平安後宮身代わり姫君伝

 「ねえ、玲子。わたくしたち見られてる?」


 扇で口元を隠しながら、後ろを歩く玲子に聞いた。


 「はい。多くの視線が射抜いています」

 「まるで的のようね」

 「おそらく、先日のことを気にしているのでしょう」

 「そういえば、この間通った時にあった撒菱が見当たらないね」


 杏子と玲子は帝や東宮、中宮が住んでいる清涼殿を通り抜け、弘徽殿が見えてきたところにいた。

 先日はこの辺りを歩いていた時に気の気配がした。


 「これだけの視線と昼間に堂々と嫌がらせはしないでしょう」

 「だよね」


 そう腹を括って、渡殿を歩いていると、何かあった。


 「また撒菱?」

 「あれほど大きな撒菱はございませんよ」

 「.......邪気を感じなくて巨大な撒菱くらいこの世にはあるはずよ」


 しかし、近づいて見ると巨大な撒菱ではなく、衣だった。

 真っ赤な生地に複雑な模様が記されていて、汚れ一つもない。

 衣の布は大きく、畳まずにくしゃくしゃにしている状態では山のように見えた。


 「もったいない.......。まだ、使えるのに」


 ここの渡殿は弘徽殿に面している。

 大方、弘徽殿の物だろう。

 一応弘徽殿からの許可も貰ってから、持ち帰ろうと衣の山に触れると、人の体温を感じた。


 「!?玲子、この衣を広げてちょうだい!」

 「はい。ただいま」


 (ここに人がいるかもしれない)

 もしいたとすれば、放置しておくのは危険である。

 後宮で人が亡くなるなど縁起が悪い。

 それに、ここで放置して本当に人がいたら、杏子の目覚めが悪い。

 良い睡眠のためにも確認は大事だ。

 本当は自分の手でやりたいが、雪子はそのようなことをする人物では無い。

 ただ見ているだけの自分にもどかしさを感じつつ、玲子の様子を見ていた。


 「!?あ.......雪子様。中に人がいます」

 「やっぱり.......」


 雪子の勘は当たったみたいだった。

 (今すぐにでも弘徽殿様に問いたいけど、こちらの方が優先ね)

 だが、どのようにして運ぼう?

 赤い袴で隠されているが、赤黒いしみができていた。

 怪我でもしたのだろう。

 そんな人を歩かせるわけにはいかない。

 より悪化してしまう。

 だが、普通の貴族女性よりも体が大きい玲子でさえ、成人した女性を抱くのは無理だろう。

 (やるしかないか)

 お守りと同様、普段から持ち歩いている正方形の和紙を出した。

 表面は呪文が書かれているので、裏面を表にして。

 手早く和紙を折って、不気味なほど澄んだ秋空に飛ばした。

 紙飛行機と呼ばれる真っ白な物は、後宮の上空を飛んで、一つの舎にたどり着いた。
 少し時を戻して、飛香舎には、杏子と玲子を見送った雪子と卯紗子がいた。


 「今日はもう来客はございませんよね」

 「杏子様からも聞いていなので、もう来ないと思うよ」

 「では、ゆっくりしていましょうか」


 脇息と言われる肘掛けを使って、雪子は寛いでいた。

 いや、寛ごうとしていた。

 しかし、


 「杏子.......女御様。失礼するぞ」


 そんな声と共に来客が来た。

 来てしまった。


 「「!?」」

 「!?もしや、雪子殿か?」
 
 「兄上、女性の部屋に入るのは.......って、雪子様?」


 さすが、杏子の兄二人。

 女房でさえ、見分け困難な杏子と雪子を一瞬で判断した。

 突然のことで、雪子と卯紗子は几帳に入らず、雪子は慌てて顔を扇で隠した。


 「い、いらっしゃいませ。柏陽様。右近様」

 「衣を変えると見分けるのが困難だな。これでは、東宮が気づくなんて無さそうだな」

 「兄上、そのような失礼なことは言ってはなりませぬ」


 殿上人の会話。

 (見ているだけで風情ある.......)

 会話の内容はかなりどうでもいいことを話しているが、そんなことは耳に入らない。

 この世とは思えない優雅な物仕草を見ている時、かすかに開いている御簾から紙飛行機が飛んできた。


 「これは?」

 「雪子様、何かあったのですか?」

 「紙飛行機が飛んできたみたい」


 雪子は手に取った紙飛行機を卯紗子に見せた。

 紙飛行機には文字のような模様がある。

 裏側に何か書かれているのか?

 (何が書いているんでしょう?気になるけど、恋文てしたら開けない方が良いよね。書いた方にも相手の方にも失礼ですし)

 開きたいのをこらえていると、杏子の兄が話に加わって来た。


 「雪子様。その紙飛行機、見せてくれますか?」

 「え?ええ」

 「右近、俺にも見せろ」

 「見せてます、でしょう?」


 そんな会話もしつつ、紙飛行機を見る二人の目は鋭さを帯びてきた。


 「すまない。雪子殿。杏子が呼んでいるようで、一度席を退出する。後、この紙飛行機、借ります」

 「退出時もばたばたですみません。今度、わびの品を届けます」


 そう言って、雪子の手から紙飛行機を取ってどこかへ投げると、外に出て行ってしまった。

 来るときも急だったが、帰りも急である。

 あっけに取られていたが、我に返ると、杏子と玲子が心配になって来た。

 (杏子様の兄君方が慌てて出るなんて、何かあったのでしょう。二人が心配だけど、わたくしには......)

 雪子には誰かのために矛になるほどの武術はない。

 誰かを庇えるために盾になるほどの権力もない。

 誰かを導くために書になるほどの知力もない。

 役に立つものは何も持っていない。

 いるだけで足手まといになってしまう。

 それでも、それでも、それでも、誰かのために動きたかった。


 「卯紗、行きましょう」

 「どこに行くんですか?」


 雪子がどこに行くのか分かってそうな顔で聞いてきた。

 耳はこちらを向いているが、体は動いていた。


 「杏子様と玲子の元へ」


 体は震えている。

 杏子と玲子のところに行くためには弘徽殿の前を通らないといけない。

 つい最近まで、いじめられていた場所。

 怖くない、と言ったら嘘になる。

 (でも、行かないと)

 杏子の姿となった雪子は一歩踏み出した。
 弘徽殿前の渡殿にて


 「どのようにして運びましょう?」


 玲子は一応聞いてきているが、運ぼうとしていた。

 なんとなく雰囲気で分かる。

 ようやくこの能面女房と意思疎通ができるようになった。



 「......わ......わた......し......は......」


 自分で歩くと言いたいのだろう。

 だが、杏子がその願いを聞くことはない。


 「だめです。あなたは足を怪我しているのですよ。これ以上悪くしてどうするのです⁉今、人を呼んだので」


 (気づいてくれると良いんだけど)

 杏子が飛ばした物は緊急用連絡手段。

 向かった先にいる人まで飛んでいく。

 そして、伝言した相手が飛ばすとこちらに戻って来る。


 「淑景舎様、どうしたのですか?」

 「......兄上、はあ......はあ...何か......あったの......はあ......ですか?」


 突然、柏陽と右近がこの場にやってきた。

 人手が欲しいと願った時に偶々現れた。

 もちろん、偶然ではない。

 柏陽の手には杏子が飛ばした飛行機があり、走って来たのか右近は肩で息をしていた。


 「ちょうど良い時に!柏陽様、右近様。こちらの方を淑景舎まで運んで下さいな」

 「は?」


 『おい。まさか、このためだけに呼んだのか?』

 そんな副音声が目から伝わる。

 もちろん、杏子は無視する。


 「早くしていただけると助かるのですか.......」


 杏子ではなく、雪子っぽくお願いする。

 中身は杏子だが、外は雪子。

 身分は低い更衣とはいえ、東宮の妃の一人。

 そんな方からのお願い。

 断ることは出来なかった。


 「.......分かりました」


 にこやかに柏陽は返事をしたが、額に青筋が出ていた。

 お説教確定演出。

 (しょうがないじゃない。頼めるのが兄様しかいないんだから)

 後宮は異性と繋がることができる社交場。

 男は美しい女房を、女は麗しい殿方を。

 虎視眈々として狙ってる。

 そんな中に妻がいてそれなりに大きい子どもがいる男は入りづらい。

 当然ながら、屋敷にいる奥様方も入ることはできない。


 「ほら、兄上行きますよ。淑景舎はこちらであっているでしょうか?」


 兄と妹の静かな戦いに真ん中は慣れたように話を変えて、休戦させた。

 あたりに張り詰められた冷たい空気は一瞬で払拭された。


 「ええ。玲子、淑景舎に着いたら、すぐに火鉢の準備を。あと、白湯と厚い着物も」

 「かしこまりました。雪子様はどうするのですか?」


 今、この場には秘密を知っている者しかいない。

 足元には女房がいるが、きっと意識は覚束ないだろう。

 だが、陰で誰が聞いているのかは分からない。

 そのため、玲子は杏子のことを雪子と呼んでいた。


 「わたくし?そうね......」

 「あ......雪子様......」


 淑景舎に行ってこの子の様子を見たら弘徽殿の行く予定と答えようとしたが、か細いながらも最近聞きなれた声が聞こえて杏子の意識はそちらにいってしまった。


 「杏子様!なぜ、こちらへ?」

 「雪子様が忘れ物をしたから、ですよ」


 雪子の代わりに卯紗子が応えたが、言い終わると軽く片目を閉じた。

 片目を閉じるのは、本当のことではない時の合図。

 どうやらこの理由は建前らしい。


 「あの、杏子様。こちらの方は?」

 「今から淑景舎に連れて行きます。ご一緒しますか?」

 「雪子様はこれから何をするのですか?」


 さき程は答えられなかった質問。


 「わたくしはこの方を看て、弘徽殿様に何があったのか聞いてきます」

 「そ......んな......わたし......の......ため......に......」


 無理に体を起こして女房は講義をしたが、喉まで傷めたのか声は擦れて軽い咳をこぼした。


 「わたくしが発見した以上最後まで見ますよ。あなたはただゆっくりすればいいのです」


 女房を見る杏子の瞳には慈愛に満ちていた。

 口調は穏やかで優しい。

 だが、ゆるぎない意思を感じさせた。


 「あの雪子様。......わたくしが......弘徽殿様のところへ行ってもいいでしょうか?わたくしもできることをしたいのです。雪子様は彼女をお願いします。卯紗、行きますよ」


 何かを感じたのか。

 雪子は躊躇しながらも、弘徽殿のところへ行くと言い、弘徽殿の方へ歩き出した。

 躊躇するのは当然だろう。

 かつて自身をいじめた者に会いに行くのだから。

 それでも、雪子は足を運んだ。


 「あ、待って下さい、杏子様」


 こちらに向かって一礼すると卯紗子は来たばかりなのに、戻って行った。


 「俺たちも行くぞ。すまない。今だけ恥じらいを捨ててくれ」


 柏陽は女房を軽々上げた。


 「そうですね」


 (雪子様も手伝ってくださる。わたくしも頑張らなくては!)

 強い決意も胸に抱いて、杏子の止まっていた足が動き出した。
 「わたくしが発見した以上最後まで見ますよ。あなたはただゆっくりすればいいのです」


 杏子の声を聞いた途端、雪子の胸のどこかが動いた。

 身分差を気にしない。

 ただ助けたい。

 その瞳にはとても見覚えがあった。

 雪子の身の上話を聞き終わった時の瞳とそっくりだった。

 優しくて、吸い込まれそうなほど澄んだ目。

 (あのような目を向けられたのは初めてだった......。わたくしと同じ瞳なのに映している物は違った......)

 ただただ後ろ向きで臆病な雪子にはできない。

 でも近づくことができたらー。

 今の雪子は目標である杏子の姿。

 普段なら、『雪子』なら、できなくても、この非日常で『杏子』としてならほんの少し近づくことができるのではないか。

 (今のわたくしは杏子様......)

 杏子ならきっと手を差し伸ばすだろう。

 嘗てしてもらったように。

 今度は雪子の番。

 この場所と現場を考えれば、自ずと何があったのか見えてくる。

 そして、自分が何をすればいいのかも。

 飛香舎から出た時の気持ちを思い出して、雪子は口を開いた。


 「あの雪子様」


 声が出ない。

 (弘徽殿様のところに行くだけでしょう?大丈夫よ、きっと)

 心の中で自分を鼓舞しても、頭の中に流れてくる記憶はこれまでされてきた、いやがらせ。

 一つ一つは小さくても毎日、毎回、となれば、精神にどうしても負荷がかかり、深い傷を負う。

 まだ傷は塞がっていない。

 それでも、下をむいて立ち止まりたくなかった。


 「......わたくしが......弘徽殿様のところへ行ってもいいでしょうか?わたくしもできることをしたいのです。雪子様は彼女をお願いします。卯紗、行きますよ」


 途中で引き返さないように。

 自分で自分の逃げ道を封鎖して、足を動かした。

 動かし続けないと、止まってしまう。

 止まったらもう動けない。

 来た道を引き返して、弘徽殿の前に着いた。


 「当然の訪問、すみません。弘徽殿様はいらっしゃいますか?飛香舎様が面会したいそうです」


 後ろを歩いていた卯紗子が屋敷にいる弘徽殿の女房に伝えた。


 「しょ、少々お待ちください!」


 慌てたように弘徽殿の中へ入って行った。

 予約なしの面会。

 失礼にあたるが、弘徽殿は断わることはできない。

 相手は弘徽殿よりも身分が上の飛香舎の主なんだから。


 「中へお入りください。弘徽殿様がお待ちです」


 (大丈夫......怖くない......)

 派手過ぎる壁代を通り抜けると、畳に座った以前と姿が変わった弘徽殿の姿があった。

 ふっくらとしていた肉が落ち、頬は僅かにこけたように見えた。

 だが、欲にまみれた目だけがぎらぎらと輝いていた。


 「いらっしゃいませ。飛香舎様。お待ちしていましたよ。わたくし、ずっと会いたかったのです。そういえば、飛香舎様は兄上にお返事を書いたそうで。兄が貰ったと自慢して来ましたよ。どこかの女と違ってとても優雅だそうで。そういえば、今日、仕事場で見せると張り切っていました。あの、またわたくしとお話いたしません?ここには、高級で庶民が買えないような物でいっぱいですの。ほら、あちらなんかー」


 (息継ぎしなくて大丈夫なのかしら......?)

 ずっと言い続ける弘徽殿を前に雪子は不安が飛んで行ってしまった。

 そして、雪子が聞いたことないような猫なで声。

 無駄に高くて、たっぷりの毒が塗られた声しか聴いたことない雪子は弘徽殿の変わりように驚きを通り越して呆れてしまった。

 (この方は下にはきつく当たって自身の優位性を出して、上には媚を売るのですか......。見てしまうと怖くはありませんね)

 権力を笠に攻撃する者。

 強いのは笠になっている方で、攻撃する者はさほど強くない。

 ただ威張っているだけ。


 「弘徽殿様」


 雪子がそう呟くだけで、会話の主が一瞬にして変わった。


 「わたくし、弘徽殿様と内密に話したいのですが、よろしいでしょうか?」


 横目で卯紗子を見ると軽く頷いて、外に出て行った。


 「え、ええ。ほら、わたくしは、飛香舎様と話すから、あんた達はどっかへ行っておいで」


 (随分ときつい言い方......)

 弘徽殿の女御は逃げるようにして出て行った。


 「それで、話というのは?」


 二人だけの空間。

 弘徽殿は雪子が話す内容に全く気づいていなかった。

 大方、弘徽殿の派閥に入るなどと言った自身に都合の良い話を予想しているのだろう。

 だが、現実は違う。


 「弘徽殿様。弘徽殿様は女房を大切にしていますか?」


 最初から本題に聞くわけではない。

 遠回りをしてゆっくりと。

 だが、雪子は発した言葉で弘徽殿の顔は動いた。

 雪子の傍にいるのは表情筋が死んでいる玲子。

 だからだろうか。

 顔の機微には敏感だった。

 瞬きが立て続けに6回。

 嘘を付いてる可能性が高い。


 「......大切にしていますが、それが何かありましたか?」

 「いえ。弘徽殿様のお言葉を聞いた女房の顔には恐怖が浮かんでいたので。気になってしまったのです。それに、ここの女房は随分と朱色がお好きなのですね。後、紺色も」


 胸に宿る恐怖心が消えたのか。

 雪子は自分でも驚くほど、流暢だった。

 この場にいる女房はみんな深い赤か暗色の着物だった。

 汚れが目立つ白磁の衣を着ているのは誰もいなかった。

 まるで、何かを隠しているかのよう。


 「......わたくしが暗色を最近お気に召しているので。妃から流行とは広がりますから」

 「本日の弘徽殿様は明るい黄と花緑青に見えるのですが?」

 「た、偶々ですよ」

 「そうなのですか......」


 (中々出ませんね......)

 苦しい言い訳だが、はっきりとした証拠は全て隠されている。

 話術が得意ではない雪子は弘徽殿から情報を取るのはやはり難しかったか。

 (どうやって......)

 次なる手を考えていると、


 「......そういえば、飛香舎様は自身の女房に教育をしたことはありますか?わたくしの女房達は最近、わたくしに逆らうことが多くて......。もう二度と言わないよう教育をしているんですよね」


 弘徽殿の方から来てくれた。


 「具体的にどのようなことを?」

 「大したことないですよ。少し痛めつけるだけですよ」


 口元を優雅に扇で隠しているが、言葉は隠せない。

 一度聞いた言葉は消せない。


 「......女房を捨てる、とかですか?」

 「捨てるなんて......。ちょっと、外に置いとくだけですよ?衣は置いときましたし」


 昼間とはいえ、薄い長袴の姿に衣一枚。

 あまりにも度が過ぎてる行為。

 それでも弘徽殿の顔を見れば、全く悪く思っていなさそうだった。


 「弘徽殿様。その方はどうなってもよいのですか?」

 「ええ。所詮は下﨟の者ですから。替えは大勢いますし」


 弘徽殿の会話は胸糞悪かった。

 (早く終わらせましょう)

 だが、雪子には言っておきたいことがあった。


 「弘徽殿様。命とは重たい物であります。そして、大きさはどれも同じです。軽く扱わないでください。これは、女房達も同様です。決して、やりすぎないようお願いしますね。それでは、失礼いたします」


 玲子を大切にしている雪子は弘徽殿の行動が許せなかった。

 母を亡くしている雪子は命の重み、散ってしまった後の悲しみを知っていた。

 だから、命を無下に扱う弘徽殿が許せなかった。

 雪子は一度も振り返ることもなく、部屋から出て行った。
 淑景舎に着くと、玲子がすぐに火鉢を用意してくれた。


 「井戸から水と、後はそうね......。薄くて細長い布を持って来てくれる?」

 「井戸の水は俺が持って来る。右近、布、持っているだろう?」


 何故文官の右近が持っているのか分からないが、右近は無言で白い布を差し出して来た。


 「ご自由にお使えください」

 「ありがとう。......ねえ、あなたの名は何というの?」


 連れてきた女房に指示を出したいが、名前が出なかった。


 「......い、伊勢と申します......」

 「伊勢、あなたの足を見せてちょうだい。怪我、しているのでしょう?」

 「な、何故それを......?」

 「あ......雪子様。持ってきましたよ!」


 木製の桶にたっぷりと水を入れた柏陽が戻って来た。


 「ありがとうございます、柏陽様。柏陽様と右近様は向こう側に行って下さる?殿方がいると緊張してしまうでしょう?」

 「「おおせのままに」」


 男二人が視界から消えたことを確認すると、伊勢の前に腰を下ろした。

 (色々と知りたいけど、この傷の処理が先ね......)


 「伊勢、足を出して。今から治すから」

 「そのような無礼なこと......」

 「伊勢、雪子様が命令しているのだ。無礼など考えなくて良い」

 「は、はい......」

 「脛辺りまで上げさせていただきますね」


 差し出された袴を赤黒いしみがあるところまで上げた。

 露わになったのはおびただしい傷の痕。

 真っ白な傷がない部分はほとんどなかった。

 自然と杏子の顔が厳しくなっていく。

 (これは酷い......)

 右近から貰った織物を裂いて、桶に浸すと傷口に触れた。


 「沁みると思いますが、我慢してください」


 傷口を丁寧に拭くと、もう一方の白い布を巻いた。

 (今度、軟膏を用意する必要がありそうね)


 「もう、戻して頂いて結構です。伊勢、どこが痛い?」


 大丈夫?なんて言わない。

 高位の者に大丈夫と言われたら、何かあっても大丈夫と答えなければならない。

 意見に背くことは許されないからだ。


 「脛にある傷が痛みますが、淑景舎様が治して下さったので大丈夫です。私達は淑景舎様に酷いことをしていたのに、淑景舎様は何故私にそのようなことをして下さるのですか?」

 「目の前に怪我した人がいるんだよ?助けないとでしょう?」


 当然のことでしょう?と杏子は思っているが、これは杏子の家の常識であって世間では非常識である。

 身分、政敵関わらず助けるなんて、世の貴族は言わない。

 自分の権力と名誉を守るしか頭にはないのだから。

 見ず知らずな者に構うことはない。

 予想の斜め上の答えに目を白黒させる伊勢に玲子が補足説明をした。


 「伊勢。雪子様はとても慈悲深い方なのです。あなたはその心で救われたのです」

 「楽な姿勢で構いません。本当は休んで欲しいんだけど、こちらにも事情があって早く知りたいの。伊勢、なぜ弘徽殿様にいじめられているの?」

 「それは......」

 「安心して。わたくしは弘徽殿様に言うつもりはありませんし、あなたを無下に扱うこともありません」

 「そ、それなら......」


 ぽつりぽつり、伊勢はゆっくりと話してくれた。

 自分より格下の淑景舎に虚仮を回されたこと。

 そのせいで怒り狂い、怒りの矛先は女房にいったこと。

 自分たちは身分が低く、弘徽殿の実家に属しているので、ただ耐えることしかできないこと。


 「ー。私の同僚の一人が......飛香舎様に弘徽殿の現状を伝えようとしたのです。飛香舎様は唯一弘徽殿様よりも上の方ですから......。でも、見つかってしまい、辞任という形で消えたのです......!そうしたら......私に難癖を付けて......教育されて......外に......」

 「もう大丈夫。辛かったでしょう?伊勢、休んでなさい。玲子、奥の部屋へ連れてってあげて」

 「かしこまりました。伊勢、行くぞ」

 「し、失礼します......」


 二人が去った後、杏子は几帳の後ろにいる柏陽と右近を呼んだ。


 「柏陽兄様、右近兄様。話しは聞いていましたか?」

 「もちろんだ。だが、まさか妃が手を挙げていたとはな......」

 「正直私は信じられませんね」


 杏子が兄二人と話している時、外から声がした。


 「雪子様。今、帰りました」

 「弘徽殿様から色々伺ってきました」

 「お帰りなさい!ゆ......杏子様と卯紗、部屋に上がって下さい」


 外に近いこの部屋は誰かに見られるかもしれないということで、部屋の中心部へと移動した。

 そして、入れ替わりや弘徽殿の話などが外に漏れないように呪具を置く。


 「雪子様、弘徽殿様から何かされていませんか?」

 「大丈夫ですよ、杏子様。杏子様として弘徽殿様と面会をしてたら、その、恐怖や不安はどこか行ってしまいました」

 「屋敷から出る時の雪子様、とてもかっこよかったんですよ!」

 「卯紗子さん。その話、詳しく」


 戻った伊勢

 玲子が話に食いついてきた。


 「それも大事なんだが、弘徽殿で何があったんだ?」


 このままでは、雪子の話になると判断した柏陽は元に戻そうとした。

 随分と慣れている。

 妹の杏子が話をしょっちゅう脱線させているからだろうか。

 議題が元に戻ったことで、雪子は口を開いた。


 「弘徽殿様は女房をいじめていました」


 伊勢から話しを聞いていたが、事実の可能性が高い。

 唯一話を知らない卯紗子だけが驚いたような表情になっていた。


 「やはり......。わたくしが拾った女房、伊勢は傷だらけでしたから」


 弘徽殿には多くの女房がいることは弘徽殿と喋った日に確認済み。

 その多くの者が今、虐待されているのか......。

 杏子はそれほど弘徽殿に関わりはないが、雪子は今までいじめてきた相手。

 助けることに不満を持っているかもしれない。

 (全員が幸せになる道はないの?)

 黙りこんだ杏子の姿に柏陽は一筋の皺が顔に浮かんだ。


 「おい。まさかとは思うが、弘徽殿殿の女房全員引き取るのか?」

 「確かにその方法だと全員救えますね!」

 「兄上、なんという案を出しているんですか......。杏子が食いつくに決まっているでしょう」

 「杏子様、弘徽殿様の女房が全員虐待されているとは限りません。中には弘徽殿様側に付いている方もいますよ?」

 「それだと意味がないですね......。でも、わたくしが弘徽殿様の女房を引き取るにしろ、引き取らないにしろ、雪子様、あなたの意見が欲しいです」

 「わ、わたくしですか?」


 急に話を振られた雪子は動揺が顔に出ていた。


 「はい。わたくしは全員が満足する道を選びたいです。雪子様は後宮で弘徽殿様からいじめられていたでしょう?弘徽殿様ではなくても、近い方がいることに何かしら思うことがあると思います。これは雪子様がこれから楽しく暮らすために重要なことです。正直にお願いします」

 「杏子様......!杏子様ほど下の者に気を遣って下さる方にわたくしは会ったことございません......。......弘徽殿様の女房の方が傍にいると思うと嫌でもわたくしは思い出すでしょう」


 杏子が何か言おうとしたが、遮るように雪子は口を開いた。


 「でも、それは過去に起きたことです。今とは関係ありません。苦しんで、傷ついて......。助けがない状況の中、必死に耐えています。その辛さはわたくしも理解しています」


 ほんの少し前まではわたくしも同じでしたから、と雪子は付け足した。

 少し傷ついた表情で歪んだ笑みを浮かべながらそっと瞼を閉じた。

 昔を思っているのだろうか。

 閉じられた瞳からは一筋の雫が落ちた。

 (雪子様......)

 気丈に振る舞っているが、やはり辛いのだろう。

 やめようとしたが、目を開けた雪子を見てとどまった。

 先程までの弱々しい姿はどこにもない。

 長い睫毛に縁どられた目に弧を描く唇。

 色気まで感じさせる自分の姿に釘付けとなった。


 「......わたくしは女房を救い出そうと思います」

 「雪子様。わたくしはあなたの忠実なる下邊。永遠についていきます!」

 「え?う、うん。これからもよろしくね、玲子」

 「はい!」


 二人の間に流れている雰囲気を壊さないよう、四人は静かに会話をした。


 「それで、杏子。何か案はあるのか?全員、引き取るのはだめだからな」

 「分かっていますよ。それを今から考えるのです」


 弘徽殿に仕えたい者を無理やりこちら側に引き取る必要はない。

 だが、弘徽殿から離れたい者をどうやって拾うのか。

 親の都合もあって動きたくても動けない者も多いだろう。


 「東宮に手伝ってもらう?でも、これはわたくしの問題だし......」


 何か不穏な単語が聞こえたが気のせいだろう。


 「あの、杏子様。こういうのはどうでしょうか?」
 「あの杏子様。こういうのはどうでしょうか?」


 わたくし、雪子は、一度止めてから口を開きました。


 「杏子様が直接弘徽殿様のところへ女房を引き取るのです。弘徽殿様は立場的に杏子様の提案を断ることはできません。弘徽殿様から移った女房の立場は保証されることを伝えれば、きっと動くと思います」


 家主である男性ではなく、女性が自ら選ぶなんて世の例外となります。

 そして、実行することで杏子様が何か不快のことを言われるかもしれません。

 普通このような案をだしたら高貴な方は激昂します。

 格下の相手がやれと命じているようなものなのですから。

 でも、杏子様は激昂することなくわたくしの案を静かに聞いていました。

 わたくしそっくりな唇はゆっくりと弧を描き、全てを映す澄んだ瞳は煌々と輝いていました。


 「中々凄い案ですね......」

 「さすが、雪子様!ではやってみましょう!」

 「おい⁈まじでやるのか⁈今回は弘徽殿殿まで巻き込むのかよ⁈どうやって説得するんだ?何か案があるのか、杏子?」


 杏子様と玲子はわたくしの案にそって今すぐにも動こうとしていますが、柏陽様が止めました。

 弘徽殿様をこちらに巻き込む方法は一つしかありません。

 いつの時代でも人が動くのはこれがあります。


 「お金を用意すればいいのです。そうですね......きっと女房が減って生活が大変だからって理由でこちらが引き取る女房一人につき農民の年収一年分でどうでしょう、柏陽兄様?」


 答えは予想の通りですね。

 ですが、女房一人に付き農民一年分ですか......。

 改めて杏子様の力を感じられます。

 贅沢などできない生活をしているわたくしではそれほどの大金は出せません。


 「杏子、そのお金どこから出すのです?」

 「右近兄様、わたくしが出しますけど?やると言ったのはわたくしです。九条の家や雪子様の実家は関係ありません。妃として入るお金を使うので問題ありません。何か問題でも?」


 にっこり笑顔ですが、異論は認めないという雰囲気が漂ってきます。

 ですが、言いだしのわたくしが何もしないわけにはいきません。

 全て杏子様に任せるなどできません。


 「杏子様、わたくしも何かします。その......金銭では何もできませんけど......」

 「それなら、雪子様には弘徽殿様にお願いできますか?その、精神的に負担になるのは重々承知なのですけど......」

 「分かりました。弘徽殿様はわたくしが何とかします」


 正直、弘徽殿様とは顔を見せたくありませんが、そのようなことは言っていられません。

 玲子が心配そうにこちらを見ていますが、大丈夫、と視線を送ります。

 決意したのです。

 頑張らなくてはいけませんから。


 「雪子様、交換するのは弘徽殿様と会う日でお願いします。『杏子』は立場的に動きづらいので」

 「杏子様が立場を気にするなんて、熱でもあるのですか?」


 卯紗が心配していますね。

 手を額に当ててお熱の有無を確認しています。

 こちらから見る限り熱など無いように見えますが......。


 「熱なんかないから!卯紗、あなたは雪子様についてちょうだい。お兄様方は東宮が来ないようにお願いします。来られたらめんどくさいので。それと、女官の仕事を見て来てください。職場を斡旋する時に使うので」

 「めんどくさい......。絶対に東宮の前では言うなよ」

 「女官の方はやっておきますが......」


 柏陽様と右近様の顔色が悪いのはわたくしも同様です。

 東宮相手にめんどくさいなど恐れ多くてわたくしでは言えません。

 ですが、東宮は杏子様一筋なので、弘徽殿様のところへ行くとは思えませんが......。

 言わない方がいいですね。

 東宮の気持ちは杏子様自身で気づく必要がありますから。


 「では、それでお願いしますね」


 杏子様の声で一旦この場は解散となりました。

 わたくしは飛香舎に戻ると、すぐに文を書きました。

 貴族的で婉曲な言葉ですが、内容としては、『弘徽殿の女房が欲しいので、話し合いましょう?女房一人につき金子を与えるので、その場で引き取りたいです』。

 格上の方からのお誘いなど断ることは出来ませんから、誘いに見えて命令のようなものです。

 紙を折りたたんで、結ぶとわたくしは控えている卯紗に渡しました。


 「卯紗、これを弘徽殿様のところへ」

 「かしこまりました」


 自分では動けない立場に苛立ちを覚えつつ、わたくしは外に出た卯紗をずっと見ていました。
 うぅぅ......。

 緊張します......。

 わたくし、雪子は、今目の前で行われていることを見てそれを切実に感じます。

 あたりにいるのはわたくしよりも高位な方が大勢いらっしゃるからでしょう。

 入れ替わりを元に戻して、わたくしは杏子様に仕える女房の一人としてこの場にいます。

 公的には淑景舎は関係ありませんから。


 「弘徽殿様、本日はわたくしのためにありがとうございます」


 そうおっしゃるのはわたくしの恩人である杏子様です。

 優雅に微笑む杏子様も好きですけど、感情を乗せた表情がころころと動く杏子様の方がわたくしは好きです。

 あ......、話が逸れてしまいましたね。

 杏子様は弘徽殿様に辛く扱われている侍女達を保護しようと、弘徽殿様と交渉しているのです。

 ただ耐えるだけで助けを求めることができない姿は昔のわたくしやまだ幼かった玲子を彷彿させます。

 わたくしは杏子様なような影響力も権力もありませんが、できることはしたつもりです。

 ここ数日、大変でしたから。


 「......。いえいえ。わたくしの女房が飛香舎様に仕えて下さるなんて嬉しいことです。それで、あの、本当にするのですか?わたくしは特に問題ないのですけど身の程知らずなこ......女房を貰ってくださるなんて......。それに世間の例外となりません?」


 こいつと呼ぼうとしたのでしょう。

 杏子様の鋭い視線で言い換えていますが、この場にいる者は何を言おうとしたのか分かっています。

 この場に柏陽様がいらっしゃたら、きっと怒りを必死に隠している杏子様を押さえるでしょうね。

 ですが柏陽様と右近様はいません。

 お二人は東宮の気を引いているそうです。


 「弘徽殿様。わたくし、少しやりたいことがあるので、先進めますね。職場を変えたい方はいらっしゃいますか?今日限り、大歓迎です!」


 弘徽殿様の後ろに控える女房達はお互いの顔色を窺っています。

 詳しい話は伺っていなさそうですね。

 ちらっと横目で見ると、心得たという表情をした玲子が説明をしてくれました。


 「飛香舎様は一人一人、個人の立場を保証して下さる。意思を尊重して新しい職場を与えて下さる。それに伝手で殿方との婚約もして下さるそうだ」

 「飛香舎様は私達の後ろ盾になって下さるのですか?」

 「わたくしで良ければ、あなたたちの後ろ盾となりますよ」

 「あの!私、飛香舎様のところでお仕えします!」

 「わたくしも、良いですか?」

 「保証していただけるのなら......!」


 杏子様が認めた瞬間、女房達が動きました。

 欲にまみれたような姿ではありません。

 必死に杏子様の手を取ろうと伸ばしている姿です。


 「わたくしについていきたい方はこちらに来てください。皆さんがそちらにいるとわたくしが把握できないので」


 あら、卯紗の目が呆れていますね。

 杏子様を訝し気に見ています。

 杏子様は把握しているのでしょうか?

 きっと把握しているのでしょうね。

 どうやら大半の者がこちらに移るそうです。

 弘徽殿様のところに控えていらっしゃるのは、わたくしを嬉々として虐めた筆頭と他数名になりました。

 弘徽殿様様の顔は取り繕った貴族女性の微笑が浮かんですが、内心は焦っているでしょうね。

 わずかに崩れてますから。


 「柏陽、右近、こちらに何かあるのか?」

 「東宮?!女性の部屋に入るのは.......」

 「ここは私の妃の部屋だ」


 この声は東宮?!

 周りの雑音にかき消されながらもこちらに向かってくる声が聞こえます。


 「杏」

 「何をやって、って何故杏子がここに.......?」


 わたくしが伝える前に東宮が来てしまいました。

 これからどうしましょう?
 「何をやって、って何故杏子がここに......?」


 後ろにいる雪子から声がかかったが、遅かった。

 一番来て欲しくない人が来てしまった。


 「それはこちらが言いたいです。何故こちらへ?」


 色々と知られている東宮にはお貴族様モードにする必要はないが、こうでもしないと体が動いてしまう。

 ここは弘徽殿なので応対するのは弘徽殿がしないといけないのだが、弘徽殿は東宮を見て固まって全く役に立たなかった。


 「柏陽や右近は執拗に言っていたからだ。何かあると思って行ってみたが、何故いる?ここは弘徽殿だぞ?」


 (......後で話し合いが必要みたいね)

 東宮の後ろにいる兄二人は後で何をされるのだろうか?

 二人の体が心配である。


 「わたくしは弘徽殿様から女房を頂くためにこちらへ来ました。もう終わったみたいなので、関係のないわたくし達は帰りますね」


 にっこり笑ってこの場から出ようとしたが、出られなかった。

 杏子の右手を東宮が掴んだせいである。


 「は、離してください......!」

 「......。杏子、今日の夜、行くから」


 何か不穏な間を置いた後、東宮は離してくれた。

 (東宮は一体今日の夜どこへいくの?夜に出歩くなんて何をするの?夜ではいけないこと......。あ、呪いか!)

 杏子の頭では東宮が呪いをするために外へ人がいないところへ行くという結論が下された。


 「分かりました。わたくしでよければ力になりますよ」


 (呪いはわたくの得意分野なので)

 ゆったりと笑みを浮かべて、杏子は応じてしまった。

 応じたことで、東宮の雰囲気が柔らかくなり、東宮が杏子のことしか見ていないことに気づいていないのは杏子だけだった。


 「そうか。では夜にまた会おう」

 「準備して待っていますね」


 部屋から出ていく東宮と何かこちらを見てくる兄二人を杏子は見送った。

 ちなみに東宮が行くのは杏子の宅、飛香舎で目的は杏子であることに杏子は知らなかった。


 「あの、杏子様。準備って......」


 雪子が心配そうにこちらを見てくる。

 (やっぱり弘徽殿のところにいるのは辛いのですね)

 杏子はそう思ったが、雪子は別に弘徽殿のことなどではなく東宮の準備について心配しているのである。


 「雪子様、大丈夫ですか?」

 「え、ええ?わたくしは大丈夫ですけど、その準備は大丈夫なのですか?」

 「東宮が持って来てくれるので安心してください。弘徽殿様、本日はありがとうございました。それでは失礼しますね」


 杏子は大勢の側仕えを引き連れて外を出たが、その時弘徽殿の目が狂いだしていくのを見ていなかった。
 「はじめまして、わたくしが飛香舎の主、杏子よ。これからはわたくしが皆の後ろ盾となり、立場を保証するわ。今日はひとまずゆっくりと休んで。後日、色々と話しを聞くことにします」


 飛香舎に着いてすぐにそう言って、弘徽殿から連れてきた女房達を奥の部屋で休んでいるよう指示をした。

 女房がいなくなると、卯紗子が口を開いた。


 「あの、杏子様って外に行きたいのですよね?」

 「そうだよ。突然どうしたの?」



 回答が決まっている質問を何故卯紗子がしたのだろうか?

 (何か意味があるのかしら?)

 杏子には全く分からなかったが、他三人には意味がある質問だったようだ。

 卯紗子と玲子が驚いた表情を見せ、玲子の顔が少し動いていた。


 「え?では何故、力になるとか準備をするなどと言ったのですか?」

 「え?だって、卯紗、東宮が呪いをするんだよ。必要な道具は東宮が持って来てくれるからわたくしは特に必要ないけど、ほら、きっと慣れていないでしょ?だから、手伝おっかなって」


 杏子の言葉を聞いた途端、全員が玲子のように能面となった。

 想像の斜め上を行く答え。

 誰も予想できなかった。


 「あの、杏子様。その、おそらくですけど、東宮は呪いをしないと思いますよ」

 「おそらくではなく絶対にですよ。皇族が呪いなどしませんよ」

 「主と卯紗子の言う通りです」


 雪子がやんわりと、卯紗子がばっさりと、玲子が続いた。

 ここでようやく杏子も分かった。

 (あれ、わたくし、何か勘違いをしている?)


 「あの、東宮の言葉の意味って何ですか?呪いをしに今夜人知れず場所へ行くのではないのですか?」

 「......東宮は今夜、飛香舎に行きますよ。それと準備というのは寝所のことです」


 さすがにここまで言われればおのずと意味を理解できた。

 理解してしまった。

 あの場でしきりにこちらに視線を送られたのも、東宮が急に機嫌が良くなったのかもわかってしまった。


 「わたくし東宮を誘ったのですか⁈」

 「どうでしょうか。去るところだったので五分五分ですね」


 玲子が他人事のように言ってきたがこれは大問題だ。

 もし実現したら、外へ出られなくなる。

 後宮で一生を暮らさないといけなくなる。

 まずい。

 どうにかしなければ。

 (今日の夜までにどこかへ行かないと......!)


 「卯紗、ここから一番近い神社はどこ?」

 「え⁉神社ですか⁈突然どうしたのですか?」

 「ほら、今日の夜はとんでもないことになったでしょう?だから、どこかへ行かないと」

 「神社ではなく、東宮に直接伝えたらどうでしょう?きっと分かって下さいますよ」

 「でも一度言ってしまいましたよ?」


 意味を知らなかったとはいえ、言ってしまった。

 言葉には責任があり、それは発言者が持つ物である。

 呪師の家系で生まれ育った杏子にはその重みを知っていた。


 「それなら、杏子様が思った通りのことをしたらどうでしょう?そうすれば、東宮はきっと分かりますよ。どんな意味だったのか」

 「それなら......」


 杏子が応じるその時だった。

 どこかで陶器が割れるような音がした。