「お疲れ様、恵子。今日はこれでおしまいです」

 そう声を掛けられてほっと一息ついた時にはもう、時刻は二十時を回った所だった。
 今日は随分とお話が必要なお客様が多く、一人一人に神経と時間を必要とされた。その時は長いなとか、疲れたなとか思いもせず、気づくとこんな時間なっていた、という感覚なのだけれど、全てを終えた今はどっと身体が重たくなっている事を自覚した。
 そして、こんな日もあるのだなと思う気持ちと、本来はこういうものなのだろうなという気持ちが順番にやって来て、私の話を聞いてもらってばかりでは無かったのかと過去の自分を信じる事が出来たような満足感があった。
 疲れからか、いつも以上にぼんやりとしたまま夕飯を食べ終えて、お風呂に入って、そのまま入眠。熟睡し、あっという間に次の日の朝を迎えて、いつものようにまた、ぼんやりとした頭で流れ作業のように一日が始まる。
 お母さんはなんだかバタバタしていた。お客様からのご連絡が最近多くなっているようで、今日もまた忙しいのかなと他の家族の様子を見て思う。食べ終わると皆一斉にそれぞれの仕事につくからだ。

「恵子、お母さんが仕事部屋で待機しててだって」

 お姉ちゃんから伝言を受け取り、もう慣れてきた仕事内容に不安を抱く事もなく、私は今日のお客様を待つ為にいつもより少し早めにいつもの部屋へ向かった。
 カチャリと、扉を開く。

「お久し振り、恵子」
「!」

 驚きで、言葉が出なかった。だってそこにいたのは、いつもの私が座るその椅子に座っているのは、今はもう見えなくなっていたはずのあの子で間違い無かったから。

「な、なんで……?」

どうしてあなたがここにいるの? もう見えなくなったはずなのに。薬を変えたあの日から——あれ? 私、昨日薬飲んだっけ?
 ぞっと鳥肌が立つような寒気が背中を上っていって、ずきりと頭が痛み出した。そうだ私、忙しくて忘れたまま寝ちゃって、昨日のお昼から薬飲んでない……今朝も!

「会えて嬉しいよ。いつになったら会えるのかって、ずっとイライラしてたから」
「…………」
「でも会えない心配はしてないの。だってそういうものだから。あなたには私が必要だもんね」
「……必要なんて、思ってない」

 ズキン、ズキンと頭が痛む。
 否定しなければ、と思った。とにかく否定して、あの子の言葉を跳ね返さないと。じゃないとまた飲まれてしまう。そうなったらお終いだ。今日もきっとたくさんお客様がお話をしに来るのに、また倒れるような事になったら最悪だ。
 気を取り直してぐっと前を向いた。ここで負けてはいけない。

「あなたは、私が作り出した幻覚みたいなものだってお母さんが言ってた。私が私を追い詰めているだけだって。そういう病気なんだって、もう理解してるから」
「じゃあ追い詰める必要も、原因もなくなったのになんでまた出て来たんだろう。その理由は簡単。私があなたに必要とされているから」
「違う。ただ薬を飲み忘れて頭がおかしくなってるだけ。薬を飲めば安定するから」
「薬を飲んでぼんやりとしていられたらそりゃあ安定するだろうね。細かい事は考えないで良いんだから。自分を責めるきっかけなんてそりゃあ見つからないでしょう」
「…………」

 相変わらず嫌な言い方をしてくる人だ。もっとはっきりしっかり言いたい事を伝えてくればいいのに、わざわざ苛立たせるような喋り方をする。

「この話し方はね、わざとじゃないんだよ。邪魔されてるの。その薬に」

 考えてる事が伝わっている事に驚いて、いや、私が作り出してるんだからそれはそうかと納得して無視をした。
 私の態度に彼女はやれやれといった様子で椅子から立ち上がると、私の方へ歩み寄る。

「だってその薬は私が出て来ないようにしたいんだから。私とあなたを切り離す事が目的だから、あなたに私を否定させようとこんな嫌味な言い方をするよう私は促されてる」
「…………」
「だから答えだけを真っ直ぐ教える事が出来ないの。薬の影響が切れた今がチャンス。ほら、馴染んできた。話せるようになってきた」

 そう言う彼女の声色は、確かに私を嘲笑うようないつもの嫌な感じが薄れてきていた。
 ……まさか本当の事を言っているの?
 無視すると決めていた思考を彼女の方へ向けると、薄らと彼女の顔が輪郭を持って私の目に入る。けれど、まだはっきりとはわからない。

「記憶が戻らないのはなんでだろう。ずっと頭がぼんやりしてるのは? なんでこんな仕事をしているの? あなたはまだ何もわかってないってわかってる?」
「…………」

 何もわかってない? こんなに自分の周りの事が見えるようになってきた時に、自分の事が受け入れられるようになってきた時に、また不安になるような事は言わないで欲しい。

「あなたが信じているもの全部、ひっくり返してみて欲しい。一度始めから考え直さないとまた同じ事になってしまう」
「……そんな必要は無いよ。だって全部間違ってないんだから」

 私の言葉に、彼女はショックを受けたような、傷ついたような反応を返す。今までの彼女からは一度も見られた事の無い反応に、違和感に気付きながらもそれを見ない振りをした。彼女の言葉を受け入れたく無かったから。もう揺らぎたくなかった。

「お母さんから聞いた話、全部ちゃんと繋がってたよ。あなたが言った自殺未遂の話だってちゃんとしてくれた。こんな事忘れていた方が幸せだからわざわざ話す事は無いって判断するのは、相手を大切に思うなら普通の事でしょ? あなたの事も私、前から見えてたんだって。あなたの言葉に従わないとって思い詰めた先に自殺未遂があるんだって。だったら、私はそこから変えないといけない。じゃないとそれこそまたあなたが言うように繰り返してしまう」
「だから、それが違うんだって」
「違うも何も、もうそれで良いの。素敵な人達に囲まれて、人に感謝されるやりがいのある仕事をさせてもらってる。だからもし私の知る過去と違っても、もうこれが私の人生なんだって、」
「だから違うんだってば!」

 彼女の声が室内を満たした。らしくない。彼女は必死だった。今この場で冷静さを欠いてるのはいつもとは違い、彼女の方だった。

「これはあなたの人生じゃない!」

 彼女の勢いと共に、彼女の顔が色付いていく。まるで霧の奥から現れて来るように。

「あなたを取り戻すのが私の使命なの! 私はあなたの意志で、唯一残ったあなたの心」
「……え?」
「負けちゃ駄目、諦めないで。あなたの名前は、」

 ——コンコン、
 ハッとしてノック音に振り返ると、その扉が開かれた。

「恵子、朝のお薬飲むの忘れてたわよ」

「昨日も忘れてたでしょ。忙しくてもこれだけは忘れちゃ駄目よ」と、お母さんがお盆に水と薬を乗せて部屋に入って来て、私を見ると首を傾げる。

「なんで、こんな所に立っているのかしら。一体何をしていたの?」
「あ……えっと、」
「もしかして——また、何かいるの?」

 その言葉と共に、真っ直ぐとした視線が私を射抜いた。まるで私の頭に穴を開け、中を覗き込むように。
 いつもいつも、お母さんは鋭い。お母さんに隠し事は出来ない。しない方が良いし、なんでも相談した方が良い。だってお母さんは全てわかっているのだから。
 ——でも。

「いないよ、大丈夫。お客さんがもう来たのかと思って、驚いただけ」
「……そう。なら良いのだけれど」

 お母さんのその瞳があまりにも鋭くて、恐ろしくて、思わず隠してしまった。まるで怒られたくない小さな子どものように。隠さなければと思ったのだ。
 本当はまだ目の前に彼女はいる。彼女はもう、いつもみたいに嫌な笑顔を貼り付けてなんていない。私を挑発し、嘲笑ったりなんてしない。ただ緊張したように強張らせた顔を私の隣でお母さんに向けている。
 その横顔が今ははっきりと目でとらえる事が出来た。見える。人の顔として。その見覚えのある、身に馴染んだ顔は——私だ。

「ほら、また頭が痛む前に飲んだ方が良いわ」
「……うん。そうだね」

 お母さんが見つめる前で薬を飲むと、それを見届けたお母さんはにっこりと微笑んだ。

「じゃあ、今日も忙しくなってしまうけれど頑張りましょうね。恵子」
「……うん、お母さん」

 部屋の扉が閉まる。お母さんが、いなくなる。
 その扉を見つめたまま、私は訊ねた。

「……あなたは、私なの?」
「そう。記憶を無くす前のあなた。強迫性障害なんて嘘。全部嘘。でも、自殺未遂は本当。あなたは逃げようとした」
「何から?」
「恵子から」

 ニヤリと、彼女が口角を上げる。

「きっとまた同じ事になるよ、あなたってそういう人だもん」

 そう言い残すと、彼女は消えた。それはピタリと頭痛がおさまるのと同じタイミングだった。