「わたくしが発見した以上最後まで見ますよ。あなたはただゆっくりすればいいのです」


 杏子の声を聞いた途端、雪子の胸のどこかが動いた。

 身分差を気にしない。

 ただ助けたい。

 その瞳にはとても見覚えがあった。

 雪子の身の上話を聞き終わった時の瞳とそっくりだった。

 優しくて、吸い込まれそうなほど澄んだ目。

 (あのような目を向けられたのは初めてだった......。わたくしと同じ瞳なのに映している物は違った......)

 ただただ後ろ向きで臆病な雪子にはできない。

 でも近づくことができたらー。

 今の雪子は目標である杏子の姿。

 普段なら、『雪子』ならできなくても、この非日常で『杏子』としてなら、ほんの少し近づくことができるのではないか。

 (今のわたくしは杏子様......)

 杏子ならきっと手を差し伸ばすだろう。

 嘗て、してもらったように。

 今度は雪子の番。

 この場所と現場を考えれば、自ずと何があったのか見えてくる。

 そして、自分が何をすればいいのかも。

 飛香舎から出た時の気持ちを思い出して、雪子は口を開いた。


 「あの雪子様」


 声が出ない。

 (弘徽殿様のところに行くだけでしょう?大丈夫よ、きっと)

 心の中で自分を鼓舞しても、頭の中に流れてくる記憶はこれまでされてきた、いやがらせ。

 一つ一つは小さくても毎日、毎回、となれば、精神にどうしても負荷がかかり、深い傷を負う。

 まだ傷は塞がっていない。

 それでも、下をむいて立ち止まりたくなかった。


 「......わたくしが......弘徽殿様のところへ行ってもいいでしょうか?わたくしもできることをしたいのです。雪子様は彼女をお願いします。卯紗、行きますよ」


 途中で引き返さないように。

 自分で自分の逃げ道を封鎖して、足を動かした。

 動かし続けないと、止まってしまう。

 止まったらもう動けない。

 来た道を引き返して、弘徽殿の前に着いた。


 「当然の訪問、すみません。弘徽殿様はいらっしゃいますか?飛香舎様が面会したいそうです」


 後ろを歩いていた卯紗子が屋敷にいる弘徽殿の女房に伝えた。


 「しょ、少々お待ちください!」


 慌てたように弘徽殿の中へ入って行った。

 予約なしの面会。

 失礼にあたるが、弘徽殿は断わることはできない。

 相手は弘徽殿よりも身分が上の飛香舎の主なんだから。


 「中へお入りください。弘徽殿様がお待ちです」


 (大丈夫......怖くない......)

 派手過ぎる壁代を通り抜けると、畳に座った以前と姿が変わった弘徽殿の姿があった。

 ふっくらとしていた肉が落ち、頬は僅かにこけたように見えた。

 だが、欲にまみれた目だけがぎらぎらと輝いていた。


 「いらっしゃいませ。飛香舎様。お待ちしていましたよ。わたくし、ずっと会いたかったのです。そういえば、飛香舎様は兄上にお返事を書いたそうで。兄が貰ったと自慢して来ましたよ。どこかの女と違ってとても優雅だそうで。そういえば、今日、仕事場で見せると張り切っていました。あの、またわたくしとお話いたしません?ここには、高級で庶民が買えないような物でいっぱいですの。ほら、あちらなんかー」


 (息継ぎしなくて大丈夫なのかしら......?)

 ずっと言い続ける弘徽殿を前に雪子は不安が飛んで行ってしまった。

 そして、雪子が聞いたことないような猫なで声。

 無駄に高くて、たっぷりの毒が塗られた声しか聴いたことない雪子は弘徽殿の変わりように驚きを通り越して呆れてしまった。

 (この方は下にはきつく当たって自身の優位性を出して、上には媚を売るのですか......。見てしまうと怖くはありませんね)

 権力を笠に攻撃する者。

 強いのは笠になっている方で、攻撃する者はさほど強くない。

 ただ威張っているだけ。


 「弘徽殿様」


 雪子がそう呟くだけで、会話の主が一瞬にして変わった。


 「わたくし、弘徽殿様と内密に話したいのですが、よろしいでしょうか?」


 横目で卯紗子を見ると軽く頷いて、外に出て行った。


 「え、ええ。ほら、わたくしは、飛香舎様と話すから、あんた達はどっかへ行っておいで」


 (随分ときつい言い方......)

 弘徽殿の女御は逃げるようにして出て行った。


 「それで、話というのは?」


 二人だけの空間。

 弘徽殿は雪子が話す内容に全く気づいていなかった。

 大方、弘徽殿の派閥に入るなどと言った自身に都合の良い話を予想しているのだろう。

 だが、現実は違う。


 「弘徽殿様。弘徽殿様は女房を大切にしていますか?」


 最初から本題に聞くわけではない。

 遠回りをしてゆっくりと。

 だが、雪子は発した言葉で弘徽殿の顔は動いた。

 雪子の傍にいるのは表情筋が死んでいる玲子。

 だからだろうか。

 顔の機微には敏感だった。

 瞬きが立て続けに6回。

 嘘を付いてる可能性が高い。


 「......大切にしていますが、それが何かありましたか?」

 「いえ。弘徽殿様のお言葉を聞いた女房の顔には恐怖が浮かんでいたので。気になってしまったのです。それに、ここの女房は随分と朱色がお好きなのですね。後、紺色も」


 胸に宿る恐怖心が消えたのか。

 雪子は自分でも驚くほど、流暢だった。

 この場にいる女房はみんな深い赤か暗色の着物だった。

 汚れが目立つ白磁の衣を着ているのは誰もいなかった。

 まるで、何かを隠しているかのよう。


 「......わたくしが暗色を最近お気に召しているので。妃から流行とは広がりますから」

 「本日の弘徽殿様は明るい黄と花緑青に見えるのですが?」

 「た、偶々ですよ」

 「そうなのですか......」


 (中々出ませんね......)

 苦しい言い訳だが、はっきりとした証拠は全て隠されている。

 話術が得意ではない雪子は弘徽殿から情報を取るのはやはり難しかったか。

 (どうやって......)

 次なる手を考えていると、


 「......そういえば、飛香舎様は自身の女房に教育をしたことはありますか?わたくしの女房達は最近、わたくしに逆らうことが多くて......。もう二度と言わないよう教育をしているんですよね」


 弘徽殿の方から来てくれた。


 「具体的にどのようなことを?」

 「大したことないですよ。少し痛めつけるだけですよ」


 口元を優雅に扇で隠しているが、言葉は隠せない。

 一度聞いた言葉は消せない。


 「......女房を捨てる、とかですか?」

 「捨てるなんて......。ちょっと、外に置いとくだけですよ?衣は置いときましたし」


 昼間とはいえ、薄い長袴の姿に衣一枚。

 あまりにも度が過ぎてる行為。

 それでも弘徽殿の顔を見れば、全く悪く思っていなさそうだった。


 「弘徽殿様。その方はどうなってもよいのですか?」

 「ええ。所詮は下﨟の者ですから。替えは大勢いますし」


 弘徽殿の会話は胸糞悪かった。

 (早く終わらせましょう)

 だが、雪子には言っておきたいことがあった。


 「弘徽殿様。命とは重たい物であります。そして、大きさはどれも同じです。軽く扱わないでください。これは、女房達も同様です。決して、やりすぎないようお願いしますね。それでは、失礼いたします」


 玲子を大切にしている雪子は弘徽殿の行動が許せなかった。

 母を亡くしている雪子は命の重み、散ってしまった後の悲しみを知っていた。

 だから、命を無下に扱う弘徽殿が許せなかった。

 雪子は一度も振り返ることもなく、部屋から出て行った。