この街の治安状況を、冬也が知る由もない。だが、この町に入ってからスリの被害どころか、恐喝紛いの無頼漢にも遭遇していない。地球でさえも、外国人旅行者が安全に旅行が出来るのは、日本だけと聞くのに。
 そんな状況で門に兵が立っている理由は、それなりの地位に有る者の屋敷だからであろう。
 
「なぁ。まさかこれが、目的地?」
「そうだよお兄ちゃん。連絡を入れておいたはずだけど、クラウスはいる?」

 ペスカは何とも気軽に、門に立つ兵士に声を掛けて、カードを見せる。カードを見た兵士は、恭しく頭を下げた。

「お待ちしておりました、ペスカ様。中へどうぞ」
「ペスカ、ここでも同じ対応かよ? 何なのお前?」
「まあまあ、細かい事は気にしない! 禿げるよ!」
「禿げねえよ!」

 門を越え庭を抜け、邸宅の入り口までやってくると、中から執事服を着た男が現れ、深々と頭を下げる。

「お待ちしておりましたペスカ様。旦那様と奥様は現在留守にしております。お帰りになるまで、中でごゆるりとお寛ぎ下さい」

 ペスカは執事服を着た男へ、挨拶代わりに手を上げる。そして勝手知ったる風に、ずかずかと邸宅の中を進み、応接室にたどり着いた。そして、どかっとソファーに身を投げると、冬也に声を掛ける。

「緊張しなくて大丈夫。ゆっくりしよお兄ちゃん」
「お前はどこのお嬢様だよ! ペスカが遠くに感じるよ」
「もぉ、何言ってんのよ。私はいつでも、お兄ちゃんの愛する妹だよ」

 二人がリビングのソファーに背を預けると、直ぐにメイド達がお茶とお菓子を運んでくる。
 だが、十人以上は悠々と入る広いリビングと、執事やメイドが当たり前に働く邸内に、冬也は分不相応な感覚を覚えていた。ペスカは、気にも留める様子もなく菓子を食べていたが、冬也は手を出す気にはなれなかった。

 非常に落ち着かない感覚の中、時間を持て余しキョロキョロと冬也は辺りを眺める。
 家人の趣味なのか調度品は少なく、昨夜の高級宿の方がよっぽど立派に感じる。宿と異なるのは、リビングの戸辺りにメイドが待機している事だろう。

 数刻の後、部屋の外がざわめきだし、メイド達の手により部屋の戸が開け放たれる。そして、一人の青年が部屋に入ってきた。背が高く耳の尖った美形の青年は、勢い良くこちらに近くと、ペスカの前で膝を突き深々と頭を下げる。

「ペスカ様、良くお戻りになられました。このクラウス、一日千秋の思いで、ペスカ様のお帰りをお待ちしておりました」
「クラウス、久しぶりだね!」
「ところでペスカ様。そちらの御仁は、どなたでしょうか?」
「私のお兄ちゃんだよ!」

 クラウスはペスカに視線を送ると、冬也の方へ体を向ける。そして軽く微笑し、冬也に頭を下げた。

「貴方がペスカ様の兄君でしたか。話は妻から聞いております。私はルクスフィア領を治める、クラウス・フォン・ルクスフィアと申します。何卒良しなに」
「東郷冬也です。よろしくお願いします」

 更に状況がわからくなったが、冬也は取りあえず頭を下げる。それは日本人の性であろう。

「ペスカ様、冬也様。もうじき妻も戻ると思います。昼食を取りながら、色々お話をお聞かせください」

 クラウスの後に続いて歩き通された場所は、パーティーでも開くのかと思える広い食堂であった。大きな一枚板のテーブルが鎮座し、十数脚の椅子が綺麗に並んでいる。
 二人を上座に座らせた後、クラウスは執事を一人部屋に残して自分も席に着く。そしてペスカは、昨日の出来事をクラウスに説明し始めた。

「そうですか。あの森にマンティコアが出るなんて、不可解ですね」
「クラウス、森の調査は?」
「ペスカ様から念話を頂いてから、直ぐに兵士を差し向けました。」
「あいつとの関係は?」
「関係ないとは言い切れないでしょう。引き続き調査を致します」

 冬也は二人の会話を、ただ無言で聞いていた。ペスカの印象はいつもと全く違い、しっかりとしたビジネスウーマンの様である。そのペスカに対し、クラウスという人物は恭しい態度を崩さない。
 そんな妹を見て、冬也はやや混乱していた。そんな冬也を思ったのか、ペスカが声をかける。

「お兄ちゃん。お腹空いたでしょ?」
「あぁ、まあな」
「そうです。今日は当家のシェフが、腕によりをかけた料理をご堪能下さい」

 クラウスの合図と共に、料理は次々と運ばれてきた。運ばれた料理の中に見た事も無い珍しいものは一切無い。むしろ日本で見慣れた料理の数々が運ばれてくる。それを見た冬也は、流石に声を荒げた。

「ご飯に味噌汁、焼き魚に納豆。これ全部日本食じゃねぇか! 何でだよ!」

 冬也の言葉に、クラウスは首を傾げる。だが冬也からすれば、これを何故おかしいと思わないのかが疑問なのだ。
 米はいいだろう。道中で稲穂を見たのだ、この街で食されていると考えても不思議ではない。焼き魚もいいだろう。異世界にだって魚位はいてもおかしくない。
 しかし、大豆の発酵食品だけは別だ。これは日本の文化なのだ。だれかが意図的に持ち込まない限り、存在する事はなかろう。
 
 何が不思議なのかでもと言いたげな表情を浮かべるクラウスをフォローする様に、ペスカが語りかける。

「まあ、食べてみてよお兄ちゃん」

 ペスカに促され、冬也は味噌汁やご飯に手をつけた。

「う~ま~い~ぞ~!」
「勝手に感想を言うな! どこの食通だよ! ってか微妙に違うな。出汁の取り方か?」
「そうだね、出汁が足りないね。それとお米は、品種改良が必要かな?」
「ご教示ありがとうございます、ペスカ様。未だ品種改良は難儀しております。これからも一層の努力を重ねる所存です」
「うむ、そうしたまえよクラウス君。かっかっか」
「ペスカ、お前は何キャラなんだよ。クラウスさんでしたっけ。こいつ直ぐ調子に乗るんで、あんまり乗っからないで下さい」

 昼食は、ペスカを中心にがやがやと騒がしいものになった。丁度食べ終わろうとした時であった、食堂のドアがメイドの手によって開かれる。ドアが開かれた瞬間、冬也の耳には聞き覚えの有る声が届く。そして眉を顰めて冬也は振り向いた。

「てめぇ! こんな所で何してやがる!」
「お兄ちゃん、止めて!」

 ドアから入って来たのは、ペスカの母親であった。冬也からすれば、小さな子供を置いて十年も姿をくらましていた人物である。冬也が声を荒げるのも仕方あるまい。
 旅行をしようと言ったペスカの目的が、たとえ『母に会う』事だったとしてもだ。

 こうなると、冬也自身は覚悟をしていた。だからこそ、怒りを露わにしない様に、我慢しようと決めていた。しかし、一目見た瞬間に怒りが込み上げてくる。それを止める事は出来ない。
 十年を経過しても、義母の顔は些かも変わらない。例え変わっていたとしても、冬也は忘れる事はなかったろう。決して、他人の空似とは言わせない。
 今にも殴りかかりそうな勢いで、義母に詰め寄ろうとする冬也を、クラウスが後ろから羽交い絞めにして止める。
 そしてペスカは頭を抱えた。異世界の街に着いて早々、波乱が訪れようとしていた。