「……あれ? お兄ちゃんは?」
「家を出たわ。出張に行ってもらう事になったの」
「……出張?」
「そう。遠くのお客様もいらっしゃるから、そちらの対応をしてもらうのよ」
「…………」

 そんな事、初めて聞いた。だって今朝お兄ちゃんがいたって事は今日の私の担当だったって事だよね? それなのに夕飯にはもういないなんて、急過ぎるにもほどがある。

「……何かしら? お兄ちゃんと何かお話でもあったの?」
「……え?」

“もう、やめたいよな。可哀想に”

 そう言ったお兄ちゃんの言葉が、私を同情するような表情が、お兄ちゃんの中にある真意を表してくれたのだと思ったから、お兄ちゃんならわかってくれるのだと、他の家族と違うのだと感じたから、だから、話がしたいと思ったのに。

「……ううん、何も。いないなと思っただけ」
「そう。早く夕飯食べてお薬飲みなさいね」
「うん」

 諦めて、食事を再開した。
 お母さんには、いつも筒抜けだ。この状況、監視されているのはもはや私だけじゃないのだろう。きっとお兄ちゃんはあんな事を言ってしまったから追い出されてしまったのだ。この家を支配している、お母さんに。
 食事の間、お母さんは笑顔であった。家族も皆、笑顔でいた。
 ——この家に、自由など無い。

 明らかにおかしいけれど、おかしいと感じた方が悪い事が起こるのだと知った。
 だって疑わずにただ信じていれば、何も悪い事なんて起こらなかったはずだから。私がお母さんに疑われるような事をしたせいで、家族は私を監視しなくてはならなくなり、おかしさに耐えられなくなったお兄ちゃんは家から追い出される事になったのではないか。
 だって出張なんて絶対に嘘だ。そんなものある訳ない。例えどんなに遠くたってこの家までお客様はやって来る。私に会う事が目的なのだから。それを面倒に思う人はこんな所に通って救われるなんて信じない。赤の他人や実在しない何かに救いを求めたりなんてしない。
 嘘しかない。ここには、嘘しか。唯一あるとしたら、それは人の辛さと苦しみの感情。それだけは本物が集まってくる。それを見せ合う私とお客様はこんな所にしか居場所がない者同士で、なんて哀れなのだろうと思った。
 ……でも、そのお客様だって私を信じている訳じゃない。彼らは彼らの信じる神のような存在である恵子を信じてやってくる。恵子でなくなった私は彼らにとって何の価値も無い存在で、そうなったら私は本当にこの世に一人ぼっちだ。
 いつから私は一人ぼっちなのだろう。いつまで続くのかな。この家に生まれたというのなら、その瞬間から私にはこの道しか無かったという事だ。恵子として、このまま一生この嘘に塗れた家族に監視されながらここで暮らしていくのだろう。だって次にこの家を受け継ぐのは私なのだから。
 ——そんなの、嫌だ。
 逃げたい。
 初めて思った。この家から逃げたい。恵子から逃げたい。本当の自分の人生を生きてみたいと。
 頭の中は逃げたいという気持ちでいっぱいで、他の事はもう何も考える事が出来なかった。
 もしかしたらお兄ちゃんは外に出られて正解だったのかもしれない。むしろ外に出る為にあんな事を言ったのかも。外に行けば、お兄ちゃんに会えるかもしれない。
 ……逃げよう、この場所から。どこでも良いからどこか遠くへ。
 薬の影響と精神的疲労から深く物事が考えられず、思考回路が自分の望む方へと簡単に繋がっていく。これは眠れない深夜の一時を回った頃の出来事だ。
 寝静まった真っ暗な家内をそっと、そっと進んでいく。私の部屋は母屋の二階にあり、階段を下りる一段一段の足音に細心の注意を払った。気を抜くと木材の軋む音がいつどこからするかもわからないし、電気がつけられない暗い足元はとにかく心許なかった。
 はやる気持ちと行動が釣り合わない息苦しさの中、何とか最低限の音量で玄関までやって来る事が出来た。そのままゆっくり、慎重に引き戸を開ける。まだ誰にもバレていない。自分一人が通れるだけのスペースが出来た瞬間そっとそこを抜ける。無事に庭へ出る事が出来た。後はこのまま門から外に出るだけ……!

「何してるの?」
「!」

 全身が飛び上がる程驚いて、心臓がギュッと縮み上がる。振り返るとそこにはお母さんの姿があった。

「玄関にはセンサーがついているのよ、変な人が入って来ないように。まだ言ってなかったわね」
「…………」

 月が綺麗な夜だった。月明かりが差し込んで、お母さんの表情が照らし出される。

「ところで、こんな夜中に一体、何をしているのかしら」

 そう訊ねるお母さんの顔に表情は無かった。何もない、感情の抜け落ちたような顔をして、私を見つめていた。

「どこかに行こうとしていたの? でも玄関を出た所で門も閉まってるからここからは出られないのよ。知らなかった?」
「……出、ようとしてないよ」
「じゃあ何かしら。こんな時間に誰にも言わずに、まるで逃げるように」
「…………」

 いつもいつも、お母さんにはすぐにバレてしまう。考えなしの行動なんて向こうに責めるきっかけを与えてしまうだけなのに。なんで私はこんな事をしてしまったんだろう。すっかり感情に飲まれて思考を放棄してしまっていた。薬のせいだ何だとは言っていられない。
 なんとか、なんとか誤魔化さないと。

「……眠れなくて、外の空気が吸いたかったの。起こしたら悪いから静かにしないとと思って」
「窓からだって吸えるじゃない」
「それでも寝れないから、こんな時間になっちゃって。だからちょっと庭に出ようと思っただけ」
「…………」
「だ、だってよく考えたら私、ずっと家の中にいるから。お兄ちゃんは遠くへ行ったんだよね? でも私は病院から帰って来てずっと家の敷地内にいる。出るにはきっとお母さんに聞かないといけないから、だからせめて一人で出れる庭で鯉でも眺めようかなって。そうしたら少しは気持ちが晴れて寝れるかなって」
「…………」

 お母さんは品定めでもするように私を上から下までゆっくりと視線で確認する。突発的に生まれた逃げたいという感情のままに行動を起こした私は、パジャマ姿にサンダルといった外出を前提としたとは言えない格好で、お母さんは私の言葉と格好を比べてなんとか納得してくれたみたいだった。

「……そうね。お兄ちゃんの事も急だったし、お仕事ばかりだものね。色々思う所はあるわよね」
「…………」
「いいわ。わかった。明日はお姉ちゃんとお散歩でもしましょう。病院でも二人でよく外に出ていたものね。それが安定に繋がったのは事実だわ。そう。そうしましょう」

 そして、にっこりと笑顔になったお母さん。

「そうと決まったら明日の為に早く寝ないとね。元気がなくなってしまったらお散歩も出来なくなってしまうわ」
「……おやすみなさい、お母さん」
「はい、おやすみなさい」

 そして部屋まで私を送ると私がベッドに潜るまで確認して、お母さんは部屋を出て行った。
 ——私、逃げられないんだ。
 玄関にはセンサーがあって、自動の門は閉ざされている。落ち着いて考えればわかる事だったけれど、そんな事考える事無く行動して、結果、現実を突きつけられた今、心は恐怖と絶望に震え上がっている。
 ……眠らなきゃ。寝ないと、せっかく作ってもらえた外に出る機会もなくなっちゃう。
 ぎゅっと目を瞑り、朝が来るのを待った。長い、長い夜だった。