なんで? どうしてここに、お兄ちゃんが?

 お兄ちゃんは出張に行ったのだと聞かされていた。そんな事が嘘なのはわかりきっていたけれど、まさかこんな所にいるなんて……。
 祭壇の前で正座をしたお兄ちゃんは両手を胸の前で合わせて俯き、まるで熱心にお恵様へ祈りを捧げる信者のように見える。

「……お兄、ちゃん」

 私の声に反応したようにお兄ちゃんは顔を上げると、虚ろな瞳で私の方へゆっくりと視線を動かした。そして私と目が合った瞬間、ハッと驚いたようにお兄ちゃんは息を飲む。

「恵子……なんで、ここに」
「…………」

 何て答えるべきなのか。このお兄ちゃんは恵子の信者であるはずだ、だって彼は私が幼い頃からこの家にいるのだから。
 この家にいる者は家族という名の括りで呼ばれてはいるが、おばあちゃん、お母さん、私以外は皆、信者の中から選ばれて集められた者で、血の繋がりで結び付いた集まりでは無かった。つまりこの家族は、家族という名の、所謂この宗教の運営本部とされるものなのだ。
 父、兄、姉という存在が恵子を支える者として信者の中から選出される。そして次の兄、姉となる為に弟、妹は幼い頃から教育されるのだ。だから常にこの家族は恵子の他、十人を上下する人数で形成されている。
 だからお兄ちゃんも幼い頃から教育されてきた生粋の信者なはずだった。それなのに、お兄ちゃんはあの時、恵子ではない私自身への言葉をくれたように思えた。“やめたいよな”なんて、そんな事を信者が恵子に対して口にする訳が無いのだ。だって信者は皆恵子が苦しむ姿を見て救われ、恵子が辛い思いをする事は正しい事だと認識しているはずだから。
 もしかしたらお兄ちゃんはおかしな事に気づいてくれた?——でも、だったらなんで今ここで祈りを捧げているの?
 お互いにここにいるはずが無い状況だった。私も、お兄ちゃんも。

「ごめんな、恵子……お兄ちゃん、おまえを否定するつもりは無かったんだよ」
「……否定?」

 先に口を開いたのはお兄ちゃんだった。申し訳なさそうに、険しい表情を私に向ける。

「可哀想だって、言っただろ? あれは否定するつもりで言った訳じゃないんだ。ただ、ずっと恵子は頑張ってきたんだから少しくらい自由があっても良いんじゃ無いかって……入院して記憶をなくして、それでもこうやって人々の為に何度も何度も……」
「お兄ちゃんはなんでここにいるの?」

 “人々の為に”という言葉で、信者としての洗脳が解けた訳ではないのだと理解し、残念に思いつつ、警戒心を取り戻す。てっきり追い出されたのだと思っていた。余計な気持ちを抱いた罰として。考え方が変わったお兄ちゃんはもう戻って来ないのだと思っていた。でも、違った。お兄ちゃんはずっとここに閉じ込められていたのだと理解した瞬間だった。

「なんでまた、こんな所で祈ってるの?」
「……ここでまた、心を入れ替えて精進する為にお恵様のお許しを頂いてるんだ」
「……お母さんが、そう言ったの?」
「……恵子もいつもそうだったんだな」

 この部屋はその為に存在している場所なのだと私は知っていた。つまり、修行という名のお仕置き部屋だ。ここで自分の犯した罪と向き合えと過去の私はお母さんから強要されてきた。何度も何度も。私は恵子である自分を受け入れられなかったから、だから逃げる為に、終わらせる為に——最後に私は、首を吊った。

「……お兄ちゃん」

 この部屋の入った奥の壁、全面にお恵様の祭壇がある。そして部屋の天井の中央からは、先を円状に結ばれた縄が吊るされている。その下にはちょうど頭を入れる手助けをする為の踏み台が用意されていた。
 ——良かった、お兄ちゃんがこれを使う前に間に合って。
 祈りを捧げるお兄ちゃんの隣に同じように腰を下ろすと、肩に手を置いてその言葉を告げる。

「もう大丈夫です。お恵様は全てを許されましたよ」
「…………」
「だからもう日々の生活に戻って、またお恵様のご加護のもと共に精進していきましょう」
「……恵子……」

 彼が信者であるならば、これが彼の罰を取り消す為に一番必要な言葉だと私は知っていた。そして、それを授けるのが私の役目であると。私にしか彼をこの現状から救い出す事が出来ないのだと。
 ——こんなありもしない神を信じる可哀想な彼が、この先も幸せに暮らしていけますように。
 心の中でそう願い、ここを出て行くようにお兄ちゃんに指示をした。お兄ちゃんには申し訳ないけれど、私にはやるべき事があるからだ。が、お兄ちゃんは目を丸くしたまま動き出さない。
 そして、

「もしかして、思い出したのか?」

 そう口にした彼に、やってしまったと気がついた。記憶の無い私がこんな事を言い出すはずが無いのだ。誰かの指示もなくこんな場所に来るはずも無いし、天井の縄を見て何の反応も見せない訳が無い。可哀想に思って変な気遣いなんてかけたばっかりに、お兄ちゃんに勘付かれてしまったのだ。

「……そうか。偶然じゃなかったんだな。なら良かった」
「良かった?」
「おまえの事を考えてた。どうするべきなのかって」
「…………」

 先程までとどことなく雰囲気が変わったお兄ちゃんを見つめると、お兄ちゃんはうんと一つ頷き、訊ねる。

「恵子。何しにここに来た?」
「…………」
「ここはおまえが自分の意志で来るような場所じゃないだろう。……怖い思い出しか無いはずだ」
「…………」
「恨みを、晴らしに来たのか?」

 その真剣な瞳に、どう答えるべきか悩んだけれど——結局バレてしまったなら仕方ない事だと、腹を括った。

「……だとしたら?」

 だってもう、私には今しかない。お母さんにバレたらおしまいだ。きっともうバレている。この部屋には監視カメラがあるのだから。お兄ちゃんがいるから泳がされているのだと思う。私がどんな対応をするのかカメラの向こうから眺めているのだろう。……もう、全部どうでも良い。もうどうにでもなれ。

「おかしいと思わないの? こんな所に人を監禁して自殺を強要してくるなんて。お兄ちゃんも今回の事でわかったんじゃない?」
「……やっぱり……恵子はずっとこんな事をされてたのか」
「そうだよ! 恵子として生きられないなら死ぬよう言われてきた! せっかく死ねたと思ったら記憶をなくしてやり直しだなんて、もうこの宗教ごと壊すしか道は無いじゃない!」
「……恵子」
「全部壊してやる! 全部全部、もう準備は出来てる!」
「恵子」
「恵子じゃない! 私は恵子なんかじゃない!」
「早苗」
「!」
「早苗、落ち着いて聞いてくれ」
「……どうして、その名前を」

 早苗とは、恵子をお母さんから引き継ぐ前の私自身につけられた名前だ。幼い頃から共に育ったお兄ちゃんがその名前を知らない訳が無いけれど、恵子を引き継いだ私を恵子以外の名前で呼ぶ事は許されない事だったから、信者であるお兄ちゃんがここでその名前を口にするはずが無かった。それはお兄ちゃんからの意思表示だと思った。

「……ごめんな、早苗。知らなかったんだ、おまえがこんな目に遭っていたなんて」
「お母さんしか知らなかっただろうからね。外に漏れたら困るだろうから。お母さんもこうして来たって言うからおばあちゃんもか。ずっとずっと受け継がれてきた儀式らしいよ、吐き気がするでしょ?」
「……あぁ。おかしいよな、こんなの。俺もここで育ったし、皆が幸せになれるならって思ってたけど、でもこうやって人に強要して来た先にどうやって幸せが作れるのか」
「幸せだったんでしょ? お兄ちゃんも」
「……早苗」
「お兄ちゃんも同じ目にあわされてようやくわかっただけで、今まで何も疑問すら抱いてなかったじゃない」
「……ごめん」
「謝られたって何もならないよ。だから終わらせるの。もう、全て」