家族とは、必要だろうか。
 普通に生きていれば、そんなこと考えもしないだろう。
 弟は必要か。母親は必要か。父親は必要か。
 悩みの種というのはいくつもあって、そのいくつもを一つ一つ解決するのは難しい。
 いつだって、悩みというのは突然押し寄せて、何重苦にもなって人の心を潰しにかかる。
 両親が、高校入学前の三月に離婚。
 その後、母親が契約したマンションで弟と三人で暮らし始めた。
 中学三年生の弟は、高校受験があるため家に帰れば勉強を始める。
 そして、弟は、豹変した。
 生活に慣れるというのは難しい。弟の場合、勉強をするということで自室で机に向かうことで慣らしていった。
 その皺寄せが僕にきた。
 母親は、仕事をして疲れた体で帰ってくる。
 僕は、両親が離婚したためにバイトをすることになった。
 バイト前の三十分もない時間で、掃除、洗濯、夕飯の支度を任された。
 これは、僕の同意があった上での話ではない。
 弟が、強制的に決めたルールだ。
『お前だけが、何もしないなんてあり得ない。家事もできないなんて兄失格だ』
 そう言い放った弟のルールに従う気もない僕は、バイトだけを行っていた。
 しかし、二週間も経たないある日、バイトで疲れた体に弟は告げた。
『料理さえできてなかった。どうして、ルールが守れない?』
 父親の面影が重なった。
 弟は、この離婚した家庭の父親になろうとしていると、思った。
 兄に命令するのが父親の仕事。
 うちの家庭はそうだった。離婚する前から弟に甘く、僕に厳しかった。
 掃除、洗濯を母親に任せて勉強するとはどういうことだ。若い体は動かすためにある。勉強なんて誰だってできる。
 それが、父親の言葉だった。
 弟が両親と遊んでいる時、僕は掃除をした。
 弟がテレビを見ている時、僕は洗濯物を干していた。
 当たり前の日常へと変化したのは、中学生の頃。
 部活終わりにそのまま風呂に入り、疲れのあまり眠ったことがあった。
 飛び起きた時には、一時間余りが過ぎていて急いで出るとリビングのソファに座る父親が僕を正面に正座させた。
 掃除をしていない。洗濯物を取り込んでいない。
 残業終わりに帰ってきた父親は、それに激怒していた。
 母親も仕事をしている最中、お前は何くつろいでいるのだと。
 理不尽な説教を受けているところに弟はやってきた。
 そして、その姿を見た弟はボソッとつぶやく。
『兄さんは、できない人』
 いまだに鮮明に覚えているのは、父さんがこんなふうになるなよと、優しく伝えた後、怒りのまま殴られたからだ。
 顔にあざができると良くないと知っているのか、腹に何発ものあざができた。
 あぁ、この弟は父親にそっくりだ。
 顔も似ている。
 僕は、誰に似たんだろう。
 鏡を見れば、あの忌々しい父親に似て見える。
 絶望だった。
 しかし、その絶望に浸る間も無く夕飯を作る。
 洗濯物を取り込む。
 両親が離婚した原因は、全く知らない。
 だが、覚えているのは、『お前のせいだ』。父親、弟に言われたその言葉が事実なのだろうと思った。
 学校では、我妻のいじめの的になった。
 話しかけてくれた西崎と仲が良くなれたからという嫉妬なのかと思った。
 だけど、彼を見るに僕自身を許せない節がありそうだった。
 そして、気がついた。余裕のありそうな一匹狼に見えたのだと思う。
 その様が嫌いなのかもしれない。
 いじめは過激化した。
 ダーツ矢で腕を刺された時は、あまりの異常さに驚かされた。しかも小さい針だから血が少し出るくらい。
 そこまで嫌うのかとため息が出た。嫌がる姿を見て興奮したいようにも見えなかった。
 ただ、なんとなく我妻が僕を見る目が似ていた。こんなやつと似ていた。
 なんで生きているんだろうとふと考えてみた。
 夜、ベランダに出て風にあたりながら。
 理由がどこにも見当たらなかった。
 こんなのは地獄だ。
 死んだ方がマシ。
 その思いが、増していった。
 西崎が僕を止めた一件以降、保健室に入り浸るようになった。たまに真島がきて三人で談笑したり。真島は高校で初めて仲良くなった男友達だ。
 一人の時間が取れなくても、安心できる人がそばにいてほしい。
 ただ、そう思ったのだ。
 西崎は、あまりにもダサい僕の姿をみても態度を変えなかった。
 家庭のことはバレたくない。言いたくない。
 だけど、この明るい彼女の前では普通に笑いたい。
 疲れることから苦しいことから逃げたい。
 その安らぎの場が保健室だった。
 授業には出ず、保健室で勉強する。たまにサボりにきた西崎に授業を教える。
 そして、夏休みに入った。
 安心した。
 少しの余裕を持ちながら、バイトをして家にお金を入れて、家事をこなす。
 料理は、レシピを見ながら見よう見真似で作る。
 料理自体は楽しいが、人に食べさせたくない。
 まずいまずいと言いながら食べる弟の姿に嫌悪している。
 母親が作る料理が一番だと母親に言う姿は、まるで誰もが想像できる弟の姿。
 僕は、いらないんじゃないか。
 誰にも必要とされていない。
 この場に僕がいなくても、母親が料理を作る、掃除をする、洗濯物を取り込む。
 十分じゃないか。
 ベランダに出て、地面を見る。
 遠い。これなら、いっそダイブで死ねるのではないだろうか。
 西崎の笑みを思い出す。真島のおちゃらけた表情を思い出す。
 だめだ。死ねない。
 もう少し、あいつらと一緒にいたい。
 もしかしたら、必要なんじゃないかって思えるから。僕はここにいていいって思えるはずだから。
 そんなある日、八月末に夏祭りがあるから行こうと西崎が誘ってくれた。
 何度か夏休み中に会っていたので、いつもの調子で二つ返事で返した。
 花火祭りか。浴衣でも着て行こうか。
 少しくらい自分のバイト代を使ってもいいだろうと思い、一万円を手に取り、安めの店に入った。
 誰かに見られている気がしたが、気のせいだと思い浴衣を選ぶ。
 自分に合う浴衣はあるだろうか。
 一応、彼女と遊びに出かけた時に買ったヘアワックスをつけている。このヘアスタイルで祭りに行こうと思う。
 何度もヘアワックスの練習をしているおかげでうまくいっている。
 コンビニバイトの大学生にもだんだん良くなっていると褒めてもらえたし、コツも教えてくれた。
 コンビニは人手が足りなくて必要とされている感じがとても好きだった。
 認めてくれているんだと思えた。
 若い女性店員さんに相談しながら決めると、その日が待ち遠しかった。
 彼女が、うちに来てくれると言うので待つことにした。
 弟は、図書館で勉強をすると言って今はいない。
 夏休みに入ることには、初めの頃のようなキツさを弟から感じなくなっていた。
 まぁ、別に今は帰ってこなくていいけど。
 予定時間より少し早めにインタホーンがなったことを不思議だとも思わずに、玄関を開けた。
 この時、ちゃんとインターホンの画面を見ていればよかったと後になって思う。
「はい」
「久しぶりだね、空」
「……父さん」
 絶句した。
 どうして、家にきたのだろう。
 離婚が決まった時、子供の同意もなく会ってはいけないと聞いていた。
 連絡なんて一切なかった。いや、僕は父さんの連絡先をブロックして、削除した。
「ちょっと、入るよ」
 最も簡単に僕を押し退けるとズカズカと家に入っていく。
「ちょ、ちょっと待って!」
「この家にいることは、知ってるよ。君が、ちゃんと周りを確認しないでこの扉を開けたんだから」
「…………ま、さか」
 あの時に感じていたつけられている感じは、父さんの?
「察しが良くて助かるよ」
 キッチンを見る彼。
「お、これは父さんが買った炊飯器と電子レンジだね。ちゃんと使っているんだ」
「やめて」
 外に出そうとする腕を乱暴に振るうと僕の体は揺れて、父さんの腕が胸元めがけてあたり、壁にぶつかった。
 絶望とはこのことだろうかと思うと、死にたくなった。
 そうだ。もう父さんは一生この人のなんだ。
 まるで悪魔を見ている気分だ。
 一生、ずっと。
「何、その目は?」
「い、いえ……」
「なんだその目は!!」
 怒鳴る声に怯える僕。
 それが、父さんの刺激になった。まだヘアワックスで固めていなかったからよかった髪を掴み、吠えるように怒鳴る。
 唾が顔にかかるがそれどころじゃなかった。
「ごめんなさい」
「あぁ!?」
 一旦冷静になったのか、父さんはそのまま部屋を見渡す。
「ここが、空の部屋だね」
 そこには、バイト代で買った浴衣がある。だめだ、これから祭りに行くことがバレたらまた何か言われる。嫌だ。言われたくない。やめろ。
「待って!」
「父親に命令するのか!?」
 怒鳴る彼に足がすくんでしまい、動けずにいると扉を開けられた。
「……ん?なんだこの質素な部屋は。何もないじゃないか」
 嬉しそうに喜ぶ父親に、何も言い返せなかった。
「趣味もないのか?」
 バイト代は、全部母親に渡しているからであって。
 趣味はある。本を読むのが好きだし、買いたいものだってある。欲しいものがある。
「そうだよなぁ。生まれてから父さんにねだったことないもんなぁ」
 欲しがるといつも嫌がっていたくせに。
「空っぽだな」
 ……空っぽ?
 変な想像はするものじゃない。そうわかっているはずなのに、止めることができない。
 なんで、待って。違う。違う……。違う……っ!!
 僕は……。
「あぁ、教えてあげる。空の名前、父さんがつけたんだ」
 やめろやめろやめろやめろやめろ……!
「空が生まれたときね、父さんその場にいなくてさ。出産予定日はまだだったのに、出産を聞いて出張から急いで帰ったんだ。なのに、空が生まれても何も感じなくてね。急いで帰ったのに、全く感慨深くなくて」
 嘘だ。僕を壊そうとしているだけで。適当なことを言っているだけだ。
「心は空っぽだった。感動も涙もなかった」
「…………っ」
 声が震えて、言葉らしい言葉が出てこない。
 僕はなぜ生まれた時からこんな仕打ちで、愛してくれなかったんだ。
「………………違うっ!!」
「違くないよ。だって、じゃあ、今まで何を教えてきたんだ。陸と違うところは何?」
 陸は弟の名前だ。
 空と陸で対照的なだけだ。悪意だ。本気でそう思っているわけじゃ……。
「掃除、洗濯させてきたのはなぜ?陸がしていないのはなぜ?空ができないと陸の前でも怒ったのはなぜ?」
 違うと口角が動くのに、言葉にならない。
 やめろと言うのに、言葉にならない。
 膝から崩れ落ちて、呼吸ができなくて。父さんを睨むことさえできない。
「父さんはね、それらができたら愛せると思った。ほらあるだろ?好きでもない人に告白されてとりあえず付き合うけどやっぱり何も感じないみたいなこと。それに似てるね」
 首を横に振って最大限の否定をする。
 だけど、正面でしゃがみ顔を耳に近づけると彼は言った。
「父さんは、空を愛せなかった。ごめんよ。これから先もずっと愛せないと思う」
 口が開くのに、嗚咽が漏れそうで。
 お構いなしの父さんは、視界の端で見えた封筒の中身の札束を見て告げた。
「これは、父さんへの慰謝料としてもらっておくよ」
 封筒で頭をポンポンとされ、綺麗な笑みを浮かべて帰っていく父さん。
 玄関の扉が閉まった時には、叫んでいた。
 あれは、母さんが僕に伝えてくれていた。
 必要になった時に使うからそれまでは取っておくねと。
 ここに隠しておけば、バレないよと。
 その封筒から一万円をとり、浴衣を買った。
 ちゃんと隠してくれていた母親の思いを僕自身が踏み躙った。
 頭が空っぽだ。視界がぼやけている。
 目の前には空っぽの部屋がある。
 欲しいものもの全部、家庭のために我慢してきた。
 どんな暴言も我慢してきた。
 だけど、僕はいらない存在で、必要なかった。
 この約五ヶ月のバイトの努力が水の泡となった。
 空っぽな僕を愛せなかった父さん。だから、愛するために努力をさせた。でも、愛せなかった。
 乾いた声が漏れた。
 枯れた涙は、もう出てこない。
 ぼーっと座り込んでいた僕は、気の赴くままに自分の部屋のものを汚していった。机のものを乱暴にどかし、床に散らばり叫ぶ。
 叫べば叫ぶほど、怒鳴り声が増していく。
 僕は、必要だ。必要なんだ。認めてくれる人がきっといる。そうだ、そうだろう?なぁ!なぁ……!!
 頭がまた空っぽになった。
 周りには何もない。誰もいない。
 頼れる人なんていない。誰にもこの環境を知られたくない。
 窓を開ける。
 何度かベランダで考え事をしていた。
 だけど、もういいか。
 普段ならやらないことをしよう。
 柵の上に座り、部屋とその奥にあるリビングを見る。
 あぁ、もう何もないや。
 これまで認めて欲しくて努力してきたのになぁ。
 もう、いいか……。
 地面までの距離は、遠いんだよな。
 そうか。なら、もう、いいか……。
 上半身を外に投げ出すと、つられるように下半身も落ちていく。
 家族とは必要だろうか。悩みの種が何重苦にも積もれば一つ一つ解決なんてできない。
 そして、疲弊しきった心には、一つの種で最も簡単に命を捨ててしまう。
 鈍い痛みと共に僕は、死んだ。……はずだった。
 生き残ってしまった者はまたその地獄を疲弊しきった心のまま立ち向かわなくてはならない。
 ノック音よりも早く扉を開けたその人に絶句する。
「父さん……」
 西崎が、昨日言ってくれた面会拒否を看護師に伝えていなかったせいだ。
 この場所がバレたは、きっと病院にいると聞きつけて、同じ制服を着た西崎か真島の後を追ったんだ。
「こんなところで、何してるの」
 言葉が出ない。どうして、過呼吸気味になるんだ。
 近づいてくる父さんに拒絶反応を示してしまった。
「なんだその目は!!」
 胸ぐらを掴まれる。
 言葉が出ない。
「母にも迷惑をかけて、学校にも迷惑かけて。父さんにも迷惑を被りよって!お前は、人様に迷惑をかけている!」
「……ごめんなさい」
「あぁ!?謝れば済むのか!?じゃあ、謝ればいいのか!!お前は、謝れば全て許してもらえると思っているのか!!」
「ごめんなさい」
 穏やかだった心が、怯え震え立つ。
 この人は、悪魔だと呪いをかけられたように。
 愛していないのではないのか。
 これも全部、愛じゃなくて世間体を気にしたのか。母親、父親、学校。どれも愛じゃない。
 僕を愛してなんかいない。
 現実はこんなにも残酷なんだな。
 窓の外の景色に目をやる。
 ここ何階だっけ?
「どこ見ているんだ!!」
 一気に現実に引き戻される。
 この悪魔とどう対峙しろと言うのだ。
「いいか、もう誰にも迷惑をかけるなよ。死ぬなら責任を持て!子供のくせして死のうだなんて思い上がるな!」
 この人は、生かしたいのか殺したいのか。僕にはもうわからない。
 吐き捨てるように言い、出ていく父親。
 呼吸が乱れて、どうしようもできない。
 怖い。これが、恐怖なんだ。
 この世界にいる恐怖。
 弱った体を飛び起きさせ、窓に向かう。
 だけど、体に力が入らなくて這いつくばってしまう。
 なぁ、俺はここにいてはダメだろう?
 責任なんてなくていい。無責任に死んでやる。ていうか、責任ってなんだよ。
 誰かに迷惑をかけてきた責任をこの身をもって取るだけ。
 そういうのもあるでしょ。
 どうにか、よじ登るように立ち上がり窓を開ける。
 あぁ、うちのマンションより高い。
 これなら……。
 窓を開けるとグラっと上半身が外に出る。このまま上半身に体がいってくれれば、死ねる。
 笑みが溢れる。
 もういらないや。
 どうせ、誰からも愛されない。
 認めてくれない。
 生きている意味なんてどこにあるんだよ。
 学校では嫉妬されいじめられて、家では邪魔者で。
 どうせ、ゴミに紛れ込んでも、泥に塗れても気づかれないだろ。
 僕の死が誰かに影響を与えることなんてない。
 自殺未遂に終わったあの日以降、何かが変わった試しもない。
 承認欲求を持つ自殺志願者に誰が構うんだよ。
 足を浮かせるとズルズルと上半身が下へと向かう。
 このままゆっくりでもいいから。
 死に損ないを死なせてくれ……っ!
 刹那、上半身がグワンッと持ち上げられて床に倒れる。
「何しているの!!」
 看護師だ。
 あぁ、見られちゃった。
「ハハッ、ちょっと外の景色を」
 虚な目で言うと、看護師は、抱きかかえてベッドに座らせた。背もたれのように枕部分が動いてくれるので喋りやすいようにしてくれた。
「これ、書いて」
「え?」
「あなたの友達?彼女?わかんないけど、頼まれてたから」
 用紙には面会拒否の文字。
「これ」
「今すぐ書いて出して」
 ペンを渡され、手に持つ。
 間を開けてから、看護師に告げた。
「今日はもう誰とも会いたくないです」
「わかったわ」
 感謝を述べてから、用紙に家族全員と学校の生徒、教師、西崎、真島以外と書いた。
「その二人、本当仲がいいのね」
「えぇ、少しは気が楽になるんです」
「そう。でも、今日は会いたくないと」
「えぇ」
「もうそろそろくる時間だと思うけど」
「追い出してください」
「わかったわ」
 看護師が出ていった後、窓の外の景色を見やる。
 秋の空模様は、すぐに日が暮れる。
 もうすぐ夜がやってくる。