通常ドラゴンが空を飛ぶ時には、高度を上げる。それは、余り高度を下げると、鳥達に被害を及ぼすからである。
 
 しかし今回、ペスカと冬也を背に乗せたスールは、かなり高度を下げて飛んでいた。
 それは、地上での異変を発見し易くする為と、異変があった時には直ぐ駆け付けられる様にする、二つの意味があった。

 スールの飛ぶ速度は早く、直ぐにミューモの支配領域である大陸の西が見えてくる。そしてペスカは、スールに速度を落とす様に告げる。

 支配領域の境界線近くでは、魔獣が南に向い歩みを進める様子が見えた。

 既にスールの眷属が、魔獣達の避難誘導を始めている。しかし遠目からでも、力尽きて倒れた魔獣が点在しているのがわかる。
 多くは息絶えたのだろう。逃げている魔獣達の数は、予想以上に少ない。しかも一見する限り、五体満足の者は更に少ない。
 残った魔獣達は深い傷を負い、また四肢の一部を失い歩行もままならないまま、生き延びようと必死にもがき、前に進み続けていた。

 寧ろ、逃げ延びる事が出来たのなら幸運なのだろう。

 自分の命を一番大切だと考えるのは、人間と魔獣にそれほど大差はない。ただ、弱肉強食のドラグスメリア大陸では、弱者が捨て置かれるのはごく自然な事である。
 傷つき倒れた魔獣は、同種であろうと捨てていく。わざわざ手当てをする事は滅多に無い。

 それが、例え親兄弟であろうともだ。

 何故なら、傷付いて倒れる位の弱者なら、これから起きるだろう困難を乗り越える事は出来ない。それなら、早々に死んで肉体を地に還した方が、生命の循環の役に立つと考えるからである。

 多くの魔獣達は、そうして死という観念を受け入れてきたのだ。

 有史以来、底辺を歩み続けていたゴブリンや、争いを嫌うブルが、この大陸では異質な存在だ。改めてペスカと冬也は、この大陸での常識を思い知らされる。
 種族が変われば、倫理観が異なる。世界の常識は一つでは無い。倫理観を押し付ければ、諍いの元になる。
 
「でもさ、助けたいよね」
「あぁ。そうだな」
 
 ペスカの呟きに、冬也が頷いた。

 理解はしていたつもりである。しかし、この大陸の常識をそのまま受け入れる気は、ペスカと冬也には無かった。

「スール!」
「ペスカ様。お気持ちはご察ししますが、今は力をお控え下され」
「怒るよ、スール!」
「ペスカ様、よくお聞き下され。ここにはミューモの眷属がおりません。北でも動乱が起きています。逃げる先は、南しかないのです。ミューモの眷属がいないと言う事は、敵がそれだけ強大である証拠。ここで、お二人に無用な力を使わせる訳にはいかんのです」
「じゃあ、どうすんだスール。てめぇ、俺の部下だったよな。何もしねぇで素通りはさせねぇぞ」

 確かにスールの言葉は尤もである。未曾有の事態に備え、万全の状態であるべきだろう。正論を説かれて、ペスカは口を噤む。
 しかし、冬也は黙っていなかった。ペスカの代わりに放たれた言葉は、怒気が籠っている。冬也の言葉を受け、スールは溜息をつく。そして、静かに口を開いた。

「主よ、馬鹿にしておられるのか? 儂はこれでも一の眷属。あの半端者とは違います。主の意志は必ず実現させますぞ」
「お、おぅ頼む。んで半端者って?」
「まぁ、背にてご覧くだされ」

 スールはやや声を荒げる。そして、冬也の問いかけを聞こえなかったかのように振舞うと、呪文を唱え始めた。

「傷つきし者に癒しを、失いし者に祝福を。全ては回帰しあるべき姿へ」

 スールの黄金の鱗が輝きを増す。同時にスールからごっそりと大量のマナが失われるのが、背に乗るペスカ達には理解出来る。
 
 魔獣達が眩い光に包まれる。そして、深く抉られた魔獣の傷が塞がっていく。失った四肢が蘇る。魔獣達は、奇跡の瞬間を迎えた。

 その光景は、ペスカをして驚きに声が出せなかった。

 人と違う圧倒的なマナを有する、原初のドラゴンだけに許された魔法。それは、生前のペスカが長年研究しても辿り着かなかった、時を操る魔法であった。

「念の為ですが、ペスカ様。人の身でこの魔法は使えません。マナが足りないのは無論の事。使えば大きな代償を求められるでしょうな」
 
 膨大なマナと、永遠にも近い寿命を持つエンシェントドラゴンだから出来る、神にも等しい技。人が使えば、たった数秒時間を戻すだけでも、寿命を大きく削る。
 スールが行った様な大規模な治療を行うなら、人の命が何人有っても足りないだろう。時を操る行為は、それだけのエネルギーを要する。

 時を操る魔法を使用出来るとはいえ、治療程度の局所的な使用のみしか許されていない。もし許容された以上の使用をすれば、神から制裁を加えられる。
 手当たり次第に使用すれば、運命を大きく変える事になる。地上に大きな影響を与えるのだ、当然の処置であろう。

 神に逆らう事は、自らの存在を消滅させかねない。そして未だかつて、神に逆らったエンシェントドラゴンは存在しない。

「流石に儂も、飛ぶので精一杯です。お二人を運ぶだけしか出来なくなりそうですな」

 スールは、少し苦笑いする様に呟いた。スールの意図を慮ってか、冬也は頭を下げた。

「スール、わりぃ」
「主よ、何を仰る。主の望みは我が望み。ただ儂は、肝心な所で主のお役に立てないのが、悔しいのです。主とペスカ様から頂戴した神気を、未だ使いこなせない自分が不甲斐ないのです」

 冬也は感謝の代わりに、少しスールの背を撫でた。スールは冬也の温かい手の感触に、笑みを深めた。

 そして魔獣達は騒然としていた。なにせ、光に包まれた瞬間に傷が癒え、失った四肢が蘇ったのだ。

 ただ、スールの行為は決して単なる恩情では無い。

 魔獣達が自身の手で、この混乱する大地に平和を齎す。それを、主である冬也が望んでいる。「傷は癒してやる、だから戦え。恩義には必ず報いろ」、そんな思いが籠められていた。

 スールの眷属とて、異例の事態に驚きを隠せないでいた。制裁を受けてもおかしくない事を、スールは行ったのだ。
 しかし、直ぐに長であるスールの思惑を理解する。騒めく魔獣達を、スールの眷属がすぐさま鎮めた。そして、魔獣達を鼓舞した。「悔しかったら抗え、恩に答えろ」と。
 
 魔獣達から咆哮が上がり始める。

 それは、ただ傷つき逃げるしか無かった事への無念だろうか。抗う機会を与えてくれた事への感謝だろうか。それとも、常に強者足らんと戦う魔獣達の、誇りを取り戻す意志の表れだろうか。

 痛みと共に、魔獣達から悲痛の表情が消えていた。

 魔獣達の様子を見ていたペスカは徐に口を開く。事前に聞いていた情報とは、少し異なる状況にペスカは違和感を感じていた。

「ねぇスール。おっきい魔獣がいないよ。みんなちっちゃいじゃない」
「確かに違和感を感じますな。サイクロプスは、単身で暮らしますから、いざ知らず。西には他にも大型の魔獣はいるはずですからな」
「う~ん、何か嫌な予感がするね。急ごう」
「承知しました、ペスカ様」

 嫌な予感。それは、大体最悪の状態で起きるもの。
 西の地ではミューモやその眷属以外にも、状況を打開しようと抗う者がいる。しかし、闇に落ちた四体の魔獣を相手に果敢に挑む勢力は、窮地を迎えていた。