空が療養所に向かった時に、翔一は同行をしなかった。療養所がどんな状態になっているか、容易に想像はつく。散々地獄絵図を見て来たのだ。更なる地獄を見る気にはとてもなれなかった。

「凄いな、空ちゃんは。僕には無理だよ」

 翔一とて、死線を潜り抜けた一員である。洗脳された人々を鎮め、モンスターを退治し、ゾンビを浄化して来た。旧メルドマリューネの首都でペスカと冬也を助け、女神フィアーナから褒辞を賜わった英雄の一人である。

 翔一はこのロイスマリアという異世界に訪れて、人の尊厳は簡単に踏みにじられる事を知った。

 ミノタウロスの祖先は、確かに罪を犯したのだろう。女神の怒りに触れて、祖先達は姿形を変えられた。その罰は子々孫々にまで受け継がれている。彼らは人に戻る事はないだろう。

 邪神は人間を操り、怪物を操り、死者でさえも操った。人間は愚かで矮小な生き物である。確かにそうかも知れない。人間に太刀打ち出来るはずがない。相手は神なのだから。

 洗脳されて戦う事が、どれだけ虚しい事なのか。

 争う必要が無いのに、争いたくも無かったろうに、強制的に戦わされる。殺し合いをさせられる。勝っても負けても、残されるものは何だろう。勝利の達成感など有りはしまい。敗北の屈辱すらも無いだろう。
 ましてや死んでも、死体を操られて、戦わされるのだ。死者への冒涜、それ以前の問題ではないのか。
 
 戦時の中、皆が怯えながら暮らし、徐々に狂気していった。戦場で狂気に晒され脱走し、暴虐を尽くした者もいた。
 モンスターは、罪もない人々を蹂躙していった。惨たらしい死体は、脳裏に焼き付いている。忘れる事は出来ないだろう。

 人の中に淀む悪意だけを切り捨てる事は出来た。怪物相手なら、躊躇いなく銃口を向ける事が出来た。
 穏やかな日本とは違うのだ。人の死が簡単に訪れる世界だから、命を守る為の戦いが出来た。

 悪夢としか言いようがない、戦いの日々を終えた。だが、現実には戦いの爪痕は、残酷な程に深く残されている。
 当たり前だろう。都市が破壊され、多くの人が死んだのだ。復興するのに、どの位の時間がかかる。どれ程の労力がいる。

 邪神を倒した先で、明るい未来が訪れればいい。だが、深い傷を負った人々はいるはずなのだ。肉体的には勿論の事、精神的にも。
 しかし、そう簡単に前を向けるものだろうか。人はそんなに強くは無い、少なくとも自分は。

 葛藤している空を、車内で見ていた。悩んでも尚、答えを出す為に彼女は一歩を踏み出した。 

「僕には、何が出来るんだろうね」
 
 独り言ちる翔一は、宿に戻る事無く街をふらついた。ぼんやりと頭を巡らせ、翔一は運河に辿り着く。
 ただ何となく目に映る風景は、煌めく川面と両岸に咲き乱れる色とりどりの花々、人々が笑い合う姿だった。

「綺麗だ」

 思わず翔一の口から、言葉が零れる。翔一は、運河をぼうっと眺め、少し昔の事を思い出した。 

 翔一は容姿の良さと、人当たりの柔らかさで、異性から人気があった。

 人当たりの良さと言えば、聞こえは良いかも知れない。人と争えない。人と競えない。それこそ、議論を戦わせるのも好きでは無い。

 それは翔一にとって、大きなコンプレックスであった。

 そのせいか、相手と争う状況になれば、翔一自身が一歩引く事が多かった。翔一を妬む者からすれば、恰好の的であろう。幼少の頃は、虐めに発展する事もあった。
 
 翔一は、非常に頭の回転が速い。器用で容量が良く、大抵の事は何でも人並み以上にこなす。だが、コンプレックスのせいで、自分に自信が持てなかった。

 そんな時に出会ったのが冬也だった。

 中学一年の時だった。
 いつもオドオドとし、背を丸めている翔一は、ガラの悪い連中から格好の的になっていた。屯している連中に目を付けられ、お金を巻き上げられる事は、しばしばあった。
 
 ある日の事、クラスメイト数人から言い掛かりをつけられた翔一は、蹴る殴るの暴行を受けていた。他のクラスメイト達は、巻き込まれる事を恐れて、見て見ぬふりをしていた。
 そして、たまたま廊下を通りかかり、教室内の光景を見た冬也が止めに入った。
 
「てめぇ達、何してやがんだ! 止めろ!」
「あぁ? 東郷、てめぇには関係ねぇだろ、引っ込んでろや。調子乗ってっとぶち殺すぞ、コラァ!」

 冬也が止めに入った事で、暴行を加えてたクラスメイトは、ヒートアップする。翔一は、冬也に声をかけようとした。「気にしないで良い。いつもの事だ。僕だけ殴られればそれで良い」と、だが恐怖で声が出ない。

 恐怖で蹲る翔一が気が付いた時には、辺りは静かになっていた。ゆっくりと見渡すと、暴行を加えていたクラスメイトは、全員倒れ伏している。
 おずおずと顔を上げる翔一は、冬也から手を差し出される。冬也の手を取り立ち上がった翔一は、冬也に殴り飛ばされた。

「喧嘩両成敗だ」

 特段、強い力で殴られた訳では無い。だが、どんな暴行よりも、冬也の拳は痛かった。続けざまに冬也は、教室内で声を大にして叫ぶ。

「てめぇ等! 見てたのに、何で止めなかった! 怖いか? 違うだろ! 怖いのは都合よく逃げる事だ! 報復が怖いなら、俺がこいつ等を何度でもぶっ飛ばしてやる。勇気を持て! 自分の弱さを言い訳にするな!」

 続いて冬也は、翔一に向かって言い放つ。

「工藤。てめぇは何でやられっぱなしなんだ! てめぇの態度が、こいつ等を増長させんじゃねぇのか! 弱さに慣れるな! 痛みに慣れるな!」

 その後、駆け付けた体育教師に、冬也は連れて行かれる。

 そして翔一は、痛む頬をさすりながら、冬也の言葉を思い返していた。クラスメイト達から受けた暴行よりも、冬也から殴られた痛みが心に突き刺さる。そして、周囲に向けて放った言葉と、自分に向けられた言葉、その両方が翔一の心に深く突き刺さる。 そして、翔一の中に小さな想いが生まれた。
 
 変わりたい。いつか自分も冬也の様に、強い男になりたい。

 それから翔一は、冬也と一緒にいる事が多くなった。守られているだけでは、翔一が冬也の親友になる事は無かっただろう。頭の回転が速い翔一は、次第に上手く立ち回る事を憶えていった。

 よく揉め事に顔を突っ込む冬也は、悪意を向けられる事も少なく無い。同時に、教師から目を付けられてもいた。特に妹の事となると見境が無くなる。そんな冬也を、諫める事もあった。
 冬也と周囲の間で上手く立ち回り、出来るだけ揉め事を事前に回避する様に、翔一は変わっていった。

 次第に周囲は、翔一の評価を変えていった。脳筋問題児の冬也、頼れる男の翔一。それが中学三年当時、二人が周囲に与えていた印象であった。

 高校に進む時にも、ペスカと共に冬也に勉強を教えた。冬也が中学浪人しなかったのは、翔一の尽力が大きい。高校に進んだ翔一は、比較的安定した学校生活を送っていた。

 今の自分が、憧れた姿とは違う事に、翔一自身が理解をしていた。ただ無難にやり過ごす事を憶えただけで、抗っていない。戦っていない。
 葛藤を続けていた翔一に転機が訪れたのは、東京での出来事であった。

 訳がわからない事態に巻き込まれ、果てや異世界に飛ばされた。それからは、戦いの連続だった。
 強くならなければ、待ち受けるのは死。だが同時に、翔一にはチャンスに思えた。憧れた強さに、近づけるまたとない機会に感じていた。
 そして、戦いを乗り越え、女神から褒められた。それはなによりも、翔一の自信となった。

「僕も少しは、強くなったと思うんだけどな。まだまだなんだろうな」

 翔一が水面を見ながら黄昏ていると、段々と近づいて来る足音が聞こえる。そしてその足音は、翔一の近くで止まる。
 翔一が見やると、そこには逞しい顔付きの男が立っていた。戦場を生き抜いてきたのであろう。顔や腕等の見える箇所に、幾つも傷が残っている。男は雄々しい声で、翔一に話しかけた。

「貴殿が翔一殿か? 私はトールと申す。この度エルラフィア軍で、大隊を任される事になった者です」
「はい、僕が翔一です。何かご用でしょうか?」
「いやなに。軍の再編がありましてな。お力添えをと思い、冬也殿を訪ねたのですが、お忙しいとの事。ペスカ殿をお訪ねしたら、貴殿を紹介されました」

 翔一は、面倒事に巻き込まれる予感がし、少し頭を押さえた。