ドラグスメリア大陸東部の東側海岸線から見える風景は、世界一美しく透き通った海が広がる。
浅瀬の海が広がる海岸線の海底にはサンゴが広がり、その美しさを際立たせていた。色とりどりの魚が、ゆらゆらと泳ぎ回る姿は、南国リゾートの楽園を思わせた。
しかし現在、その海は黒く濁り透明度は欠片も無い。ドロドロしたコールタール状の海は、時折ボコボコと音が鳴り泡を立て、弾けると共に瘴気を広げる。魚は死に絶え、コールタールの上に横渡る様に浮かんでいる。
どれだけの環境汚染が行われたら、こんなひどい状態になるのだろうか。世界一美しい海は、完全に死に絶えていた。
この場に一時間でも居れば、力の弱い土地神は正気を失うだろう。最早、この場に立つ事が許されるのは、原初の神やそれに近しい力を持つ者のみ。それだけ濃い瘴気が充満し、息をするのもままならない。
視界は悪く、薄っすらとしか前が見えない。
コールタール状の海から這い出る様に、次々とモンスターが生まれる。東側の海岸沿いで戦うクロノスは、地上だけではなく海から現れるモンスターに囲まれていた。
全方向からモンスターが襲いくる。濃密な瘴気が纏わりつき、動く事も儘ならない。そんな地獄の中で、唯一クロノスだけが、正式な神ではなく眷属であった。
しかし、力の弱い見習神の様な存在にもかかわらず、クロノスは懸命に抗っていた。
例え浄化しても、直ぐに瘴気が広がる。溢れるモンスターは止まる事が無い。瘴気を清浄化してマナを大地に還す、魔術式をクロノスは行使し続ける。
しかし、永遠と続く様なモンスターの攻撃に晒され、クロノスは辟易していた。
クロノスが強い力を使えないのは、女神セリュシオネが訳も無く制限をしているからではない。
通常の生物には、生命の核となる魂魄がある。元々エルフとして生を受けたクロノスも同様である。
セリュシオネは、クロノスの魂魄を己の神気で満たし、神格へと昇華させた。
変わったばかりの神格は、余りに小さく脆い。通常であれば、何千年、何万年の時を経て、神格を大きく育てていく。
クロノスの場合、眷属として生まれ変わってから、数か月も時間が経過していない。再び肉体を得る事自体に無理が有る。大きな力を使えば、新たに得た身体どころか神格すら破壊しかねない。
それはセリュシオネに対する、許されざる背信である。故にクロノスは大きな力を行使出来ず、己が行使できる力の範囲で戦うしかなかった。
眷属として新たな生を受けたスールとて、神格の脆さは同様である。
冬也はパスが繋がっているが故に、スールの限界を理解していた。そして冬也は、自分の力を無尽蔵にスールへ渡してはいない。
スールもそれは理解をしている。だからこそ、相手の力を奪い己の力に変える技を使った。
スールと同じ技をクロノスが使えるのか? 技を使うだけなら可能である。
スールの場合は、冬也によって蘇ったのが正しい。そして、肉体はエルフとは存在自体が異なる、地上最強の生物エンシェントドラゴン。対してクロノスは、新たに得た神の身体。当然ながら神格と同様に、新しいクロノスの身体も脆弱である。
スールは肉体を持つが故に、浄化した力は己のマナとして使用している。
もしクロノスが浄化した力を神気に変換し、それを取り込み過ぎれば、身体は失われ神格も壊れる可能性がある。山の神が警告を発したのも、当然の行為かも知れない。
大規模浄化の力を邪神に利用され、モンスターの力が強まっている。遅々として進まない浄化、邪神の力が増すだけの現状は、クロノスを大いに苛立たせた。
「この様な所で遊んでいる訳にはいかんのだがな」
クロノスは、かつて邪神ロメリアに支配され、ラフィスフィア大陸に戦乱を巻き起こした戦犯である。長い時をかけて、ゆっくりとクロノスの心は変貌させられた。
元のクロノスは、平和を愛し、仲間を愛し、自然を愛する、温かい魂の持ち主であった。
当時のセリュシオネは、多くの死者が出た事で多忙を極めていた。故に、使える手駒が増える事を欲した。但し、天才クロノスの非凡な魔法知識までは求めていなかった。
ならば何故、セリュシオネはクロノスを眷属とした時に、なぜ記憶を経験を残したのか?
当然、己の神気で魂魄を支配したのだから、記憶や経験を奪って神格化するのも容易であった。寧ろ、全てをリセットした方が、クロノスにとっても幸運だったろう。
罪を償う機会を与えたと言えば、聞こえは良いだろう。いつ消えるともわからない罪、悔恨の念を抱きながら、神として生きなくてはならない。それは、クロノスを永劫に縛る呪いと言っても、過言では無かろう。
だがクロノスが、セリュシオネに語ったのは、たった一言であった。
「感謝します。私は罪を償い続ける事が出来る」
そしてセリュシオネは、その言葉を信じた。
原初の神々とそれに対抗する神々が一触即発の状態である構図で、セリュシオネは唯一中立の存在である。そのセリュシオネがドラグスメリア大陸の混乱にクロノスを送り込んだのは、これ以上の死者を出さない為であり、これ以上の多忙を阻止する為に他ならない。
同時にセリュシオネは、クロノスを送り込むのが適任だとも思っていた。
この地で奮闘しているのは、かつてのライバルであるペスカ。そのペスカと、双璧を成す魔法の天才であるクロノス。そのクロノスは、償いの機会を欲している。
「私の償いは、始まってすらいない。クラウス、お前は異界で奮闘しているのだろう。この兄が負けられるはずが無かろう。何よりもあの小娘に大きな顔をされるのは、非常に腹立たしい!」
クロノス自体、理解をしていない。いや、理解をしているが、認めたくないのが正解かも知れない。
クロノスは、ペスカをライバルの様に感じていた。だが、それは格下では有り得ない事。同格かそれ以上でなければ、意識すらしないだろう。それだけ、クロノスにとってペスカは大きな存在だった。
それはセリュシオネが描いた、もう一つの思惑である。
中途半端な神よりも、この場にはクロノスが相応しい。この場にクロノスを送れば、ペスカへのライバル心を掻き立てるだろう。そしてクロノスの強い意志は、現状を打破する鍵となるだろう。
人間でありながら神の一柱として、原初の神にも劣らない力を見せるペスカ。それに対し、モンスターに手を焼くクロノス。
クロノスは、己の不甲斐なさを恥じると共に、ペスカとの差を埋めようと必死に頭を働かせた。
「私が殺した数だけ、私は救わねばならん! 私が壊した数だけ、私は直さねばならん! 小娘だけに任せて、こんな場所でのうのうとしている場合では無いのだ! 負けられん。負けられんよなぁ!」
クロノスは叫んだ。
そして使用限界のギリギリまで、神気を高める。例え大きな力が使えなくても、クロノスの武器はそこにはない。
知恵と知識への欲求こそが、生前のクロノスを支えてきた大いなる武器。それこそが、ラフィスフィア大陸で最大の国家、魔道大国メルドマリューネを造り上げたのだ。
海からは、クラーケンを模した様なモンスターが沸き上がる。シーサーペントを模した様なモンスターも、海面上を埋め尽くす。大地には、多数の醜悪なモンスターが、大波の様に激しくうねり押し寄せる。
どれだけ強大で凶悪そうなモンスターに囲まれても、クロノスの心は微塵も怯まない。
「全てをあるべき姿に。淀んだ海、淀んだ大気、荒れた大地。美しい自然は美しいままに。全てはあるがままに。眠れる力よ、眠れる想いよ、今ここに甦れ!」
クロノスが思い描いたのは、生命とマナの循環。命がやがて土に還る様に、海が生命を創り出す様に。
自分は単なる鍵である。鍵は本来有るべき力を解放させるだけでいい。淀みは浄化され、マナは有るべき場所へ。その循環が連鎖し、周囲の淀みを浄化させていく。正しい循環が、全てを清浄へと変えていく。
自分は単なる引き金である。己の力を使わずとも、大地には大地母神ミュールの力が眠っている。その力を呼び覚ませばいい。ただそれだけで、全てが変わっていく。
クロノスが唱えた呪文は、周囲のモンスターを消し去っていく。
大地と海、そして空から、多くのモンスターが姿を消す。大気から瘴気が失われ、大地には緑が芽生え始める。海は再び息を吹き返し、美しさを取り戻していった。
浄化は広がっていく。東側の海岸線沿いが、次々に浄化される光景をみて、クロノスは再び呟いた。
「一矢報いたかロメリアよ。まだまだこれからだ。必ず息の根を止めて見せる」
クロノスの口角は少し吊り上がっていた。
戦いは未だ終わらない。しかし、各所で戦果が上がりつつある。ペスカが、冬也が、魔獣達が、クロノスが、大いなる逆境を跳ね返していた。
そして、逆境に立ち向かう存在は、北側の海側の海岸沿いにも存在していた。
浅瀬の海が広がる海岸線の海底にはサンゴが広がり、その美しさを際立たせていた。色とりどりの魚が、ゆらゆらと泳ぎ回る姿は、南国リゾートの楽園を思わせた。
しかし現在、その海は黒く濁り透明度は欠片も無い。ドロドロしたコールタール状の海は、時折ボコボコと音が鳴り泡を立て、弾けると共に瘴気を広げる。魚は死に絶え、コールタールの上に横渡る様に浮かんでいる。
どれだけの環境汚染が行われたら、こんなひどい状態になるのだろうか。世界一美しい海は、完全に死に絶えていた。
この場に一時間でも居れば、力の弱い土地神は正気を失うだろう。最早、この場に立つ事が許されるのは、原初の神やそれに近しい力を持つ者のみ。それだけ濃い瘴気が充満し、息をするのもままならない。
視界は悪く、薄っすらとしか前が見えない。
コールタール状の海から這い出る様に、次々とモンスターが生まれる。東側の海岸沿いで戦うクロノスは、地上だけではなく海から現れるモンスターに囲まれていた。
全方向からモンスターが襲いくる。濃密な瘴気が纏わりつき、動く事も儘ならない。そんな地獄の中で、唯一クロノスだけが、正式な神ではなく眷属であった。
しかし、力の弱い見習神の様な存在にもかかわらず、クロノスは懸命に抗っていた。
例え浄化しても、直ぐに瘴気が広がる。溢れるモンスターは止まる事が無い。瘴気を清浄化してマナを大地に還す、魔術式をクロノスは行使し続ける。
しかし、永遠と続く様なモンスターの攻撃に晒され、クロノスは辟易していた。
クロノスが強い力を使えないのは、女神セリュシオネが訳も無く制限をしているからではない。
通常の生物には、生命の核となる魂魄がある。元々エルフとして生を受けたクロノスも同様である。
セリュシオネは、クロノスの魂魄を己の神気で満たし、神格へと昇華させた。
変わったばかりの神格は、余りに小さく脆い。通常であれば、何千年、何万年の時を経て、神格を大きく育てていく。
クロノスの場合、眷属として生まれ変わってから、数か月も時間が経過していない。再び肉体を得る事自体に無理が有る。大きな力を使えば、新たに得た身体どころか神格すら破壊しかねない。
それはセリュシオネに対する、許されざる背信である。故にクロノスは大きな力を行使出来ず、己が行使できる力の範囲で戦うしかなかった。
眷属として新たな生を受けたスールとて、神格の脆さは同様である。
冬也はパスが繋がっているが故に、スールの限界を理解していた。そして冬也は、自分の力を無尽蔵にスールへ渡してはいない。
スールもそれは理解をしている。だからこそ、相手の力を奪い己の力に変える技を使った。
スールと同じ技をクロノスが使えるのか? 技を使うだけなら可能である。
スールの場合は、冬也によって蘇ったのが正しい。そして、肉体はエルフとは存在自体が異なる、地上最強の生物エンシェントドラゴン。対してクロノスは、新たに得た神の身体。当然ながら神格と同様に、新しいクロノスの身体も脆弱である。
スールは肉体を持つが故に、浄化した力は己のマナとして使用している。
もしクロノスが浄化した力を神気に変換し、それを取り込み過ぎれば、身体は失われ神格も壊れる可能性がある。山の神が警告を発したのも、当然の行為かも知れない。
大規模浄化の力を邪神に利用され、モンスターの力が強まっている。遅々として進まない浄化、邪神の力が増すだけの現状は、クロノスを大いに苛立たせた。
「この様な所で遊んでいる訳にはいかんのだがな」
クロノスは、かつて邪神ロメリアに支配され、ラフィスフィア大陸に戦乱を巻き起こした戦犯である。長い時をかけて、ゆっくりとクロノスの心は変貌させられた。
元のクロノスは、平和を愛し、仲間を愛し、自然を愛する、温かい魂の持ち主であった。
当時のセリュシオネは、多くの死者が出た事で多忙を極めていた。故に、使える手駒が増える事を欲した。但し、天才クロノスの非凡な魔法知識までは求めていなかった。
ならば何故、セリュシオネはクロノスを眷属とした時に、なぜ記憶を経験を残したのか?
当然、己の神気で魂魄を支配したのだから、記憶や経験を奪って神格化するのも容易であった。寧ろ、全てをリセットした方が、クロノスにとっても幸運だったろう。
罪を償う機会を与えたと言えば、聞こえは良いだろう。いつ消えるともわからない罪、悔恨の念を抱きながら、神として生きなくてはならない。それは、クロノスを永劫に縛る呪いと言っても、過言では無かろう。
だがクロノスが、セリュシオネに語ったのは、たった一言であった。
「感謝します。私は罪を償い続ける事が出来る」
そしてセリュシオネは、その言葉を信じた。
原初の神々とそれに対抗する神々が一触即発の状態である構図で、セリュシオネは唯一中立の存在である。そのセリュシオネがドラグスメリア大陸の混乱にクロノスを送り込んだのは、これ以上の死者を出さない為であり、これ以上の多忙を阻止する為に他ならない。
同時にセリュシオネは、クロノスを送り込むのが適任だとも思っていた。
この地で奮闘しているのは、かつてのライバルであるペスカ。そのペスカと、双璧を成す魔法の天才であるクロノス。そのクロノスは、償いの機会を欲している。
「私の償いは、始まってすらいない。クラウス、お前は異界で奮闘しているのだろう。この兄が負けられるはずが無かろう。何よりもあの小娘に大きな顔をされるのは、非常に腹立たしい!」
クロノス自体、理解をしていない。いや、理解をしているが、認めたくないのが正解かも知れない。
クロノスは、ペスカをライバルの様に感じていた。だが、それは格下では有り得ない事。同格かそれ以上でなければ、意識すらしないだろう。それだけ、クロノスにとってペスカは大きな存在だった。
それはセリュシオネが描いた、もう一つの思惑である。
中途半端な神よりも、この場にはクロノスが相応しい。この場にクロノスを送れば、ペスカへのライバル心を掻き立てるだろう。そしてクロノスの強い意志は、現状を打破する鍵となるだろう。
人間でありながら神の一柱として、原初の神にも劣らない力を見せるペスカ。それに対し、モンスターに手を焼くクロノス。
クロノスは、己の不甲斐なさを恥じると共に、ペスカとの差を埋めようと必死に頭を働かせた。
「私が殺した数だけ、私は救わねばならん! 私が壊した数だけ、私は直さねばならん! 小娘だけに任せて、こんな場所でのうのうとしている場合では無いのだ! 負けられん。負けられんよなぁ!」
クロノスは叫んだ。
そして使用限界のギリギリまで、神気を高める。例え大きな力が使えなくても、クロノスの武器はそこにはない。
知恵と知識への欲求こそが、生前のクロノスを支えてきた大いなる武器。それこそが、ラフィスフィア大陸で最大の国家、魔道大国メルドマリューネを造り上げたのだ。
海からは、クラーケンを模した様なモンスターが沸き上がる。シーサーペントを模した様なモンスターも、海面上を埋め尽くす。大地には、多数の醜悪なモンスターが、大波の様に激しくうねり押し寄せる。
どれだけ強大で凶悪そうなモンスターに囲まれても、クロノスの心は微塵も怯まない。
「全てをあるべき姿に。淀んだ海、淀んだ大気、荒れた大地。美しい自然は美しいままに。全てはあるがままに。眠れる力よ、眠れる想いよ、今ここに甦れ!」
クロノスが思い描いたのは、生命とマナの循環。命がやがて土に還る様に、海が生命を創り出す様に。
自分は単なる鍵である。鍵は本来有るべき力を解放させるだけでいい。淀みは浄化され、マナは有るべき場所へ。その循環が連鎖し、周囲の淀みを浄化させていく。正しい循環が、全てを清浄へと変えていく。
自分は単なる引き金である。己の力を使わずとも、大地には大地母神ミュールの力が眠っている。その力を呼び覚ませばいい。ただそれだけで、全てが変わっていく。
クロノスが唱えた呪文は、周囲のモンスターを消し去っていく。
大地と海、そして空から、多くのモンスターが姿を消す。大気から瘴気が失われ、大地には緑が芽生え始める。海は再び息を吹き返し、美しさを取り戻していった。
浄化は広がっていく。東側の海岸線沿いが、次々に浄化される光景をみて、クロノスは再び呟いた。
「一矢報いたかロメリアよ。まだまだこれからだ。必ず息の根を止めて見せる」
クロノスの口角は少し吊り上がっていた。
戦いは未だ終わらない。しかし、各所で戦果が上がりつつある。ペスカが、冬也が、魔獣達が、クロノスが、大いなる逆境を跳ね返していた。
そして、逆境に立ち向かう存在は、北側の海側の海岸沿いにも存在していた。