気がつくと、そこは真っ白な天井の下。寝かされたベッドの上だった。

「起きた! 目が覚めたのね!」

 横には見知らぬ四十から五十代ぐらいの女性が一人。目が合うと感極まった様子で口に手を当て、身を乗り出して私をぐっと見つめてくる。

「心配したのよ、本当に、本当に」

 その瞳はみるみるうちに込み上げる水の膜に覆われてゆらゆらと揺れ、私の手をとった彼女の両手は震えていた。
 そして、

「良かった、恵子……っ」

 振り絞るように彼女の口からこぼれ落ちた、その名前。
 ……けれど、その告げられた名前に私は聞き覚えが無かった。

「……けい、こ?」

 それが私に向けられているのは明らかなのに、何もピンと来ない。目の前のこの人が心から心配してくれているであろう事は伝わってくるのに、この人が誰なのかすらわからなかった。というか、今この現状は何? なんで病院のベッドで寝ているの? 私の名前は? 私は一体……?

「痛っ、」
「! 大丈夫? そうだ、ナースコールしないと、先生に診て貰いましょう!」

 ベッドの枕元に用意されているボタンを押す彼女と聞こえてきた看護師の声を聞きながら、ズキズキと痛む頭のずっしりとした重さに違和感を覚えた。
 ずっしりと——そう、まるで脳みその代わりに何か固いものを詰め込まれているような、そんな感覚。探ろうにも固められた部分が動かないからどうにもならなくて、私がなんでどうなっているのか、考える為に脳が動き出そうとする気配がない。

「……あの、」
「何?」
「あの、わた、わたし、私は一体……?」

 長く使われていなかったのであろう。喉が張り付いてガラガラになった私の声が聞こえてくる。……私の声。私の声で間違いない。久しぶりの感覚で、それは身体がわかってる。——けれど、

「私の、名前は?」
「恵子よ」
「でも、」
「恵子、あなたは恵子。私の大切な人。もしかして、忘れてしまったの……?」
「…………」

 ——忘れてしまった?
 あぁ、そうか。私、忘れてるのか。記憶の中から無くなっているのだから、その名前に覚えが無くても仕方がない。声は記憶が無くても出てくるものだけど、名前は記憶が無ければ何もならないのだから。

「……ごめんなさい、何もわからなくて。自分の事も、あなたの事も」

 そう、わからない。何もわからない。何も、何も思い出せない。なんで? どうして? 疑問と共に湧き上がるのはどろりとした不安の塊。けれど頭が重くて、痛くて、それ以上考えようにも頭の中が動かなくて、あるはずの記憶がどう頑張ったってどこにも見当たらない。

「な、なんでここにいるのか、何があったのかわからない。私の今までの全部、全部がわからなくて、わたし、私……!」

 と、その時。ぎゅっと身体を暖かな温もりに包み込まれる。
 優しい香りがした。ハッとしてとめどなくあふれ出していた不安を飲み込むと、私を支える彼女の腕の力強さに、興奮と共にガンガン頭の中を叩いていた痛みが遠のいて、心臓の鼓動の大きさに意識が集まった。
 あ、私、生きてる。
 その時、無意識に感じたのはそんな事。

「いいの、いいのよ。大丈夫」

 彼女の柔らかな声色が、耳から入って私の頭の中を撫でる。

「全てを忘れてしまってもいいのよ。戻ってきてくれただけで嬉しいの。あなたがあなたとして帰ってきてくれたなら、それが私達の一番の幸せなのよ」
「な、なんで……?」
「だって私達、家族じゃない」

 コンコン、と部屋の扉をノックする音が聞こえる。

「……家族?」
「そう、家族。私とあなたは親子だもの。あなたが存在している事が、私の幸せ。記憶が無くてもまた一緒にやり直せばいいだけなのだから、何も不安がる事は無いの。何も、何も心配しないで」
「……っ、」
「私はずっとあなたの味方よ、恵子」
「っ、うっ、あ、ありが、とう……っ」

 溶け出した不安と共に大粒の涙が込み上げてきて、それは我慢出来ずにあふれ出す。私を抱きしめる彼女——お母さんも、一緒になってたくさん泣いてくれた。
 そして、部屋に入ってきた看護師が私達の様子見てほっとしたような表情を浮かべながら、私の診察が始まるのだった。