逆らう度に、今まで何度も何度もここに監禁されて、恵子として生きるか、自分から首を吊るかの二択を迫られて来た。
 幼い頃から宗教一家だと外に出れば白い目で見られて、友達が出来たためしも無い。恵子として仕事をするようになったのは義務教育を終えてからの事ではあったけれど、それでも次期恵子として周囲から認識されていた為、早苗である私に対しても同じように風当たりは強かった。
 酷い虐めに耐える学生時代。私の過去に元気な子供らしい頃なんてないし、恋愛も勿論した事がない。そういったものは人生に余裕がある人だけが経験出来る事で、所謂青春の思い出なんてものは一つも無いし、常に自分が存在する事だけで精一杯だった。
 否定しかされない自分の原因がこの家にある事なんて物心ついた時から理解している。私が悪い訳じゃない。でも、その事実で私の辛さが軽減させる訳もなく、辛さに耐える私を見てさすがと喜ぶ信者は気持ち悪かった。私を私として受け入れてくれる人なんて私の人生に一人もいなかった。今も、昔も、ずっとそう。
 お母さんが嬉しそうに私を恵子と呼んだ日の絶望感は今も胸の奥にこびりついている。お母さんは私を理想の恵子にする事しか頭の中になかった。歴代恵子は皆、次代恵子をきちんと育て上げる事で役目を終えるのだそう。お母さんは恵子のお役目を私に引き継ぐまでは死ねないとよく言っていた。
 そして今は、いつの間にかこの宗教でしか生きられない者の一人として運営に命をかける人間となっている。この宗教を否定することは自分を否定する事になってしまったのだろう。
 ここにいるのはそんな人達ばかりだ。この宗教に寄りかかり、全てを預けて目を瞑っている人々ばかり。誰も自分の人生と、自分自身と向き合おうとしていない。全ては恵子と、お恵様頼り。

「早苗の気持ちはわかる。こんなのおかしいと思う。おかしいと、気づいていなかった。この為に生きていると思ってたから。でも、人を大事に出来なければ意味がない」

 だから、目が覚めたお兄ちゃんに今出会えた事。これは奇跡だった。だってお兄ちゃんだって幼い頃から弟という立場で未来の恵子の兄となる為に教育されて来た人間だったから。嬉しい気持ちもあった。

「だけど、壊すのはちょっと考えて欲しい」

 ——でも、もう遅い。今更寄り添われても、もう遅い。

「嫌だよ」

 私はもう、止まるつもりは無い。

「冷静になって欲しい」
「冷静だよ。やっとこの日を迎えられたんだから」
「違う。目の前の事しか考えられてない。もしここが無くなったらどうなるか、そこまで考えてるか?」
「考えてるよ! そしたら私は私としての人生を、」
「生きられると思うのか? たくさんの犠牲を出して、人生を踏み躙って、自分の人生を生きられると思うのか?」
「っ!」

 何それ。何それ、何それ!

「私の人生を踏み躙ったのはそっちでしょ! 犠牲になったのは私の方! 被害者は私!」
「でも周りはおまえのことを恵子としてしか見ていないんだ。もし無理矢理終わらせたとしたら、この不満の矛先は全ておまえに向くんじゃないか? だっておまえはこの宗教の中心なんだから」
「そんなの別にどうでも良い。自分の人生を取り戻したいだけ!」
「じゃあここにしか居場所が無い人間は一体どうすれば良い? 俺や姉はまだ良い。弟と妹は? 親に金と一緒に捨てられたようなものなのに、ここが無くなったらあいつらに行く当てなんて無いんだぞ!」
「! それは……っ、」
「早苗の気持ちはわかる。おかしいのもわかる。でもここまで長く続いた大きなものになると、簡単に終われるものじゃない」
「…………」

 じゃあ、どうしろっていうの……?
 それって結局、このまま恵子として生きていけって言ってるんだよね?
 辛いのもわかる。苦しいのもわかる。おかしいのも。全部わかるけど、みんなの為に我慢して欲しいって? それって今の状況と何が違うの?

「……結局、お兄ちゃんも私に全て背負って欲しいだけでしょ?」

 自分達の苦しみを請け負ってくれる存在。それが恵子。

「そうすれば、皆幸せに暮らせるもんね」

 お恵様から受け取った恵みを自分達に分け与えてくれる存在。それが恵子。

「ははっ、私って結局、恵子としてしか存在出来ないんだね」
「やっとわかってくれたのね!」

 突然地下室に響き渡ったもう一つの声。ハッと私達が声のした入り口の方に目をやると、そこにはお母さんの姿があった。
 ——やっぱり、お母さんはわかっていて、この成り行きを見張っていたのだ。どのような答えに私達が辿り着くのか——今回のそれは、お母さんの望み通りのものとなった。
 お母さんが一歩一歩近づいて来る。私達はその場からぴくりとも動けなかった。

「お兄ちゃんは、こうなる為にわざとあんな事を言ってくれたのね。ごめんなさいね、信じ切れずに疑ってしまって。さすが恵子のお兄ちゃんだわ」
「…………」
「それに恵子。思い出したなら言ってくれれば良かったのに。いつ思い出したの?」
「…………」

 黙っている私達を見てお母さんは首を傾げると、「おかしいわねぇ」と呟く。

「恵子が自分を受け入れられたなんて、こんなにおめでたい事は無いのに、なんで二人共怖い顔をしているのかしら。疲れてるの? あ、そうよね。お兄ちゃんは昨日からお祈りの最中だったし、恵子はお散歩の後だったものね。忘れていたわ。じゃあこれで終わりにしてみんなで仲良くお家へ帰りましょう」

 にこにこと笑顔のお母さんは入り口へと向かっていく。あの扉は外からは開けられても、中からは開かないのだ。だから勝手に閉まらないようストッパーをかけて開けっ放しにしたまま中に入っていた。ここでお母さんに閉められたら、次はいつ出られるかわからない。

「さあ、行くわよ」

 お兄ちゃんがお母さんの言葉通りに部屋を出て行く。私は、私は——っ、

「私の苦しみってそんなもの?」
「!」

 背後から聞こえて来たのは過去の私の声だった。慌てて振り返ると、天井から吊るされた縄がギシギシと軋む音と共に揺れている。
 その輪に頭を通した私が、天井でゆらゆらと揺れていた。

「後悔、したんじゃなかったの?」

 吊るされた彼女の一言に、私は駆け出した。祭壇にひかれた白い布の裾を捲る。そこには以前倉の中で見つけた大きな金槌を隠しておいたのだ。
 この日の為に、ずっとここに隠していた。祭壇をぶち壊し、母を殺し、宣言するのだ。お恵様なんていない。恵子なんていない。そんなものはどこにも存在しないのだと。そして最後に私は私の人生を取り戻して、ここで死んでやるのだと。そう、ずっと妄想してきた。
 この真っ白な祭壇しか無い部屋で監視カメラに見つめられながら、いつ開けられるかもわからない閉められた扉の前でただただお祈りを続けながら。ぼうっと吊るされた縄を見つめらながら、頭の中ではずっと描いていた。思い切れなくて、そんな事は出来ないまま踏み台を上って縄にぶら下がってしまったけれど、本当の本当はずっと全て壊してやりたいと思ってた。苦しみながら意識が途切れる間際までずっと、ずっと後悔していた。なんで私がこんな目にあわないといけないんだろう。なんで全てを手放す前に実行しなかったんだろうって。
 それが運良く一命を取り留めて、命を持ってここへ戻って来る事が出来たのだ。そしてそのチャンスは今、ついにやって来た。やるしかない、私の無念を晴らす為に!
 ——しかし、

「! なっ、」

 無い! そこに隠しておいたはずの金槌が無い!

「あら、そんな所を捲って。金槌なら元に戻しておいたわよ」
「!」
「大事そうに隠していたから気が済むまでそのままにしておいてあげたけれど、やっぱり危ないからね。一体何に使うつもりだったのかしら?」

 にっこりと、穏やかに語るお母さんの瞳は笑っていない。

「聞こえている? 今、ここで、あなたは何をしようとしていたの?」
「……っ、」
「……残念ね、恵子。少し考え直しましょうか」

 すっと笑顔を消したお母さんはそう言って、バタンと地下室の扉を閉めたのだった。