光が消えても、冬也は暫く身動き一つ取れずにいた。それも仕方有るまい。なにせ玄関の扉を開けたら、見知らぬ光景が広がっていたのだから。
それが一瞬の出来事で、直ぐに見慣れた風景に戻ったのなら、白昼夢か何かだと思うだけだ。しかし、一向に見知らぬ風景は目の前から消えてくれない。
こんな時、普通の人ならばどういった行動を取るのだろう。ドッキリだと思い、隠しカメラを探すのだろうか。それとも慌ててスマホを取り出して、電波が通じるか確認するのだろうか。はたまた、「やったぜ異世界! これからチート能力でやりたい放題だぜ!」と意気揚々に探索を始めるのだろうか。
恐らくどれも違う。人はそんなに上手く頭を切り替えられない。異質な状況に、直ぐさま対応する事は叶わない。只々呆然とし、現実逃避をするだけだ。
何せ目の前に映るのは、見慣れた住宅街では無い。鬱蒼とした森の中だ。勿論、自宅が辺鄙な場所に有るわけではない。一応は東京都で、閑静な住宅街に存在する普通の家だ。自宅を出たら森の中なんて、あり得る訳がない。
何度も瞬きしても、目の前の風景は変わらない。そのあり得ない事態は、冬也のキャパシティーを超えていた。
もしかして現在のVR技術なら、この有りえない現実も可能にするのだろうか。まさか流石にそんな大げさな事を誰がする?
もし、これが悪戯なら? 例えばペスカが自分に気が付かれずに、VRゴーグルを嵌めたとか。それも有りえない。それなら冬也は気が付くはずだ。
それとも、これも夢なのか?
茫然としながらも脳の一部は危険を察知し、異常な程に回転を始める。しかし、一向に脳の処理は現実を把握しきれずにいた。
「・・・ちゃん、・・いちゃん、・にいちゃんってば」
五分位は経っていただろうか。棒立ちの冬也の耳に声が届く。声が聞こえると共に、段々と冬也の意識がはっきりとしてくる。
「お~い! おに~ちゃん~! おにいちゃんや~い。聞こえてますか~?」
「あ、あ、あぁ! ペスカか? ちゃんと居るのか?」
「居るよお兄ちゃん。さっきからず~と呼んでるのに」
冬也は未だ身に降りかかった異常事態を、整理しきれていなかった。ペスカの呼びかけには答えていたが、心は現実を拒否していた。
いかに知識が乏しかろうと、誰しもがイチョウや楓の木くらいは見た事が有ろう。だが、そんなありふれた木々は何処にも見当たらない。
光がほとんど差し込まない森の中には、見た事の無い毒々しい色の実を付けた木々が生えている。周囲を飾る花々は、まるで牙でも生えているかの様に花弁を開いている。
まさが本当に夢なのか?
でも、この生暖かく頬を撫でる風が、夢だとは思えない。
現実か?
現実に、こんな事が起こってたまるか!
すこしずつ冬也は現実に引き戻されていく。そして、覚醒した冬也の脳裏を過るのは、ペスカの安否であった。
明るい声は聞こえていた、だから安全だろう。しかし、この異常事態の中で何が起こっているかわからない。
冬也はいったん落ち着こうと、深呼吸をする。そして無事を確認する為に、ペスカの方へと顔を向けた。それでも動揺しているのか、冬也の声はやや上ずっていた。
「ぺ、ペスカ! 痛い所無いか? 苦しいところは? 頭とか大丈夫か?」
「平気だよ。ってゆうか平気じゃないの、お兄ちゃんでしょ? 何度呼んでも無視するし」
冬也はその時、先の出来事を思い出す。玄関を開けたら光が差した。そうだ、玄関はどうした?
冬也が慌てて振り向いても、有るはずの玄関は消えている。その時やっと、冬也は見知らぬ場所に取り残されている事を自覚した。
「なぁペスカ、玄関無くなってねえか? ってかここ何処だ?」
「う~ん。異世界?」
「はぁ? 何言ってんだペスカ! 異世界なんて有るわけ無いだろ!」
「じゃあ、お兄ちゃんは何処だと思うのよ」
「アマゾンなら行ったことが有るし、アフリカの奥地とか?」
「馬鹿だな~、お兄ちゃんは。こんな変な植物が、地球に生えてる訳無いじゃない!」
ペスカが指を指した先には、冬也も見た人食い植物に似た異様な植物。だが、呆れるほど呑気なペスカの態度に、冬也は些か疑問を感じた。
「ペスカお前、なんか冷静だな」
「う~ん。お兄ちゃんが役立たずだしね」
「何か隠してるのか? 怒らないから、全部話してみろ」
「あはは、やだな。お兄ちゃんってば、アハハ」
「話す気はねぇのか? でも、場所がわからないなら帰る事もできねぇんだぞ」
「だから、異世界って言ってるじゃない。信じてないお兄ちゃんが悪いんだよ」
ペスカの言っている事が、冬也には全く理解出来ない。異世界なんて有るはずが無い。もしかすると、冬也が感じていた胸騒ぎめいた予感は、これを示唆していたのか?
薄々とではあるが、冬也はこの場所から容易に帰る事が出来ないと感じていた。
「まあ、此処にいても仕方ないし、取り合えず森を出るか! そうすれば帰る方法も見つかるかも知れないしな」
「そうだね、お兄ちゃん。レッツ異世界!」
「元気だなペスカ。隠し事は今の内に話せよ。そうじゃ無いと、すげぇ痛いお仕置きするからな!」
そうは言っても、どちらに進めば良いのだろう。冬也が周囲を見回していると、不意にペスカを静止させる様に手を伸ばす。
「何かいる」
冬也がそう言った瞬間に、繁みの中からガサガサと音がした。冬也はペスカに目くばせをした後に、気配を消して足音を立てないように繁みに近づいた。
そして冬也はスッと繁みに手を突っ込むと、音の主を捕まえたのか繁みの中から何かを取り出した。
「ウサギ? それにしちゃあ角が生えてるけど」
その容姿は地球に存在している物と似ているが、明らかに違う生物だった。グルゥ~と低い声を上げて、鋭い歯をむき出しにしている。頭部には、刺されば致命傷確定と思える程、尖った角が生えている。
冬也が首根っこを掴んでいる為、襲われる事はなさそうだが、いつでも飛びかかれるとばかりにこちらを睨んでいる。
「いや、流石はお兄ちゃんって感じだけど」
「まぁ、この位は捕まえられねぇと、生きていけなかったしな」
「パパリンのおかげだね」
「おかげとか言うな。それよりこいつ、焼いたら旨そうだな」
「美味しいよ。この辺に生息している小動物だし」
「何にせよ、この角だけは折っとくか」
そう言うと、冬也はもう片方の手で角を握りしめ、力を込めて砕くようにして角を折った。バキッと大きな音が辺りに響き渡る。
「お~、まさか角ウサギの角を、道具も使わずに折る人は初めて見たよ」
「それなりに握力はあるからな」
「因みに何キロ?」
「右が百位で、左は百二十位は有ったかな?」
「もう、一般人じゃないね。元々、野生児そのものだけど」
「まぁでも、無事なら良いじゃないか」
「お兄ちゃん! 甘い! 甘すぎるよ!」
「何がだよ?」
「だってさ、もうわかってるよね。ここは日本でも地球のどこかでも無いんだよ。お兄ちゃんの常識は通用しないんだよ!」
「それで?」
「だから、お兄ちゃんが今までしてた狩りの方法は一旦忘れてね」
「どういう事だよ?」
「だからさ、この異世界にふさわしい戦い方を、私が伝授してあげよう」
「胡散くせぇなぁおい。お前が教えてくれる戦い方ってのはどんなんだよ!」
「ふっ、青臭いガキに教えてやるのは勿体ないが」
「いいから話せ!」
それは売り言葉に買い言葉というべきか、それとも単なる悪ふざけが過ぎたというべきか。いずれにせよ冬也は痺れを切らした様に、ペスカの頭を軽く小突く。
そしてペスカは頭を擦りながら、少し涙を浮かべつつゆっくりと口を開いた。
「魔法って言うのが存在するの。詳しくは後でちゃんと説明するから、取り合えずお兄ちゃんは使える所までやってみて」
そりゃあ、此処が本当に異世界と言うなら、魔法くらいは存在しても良いだろう。しかし、やれと言われて直ぐに実践出来るものでも有るまい。
その魔法とやらが実際に出来るのならば、今までだって何らかの形で出来たはずなのだ。十年と少しの人生の中で、命の危機に晒された事は指の数だけじゃ足りない。そんな状況下に有っても、そんな奇跡のような力は発動する事が無かった。
「先ずは集中して! 火の玉をイメージするの」
「火の玉? 何言ってんだペスカ!」
「良いから、言う事聞いて。私を信じて! 火の玉を具体的にイメージするの」
ペスカの意図が、冬也にはさっぱり理解出来ない。だが冬也はペスカに言われた通り、頭の中で炎の塊をイメージする。ガスコンロの火、燃え盛るたき火、果てや火山から噴き出るマグマ。イメージを膨らませるだけなら、多くの要素が現実には存在する。
それが実際に見たか、映像だけ見たのかは重要ではない。火の玉というのが今現在、具体的に実在する事をはっきりと認識するのが重要なのだ。
そして不思議な事に、イメージを膨らませる度に、自分の体に不思議な力が流ているのを感じた。
「イメージ出来た? そしたら手のひらに有る火の玉を投げるみたいにして」
冬也は、頭で中でイメージした炎の塊を、ボールを投げる様に意識して腕を振るう。すると自分の中に流れる力が集まり、炎の塊が具現化される。
「なんか出た! なんか出たよペスカ」
「それが魔法だよお兄ちゃん。やっぱりやれば出来るじゃない」
「魔法ってお前」
「集中してもう一回やってみよ。それと魔法を放つ時は、名前を叫ぶと上手くいくよ。頑張れお兄ちゃん」
何回か火の玉を飛ばしている時だった。不意に冬也はそれを止め、ペスカに視線を送る。
「どうやら騒ぎすぎた様だな」
「うん。囲まれてるね」
冬也と同様にペスカも気が付いていた。二人を囲う繁みには多くの生物らしき気配がする。恐らく火の玉を連発した音と、先に冬也がウサギの角を折った音に反応したのだろう。
二人を囲む生物らしきもの達からは、獲物を見る様な鋭い視線を感じる。
戦うか、逃げるか。周囲を囲まれた中、しかも相手が何物なのかわからない。そんな状況で逃げ切れるとは思えない。かと言って戦って確実に勝てるとも思えない。
そんな中、ペスカは意外なほどにあっけらかんとしていた。
「さぁお兄ちゃん! いってみよ~」
「何をだよ!」
「火の玉を連射して、奴らを殲滅するのだ~」
「おい! って」
会話を続ける暇は無かった。草むらから続け様に何かが飛び出してくる。それが角ウサギだけなら、さして緊張はすまい。
出てきたのは異様にカラフルな蛇やら、小学生低学年の男子位の大きさは有る蜘蛛やら、足が異様い巨大な空飛ぶ昆虫やらだ。
それが生物なのか虫なのかは、この際どうでもいい。それが自分達を狙って今にも食らわんと大きな顎を広げている事だ。
「くそっ、やるしかねぇか」
その数が一匹や二匹なら、冬也は軽々と対処してみせただろう。だが、その数は十匹では留まらない。
そして冬也はペスカを背に隠す様にして、覚えたての火の玉を見慣れない生物に向かって放つ。
一つ目の火は掠りもせず、空を舞って木に直撃した。二つ目の火は、かろうじて蜘蛛っぽい何かに掠り、その体を燃やし尽くした。三つ目の火はカラフルな蛇に直撃し、その体を黒こげにした。
少しずつ命中精度が上がっていく。すると、襲ってくるもの達は警戒を強め、冬也から少し距離を取り始めた。その瞬間である、冬也はペスカに対し言い放つ。
「ペスカ! 逃げるぞ!」
その言葉と共に、冬也はペスカの手を引き走りだそうとする。実に賢明な判断だ。しかし、ペスカはそれに応えようとしなかった。
「いやいや。角ウサギ程度の小動物相手に逃げるなんて、お兄ちゃんらしくないよ」
ペスカの言葉は、冬也を驚愕させたに違いない。冬也が幼少期より何度もアマゾンの奥地から生還したのは、偏に慎重であったから。
危険を冒してまで戦うのは愚の骨頂だ。それでは命が幾ら有っても足りない。それなのにペスカは逃げようとしないどころか、その場から動こうとさえしない。
おかしい。カラフルな蛇は毒を持っているに違いない。蜘蛛や飛んで来る変な虫も、同様に毒を持っているだろう。万が一にも噛みつかれたら、そこで人生は終了だ。
それに、木々が味方とは限らない。何せ花弁は牙の様なのだ。襲われてもおかしくない。今は正に四面楚歌そのものなのだ。安全である保障など何処にもない。
ましてや、自分が放つ火の玉も安全ではなかろう。木々に燃え移り森林火災になれば、一巻の終わりだ。
それなのに何故ペスカは……。
魔法とやらに全幅の信頼を置いているのか?
こんなまやかしみたいなものに?
冗談じゃない!
だが、こんな事を考えていても、事態は一向に進展しない。
そう、今やるべき事ははっきりとしている。冬也は、再び周囲に向けて魔法を放つ。一匹、また一匹と丸焦げにしていく。冬也は無我夢中であった。死を伴う緊張の中、慣れない魔法での戦いを強いられたのだ。さもありなん。
そうして半数程が姿を消した時だ、襲ってくるもの達は冬也に背を向けて逃げて行った。そして冬也は深いため息を着いて地面にへたり込む。
「お疲れ~、お兄ちゃん。やっぱりやる子だね、お兄ちゃんは」
「あぁ、ありがとうペスカ。怪我は無いか?」
「お兄ちゃんが守ってくれたし大丈夫」
冬也はペスカに危険が及ばなかった事に安堵していた。だがここは見知らぬ森、自分達を襲って来る脅威がこれで終わりとは限らない。やや怠さが残る体を奮い起こす様に、冬也は立ち上がった。
だがこの事態は、やっぱりおかしい。日本では見た事も無い植物、見た事も無い生物達、自らが放った炎の塊。現実で有る事は間違いないが、何か妙な事が起きている。それはいったい何だ。ペスカは何を隠してる。冬也の中で疑問が膨れ上がり、ペスカに問いかける。
「わかったペスカ。これ昨日の夜にやったゲームだろ。お前に付き合わされたVRゲーム。良く出来てるな~。兄ちゃん引っ掛かっちゃたよ、ビックリ大成功だな」
「お兄ちゃん、馬鹿なの? 一緒に玄関から外に出たでしょ!」
「いい加減にしないと、兄ちゃんだって怒るぞ。夕飯はお前の嫌いな、ネバネバ尽くしにするからな」
「ネバネバ嫌いはお兄ちゃんも一緒じゃない。馬鹿なの?」
「じゃあ何なんだよこの状況! お前なにか知ってんだろ?」
冬也は思わず怒鳴り散らしていた。ペスカと暮らし始めて十年間、叱る事はあっても、ここまで激しく怒鳴った事は無い。激しい口調で問い詰められ、ペスカは瞳に涙をいっぱい浮かべ俯く。
やがてペスカの瞳から、大粒の涙がポロポロと零れだした。
「ばか~! お兄ちゃんのばか~! そんなに怒鳴る事ないじゃない! 嫌い~! お兄ちゃん嫌い~!」
「ご、ごめんペスカ。兄ちゃんが悪かったごめん」
ペスカが泣き止み機嫌が収まるまで、あれやこれや色んな手で、冬也は宥めすかす。ペスカが落ち着くのを見計らうと、今度は優しく話しかける。
「なぁペスカ。知ってる事があったら、兄ちゃんに教えてくれないか?」
「ぐすっ。良いよ。ぐすっ。何が聞きたいの?」
「ここは何処だ?」
「異世界。ぐすっ」
「それじゃ話になんね~よ。そう言えば旅行、駄目になっちゃったな」
「大丈夫。ぐすっ。目的地ここだから」
「はぁ? 何言ってんだお前」
「だから、目的地はここって言ったの」
冬也は、やはりペスカの言葉の意味を、理解が出来なかった。これは唯の始まりに過ぎない事を、冬也は知らない。そしてペスカでさえも、待ち受ける困難を想像しきれていない。
やがて二人は、世界を揺るがす大波乱に巻き込まれていく。これは、兄妹の冒険の始まりに過ぎなかった。
それが一瞬の出来事で、直ぐに見慣れた風景に戻ったのなら、白昼夢か何かだと思うだけだ。しかし、一向に見知らぬ風景は目の前から消えてくれない。
こんな時、普通の人ならばどういった行動を取るのだろう。ドッキリだと思い、隠しカメラを探すのだろうか。それとも慌ててスマホを取り出して、電波が通じるか確認するのだろうか。はたまた、「やったぜ異世界! これからチート能力でやりたい放題だぜ!」と意気揚々に探索を始めるのだろうか。
恐らくどれも違う。人はそんなに上手く頭を切り替えられない。異質な状況に、直ぐさま対応する事は叶わない。只々呆然とし、現実逃避をするだけだ。
何せ目の前に映るのは、見慣れた住宅街では無い。鬱蒼とした森の中だ。勿論、自宅が辺鄙な場所に有るわけではない。一応は東京都で、閑静な住宅街に存在する普通の家だ。自宅を出たら森の中なんて、あり得る訳がない。
何度も瞬きしても、目の前の風景は変わらない。そのあり得ない事態は、冬也のキャパシティーを超えていた。
もしかして現在のVR技術なら、この有りえない現実も可能にするのだろうか。まさか流石にそんな大げさな事を誰がする?
もし、これが悪戯なら? 例えばペスカが自分に気が付かれずに、VRゴーグルを嵌めたとか。それも有りえない。それなら冬也は気が付くはずだ。
それとも、これも夢なのか?
茫然としながらも脳の一部は危険を察知し、異常な程に回転を始める。しかし、一向に脳の処理は現実を把握しきれずにいた。
「・・・ちゃん、・・いちゃん、・にいちゃんってば」
五分位は経っていただろうか。棒立ちの冬也の耳に声が届く。声が聞こえると共に、段々と冬也の意識がはっきりとしてくる。
「お~い! おに~ちゃん~! おにいちゃんや~い。聞こえてますか~?」
「あ、あ、あぁ! ペスカか? ちゃんと居るのか?」
「居るよお兄ちゃん。さっきからず~と呼んでるのに」
冬也は未だ身に降りかかった異常事態を、整理しきれていなかった。ペスカの呼びかけには答えていたが、心は現実を拒否していた。
いかに知識が乏しかろうと、誰しもがイチョウや楓の木くらいは見た事が有ろう。だが、そんなありふれた木々は何処にも見当たらない。
光がほとんど差し込まない森の中には、見た事の無い毒々しい色の実を付けた木々が生えている。周囲を飾る花々は、まるで牙でも生えているかの様に花弁を開いている。
まさが本当に夢なのか?
でも、この生暖かく頬を撫でる風が、夢だとは思えない。
現実か?
現実に、こんな事が起こってたまるか!
すこしずつ冬也は現実に引き戻されていく。そして、覚醒した冬也の脳裏を過るのは、ペスカの安否であった。
明るい声は聞こえていた、だから安全だろう。しかし、この異常事態の中で何が起こっているかわからない。
冬也はいったん落ち着こうと、深呼吸をする。そして無事を確認する為に、ペスカの方へと顔を向けた。それでも動揺しているのか、冬也の声はやや上ずっていた。
「ぺ、ペスカ! 痛い所無いか? 苦しいところは? 頭とか大丈夫か?」
「平気だよ。ってゆうか平気じゃないの、お兄ちゃんでしょ? 何度呼んでも無視するし」
冬也はその時、先の出来事を思い出す。玄関を開けたら光が差した。そうだ、玄関はどうした?
冬也が慌てて振り向いても、有るはずの玄関は消えている。その時やっと、冬也は見知らぬ場所に取り残されている事を自覚した。
「なぁペスカ、玄関無くなってねえか? ってかここ何処だ?」
「う~ん。異世界?」
「はぁ? 何言ってんだペスカ! 異世界なんて有るわけ無いだろ!」
「じゃあ、お兄ちゃんは何処だと思うのよ」
「アマゾンなら行ったことが有るし、アフリカの奥地とか?」
「馬鹿だな~、お兄ちゃんは。こんな変な植物が、地球に生えてる訳無いじゃない!」
ペスカが指を指した先には、冬也も見た人食い植物に似た異様な植物。だが、呆れるほど呑気なペスカの態度に、冬也は些か疑問を感じた。
「ペスカお前、なんか冷静だな」
「う~ん。お兄ちゃんが役立たずだしね」
「何か隠してるのか? 怒らないから、全部話してみろ」
「あはは、やだな。お兄ちゃんってば、アハハ」
「話す気はねぇのか? でも、場所がわからないなら帰る事もできねぇんだぞ」
「だから、異世界って言ってるじゃない。信じてないお兄ちゃんが悪いんだよ」
ペスカの言っている事が、冬也には全く理解出来ない。異世界なんて有るはずが無い。もしかすると、冬也が感じていた胸騒ぎめいた予感は、これを示唆していたのか?
薄々とではあるが、冬也はこの場所から容易に帰る事が出来ないと感じていた。
「まあ、此処にいても仕方ないし、取り合えず森を出るか! そうすれば帰る方法も見つかるかも知れないしな」
「そうだね、お兄ちゃん。レッツ異世界!」
「元気だなペスカ。隠し事は今の内に話せよ。そうじゃ無いと、すげぇ痛いお仕置きするからな!」
そうは言っても、どちらに進めば良いのだろう。冬也が周囲を見回していると、不意にペスカを静止させる様に手を伸ばす。
「何かいる」
冬也がそう言った瞬間に、繁みの中からガサガサと音がした。冬也はペスカに目くばせをした後に、気配を消して足音を立てないように繁みに近づいた。
そして冬也はスッと繁みに手を突っ込むと、音の主を捕まえたのか繁みの中から何かを取り出した。
「ウサギ? それにしちゃあ角が生えてるけど」
その容姿は地球に存在している物と似ているが、明らかに違う生物だった。グルゥ~と低い声を上げて、鋭い歯をむき出しにしている。頭部には、刺されば致命傷確定と思える程、尖った角が生えている。
冬也が首根っこを掴んでいる為、襲われる事はなさそうだが、いつでも飛びかかれるとばかりにこちらを睨んでいる。
「いや、流石はお兄ちゃんって感じだけど」
「まぁ、この位は捕まえられねぇと、生きていけなかったしな」
「パパリンのおかげだね」
「おかげとか言うな。それよりこいつ、焼いたら旨そうだな」
「美味しいよ。この辺に生息している小動物だし」
「何にせよ、この角だけは折っとくか」
そう言うと、冬也はもう片方の手で角を握りしめ、力を込めて砕くようにして角を折った。バキッと大きな音が辺りに響き渡る。
「お~、まさか角ウサギの角を、道具も使わずに折る人は初めて見たよ」
「それなりに握力はあるからな」
「因みに何キロ?」
「右が百位で、左は百二十位は有ったかな?」
「もう、一般人じゃないね。元々、野生児そのものだけど」
「まぁでも、無事なら良いじゃないか」
「お兄ちゃん! 甘い! 甘すぎるよ!」
「何がだよ?」
「だってさ、もうわかってるよね。ここは日本でも地球のどこかでも無いんだよ。お兄ちゃんの常識は通用しないんだよ!」
「それで?」
「だから、お兄ちゃんが今までしてた狩りの方法は一旦忘れてね」
「どういう事だよ?」
「だからさ、この異世界にふさわしい戦い方を、私が伝授してあげよう」
「胡散くせぇなぁおい。お前が教えてくれる戦い方ってのはどんなんだよ!」
「ふっ、青臭いガキに教えてやるのは勿体ないが」
「いいから話せ!」
それは売り言葉に買い言葉というべきか、それとも単なる悪ふざけが過ぎたというべきか。いずれにせよ冬也は痺れを切らした様に、ペスカの頭を軽く小突く。
そしてペスカは頭を擦りながら、少し涙を浮かべつつゆっくりと口を開いた。
「魔法って言うのが存在するの。詳しくは後でちゃんと説明するから、取り合えずお兄ちゃんは使える所までやってみて」
そりゃあ、此処が本当に異世界と言うなら、魔法くらいは存在しても良いだろう。しかし、やれと言われて直ぐに実践出来るものでも有るまい。
その魔法とやらが実際に出来るのならば、今までだって何らかの形で出来たはずなのだ。十年と少しの人生の中で、命の危機に晒された事は指の数だけじゃ足りない。そんな状況下に有っても、そんな奇跡のような力は発動する事が無かった。
「先ずは集中して! 火の玉をイメージするの」
「火の玉? 何言ってんだペスカ!」
「良いから、言う事聞いて。私を信じて! 火の玉を具体的にイメージするの」
ペスカの意図が、冬也にはさっぱり理解出来ない。だが冬也はペスカに言われた通り、頭の中で炎の塊をイメージする。ガスコンロの火、燃え盛るたき火、果てや火山から噴き出るマグマ。イメージを膨らませるだけなら、多くの要素が現実には存在する。
それが実際に見たか、映像だけ見たのかは重要ではない。火の玉というのが今現在、具体的に実在する事をはっきりと認識するのが重要なのだ。
そして不思議な事に、イメージを膨らませる度に、自分の体に不思議な力が流ているのを感じた。
「イメージ出来た? そしたら手のひらに有る火の玉を投げるみたいにして」
冬也は、頭で中でイメージした炎の塊を、ボールを投げる様に意識して腕を振るう。すると自分の中に流れる力が集まり、炎の塊が具現化される。
「なんか出た! なんか出たよペスカ」
「それが魔法だよお兄ちゃん。やっぱりやれば出来るじゃない」
「魔法ってお前」
「集中してもう一回やってみよ。それと魔法を放つ時は、名前を叫ぶと上手くいくよ。頑張れお兄ちゃん」
何回か火の玉を飛ばしている時だった。不意に冬也はそれを止め、ペスカに視線を送る。
「どうやら騒ぎすぎた様だな」
「うん。囲まれてるね」
冬也と同様にペスカも気が付いていた。二人を囲う繁みには多くの生物らしき気配がする。恐らく火の玉を連発した音と、先に冬也がウサギの角を折った音に反応したのだろう。
二人を囲む生物らしきもの達からは、獲物を見る様な鋭い視線を感じる。
戦うか、逃げるか。周囲を囲まれた中、しかも相手が何物なのかわからない。そんな状況で逃げ切れるとは思えない。かと言って戦って確実に勝てるとも思えない。
そんな中、ペスカは意外なほどにあっけらかんとしていた。
「さぁお兄ちゃん! いってみよ~」
「何をだよ!」
「火の玉を連射して、奴らを殲滅するのだ~」
「おい! って」
会話を続ける暇は無かった。草むらから続け様に何かが飛び出してくる。それが角ウサギだけなら、さして緊張はすまい。
出てきたのは異様にカラフルな蛇やら、小学生低学年の男子位の大きさは有る蜘蛛やら、足が異様い巨大な空飛ぶ昆虫やらだ。
それが生物なのか虫なのかは、この際どうでもいい。それが自分達を狙って今にも食らわんと大きな顎を広げている事だ。
「くそっ、やるしかねぇか」
その数が一匹や二匹なら、冬也は軽々と対処してみせただろう。だが、その数は十匹では留まらない。
そして冬也はペスカを背に隠す様にして、覚えたての火の玉を見慣れない生物に向かって放つ。
一つ目の火は掠りもせず、空を舞って木に直撃した。二つ目の火は、かろうじて蜘蛛っぽい何かに掠り、その体を燃やし尽くした。三つ目の火はカラフルな蛇に直撃し、その体を黒こげにした。
少しずつ命中精度が上がっていく。すると、襲ってくるもの達は警戒を強め、冬也から少し距離を取り始めた。その瞬間である、冬也はペスカに対し言い放つ。
「ペスカ! 逃げるぞ!」
その言葉と共に、冬也はペスカの手を引き走りだそうとする。実に賢明な判断だ。しかし、ペスカはそれに応えようとしなかった。
「いやいや。角ウサギ程度の小動物相手に逃げるなんて、お兄ちゃんらしくないよ」
ペスカの言葉は、冬也を驚愕させたに違いない。冬也が幼少期より何度もアマゾンの奥地から生還したのは、偏に慎重であったから。
危険を冒してまで戦うのは愚の骨頂だ。それでは命が幾ら有っても足りない。それなのにペスカは逃げようとしないどころか、その場から動こうとさえしない。
おかしい。カラフルな蛇は毒を持っているに違いない。蜘蛛や飛んで来る変な虫も、同様に毒を持っているだろう。万が一にも噛みつかれたら、そこで人生は終了だ。
それに、木々が味方とは限らない。何せ花弁は牙の様なのだ。襲われてもおかしくない。今は正に四面楚歌そのものなのだ。安全である保障など何処にもない。
ましてや、自分が放つ火の玉も安全ではなかろう。木々に燃え移り森林火災になれば、一巻の終わりだ。
それなのに何故ペスカは……。
魔法とやらに全幅の信頼を置いているのか?
こんなまやかしみたいなものに?
冗談じゃない!
だが、こんな事を考えていても、事態は一向に進展しない。
そう、今やるべき事ははっきりとしている。冬也は、再び周囲に向けて魔法を放つ。一匹、また一匹と丸焦げにしていく。冬也は無我夢中であった。死を伴う緊張の中、慣れない魔法での戦いを強いられたのだ。さもありなん。
そうして半数程が姿を消した時だ、襲ってくるもの達は冬也に背を向けて逃げて行った。そして冬也は深いため息を着いて地面にへたり込む。
「お疲れ~、お兄ちゃん。やっぱりやる子だね、お兄ちゃんは」
「あぁ、ありがとうペスカ。怪我は無いか?」
「お兄ちゃんが守ってくれたし大丈夫」
冬也はペスカに危険が及ばなかった事に安堵していた。だがここは見知らぬ森、自分達を襲って来る脅威がこれで終わりとは限らない。やや怠さが残る体を奮い起こす様に、冬也は立ち上がった。
だがこの事態は、やっぱりおかしい。日本では見た事も無い植物、見た事も無い生物達、自らが放った炎の塊。現実で有る事は間違いないが、何か妙な事が起きている。それはいったい何だ。ペスカは何を隠してる。冬也の中で疑問が膨れ上がり、ペスカに問いかける。
「わかったペスカ。これ昨日の夜にやったゲームだろ。お前に付き合わされたVRゲーム。良く出来てるな~。兄ちゃん引っ掛かっちゃたよ、ビックリ大成功だな」
「お兄ちゃん、馬鹿なの? 一緒に玄関から外に出たでしょ!」
「いい加減にしないと、兄ちゃんだって怒るぞ。夕飯はお前の嫌いな、ネバネバ尽くしにするからな」
「ネバネバ嫌いはお兄ちゃんも一緒じゃない。馬鹿なの?」
「じゃあ何なんだよこの状況! お前なにか知ってんだろ?」
冬也は思わず怒鳴り散らしていた。ペスカと暮らし始めて十年間、叱る事はあっても、ここまで激しく怒鳴った事は無い。激しい口調で問い詰められ、ペスカは瞳に涙をいっぱい浮かべ俯く。
やがてペスカの瞳から、大粒の涙がポロポロと零れだした。
「ばか~! お兄ちゃんのばか~! そんなに怒鳴る事ないじゃない! 嫌い~! お兄ちゃん嫌い~!」
「ご、ごめんペスカ。兄ちゃんが悪かったごめん」
ペスカが泣き止み機嫌が収まるまで、あれやこれや色んな手で、冬也は宥めすかす。ペスカが落ち着くのを見計らうと、今度は優しく話しかける。
「なぁペスカ。知ってる事があったら、兄ちゃんに教えてくれないか?」
「ぐすっ。良いよ。ぐすっ。何が聞きたいの?」
「ここは何処だ?」
「異世界。ぐすっ」
「それじゃ話になんね~よ。そう言えば旅行、駄目になっちゃったな」
「大丈夫。ぐすっ。目的地ここだから」
「はぁ? 何言ってんだお前」
「だから、目的地はここって言ったの」
冬也は、やはりペスカの言葉の意味を、理解が出来なかった。これは唯の始まりに過ぎない事を、冬也は知らない。そしてペスカでさえも、待ち受ける困難を想像しきれていない。
やがて二人は、世界を揺るがす大波乱に巻き込まれていく。これは、兄妹の冒険の始まりに過ぎなかった。