「冬也、冬也!」

 ある少年が、自分の机に突っ伏して寝ている友人を、軽く呼びかけながら体を軽く揺する。そして冬也と呼ばれた少年は、ゆっくりと頭だけを起こし辺りを見回した。
 毎日通っている学校の自分のクラス、そして授業が終わって談笑しているクラスメイト、実に見慣れた風景だ。
 冬也は目覚めてばかりで働かない頭を懸命に動かし、状況を整理しようと試みる。しかし、どうしても頭が追いついていかない。

「あぁ? 何処だここ?」
「寝ぼけてんの? 授業はとっくに終わったよ」
「翔一? はぁ? だって今さっきまで……」

 そう言うと、冬也は感触を確かめる様にして自分の肩を摩る。

 何ともない。傷一つない。何故……。

 本来、それ自体は不思議な事でも何でもない。しかし、冬也は納得がいかないのか、少し困惑した表情で顔を上げて翔一を見上げた。そして翔一は少し心配そうな表情を浮かべて、冬也の顔を覗き込む。

「何か夢でも見てた? ずっとうなされてたし。それに寝汗、酷いよ」

 翔一の言葉に促される様に、冬也は自身の体を眺める。夏でもないのにシャツはぐっしょりと濡れている。寝汗と呼ぶには流石に汗が出すぎだ。それに翔一はうなされてたと語った。

 おかしい、何かが変だ。だってさっきまで俺は……。
 
 もしこれがドッキリならば、手が込みすぎだ。確かに寝ていたんだろう。あれは全て夢だったんだろう。そうでなければ、あの化け物自体に説明がつかない。

「なぁ、翔一。俺はさっきまでぺスカといたんだ」
「夢の中で?」
「それで、変な怪物に殺されそうになってた」
「冬也を? 噓でしょ? ナイフ一本握りしめて、アマゾンの奥地で何か月も生き延びた事が有るのに?」
「本当なんだって」
「でも夢だよね」
「本当に夢だったのかな?」
「本当にも何も、さっきまで寝てたでしょ?」

 冬也は未だ判然としないモヤモヤを吹き飛ばすように、体を起こして頭を左右に振るう。夢にしてはリアルすぎる。あの恐怖や痛みは、実際に有った事に様に思えてならない。
 暫く二人の間に静寂が流れる。冬也は、じっと考え込む様にして眉間に皺を寄せ、流れる空気に居た堪れなくなったのか、翔一は直ぐに話題を変えようとした。
 
「そう言えばさ。ぺスカちゃんとの旅行って、今日の放課後に出発するんだよね」
「あぁ。ぺスカの身内ってのに会いにな」
「また、そんな他人行儀な。冬也にとっては義理の母親だろ?」
「義理の母親? 馬鹿言ってんじゃねぇよ! 俺にとっちゃあ赤の他人だし、大事な娘を何年も放りっぱなしの野郎に、母親の資格なんてありゃしねぇんだよ!」
「女性だから野郎じゃないよ」
「んなこたぁ、どうでもいいんだよ!」

 翔一は話題のチョイスに失敗したとばかりに頭を掻く。翔一の知る冬也は、比較的に口が悪い事がしばしばだ。しかし、彼は滅多に声を荒げたりしない。自分の身内が大切な友人が危険に晒されない限りは。
 さらに重くなった空気を何とかしようと翔一は試みるが、こんな時に限って良い話題が見つからない。ただ、この時ばかりは様子が違った。

 教室の扉が勢い良く開け放たれる。するとクラスメイト達は一斉に、教室の入口に向かって視線を送る。
 それも当然だろう。入口に立っていたのは、光輝く様な金髪に端正な顔立ち、透き通った青い瞳は宝石の様に美しい、そんな美少女であった。

 周囲の注目を一身に浴びながら、美少女はつかつかと冬也の席まで歩いてくる。そして爽やかな笑顔で冬也に語りかけた。

「ねぇお兄ちゃん。もう帰る時間だよ」
「やあ、ペスカちゃん」
「おっす、翔一君。相変わらず、お兄ちゃんラブかね?」
「何言ってんのペスカちゃん! どっからそんな話になるのさ!」
「否定する所が益々怪しいね。だが、冬也はやらん!」
「うるせぇ、ペスカ! どこの頑固おやじだよ!」
「あはは。いいツッコミだね、お兄ちゃん」
「所で、二人はもう出かけるの?」
「あぁ、まあ。そんな時間か」
「所でさ。二人共、旅行の準備は?」
「昨日の夜中に俺が終わらせた」
「あぁ、だから授業中に居眠りを……」
「おぉ? 翔一君ってば、やけにお兄ちゃんを庇うじゃないか」
「いや、だってお前さ。何にもしてねぇじゃん」
「してなくないよ! 私は一番大事な準備をしたんだもん。すっごく疲れたんだもん」
「はぁ、わかったよ。取り合えず帰るか。悪いな翔一」

 冬也は『ごめん』とばかりに軽く手を挙げてから、席を立った。

 立ち上がると冬也の異質さがよくわかる。何せ百八十センチは超えているだろう身長と、余計な脂肪をそぎ落としたがっしりした体躯は、プロの格闘家と比べても遜色は無い。むしろ圧迫感さえ感じる。そんな冬也の腕にぺスカはしがみ付き、早く帰ろうとばかりに腕を引っ張った。
 
 二人が並べば美女と野獣か? いや、それは言いすぎだ。冬也は短髪に切り揃えた黒髪で、凛々しい顔立ちをしており、見た目であれば決して見劣りする程ではない。
 どちらにせよ、二人が義理の兄妹であると知らなければ、仲の良さそうなカップルにも見えたであろう。

「じゃあな、翔一」
「うん。気を付けて」
「土産は……。えっと、目的地がよくわからねから、適当に買ってくる」
「はぁ、冬也らしいね。期待しないで待ってるよ」

 そうして冬也は翔一に手を振り教室を出ていく。その間も、ぺスカは周囲の注目を集めていた。

「相変わらずモテるよな」
「誰? お兄ちゃんが?」
「俺な訳ねぇだろ、お前だよぺスカ」
「ふふっ。実はお兄ちゃんって、自分が人気有るのを知らないんでしょ?」
「ばかっ、俺の場合は厄介事を押し付けられてるだけだって」
「そうかなぁ」
「そうだよ」
「まぁ、友達は多い方が良いよね」
「お前はモテる割に友達が少ないからな」
「お~、言うじゃない。喧嘩か? 買ってやるぞ!」
「おいっ、ちょっと止め、止めろ」

 痛い所を突かれてムッとしたのか、ぺスカは冬也の脇をくすぐり始める。それは傍から見ればカップルそのものに見えるだろう。本人達がどの位それを自覚しているのかまでは知らないが。

 実際の所、冬也は面倒見の良さ故か、日常的に男女問わず多くの友人から相談を受けている。対してペスカは、アイドルでも見るかの様に、遠巻きに眺められている事の方が多い。
 厄介事と言う通り、冬也が友人達とは『男女間のそれ』とは少し遠い関係性に有るのに対し、ぺスカは告白された回数は数えきれない程である反面、友人は数える程しか居なかった。
 
「寂しい青春だな、ったく」
「なんかよくわかんない格闘技の練習ばっかりしているお兄ちゃんに言われたくないもん」
「今時は告白だって、呼び出したりしないんだろ?」
「そっ、通知一つでチョロンだよ。味気ないよね。ドキドキ感がないよね」

 何気ない会話を続けながらも、ぺスカは周囲に向かって笑顔を振りまいている。それこそが、ぺスカを学園のアイドル足らしめている要因なのだろう。
 やがて校門を出て、二人は帰宅の途に着く。周囲の反応は校内にいる時と然程変わりはしない。もう慣れているのか、ぺスカは気に留める事もなく、冬也との会話を楽しんでいた。

 一方、冬也と言えば未だに夢の事が頭の中から離れない様で、時折「お兄ちゃん、聞いてる?」とぺスカに問われていた。
 不安。それが冬也を包みこんでいる正体だろう。『予知夢』など有りえない、仮に夢が現実になる事が有ったとしても、『あんなとんでもない現実』が起こるはずがない。そう考えても、一抹の不安は拭い切れない。

 自宅につけば直ぐに出発だ。いつまでも変な夢に囚われていては、せっかくの旅行が台無しになる。だが、どうにも頭の中からモヤモヤとした物が無くなってくれない。

 ただ、嫌な予感というものは、当たって欲しくない時に限って当たるもの。

 二人は自宅に着くと、交代でシャワーを浴び私服に着替える。そして旅行用の鞄を肩に担ぎ、玄関へと向かう。
 その途中、ぺスカが目を瞑って小声で何かを呟いている。もし冬也がそれに注視してさえいれば、これから来るであろう事に対する心構え位は出来ただろう。
 しかし、ペスカは小さい頃から不思議な行動をする事が多い。故に冬也は、いつもの事とそれを軽く流してしまった。
 
 玄関に辿り着くと、ぺスカはゆっくりと目を開ける。そして冬也がノブをガチャリと回す。その瞬間、ぺスカからニヤリとした笑みがこぼれていた。
 扉を開けると光に包まれ、ペスカと冬也を吸い込んでいく。光が消えると、そこは見知らぬ森の中だった。