私が気付いた事。本当なら疑問を抱いた時点でお母さんに報告するのが正しいのだろうと思う。
 あの子の正体や、私が本当の意味では恵子で無い事実。何故お母さんは教えてくれなかったのか、どうしてこんな事になっているのか、お母さんから説明してもらえればまた私はお母さんを、この家族を信じる事が出来るだろうから。それがまた私が安心して幸せな生活を送っていける条件であったから。
 ——けれど、そんな事は出来なかった。気付いてしまった事がバレてはいけないと悟ったのだ。何故ならお母さんが必死だからだ。

「恵子、薬は飲んだの?」
「飲んだよ」
「昨日はお客様と随分長く話していたけれど、気になる事があるならすぐに言いなさい」
「わかってるよ、ありがとう」

 私の行動に、お母さんが警戒心を持って私に接している事がよくわかる。薬だのお客様だの体調だの、今まで以上に逐一確認が入るようになり、まるで私の全てを把握したがっているように見えるのだ。
 そうまでして何故警戒しているのかといったら、それは知られてはいけない何かがあるからとしか私には考えられなかった。きっとお母さんはこの事実を私に隠し通すつもりなのだろう。
 私は恵子であるけれど、本当の意味で恵子は私では無いという事——恵子は、何かしらの神のような存在であるという事。今まで皆からもらって来た愛情は全て恵子への捧げ物であったという事。
 私に向けられていると思っていた全てが、勘違いであった。全てが偽物であったのだ。
 それをお母さんの態度から感じ取る度に、私の中で虚しさが膨らんでいく。
 私は——私は、どうしたら良いんだろう。
 恵子という仮面をつけた自分しか、ここには存在しない。
 途端に自分の中身は空っぽになって、まるで透明人間にでもなったようだった。だって私が私として認められる証明みたいなものが、何一つとして無くなってしまったのだから。


「恵子さん、こんにちは」

「恵子さん、お会い出来て光栄です」

「恵子さん」

「恵子さん」
 
 それでも毎日、恵子としての仕事はこなしていた。この人達の言葉は全て私への言葉では無いとわかっていたし、この人達が発する言葉は恵子の為の言葉でもなく、結局未来の救われる自分の為の言葉であるとわかっていたけれど。

「そうですよね、毎日お辛いですよね」

 なんて、寄り添う言葉を口にすると安心したような表情を浮かべて感謝するこの人達は、いつも自分が救われる為にここへ訪れていた。私と話をする事で自分に恵みがあると信じて、私の話だってなんでも聞く。

「私が辛い時も、助けてくれますか?」
「もちろんです。ずっとお側で恵子さんを支えさせて下さい」

「こんな弱気な事を言う私は間違っていますか?」
「いいえ、どのようなあなたでもそれが恵子さんですから」

 自分の為に私を全肯定するそんな彼ら、彼女らはなんだか無様で滑稽に見えながらも、可哀想で、愛おしくて、羨ましかった。縋れる先があるなんて——私には、何も無くなってしまったから。
 家族に縋るしかない私と、私に縋るしかないお客様は同じだ。何も無い自分の縋る先を間違ったものだと否定してしまえば、そこで全てが終わってしまう。自分という人間の全てを認める為にお客様は私を受け入れるし、私は家族を信じてきた。
 だからこの秘密に気付いてしまった今、私はずっと迷子になっている。もうどこにも私はいない。ここにいるのは恵子、ただ一人だけれど、この生活以外を私は知らないし、それを相談出来る先も無い。
 結果、私はお客様としか本音を語り合う事が出来なくなり、お互いの傷を舐め合うようなこの現実から目を逸らせる時間は互いを支え合う時間となって、私にとっての心の支えはこれだけになっていった。
 そう、私にはもうこれしか……もうこのまま、恵子として生きていっても良いのかもしれない。
 それでも私は幸せであるはずだ。衣食住に困らない生活。優しい家族。信じてくれる人々。私が恵子である事を受け入れた瞬間、全てが手に入る。
 ——でも。

“負けちゃ駄目、諦めないで。あなたの名前は、”

 ——そうだ、私の名前。
 私の意思だというあの子は必死に伝えようとしていた。私の名前……私には、恵子以外の名前がある?
 ……諦めちゃ駄目だ。まだ知りたいと思う心が、向き合わせようと必死に私の背中を押す意思が、私の中には残っている。
 あの言葉は、私の記憶の奥にある自分からの伝言だ。目を逸らしたらいけない。まだ私は、頑張れる。頑張るべきだ。