからない。恵子を受け入れるか、全てを壊してここで首を吊るか。この二択しか私には選択肢が無いのだというのに、どちらを選んでも正解では無いのだ。そして、どちらの先にも私としての人生は存在しない。
 私はもう、私を諦める選択肢しか持っていない。