——と、心に決めて眠りについた次の日からだった。家族の様子がおかしくなったのは。

「……あれ? みんなは?」

 いつも通りに起床後、朝食を食べる為に食卓につくと、そこにはお母さんしかいなかった。

「おはよう恵子。みんなは先に食べ終わったわ」
「そうなんだ……あ、おはよう」

 そして一人分だけ用意された朝ご飯を食べる間、お母さんはずっと私を笑顔で見つめていて、その様子に気づかない振りをしながら必死にご飯を飲み込んだ。やってしまったのだと気付いた瞬間だった。
 昨日の事がお母さんの耳に入り、私はまた疑われているのだ。

「恵子」
「……何?」

 背筋が、内側からひやりと撫で上げられるよう。

「恵子は、何か知りたい事があるの?」
「う、うん」
「何かしら」
「……か、家族の事について……気になって」
「うん。それで?」

 決着をつけようとしているのだと、すぐにわかった。聞きたい事があるなら今ここで聞けと。自分に聞けと言っているのだろう。

「…………」

 でも、恵子について気付いた事がバレてはいけない。それはお母さんが私に隠したがっている事だから、それを気付いたと知られたら何をされるかわからない——そう思えるほどに、お母さんは鋭い眼光を笑顔で私に向けるのだ。なんとかそれだけは気付かれないように乗り切らないと。

「家族の、名前が知りたくて」
「名前?」
「だって、私の名前しか聞かないから。お客様と違って同じ家に住む家族なのに知らないなんてなんかおかしいなって。私だけこの家の事何も知らないから」
「……だから昨日おばあちゃんに家の事を聞いたのね」
「そう」
「…………」

 やっぱり。昨日聞いた事もお母さんには筒抜けだった。この家で話した事は全てお母さんに報告されるようになっているのだろうか……うん、そうか。そうだ。お姉ちゃんもまずはお母さんにって言っていた。で、私も疑う事無く悩んだ時にはお母さんに報告して聞くようにしてきたけれど、これもこの家のルールだったという事か。
 でも、なんでそんなルールが? まるでお母さんに全てを管理されているみたいだ。

「……名前はね、大事なものなのよ」

 お母さんは、呟くように口を開いた。

「だから口にしてはいけないの。この仕事のルールよ」
「でも今は仕事じゃなくて家の話だよ。おばあちゃんの名前は椿って言うんだよね?」
「えぇ、そうよ」
「おじいちゃんは?」
「…………」
「お兄ちゃんは? お姉ちゃんは? 他の家族は?」
「…………」
「お母さんの名前は?」
「菊よ」
「きく?」
「そう。私は菊。おばあちゃんは椿。そしてあなたは恵子。それだけよ」
「……それは、どういう意味?」
「どうもこうも、そのままの意味よ。それ以外の名前は口にしてはいけないの。それがここのルール」
「なんで……?」
「……なんででしょうね。これも受け継がれて来たものだから」

 そう、お母さんは古い目をして言った。まるで受け継がれてきた何かに取り憑かれたような、いつもとは違う瞳だった。

「仕方ないの。そうして私達は生きてきたのだから。そうして皆救われてきた。これが私達の仕事なのよ。だからあなたにも自覚を持って欲しい」
「な、何の?」
「あなたがあなたである事のよ。あなたを惑わせる何かがまだあなたの中にいるのね。でも大丈夫。皆あなたの味方だから」

 にっこりと、お母さんは微笑んだ。

「食べ終わったわね。薬を飲みましょう」
「……うん」
「最近忙しかったものね、疲れているのかもしれないわ。明日から減らして余裕を持てるようにするから、今日は頑張りましょう」
「……うん」

 それからずっとお母さんは私の側にいて、仕事部屋以外の時間中、ずっと私はお母さんの視界の中にいる状態だった。
 ——監視されている。
 絶対にそうだ。お母さんだけじゃない。家族中から監視されている。
 次の日からまた食卓を囲むようになったのだけれど、その後、一人だけ誰かがその場に残るようになった。何食わぬ顔で、平然としてテレビを観ているのだ。今まで一度だってそんな事は無かったのに。

「ん? どうした? 恵子」
「……いや、なんでもない」
「そうか? 聞きたい事があればいつでも聞いてくれよ」

 お父さんがにこにこしながらそんな事を言うけれど、これは今日の担当がお父さんだというだけだ。その日によって交代で私の側に家族の誰かがいるのだけれど、皆揃いも揃って口にするのは、何か聞きたい事はないか?だ。
 こそこそ探らないで堂々と聞いてこい、という事だろうか。そこから私が何に気付いて何を探っているのか、決定的になる発言を聞き出そうとしているのだろうか。
 ……知られたら私は一体、どうなるのだろう。

「恵子。仕事はどうだ? お客様皆喜んで下さってるそうじゃないか」
「……うん」
「でも自分の話ばかりしては駄目だ。ちゃんとお話を聞く立場にいないと。受け入れる事が恵子の仕事なんだから」
「……うん」

 受け入れるって何を? 私が恵子である事を?

「皆、期待しているぞ」

 皆の理想通りの恵子になる事を?

 毎日毎日、どこに行くにも家族がいた。庭の鯉に餌をやっている時でさえだ。弟と妹は関係無いだろうと思い、近づいて来た二人に一緒に餌をやるか訊ねると、「やっぱり恵子さんは優しいね」なんて真顔で言ってくるから怖くて部屋に閉じこもった。部屋の中にまでは入ってくる事は無かったから。こことお客様に会う仕事部屋。その二箇所だけが、私が私だけでいられる場所だった。

「仕事増やしてくれってお母さんに頼んだんだって? 最近頑張ってるな」
「…………」

 今日の監視担当はお兄ちゃんだ。精神的にすっかり疲れ切った私は答える気力も湧かなかった。早く仕事部屋に行きたい。でも時間が来るまで部屋に入らせてはくれないのだ。恐らく、私を過去の意思であるあの私と二人にしたくないのだろう。お母さんは私の中に何かが存在している事は知っているから。薬を飲んでいる今、あの私が出てくる事なんてないのに。

「お客様の事を大切に思ってるんだな」
「…………」
「それとも、家族が嫌か?」
「!」

 そんな事を聞かれた事は今まで一度も無かったので、驚いてお兄ちゃんの顔を見ると、困ったような、諦めたような笑顔を見せる。

「もう、やめたいよな。可哀想に」

 それは、私に同情する表情だった。

「……お兄ちゃん」
「さ、仕事の時間だ。今日も頑張るか」
「……うん」

 じゃあなと手を振り、仕事部屋の前で別れる。
 ——それが、私が見たお兄ちゃんの最後の姿だった。