平安後宮身代わり姫君伝

 国風文化が華開く時、都で帝の次に力を持つ左大臣家のお姫様がいた。

 父は左大臣、母は先代皇帝の第一皇女。生まれながらにして権力を持つお方。

 そして、射干玉(ぬばたま)の黒髪に淡雪の肌をしていると言う。

 非の打ち所がないお姫様は、当然の定めのように入内されることとなった。

 しかし、お姫様は何か考えているようで......。

 その方の名は杏子(きょうこ)

 やがて、後宮で大輪の花を咲かすことなる。

 「杏子(きょうこ)、今年の秋、そなたは入内することになった」


 入内とは、皇后、中宮、女御になる方が正式に内裏へ入ること。

 いわば、帝と結婚すること。

 天よりもはるか遠い帝や東宮と婚姻を結び、子を成すことで貴族は更なる栄誉を手に入れることができた。

 そのため、多くの貴族は娘を内裏に入れているが、杏子の家は違う。

 初代帝の頃から帝の右腕として補佐する家系で長い伝統と位があり、これ以上栄誉は必要無いからだ。

 ではなぜ杏子が入内することになったのかというと


 「この間の会議で、帝から杏子を東宮と結婚するようにとお願いされてしまって......」

 「兄上ったら......。断っときましょうか?」


 母と帝は国母と呼ばれる皇太后から生まれた同母兄妹。

 臣下の正妻となった今でも、会ったり連絡をしているので、お願いを断るのは出来る。

 だけど、杏子は


 「わたくしのために、帝のお願いを断るなどできません。父上、母上、......入内しようと思います」


 いくら帝にお願いを断れる立場だからといっても、杏子の思いだけで断ることはできない。


 「私は一応左大臣で紀子(きこ)は、帝の妹君だ。普段は使わない権力を駆使して杏子を幸せにするからな!安心しなさい」

 「......はい」


 父はそう言って杏子の不安を取り除こうとしていたが、杏子の気持ちは上がることがなかった。





 「杏子様、お帰りなさい!何を話されたんですか?」


 自室に戻ると女房の卯紗子(うさこ)が聞いてくる。

 卯紗子の明るさで、杏子の気持ちが少し浮上した。


 「ねえ、卯紗。私、内裏っていうところに行くみたい」

 「確か内裏って、杏子様が行きたくない場所第一位ですよね?一体なぜ?」

 「帝からのお願い」

 「それは断れませんね」

 「でしょ。わたくしは内裏なんて行きたくない。内裏なんかよりも外の世界に行きたかった......!」


 この世界はたくさんのことが毎日起こってる。

 杏子が知っていることよりも知らない方がはるかに多い。

 新しいことを知って、見たことない景色で胸が動く......!

 杏子の夢は屋敷の中で一生を終える上流家庭のお姫様には理解できない荒唐無稽のようなもの。

 それでも、それでも、外の世界に行きたかった。

 夢が本当になる前に潰えてしまった。

 杏子の大きな瞳から落ちる雫が着物を濡らしていく。


 「杏子様......。きっと、内裏も楽しいところだと思いますよ!先日、お姉さんから聞きました。女達の戦場だと」

 「女達の戦場?」


 内裏は優雅な場所。

 1度、杏子は紀子につられて、帝が住む清涼殿に行ったことがある。

 静かで、荘厳で、誰もいない大きなところだった。

 そこで会ったのは従兄弟とおじいちゃんだけ。

 普通に和やかで楽しい時間を過ごした杏子には戦場なんて感じない。

 昔、弓や剣を持って決闘でもした人がいたのか?


 「はい!悪口、陰口は当たり前。時には直接的な嫌がられや食事に毒が盛られていたらしいですよ」


 女達は男達の喧嘩よりも静かに行われる。

 でも、その裏側は真っ黒で深い。

 男の喧嘩よりも裁ちが悪くて精神にくる。


 「毒ぐらいなら見抜けるけど、陰口、悪口はともかく直接な嫌がらせね〜。これって、反撃とかしても大丈夫なの?」


 実目麗しい美女で、白魚の手で詩を紡ぎ、国一番の琴名手なんて言われると、深窓にふける大人しい姫君を予想してしまうが、違う。

 むしろその反対。

 杏子は見た目こそは深窓の姫君だが、中身はやられたらやり返す、中でじっとしているより外で動いていたい大人しいとかけ離れた姫だった。


 「大事にしなければ大丈夫だと思いますけど、杏子様を悪くするなんて......。杏子様、私が全力で守ります!」

 「それは嬉しい。外の世界に行けないからって悲しんではいけないよね。きっと何か楽しいことが待っているかもしれない......!卯紗のおかげで、元気になったよ」

 「それは嬉しいです!」


 杏子と卯紗子が盛り上がっているところ悪いが、杏子は左大臣の娘で東宮の従姉妹。

 果たして、そんな杏子に嫌がらせをする人はいるのだろうか。

 いたら、その勇気を称えるほどである。
 季節は廻り、あっという間に紅葉が舞う秋となった。

 杏子は父に連れられて入内。

 貴族の男性や女房たちが華やかに着飾って、酒と音楽に酔いしれた祝宴が開かれた。


 「これはめでたいですな」

 「ああ、九条殿は羨ましい限りだ」

 「家柄、姿、知性、全てが整っているなど、次代の中宮は決まりだな」


 御簾先からも聞こえる浮かれた声。

 遠くから聞こえる雅な管楽の音。

 東宮に入内した本日の主役である杏子(きょうこ)


 「暇」


 重い正装を着て、畳の上に座っていた。

 何かしようとも、衣装が重すぎて動けない。

 動きたくない。

 今、杏子が来ているのは、遠い未来で十二単と言われている貴族女性の正装。

 濃い紅色の長袴と白い小袖を着る。ここまではいつも通り。

 その上から(ひとえ)と呼ばれる裏地のない下着にかさねの色目を意識して5枚ほど(うちき)を着る。

 袿の上には唐衣(唐衣) (短い上着)を。

 さらに、腰にはスカートのような()をつけて、仕上げに檜扇(ひおうぎ)帖紙(たとうがみ)

 何枚も衣を着る十二単の重さはどこかの時代の秤では10㎏前後を指し示すそうだ。


 「重いですよね。これからは毎日この恰好になると思るんですか......」


 杏子の女房、卯紗子(うさこ)も杏子と同様に十二単を着ている。

 主である杏子ほど華やかな物ではないが、それでも衣は一品物だった。


 「なんで?」

 「高貴な女性に仕える女房はこれが正装なんですよ。今までは、軽装で許されいましたが、内裏となるとちゃんとした服装にしないといけないんですよ。杏子様はこれから、帝と東宮の前ではその服でいないといけないそうですよ」

 「......ねえ、その決まり変えない?」


 内裏とは帝や東宮を含む皇族が住む場所。

 そうなってくると、皇族と会う日が増えてこの思い服を着ないといけなくなる。

 こんな服、今日だけで十分。

 杏子のいつもの服で毎日過ごしたい。

 かさね色目って何ですか?

 衣の表地と裏地、衣の重ね着に自然美の調和?

 自然美の調和は他の方法で出来ないのか。

 いつも長袴に袿ぐらいしかきていない杏子にとって、十二単なんてもう二度と着たくない。

 もう少し簡略化して欲しい。

 そうしたらまだ着ようと思える。


 「どうやって変えるんですか?」

 「うーん。わたくしが帝や東宮と会う時にこれを着ないとか?」

 「上位の女御が流行を作っていると聞きましたし、もしかしたらそれが流行になるかもしれませんね」

 「それなら......!」

 「杏子、いるか」


 御簾の外で聞こえたのは、この国で一番偉い方、帝の声だった。

 そして、杏子の許可なく勝手に部屋の中に入って来てしまった。

 帝は杏子の実の伯父。

 血縁関係があるので、女性である杏子の部屋に堂々と入出することができる。

 この国には高貴な女性は血縁関係がある者や親しい者以外男性には顔を見せないというしきたりがある。

 もっとも、帝にはそんな規則に縛られないが。


 「本当に紀子そっくりだな。この度は私、いや、じじの願いを聞いてくれてありがとう。杏子は昔から外に出たいと行っておったのに。そなたの夢を潰してしまったお詫びにじじが何でも叶えてあげよう」


 願ってもないお願い。

 もちろん、杏子の願いはここから出ること。

 でも、今日入内した姫がその日に内裏から出るのもおかしい。

 何かあったのではと家が疑われてしまう。

 それに、まだ卯紗子が言っていた女の戦場とやらを体験してない。


 「ありますが、別の機会でお願いします」

 「おう、そうか。杏子は女御。中宮がいない(みなと)にとっては一番高い位となる。そして、ここは飛香舎(ひぎょうしゃ)という。清涼殿とは近い。杏子にいやがらせをする者はいないだろう。安心して暮らせるぞ」


 帝が住む清涼殿に近いほど妃の家柄が高くなる。

 清涼殿に近い飛香舎を与えられた杏子は東宮の中宮最有力候補となったことを、杏子は気づいていなかった。

 なんで嫌がらせがないのか。

 それは、帝に近いから。

 と勝手に答えを考えて、この話題は消す。


 「心遣いありがとうございます、帝」

 「この場にはうるさく言う者もいないから、昔のようにおじい様と呼んでくれぬか?」

 「それもそうですね、おじい様」

 「そうそう、ここの警備をする者は杏子も知っている人物だ」

 「後で見に行って来ますね!」


 (誰だろう?)

 男との関りがほとんどない杏子にとって選択肢はほとんどない。

 帝の右腕として働いている父に、武官と文官の兄。陰陽師として働いている弟。

 今すぐにでも外に出たいが帝の手前、我慢している。

 決して、帝の願いだからではない。


 「夜は危ないから、明日の朝にしておいで。今日はもう遅い。杏子、ゆっくりと体を休んでくれ。それじゃあ、また。失礼するぞ」

 「また、後日」


 帝が部屋からいなくなると、全く動かなかった杏子が外の方へ向かう。


 「杏子様。帝から夜は危険と言われましたよね」


 杏子至上主義のこの女房にとって杏子のことは全てお見通しである。


 「うん。だから、見に行くの。危険な目にあっても卯紗が守ってくれるもの」

 「杏子様......!ってそれとこれとは別の話です。杏子様、今日は疲れていますし一度お休みになったらどうでしょう?明るい昼間の方がきっとよく見えますよ」

 「これくらいで疲れるほど、やわな女ではないのよ、卯紗」

 「燭台だけでは、相手のことほとんど見れませんよ?日の光が当たることで見えるのです」

 「ねえ、卯紗。知ってる?今日は月が出ているの。ほのかに光る月の灯りで十分見えるのよ」


 杏子はそう言っているが、今日は三日月で月光よりも星々の方が輝いて見える。


 「月光は朧気ですよ、杏子様」


 二人の話はやがてどの月が美しいのかに転じ、さらに月の話、動物の話になった時には星々が消えて空がほのかに明るくなっていた。
 「父上、杏子(きょうこ)の様子はどうでしたか?」


 帝は東宮である俺よりも先に杏子とあって来た。

 この宴のせいで全く身動きが取れなくなってしまい、父上に先越されるとは......。


 「杏子はやはり紀子の面影を継いでおる。慣れぬ正装に苦しんでおった」

 「正装は重いですからね」


 母は父の言葉に納得をしている。

 そんなに重いのか......。

 正装を簡略化させるか。

 杏子のためにそうしたいが、古きを好む物もいる。

 どちらにも納得するような政治をする。

 それが難しいことだ。


 「湊、杏子に会いには行かないのか?」

 「慣れない内裏に着いたばかりできっと疲れているでしょう。もう数日したら会いに行こうと思います」

 「そうか。湊、杏子のことどう思っているのか?」

 「この世界で慈しむ姫です」





 杏子と会ったのは、今から十年ほど前。

 父上が目に入れても痛くないほど可愛がっている妹の紀子(きこ)内親王と夫の左大臣、俺と同じぐらいの年の二人の男と杏子が挨拶しにやってきた。


 「ほら、杏子。この方が東宮の湊様よ」

 「みんとさま?」


 舌足らずな杏子は俺の『な』が『ん』になっていた。

 訂正しようとしても、杏子は直らなかった。

 頑張って何度も練習をしている杏子の姿を見て名前を付けることができないあったかいものが俺の中から生まれた。


 ふわふわしているものが形になったのは、


 「私、外の世界に行ってみたいのです。たくさんのことをこの目で見て見たいのです!あ、すみません。はしたないところを見せてしまって......」


 杏子のような貴族の女性は外に出ることなく屋敷の中で暮らす。

 世間とは離れたそんなところも好ましい。

 誰にもに囚われず自由に舞う蝶を捕まえて見たくなってしまった。


 「いつか見せてあげるよ、杏子」


 俺は東宮。

 ここから出ることは許されない。

 でも、君と外に出られたらー。

 そんな願いを今だけ思ってしまった。





 「ー。ところで、湊、明日、何があるのか分かっているだろうな?」


 惚気た顔が一瞬にして変貌して真面目になる。


 「もちろんです」


 明日は俺が主催する管楽会。

 後宮にいる更衣や女御、女官が琴、琵琶、笛などを披露していく。

 公にはしていないが、中宮を決める際の判断材料となるかもしれないと言われている。

 そんなことはどうでもよく、せっかくの杏子に会える機会。


 「父上、母上。笛の練習をしてきます」

 「こんな時間に?」

 「練習しないといけないので」


 ヒラヒラ飛んでいく蝶を花にとまってくれるように。

 長い夜は始まったばかりだった。
 日が空の真上にある頃、


 「眠い......」


 昨日は太陽が昇るぎりぎりまで起きていたため、生活が乱れてしまった。


 「飛香舎様、文が届いております」

 「飛香舎様?」

 「わたくしがここに住むことになったから、そう呼ばれるのね。卯紗、文を取ってきてくれる?」


 親しい人以外、名前は教えない。

 言葉には力があるそうで、名前を呼ばれると人格を支配される......らしい。

 もちろん、杏子や卯紗子は全く信じていないので、卯紗子には名前で呼んでもらっている。

 人格の支配、そんなことはまだ一度も起きていない。

 そろそろ起きないかなと杏子はひっそり楽しみに思っていたりする。


 「え⁉」

 「どうしたの?卯紗」


 文を取りに行った卯紗子の悲鳴のような声が外から聞こえる。

 何かあったのでは⁈

 不安と興味で混ざった感情を持ちながら、外に出ると見慣れた人物と卯紗子が見えた。


 「卯紗子がいるってことは、ひょっとすると中にいるのって」

 「柏陽(はくよう)兄様!」

 「お、杏子。じゃなくて今は女御様か。たくさんの文が届いてますよ。今この場で焼きましょうか?」


 にこやかな顔をしているが、目は笑っていない。


 「待って下さい。中身を確認してから燃やします」


 卯紗子から、紫の桔梗に結ばれた文を開くと、

 (行きたくないんですけど)

 東宮直筆の文字が羅列していた。

 秋は月が綺麗とか書いてあったが、簡単にまとめると、今日の夜に東宮主催の遊びが開かれるらしい。

 遊びとは詩歌に管弦、舞などをして楽しむこと。

 東宮主催の遊びとなると、自分の特技をみせる発表会に近い。

 どれも知識や技能が必要なので、妃の教養と賢さが試される。

 そのため、格付けの基準となり、誰が中宮候補なのか大体決まってしまう。

 一度決まると覆すのは困難。

 きっと後宮の花々は死に物狂いでくるだろう。

 (どうやって休もう?)

 東宮主催の遊びとなると断りにくい。

 ただの熱だったら這い上がっても行かないといけないほどなので、そんじょそこらの言い訳は効かない。

 別に琴を弾くのは嫌いではないし、杏子の他にいる女御や更衣に会ってみたい。

 だけど、あの重い服を着ていくとなると行きたい気持ちが消滅する。


 「風邪ひきたい......。中止するほどのことが起きて欲しい......」

 「何か良からぬことが書いてあったのですね。直ぐに燃やしましょう」

 「......燃やしたら、いけないものです。差出人は東宮でした。今日の夜、東宮主催の遊びがあるそうです」


 東宮の文を燃やしたら不味い。

 それぐらいの常識は持っている。


 「それって、あの正装を......?」

 「たぶん」


 目に見えて落ち込む杏子と卯紗子に、なんでそんなに元気がないのか男である柏陽は全く検討もつかない。


 「えっと......ほら、女御様。こっちにも文はありますよ」


 撫子に結ばれた文と紅葉の絵が描かれた文。

 開けやすい紅葉の方から見ると、和歌が書いてあった。

 それも上の句のみ。

 この歌は世に知られていない知る人ぞ知る歌で、相手の教養が高い証拠である。

 (これはお返しをした方が良いわね)


 「柏陽兄様、一旦席を外しますね。残りの文も下さい。中で見たいので」

 「おう、分かった」

 「杏子様、紙と墨を磨ってきますね」

 「ええ。ありがとう」


 何も言わなくても主がしたいことを察する万能女房である。


 「それでは、また夜お願いします」

 「任せてください、女御様」





 部屋に戻ると、既に準備は整っておりいつでもできる状態になっていた。

 向こうが書いた和歌は、直訳すると秋の花の数を指折って数えています。

 (確かこの下の句は七種類の花があるみたいな言葉が来るけど......)

 そのまま書いても、工夫がない。

 ここはもうひとひねりしたいところ。


 「花......。うーん......」


 (そういえば、前に読んだ物語で帝の妃が花に喩えられていたっけ......)

 立場的に杏子が書くわけにもいかないので、質が悪い紙に返歌と一言書くと


 「ねえ、卯紗。これを書いて、相手に渡してくれる?」

 「これは......花は妻に喩えたのですか」

 「ええ。だって卯紗。この人、女たらしで有名な人よ?前に柏陽兄様に教えてもらったの。教養は高いけど奥さんが大勢いるって」

 「だから、この一言なんですか」


 杏子の返歌にそっと置かれた一言は一見穏やかに伝えているが実際は違う。


 「そうそう。たくさんの奥さんがいるけど、奥さんは愛想つかしてるよって書いた。まあ、伝わんなかったらでいそれでいいんだけどね。率直に意味を取ると、たくさんの花があります。でも一本の花は枯れてますよって感じかな」

 「男性は女性の恋の辛さなんて全く知らないですからね。書き終わったので、柏陽様に送っときますね」

 「お願いね」


 今や男尊女卑の時代。

 それは結婚にも表れる。

 一夫多妻制の世の中、男は数多の妻がいて当たり前。

 夫が来ない夜は自分ではない他の姫君のところに行っていると思うとそんな事実に耐えられなくて、相手に嫉妬してしまう。

 全ての決定権がある男は分からない。

 恋する乙女の辛さ、苦しみが。

 理解することもできない。


 「......恋の苦しみが分からないわたくしが他の方のところに夫が行って欲しいって願っていいのかしらね」


 昼間だというのに光が入らない部屋で杏子の声は誰にも聞かれることがなかった。
 「杏子様、今宵は秋の暦なので、かさねの色目も秋っぽくしてみました!」

 「寒くなるとはいえ、これは熱すぎ......」


 熱が出ることもなく、天変地異が起こることもなかったので、予定通り東宮主催の遊びに出席することになってしまった。

 そのため、卯紗子(うさこ)によって正装を着させられた。

 今日の五衣(いつぎぬ)は一の衣から順に表は中紅、淡朽葉、中黄、濃青、淡青、中紅。裏は中紅、中黄、中黄、濃青、淡青。

 どこかの世界では紅紅葉(くれなゐもみぢ)と呼ばれているらしい。

 杏子や卯紗子は知らないが。


 「早く行って早く帰りましょう」

 「それもそうね」


 飛香舎(ひぎょうしゃ)から出ると、手燭(てしょく)を持った柏陽(はくよう)がいた。


 「女御様に卯紗子......。なんか豪華な服だ、ですね」

 「歩きづらいから、あまりこの姿はお気に召さないんです。柏陽兄様、なぜ今日は蝋燭なんですか?いつもは松明(たいまつ)なのに?」

 「後宮で松明は危ないから使ってはいけないそうです。一体誰が考えたのでしょうかね?松明の方が明るいのに」

 「ほんとそうです!蝋燭は暗いし火が灯っている時間がとても短いんですよ!」


 杏子や柏陽の家では夜出歩くときは松明を採用していた。

 蝋燭は高価なくせにすぐに火が消えてしまう。

 蝋燭を何本も使えるのは後宮やお金持ちの家ぐらい。


 「杏子様、柏陽様。お話中失礼します。蝋燭の火が消えてしまう前に行きませんか?」

 「そうだな。ここから清涼殿が近いからといっても蝋燭がないと何も見えなくて危険だからな。ほら、行きますよ、女御様」





 灯りを持っている柏陽を先頭に杏子、卯紗子という順で渡り廊下を歩いていると昼間のように明るい部屋についた。

 管弦の美しい音色がまだ聞こえないが、外にまで聞こえるほどの女性の声は聞こえる。

 東宮の声がないので、始まっていないんだろう。


 「行ってらっしゃいませ、女御様。何かあったらすぐに教えて下さい。ちゃんと持っていますね?」

 「もちろんです、柏陽兄様。では、行って来ますね」

 「女御様の力でねじ伏せて下さいな」


 何か物騒な言葉が後ろから聞こえた気がするが、気のせいだろう。

 中に入ると、高灯台で絹の光沢がわずかな明かりを反射させているのか艶やかな雰囲気で満たされていた。


 「あら、藤壺様!次代最有力中宮候補と言われているだけあって美しいですね。実は今日、我が兄が藤壺様に文を渡したそうですよ。もうお読みになりましたか?撫子の文で、漢詩の文から取ったそうで、わたくしの部屋で自慢してきましたの。兄の方がわたくしよりも先に藤壺様と仲良くなって」


 (息継ぎどうしているんだろう?)

 口元に扇を添えた目の前の女性に疑問を持つ。

 言葉を挟もうとしてもすぐに次の言葉が紡がれる。

 せめて相槌と思ったが、その隙間もない。

 一体いつ息を吸っているんだろうか、この人は。

 器用に鼻で呼吸しながら話しているのか?

 それとも、肺活量が良いから一度も息を吸わずに話せるのか?

 想像しがいがある。


 「弘徽殿様と藤壺様はもう友人に違いありませんね」

 「ええ。藤壺様も弘徽殿様も女御で家柄も見た目も備わっていますから」


 弘徽殿の後ろにいる取り巻き1,2(名前を知らないのでそうしとく)はどこを見たら、友人と思ったんだろう?

 杏子と後ろにいる卯紗子はただ立っているだけ。

 (あの文の中身って漢詩なんだ。誰の漢詩なんだろう?はやく言って欲しい)

 杏子は人が良さそうな笑みをたたえて時々首を動かしながら、全く別のことを考えていた。

 取り巻き1,2が言ったことを全く聞いてない。

 頭にあるのは、漢詩。

 それだけ。


 「藤壺様は左大臣出身ですよね。それなら兄の文にある銀台金闕夕沈沈(ぎんだいきんけつゆうべちんちん)にも答えらられますよね?漢詩って難しいですけど、頭が良い藤壺様ならきっとできますよ。私でさえできたので。それで、」


 (この漢詩の意味知っているのかしら?)

 弘徽殿の兄が書いた漢詩を訳すと豪華できらびやかな宮殿で夜は静かに更けていく。

 これをどうしろと?

 この後の文を書くのか?

 でも、この後に続くのは独宿相思うて翰林に在り。

 意味は一人宿直して君を思う。

 仮にも女御の杏子にこの漢詩は非常識すぎる。

 この漢詩の作者は都では愛好家が多くてそれなりに有名だ。

 きっと作者だけでこの漢詩にしたんだろう。

 (この文は燃やそう。灯りの燃料にちょうど良さそうだし)


 「集まったか」


 騒がしい部屋の中でよく通る凛とした声。


 「今日は管楽会に来てくれてありがたく思う。長話はしたくない。早速、誰か弾いてみてくれ」

 「......」


 誰も行かない。

 (私が行くか)


 「東宮。私が演奏してもよろしいでしょうか?」


 いつ行くのか見定めていた女たちは顔が悪くなった。

 杏子の琴と自分の腕を比べられるのは自明の理。

 杏子の琴の評価が上がり、自身の価値は落ちてしまう。

 女たちがどうやって高く評価させるのか考えているなんて知らない本人たちは、和やかに会話が進む。


 「もちろんだよ。飛香舎」

 「それでは遠慮なく」


 白魚の手から奏でる美しい音色。

 一音鳴るだけで空気が動く。

 女の声はいつの間にか消えて皆が音に集中する。

 最後の弦を弾いても、誰も動かない。動けない。

 (何かおかしかったかしら?)

 反応がないと演奏者は不安になる。

 固まるとなると良かったのか悪かったのか演奏の良し悪しが判断できない。


 「さすが国一番の琴の名手。もう一曲演奏できる?」


 東宮が杏子を称えたことで、観客の金縛りは溶ける。

 本来なら次の妃の変わらないといけないが、東宮が杏子にお願いしているので誰も動けない。

 東宮の意向を無視して行くなど出来るわけがない。

 そのようなことをしたら、都中に教養がない妃として知れ渡ってしまう。

 都で流れる噂は殿上人も耳にするので、もう二度と高位になれないことはないことを示唆する。

 杏子に一方的に話続けた弘徽殿もその取り巻きも動くことはできない。

 動けるのは、東宮と杏子のみ。

 卯紗子は杏子の女房でしかないので、ただ頭を下げて杏子の後ろにそっと控えている。


 「承知いたしました」


 杏子は別の曲を演奏する。

 先までの華やかで豪華な雰囲気から一転して静かな曲。

 音も小さく耳を傾けないと聞こえない。

 (月が出る夜に一人いる姫を思った曲だっけ)

 音色から伝わるのは会えない寂しさに孤独。


 「ー♪」

 「⁈」


 冷たい琴の音色を包み込むかのような温かい笛の音がすぐ横から聞こえる。

 (一人でいる男の元に姫が来たよう)

 楽譜を無視して杏子は徐々に明るい音色を奏でていく。

 派手ではないし華やかでもない。

 控え目だけど音から伝わる、溢れ出る幸せ、幸福。

 琴と笛の音で作り出す二人きりの世界が終わると、


 「飛香舎、楽しかったな。あの場で旋律を変えるのはさすがとしか言えない」

 「東宮こそ、音に合わせて笛を吹くなど私には出来ません。見事でした」

 「また、一緒にしよう」

 「......そうですね」


 後宮から出たい杏子はその約束を果たすことはできないかもしれない。

 でも、気持ちが高揚している東宮の前では否定的なことは言えなかった。


 「次に演奏する者は誰だ?」

 「桐壺様はどうでしょうか?桐壺様も管楽が得意とおっしゃっていたので」


 前方にいる弘徽殿が口を開いたことで、この場にいる者が後ろを見る。

 桐壺とは淑景舎の別名。

 帝や東宮が住む清涼殿から最も遠く、他に殿舎の渡り殿を取らなくてはならないなど非常に不便な場所に位置する。

 そのため、淑景舎を与えられる妃は身分が低い更衣の位がほとんど。

 このような皇族主催の会は、位が高い順に前から座っていくので後ろであればあるほど位が低くなるので、桐壺を見つけようと後ろを振り返ったのだった。

 3人を除いて。

 東宮は妃と対面しているような形で上座に腰を下ろしているので、後ろを見る必要はない。

 では残りの二人はというと、


 「杏子様、桐壺様のことを見ないんですね」

 「前に出る時見られるでしょ。正装で後ろを振り向くのは大変なんだから」


 前にいる東宮のところに行くのも大変だった。

 必要以上に動きたくない。

 じっと耐えている方がまだ軽く感じられる。


 「桐壺は......いないみたいだね」


 後ろを見ている東宮がそう呟くと杏子の後ろにいる他の妃は扇で口元を隠しながら、


 「東宮様主催の遊びに来ないなんてね......」

 「桐壺殿はその辺りの教育を受けてないのでは?」


 桐壺のことを悪く言っていた。

 東宮に聞こえないように声を潜めているが、前に座っている杏子には筒抜け。


 「杏子様、これが女の闘いです。桐壺様は身分が低いので言いたい放題ですね」

 「そうね」


 弘徽殿の発言で桐壺を中心にさせる。そして、いないと分かると罵る。

 (茶番劇を見ているような感じがする)


 「弘徽殿、君も演奏してみてくれ。女御という位に立つのだから、期待している」

 「は、はい!ただいま!」


 後ろにいる弘徽殿が前に出て来て琴を弾く。

 だけど、


 「杏子様の素晴らしい演奏の後だとちょっと......」

 「卯紗。弘徽殿様も上手なんだから」

 「それは分かるんですけど......」


 杏子と次に演奏したことで、下手に見える。

 弘徽殿が下手なわけではない。むしろ上手い分類に属する。

 弘徽殿も予想していなかったのだろう。

 観客の反応で何があったのか悟り、徐々に音が悪くなっている。

 女御の中でも高位に位置する弘徽殿を非難する声はない。

 この場で弘徽殿よりも位が高いのは東宮と杏子だけ。

 だが、妃たちの内側では弘徽殿の演奏を馬鹿にしている。嘲笑ってる。


 「弘徽殿よ、戻っていいぞ」

 「は、はい......」


 逃げるようにして部屋から出ていく弘徽殿と取り巻きを杏子は横目で見送った。


 「ねえ、卯紗。女って怖いね」

 「そうですね。一瞬にして立場が変わりますから」


 華やかで明るい雅な世界。

 そこに咲くのは美しい花々。

 でも、花には棘があって毒に侵されることを杏子は目の前で実感した。