——一体何が本当で、何が嘘なのか。
 いや、事実か事実じゃないかよりも重要なのは今、私は何を信じるべきなのかだ。

“あなたが信じているもの全部、ひっくり返してみて欲しい。一度始めから考え直さないとまた同じ事になってしまう”

 彼女の言葉を思い出す。いつもとは違う彼女の不安そうに揺れる瞳を、必死に伝えようとする力強い声色を、霧が晴れたように明らかになった彼女の、少しだけ若いけれど私のものだとわかる、私と同じ造りの顔を。

“強迫性障害なんて嘘。全部嘘。でも、自殺未遂は本当。あなたは逃げようとした”
“何から?”
“恵子から”

 恵子。それは私の名前。私にぴったりだと、お母さんが由来を教えてくれた、皆に呼んでもらえる大切な名前。
 私が私だと、ここにいるのだと自分を認識する為にも名前は必要なものだった。皆が愛情を持ってその名前を呼んでくれているのは感じていたし、誰一人私を恵子以外のものとして見る人はいない。
 ありがとうと感謝され、立派だと褒められ、無事で良かったと喜ばれる。それが恵子という人間で、記憶を失う前の私。これだけ人に会って来て、誰一人として私が恵子である事を疑う人はいなかった。私が恵子である以外の答えなんて、可能性なんて存在しなかった——はずなのに。

「恵子から……逃げる」

 それは一体どういう意味?
 私は何なの? 私の過去は? 家族は? お客様は?
 お母さんは?
 全てが嘘でも本当でもおかしくない。まるでコインの裏と表のように全てがひっくり返る可能性を秘めている。それが今の私を取り囲む環境だった。
 一体私は、何を信じれば良いのだろう。


「おはようございます、恵子さん」
「……おはようございます」

 今日も一日が始まる。お客様はにこにこと笑顔で身の上話をして帰る人、始めからずっと暗い顔をして誰にも言えない胸の内を明かす人、未来の不安を取り除こうと私に選択を委ねる人、様々な目的を持ってここにやって来ては、私にありがとうと感謝をして帰っていく。

「やっと来る事が出来ました。恵子さんに一目お会いしたくて頑張ったんです」

 なんて、感激した様子で私の手を握るけれど、おかしくないだろうか。その価値が私にあるとは思えない。一目会う為に頑張ってくれているらしいけれど、心酔するようなその表情の理由は? 
 今の私には何も無い。でも、過去の私には?

「あの、私はどんな人ですか?」
「え?」
「あ、いえ。えっと……」

 突然の私の問いにお客様がきょとんと固まるのを見て、こんな事を聞いては驚かせてしまうよなと我に返り、安心させようと別の言葉を探していると、

「あ、恵子さんは記憶を失っているんですよね。事前に聞いています。恵子さんは人々に恵を与える優しさを持つ方です。私は一度しかお会い出来なかったけれど」
「…………」
「えっと、恵子さんは恵子さんだと思います。どのような時もそれは変わりません」
「……そうですか」

 聞いた事のある返答だ。それが恵子という存在だと、私の中にも刷り込まれている。それが私の姿なのだと。

「……あの、何か悩みでもあるんですか?」
「え? あ、えっと……」
「私で良ければ聞きます! 話して下さい!」
「でも貴重なあなたの時間を使う訳には」
「何言ってるんですか、恵子さんとお話しする事に意味があるんじゃないですか。私達は恵子さんと言葉を交わして力を頂いているんだから」
「…………」

 言葉を交わして力をもらう。その言葉はすっと心に染み込んで、なるほどなと私の納得を促した。だから過去の私が何をしたとか、私がどんな人かとか、そういった所を指摘して責める人がいないのかと。
 大事なのは言葉を交わす——私と話す事。

「では、ご厚意に甘えさせてもらおうかと」

 だから私の話で終わってしまっても感謝をされたのだ。本当の意味で私の話は迷惑ではなかったという事。お客様の迷惑にならないのなら、それなら、

「記憶を失う前の私の事。詳しく教えて欲しいんです」

 家族でも無く、あの私でも無く、お客様に聞いていけば良いんだ。そうすればもっとたくさんの情報が手に入る。そうすれば、きっと本当の事実が、何を信じるべきなのかが見えてくるはず……!

「もちろんです! 恵子さんに頼ってもらえるなんてとっても光栄です」

 嬉しそうにそう言うと、彼女は自分の知っている私を、噂で聞く私を、一つ一つ教えてくれた。

「私はまだ二回目なのですが、前回お会いした時の恵子さんは制服姿でしたよ。それで、あまり笑わなかったかな。でも私の話は黙って聞いてくれました。ぽつりぽつりとお返事をくれる感じです」

「だからかな。恵子さんのお話を聞けた人は幸運に恵まれるって言われてるんですよ。そして受け入れてもらえた人はその悩みが解決するって。それが恵子さんから与えられる恵だそうです。恵子さんは特別な人だから」

「以前、私は学校で上手くいってなかったんですけど、恵子さんとお話してから勇気が湧いてきて、何とか高校を卒業出来そうです。だからそのご報告が今日はしたかった」

「恵子さん、いつも皆の為に本当にどうもありがとうございます。恵子さんが私達の辛さを引き受けてくれているから、私達は笑顔で生きていけるんです。ここが居場所だという人、本当にたくさんいるんですよ」

 ——心からの感謝と共にそんな言葉を受け取って、彼女との時間は終わりを迎えた。
 ……何かおかしい。

「失礼します、恵子さん。こんにちは」
「こんにちは」

 次のお客様がやって来て、私はまた同じ質問をする。

「私はどんな人ですか?」
「恵子さんは人々に寄り添い、恵を与える優しさを持つ方です」
「記憶を失う前の私の事を詳しく教えて下さい」
「あなたはいつも人々の悲しみと苦しみを背負ってお辛そうでした。けれどそれを耐えぬく素晴らしい方。乗り越えた今がきっと新しい恵子さんのお姿なのでしょうね」

 そしてまた次、次とお客様にお会いする度にこの二つの質問をしていくと、段々と答えが見えてきた。このおかしさの正体。恵子という名前の正体が。
 私は恵子である。けれど恵子では無い。
 恵子とは——。

「恵子」
「……何? お母さん」

 今日も仕事が始まるからと、いつもの部屋へ向かおうとするとお母さんに呼び止められたので足を止める。

「最近、お客様と何のお話をしているの?」
「別に、変わらずお互いの身の上話とか、お悩みを聞いたり、ご報告を受けたり……」
「じゃあなんで秘密にするよう言っているの?」
「…………」

 やっぱりと思った。お母さんは勘が良いからすぐに察知する。私がお客様から事実を得ようと画策している事。きっとすぐにバレるだろうと思ったから、お客様には口止めしておいたのだ。
 心配掛けたく無いので、ここでの事は私とあなたの秘密ですよと。

「……この間、お客様からこの部屋での事を秘密にして欲しいとお願いされて、じゃあもうみんなそうなれば心配されないかなって思って。防犯カメラとか置いてないよね?」
「……えぇ。置いてないわ」
「そうだよね。だって、お互いの信頼があってこその関係だもんね」

 カメラの類が無いのかはこういう事になる前からお兄ちゃんに確認済みだった。ずっと監視される環境でお客様とお話しするのはすごくプレッシャーだなと思ったからだ。その代わり変な人が来た時のブザーが用意されているし、扉の外にも離れの中にも家族の誰かが待機しているからすぐに対応出来るとの事だった。

「私、お客様にとても信頼されてるなって思うの。みんな私の存在を大切に思ってくれている」
「…………」
「だからさ、私はちゃんと応えられるように頑張らないとね?」
「……あなたはそのままで良いのよ」

 そのいつものお母さんの言葉に、「ありがとう」と答えて、部屋に入ろうとしたその時。

「恵子、薬は飲んだのよね?」

 お母さんが私を呼び止めるので、足を止めて振り返る。

「飲んだよ」
「でも、」
「飲んでるよ。いつもお母さん確認してるでしょ?」
「……そうね、ごめんなさい。心配になってしまって」

 お母さんの答えを後に、私は扉を閉めた。
 薬は飲んでいる。何故ならお母さんが確認している事を知っているから。飲まないせいで倒れて一からやり直しになってしまったら困るから。だからぼんやりとした頭は戻らないままだし、記憶はカチカチのセメントで蓋をされたように開かないし、あの過去の私も姿を現さない。
 でも、もう私はわかっている。
 全てはお客様が教えてくれた。だって皆同じ事を言うのだから。私はどんな人?という問いの答えが皆同じである事がある? 皆が口にする恵子の人物像と私の知る過去の私が全く一致していない。だって過去の私は酷い態度だったはずなのに、そこから優しさを感じられる? 幸運に恵まれる、恵みを与えられるって、それって人間と話した時に使う言葉?
 まるでそういうものだと教えられているような答えだと気付けば、後は早かった。皆が何を見ているのか、ここで誰と話しているのか、恵子とは一体誰の事なのか。

 恵子とは、何かの意志の元で付けられた象徴の名前。
 彼らの信じ、縋り、彼らを幸福へと導く存在を表す名詞。
 つまり、恵子とは——私という人間の名前ではない。
 それが、恵子というものだった。
 そしてここは、そのようなものに縋る人々が集まる場所。ここは、縋るものの無い人が恵子という存在に縋る為にある組織。
 それが、私の家族の姿だった。