それから私はお母さんと、私にだけ見えるあの子の話をした。

「初めて見たのは家族のみんなが来てくれた時なの。みんなの中に混ざってあの子がいたんだけど気付いたらいなくなってて、みんなが帰った後急に部屋の中にいたの」
「あの子って事は、子供の姿をしているのかしら」
「うん、中学生か高校生くらいだと思う。制服を着てて、肩ぐらい髪の長さ」
「……顔は? どんな顔をしてる?」
「顔は……あれ?」

 何度も近くで見てきたはず。その表情で彼女の気持ちを読もうと、考えを理解しようとした事もあるはずなのに、

「顔が、思い出せない」

 まるで思い浮かべるあの子は顔だけ黒く塗りつぶされたようで、一つ一つの言葉と共にその片方だけ引き上げた口元を、その寄せられた眉間を、冷たく私を見据えるその瞳をはっきりと思い出せるのに、全体像を顔として思い浮かべる事は出来なかった。

「そういえば声もだ。全然思い出せない……なんでだろう。話した内容も全部覚えてるのに」
「……前のあなたもそう言っていたわ」
「前の私も?」
「そう。壁に向かって話してると思ったら、あの子がいるって。どんな人か聞いてみると同じような答えが返ってきたから、今驚いてるわ。思い出せないはずなのに」
「でももう今は見えないから。今の私はあの子を拒否出来たから、だからそんなに心配しないで大丈夫」

 心配と不安が入り混じったお母さんの顔はこわばっている。

「大丈夫だよお母さん。もしまた見えたとしても、私はもうあの子に縋って支配されたりなんてしないって言い切れるよ」
「……自信が、あるのね」
「うん。何もわからないままここであの子と二人きりでいたらどうなるかわからなかったけど、でも今の私には前の私の真実と、心から信頼出来る家族がいる。信じられるものがあるって、それだけで心が強くなれるんだって今、すごく感じてる」

 目が覚めた私には何も無かったから。いきなり全てが始まって、受け入れなければならなくて、何が嘘で何が本当なのかもわからなかった。
 そう。私は信じたかった。それが例え良い話では無かったとしても、現実に起こった一つの事実が、何も無い私という人間の歴史を見せてくれたから。

「だから私、出来るなら早く退院したいと思う」
「! ほ、本当に?」
「うん。早く新しい毎日を過ごしたい。それで新しい私になっていきたい」
「恵子……! わかったわ。先生に相談してみるからね」

 ——そして数日間の経過観察を経て、私は晴れて退院する事となったのだった。