わかっていたはずだ。何度も何度も自分は一人ぼっちだと言っていたのは私の方なのに。
 結局縋りつく先を探して信じたいと願ってしまう。本当は違うんだよね?と、こんなのおかしいよね?と、共感してくれる人を探して、私の望む現実を見せて欲しいと、そこにあるはずだよねと。……あるはずなんて無いのに。
 私を思ってくれる優しい家族も嘘。私を信じて話をしにくる人々も嘘。目が覚めてからお母さんから聞いてきた話、全部が嘘。私の名前も、私の入院のきっかけも、全部全部。
 私が信じられるのは私だけ。私の中に眠る意思と、記憶だけ。
 このままでは逃げられない事がよくわかった。過去の私が逃げたがっていた理由も。ここには、恵子としての私の人生しか存在しない。でも私は恵子じゃない。受け入れたくない。私は、私を取り戻したい。こんな嘘だらけの世界に、私の人生は無いのだから。
 私が私になるには、記憶を取り戻す必要がある。その為にはあの私にもう一度会わないと。過去の私を知るきっかけをもらわないと。
 お昼の薬は飲まずにポケットに入れたままだ。薬さえ切れてしまえば、私はまた私に会える……!

「ただいまー」
「おかえり、二人共。夕飯までもう少しかかるからゆっくりしていてちょうだい」

 家に帰ると玄関で出迎えたお母さんにそう言われて、お姉ちゃんとリビングにいくよう促される。けれど、

「ちょっと疲れちゃったから、ご飯まで部屋で寝てても良いかな」
「え! 恵子大丈夫? 歩かせ過ぎちゃった?」
「ううん、大丈夫。久し振りに外出たし、昨日なかなか寝れなかっただけから……」

 そう言ってちらりとお母さんを窺うと、うんうんと納得したように頷いて、「確かにそうね」と呟いた。

「せっかくのお休みだもの。少しゆっくりした方が良いわね」
「……うん」

 よし、とお母さんの承諾を得た事でほっとすると、お姉ちゃんと共に部屋へ向かい、「ゆっくりしてね」という言葉に返事をして部屋の扉を閉めた。途端、どっと本当に疲れがのしかかってくる。一人になる為の口実のつもりが、どうやら身体は限界を迎えていたらしい。
 ……駄目だ、本当に眠い……。
 薬がいつ切れるかわからないけれど、とにかく早くあの私に会いたかったから一人の部屋に戻って来たというのにだ。身体が重くて目が勝手に閉じてしまう——流石にこんな状態で睡魔に耐えられる訳が無く、そのままベッドに潜り目を閉じて、私は泥のように眠った。まるでプツンと糸が切られたようだった。



「——、——」

 ……なんだろう。誰かの声がする。

「——……」

 誰かが私の名前を呼んでいる。そんな気がするけれど、身体が動かない。起きないと。今すぐ起きないと……そう思いながら目を開けると、そこには私を覗き込む私の顔が。

「っ!」

 ガバッと跳ねるように飛び起きた。危ない、叫び声をあげてしまう所だった。びっくりし過ぎて声も出なかったのが幸いだ。起きてすぐ目の前にある人の顔と目が合うなんて怖すぎる……しかもそれが自分の顔だなんて。
 ドッドっと、バイクのエンジンみたいに音を立てているであろう心臓を落ち着かせて、ようやくもう一度彼女へと目を向ける。どうやら眠っている間にあの私が出てこられるくらいには薬が切れたようだった。真顔の彼女がそこにはいて、ぱくぱくと口を開いたり閉じたりしながらこちらを見ていた。

「何……?」

 わからな過ぎて囁き程度の声量で彼女に訊ねる。が、返事が無い。声が出せないのだろうか……お昼の薬を抜いただけだから、これが精一杯って事?
 何かを伝える為に出てきてくれたはずだ。初めて自分から会いたいと願ったからだろうか。自分の意思と彼女の意思がピタリと合っている気がする。つまり私が知りたいと思っている事を伝える為に、彼女は今ここで私に向かって何かを訴えている。

「私が知りたいのは、記憶を取り戻すきっかけ……早く、思い出したいの」
「——、——、——」
「何か無い? きっかけになりそうな事。私自身の事……あ」

 そうだ、名前。
 そう、ぴんと来た時だ。

「さなえ」
「っ!」

 それが音となって聞こえた瞬間、バキンと何かが外れたような開放感と、いつもの頭の中を直接殴られるような激しい痛みの二つに同時に襲われる。

「あっ、いっ……!」

 痛い、痛い! 痛くて痛くて吐き気がする程だ。頭の中がぐるぐる回って、まるで巻き戻しと早送りを何度も何度も強制的に繰り返されているみたいだった。でも、動いている。巡っている。流れている。私の、私の頭の中が、今までを取り戻すように許容を超えた速さで、質量で、まるで命を落とす前に見る走馬灯のように。
 どれだけそうしていただろう。一瞬のようにも、長い間そうしていたようにも思えた。そしてそれがピタリとやんだその時。今日までの私の全ての辻褄が合った。

「私の名前は……早苗」

 それは、世界が変わった瞬間だった。私は早苗。それが恵子という名前を受け継ぐ前、本当の私につけられた名前だった。早苗という名前に引きずられるように、全ての記憶がそのパーツと共に今ここで、私の中に戻って来たのだ。
 痛みと共に流していた涙をぐっと拭う。頭も心もすっきりとしていた。私の呟きに、もう一人の私がうんと頷き扉の向こうへ消えていくので、追いかけるように扉を開けると、彼女はまだそこにいた。私が来るのを待っていたのだろう。すっと階段を降りていくのでそれに続く。
 家の中は静まり返っていて、いつの間にか夜になっていた。夕飯の時に誰か呼びに来ただろうに、気づかない程熟睡していたのだろうか。現在何時なのかはわからないけれど、今はとにかくあの私の行く先について行くべきだと思った。玄関を出る彼女を見て、渡り廊下の方にある大きな窓をそっと開けて外に出る。玄関にセンサーがある事は前から知っていた。だって何度も私は失敗して来たのだから。昨晩の私と同じように。
 わかってる。全部。全部全部取り戻したのだから。今までの私の記憶は今、全て私の中にある。だからあの私が今向かっている先がどこかもわかる。
 辿り着いたのは、倉の前だった。やっぱり思った通り。過去の私は倉の扉の前で私を待っていた。

「やっぱり、ここだよね」

 中へ消えて行く彼女に続いて私も重い倉の扉を開けて中へ入る。何度も来た場所だから知っている。地面にある床下収納に似た小さな扉を開けると、そこに地下へ繋がる階段が現れる事。その階段を下へ降りていくと、鉄の扉が待っている事。その先に——お(めぐみ)様の祭壇がある事。
 お恵様。それはこの宗教が崇め奉る神の名前だった。恵子とはお恵様を身体におろせる唯一の人間とされていて、お恵様の恵みを授かり、信じる者へその恵みをお恵様の代わりに与える人。神の子としてお恵様同様に崇められる存在だった。……そんなもの、いるはずが無いのに。
 つまり、信じる神との接点にする為の供物のようなもの。所謂生贄だ。恵子とされたら恵子としてしか生きられず、神に捧げた身で人々の苦しみを背負い、人々の為に生きていくものとしてこの家に監禁され、外部との接触は遮断される。外の悪い気を取り込んでしまえばお恵様の天啓は受けられないとの考えから、名前すら、悪い気を持つものとして遠ざけられるのだ。そして、恵子はまっさらで清く、慈悲深い心を皆へ与えられる者でないとならない為、他の心は捨てさせられる。
 ここは、この倉の地下にあるお恵様の祭壇の部屋は、その為に恵子が修行をさせられる場所だった。

 ——全てを壊そう。ここにある全てを。恵子を。お恵様を。この、宗教を。

 それが私がずっと心に抱いて来た野望。恵子とされる為にここに生まれて来た私の、恵子じゃない私としてずっと抱いてきた意思だった。
 今が絶好のチャンス。長い間待ち望んだ機会がやって来たのだ。
 ずっとずっと辛かった。何度も挫けそうになりながらも、必死に立ち上がって来たのだ。
 この時を、待っていた。

 階段の最後にある鉄の扉を開く。するとそこには、

「……な、なんで……?」

 祭壇の前で祈りを捧げる、いるはずのないお兄ちゃんの姿があった。