かぐや姫の雲隠れ〜身代わり女房は大好きな主のために宮中入りいたします〜


 書状や書簡が積まれてからしばらく経つと、須磨が松緒の元へやってきて、仕事のやり方を一通り教えていった。
 須磨の元には、宮中にいる貴族たちから後宮内に届く文や嘆願書が届くほか、様々な部署からの報告書が上がってくる。それぞれの内容に合わせ、帝に報告をあげるもの、内部で処理をするもの、自ら返書を書くものなどに選り分け、女官たちに指示を出す。

「これはまだ一部でございますよ。簡単そうなものだけお持ちいたしました」
「……そなたは、きちんと眠れていますか」
「灯りの油がもったいないですからね。夜は寝ています」

 つまり、それ以外はほとんど働きづめということだ。聞けば、一年以上里下がり(実家に帰ること)ができていないとのこと。

「わかりました。わたくしもそなたの負担を減らせるようにしましょう」
「よろしくお願いいたします」

 須磨はまだ「かぐや姫」に対して猜疑心を持っているようだった。今まではさぼり魔のように見えていただろうから仕方ないと思う。自分の働きで認めてもらうしかないのだ。
 松緒は後宮で働く女官の名簿を求めた。自分の下にいる部下たちのことぐらい、多少知っておかなければならないと思ったからだ。
 須磨は少々驚いた様子だったが、了承した。

「ところで須磨。この、女官の家族から来ている嘆願書が気になっているのですが、これはなんですか?」

 松緒が渡した書状に目を通した須磨は、ああ、と低い声になる。

「後宮で何ができるわけではございませんが、帝のお耳には入れたほうがよいことですね。近ごろ、都には妙な薬が流行っているのです。見た目はただの粉薬なのですが、飲めば極楽浄土に行って帰ってきたような心持ちとなり、やみつきになってしまうのだとか」

 ――麻薬みたいなものかな。
 
「物騒ですね……」

 ええ、と須磨はため息をついた。
 
「老若男女問わず、それこそ身分も問わず、流行っているようですね。それこそ朝廷の方々も、こっそり愛用されていた方がいらっしゃったようで……。ただ先日、前参議《さきのさんぎ》の方が、服用のしすぎでお亡くなりになって以降、その薬は使用禁止となりました」
「そうなのですか。それでこの書状を……」

 嘆願書を書いた女官の家族が、薬を飲みすぎで、錯乱状態になっているという。医者に見せるため、給料の前払いを嘆願したいというのがその内容だった。
 前払いは可能だろう。だが、副作用でボロボロになった身体は戻らない。

「知らぬ間に、後宮内にも入り込んでいるかもしれませぬ。かぐや姫様もお気をつけくださいませ」
「わかりました」
「それと、こちらは口頭でのご報告なのですが」
「なんでしょう?」
「先ほどこちらに伺う時、野良陰陽師がかぐや姫の元へおたずねになるとおっしゃったので、首根っこ捕まえて、追い出しておきました。御承知おきくださいませ」
「野良陰陽師?」

 野良犬に対するような言い方だった。
 須磨は口にするのも嫌そうに、

「晴明《はるあきら》でございますよ。かぐや姫様を『気に入った』ようです。……まさかあのような輩を寝所に入れたわけではございませんよね?」

 帝を袖にしておいて! と言わんばかりである。

「そのようなことはありません」

「寝所に入れる」という表現は……まあ、あけすけな言い方ではないが、そういうことだ。だから嘘は言っていない。ただ、「かぐや姫」の居室に入ってきたことはあるので、なんとなく気まずい。
 須磨が退出した後、松緒はまた書類仕事との格闘を再開した。

 ――仕事はたくさんあるけれど、気が紛れていい。姫様のためにもなるもの。

 夜になると、傍仕えの女房たちを先に眠らせた。頼りない明かりの下、机に向かい、黙々と書状に目を通していく。自分ならばだれにどのように指示を出すか、考える。
 数回夜を繰り返すうち、松緒はどのように宮中が動いているのか、書面を通してなんとなくわかってきた。
 後宮自体、ひとつの組織なのだ。どこから要望が生まれ、企画が立てられ、人が動いていくのか、その構造は現代の企業や官僚組織と似通うところがある。
 そうなると、事務仕事の省略を考えたくなるのが、元OLとしての思考である。
 前世の松緒は、いかに残業を減らすためにさぼりながら仕事をするのか、そればかり考えていたのだ。
 少しのノウハウを駆使すれば、須磨の仕事も減らせ、身代わりが終わった後のかぐや姫の負担も減る。まさにウィンウィンの関係だ。
 頭の中で考えを巡らせていた松緒は。
 そのために、背後から忍び寄る人影に気付けなかったのだ。

「かぐや姫」

 甘い声で呼ばれたのは、今はいない主人の名。
 首の後ろから手を回され、抱きしめられているのは、松緒の身体。
 一瞬、頭が真っ白になった松緒は、とっさに灯台《あかりだい》についた火を吹き消した。顔を見られないために。
 相手は男。大柄と思われる。
 一度、内部に入り込んだあの陰陽師かと一瞬疑うも、声は別人のように思われた。
 松緒は震えながら「どなたですか」とかぐや姫として答えた。
 男は耳元でフ、と笑う気配がする。男が身に纏う香の匂いが辺りに充満している。

「わたしは、そなたの秘密を知っている」
「秘密……? 何のことですか」

 毅然として言い返せば、「気丈な女だな」と声が返ってきた。

「実は、先ほど、灯りに照らされた、そなたの顔を見ていたのだ」

 それは思いも寄らないことで、体中の血の気がざっと引いた。
 
「かぐや姫は絶世の美女と聞く。なのに、こっそりのぞいてみれば凡庸な女がそこに座っていたよ」
「あ……っ」

 声にならない。
 だれだ。この男は、だれだ。
 笑みを含んだ声のまま、男は後ろから『かぐや姫』……松緒の手を取った。今や振りほどく気力もない。

「そなたは……かぐや姫の『偽物』だな?」
 
 そうして、決定的な一言を放ち、松緒の身体は今度こそ凍り付いたのだった。



 明朝、朝の支度を手伝いにやってきた相模は、まったく眠れていない様子の松緒を見るや、すぐさま寝所に松緒を寝かせた。

「近ごろ、だいぶお疲れがたまっていらっしゃったでしょう。お休みください」
「ですが、もうすぐ須磨さまがお見えになる刻限ですよ。待っておりませんと」
「須磨さまには私から伝えておきますから。……松緒、眠っていなさい」

 最後の一言は、だれにも聞かれぬような小声で。
 松緒は諦めて「うん」と頷いた。相模には母親代わりのようなところがあるので逆らえない。
 身体も熱を持っているようで、うまく動いてくれなかった。
 いつまで経ってもなじめない豪華な几帳台の中で眠る。相模が時々、松緒の様子を覗き込みにやってくるが、次から次へとやってくる見舞客の相手に困り果てているようだ。
 後宮というものは噂が広まるのも早かった。
 熱も下がった夕方ごろには、かぐや姫の体調を心配した貴族たちからお見舞いメール……もとい文が届く。適当に処理しておきますね、と相模が言っていた。
 松緒は、見舞いの文のうち、一部には返事を書いた。例の、対面しなければならなかった四人の男たち宛てである。
 邸内の中でも、松緒が一番、かぐや姫の筆跡を真似るのが巧かったので、そこはつつがなく終わった。
 だが問題は、その後にやってきたのだ。
 「娘」が体調不良だと聞いた桃園大納言は夕方遅くにやってきて、「気が抜けている」と叱咤した。そして。

「明日は帝とお会いするのだ。おまえの体調をとても気にされている」
「ですが……」
「構わぬだろう。いつも断ってばかりでもよくない」
「はい……」

 桃園大納言は松緒をひと睨みしてから去っていく。

 翌日。帝がぞろぞろ人を引き連れながらやってきた。
 この国でもっとも高貴な方ともなると、どこへ行くにも侍従などがついてくる。前回の対面の際にも、人の気配が多すぎて気が気でなかった。彼らはみな、かぐや姫を見たくて興味津々だっただろうから。
 今日も前回と同じになるだろうと構えていたのだが、ほかならない帝自身の声が響く。

「みなここで下がるように」

 人の気配はかぐや姫のいる御簾の前からあっという間に去り、ひとりのみ残った。

「どうだろう。そなたも腹を割って話さぬか。二人きりならば話せることもあろう」

 ふくよかな声が響く。
 松緒は相模と顔を見合わせた。
 
――拒めそうにない。

「……承知いたしました」

 帝の仰せには本来何も言えるはずがない。むしろ、今までがおかしかったのだ。
 意を決して松緒が頷くと、相模も別の戸から退がった。
 面を隠すための扇を持つ手に、じっとりと汗がにじむ。

「初めて、声を聞いたな。良き声だな」
「もったいないお言葉にて……」
「身体はもう大事ないか」
「はい。おかげさまですっかり調子も戻りまして……」

 松緒はいつ、目の前の御簾を帝が踏み越えてくるのか気が気でなかった。御簾から透ける座り姿からは、そんな無体はしないような気もするが、それは松緒が世間知らずだからかもしれない。

「近ごろ、尚侍《ないしのかみ》のことで須磨に、教えを乞うておるとか。感心しておる」
「いえ……」

 言葉を濁しかけた松緒だが。

「わたくしは与えられた役割をまっとうしたく思っております。須磨さまからは厳しくも温かくご指導いただいております」

 そう付け加える。

「そうか。それはよきことだ。須磨から学ぶことも多かろう。あれは物事に対して公平だ。そなたが励んでおれば、そなたを認める時も来る」
「ありがたきお言葉でございます。今後も努めて参ります」

 ――主上《おかみ》はいい人そう。

 噂に疎かった松緒は今の帝のことをあまり知らない。だが今話している分には、悪い印象を持たなかった。さすが乙女ゲームのメインヒーロー枠、現実的に考えれば、かぐや姫のお相手としてこれ以上ない相手ではないか。
 そう思ったが。
 
「ところでな、実は今朝、珍しきものを見つけたのだ」

 御簾向こうで何やらごそごそと袖のあたりを探る帝。
 やがて手ぬぐいの上に載せられたモノが、御簾の下からすっと差し出される。

「蝉の抜け殻……ですか」
「きれいだろう」

 綺麗に形が残った、蝉の抜け殻。
 今は、春である。蝉の抜け殻が落ちているのはたしかに珍しい。
 絹の手ぬぐいを片手で持ち上げて眺めていると、どうだろう、すごいだろう、と言いたげな雰囲気が正面から漂ってくる。

 ――これは、試されている……?

 ゲームでの帝は「天然入った自由人」。しかし、蝉の抜け殻を自慢してくるとは松緒の予想を超えていた。ちょっとぼけたやりとりになるだけだと思っていたが、蝉の抜け殻を女に見せて自慢してくるのは「天然」通り越した「変な人」である。
 今の帝には妃がいないため、女性の扱いには不慣れなのかもしれない。そう自分を納得させた松緒は、おそるおそる口を開いた。

「たしかに、色艶はよろしいかもしれませんね……」
「だろうだろう。そなたにやろう。これを見つけた時、そなたにこの話をしたくてたまらなくなったのだ」

 自分の宝物を飼い主に差し出す忠犬は、このような感じではなかったか。
 桃園第では翁丸《おきなまる》という名の犬を飼っていて、松緒もよく世話していたが、ちょうど翁丸も同じことをしていた。木の枝とか。

「主上《おかみ》、恐れ入りますが……」

 松緒は、勝手ながら帝が心配になった。

「わたくしが虫嫌いでしたら、ここで悲鳴をあげて、この抜け殻は放り投げておりました……。ご自身で気に入ったものを分け与えることは、帝王として素晴らしい心構えかと存じますが、相手によっては伝わらないこともございますが……」

 すると、帝は「そうか」と素直に頷いた。

「そなたは虫が好きか?」
「特に何とも思っておりません」

 かぐやも松緒も、虫に対して過剰に嫌悪する性質ではなかったのでそう答える。

「ですが、今回の主上《おかみ》のお心遣いにはわたくしにもよく伝わりました。蝉の抜け殻も、室の中に飾っておきましょう」
「うむ……!」
「もし、次に女人に贈り物をされる際には、女人が好みそうなものを用意されるとよろしいかもしれません」
「花や歌か?」
「一般的にはそうですね」
「だが特別感がないぞ。ありきたりすぎる」

 その言葉を聞いて、松緒ははっとして蝉の抜け殻を見下ろした。
 人によっては投げ捨ててしまうだろう蝉の抜け殻でも、帝は帝なりの論理で懸命に考えた贈り物だったのかもしれない。……蝉の抜け殻だけど。

「……趣向を凝らさずとも、相手のためを思って一生懸命考えたのであれば、その心は伝わりますし、うれしいと思うものでございます」
「そなたはうれしいと思ったか?」
「はい」

 ややあって、帝はその場を立ち上がった。

「贈り物ひとつでも難しいものだな……。あまり深く考えたことがなかった」
「いいえ、わたくしも差し出がましいことを。申し訳ありません」
「よい。今日のところは出直そう」

 踵を返しかけた帝が、ふと振り返る。

「ところでそなたは……」
「はい」
「ちぎりたての蜥蜴《とかげ》の尻尾は、好きか」
「特に何とも思っておりません」

 松緒は、肩を落として帰っていく帝を見送った。
 帝の訪問からしばらく経ち、身辺も少し落ち着きを見せてきたころだった。
 
「尚侍《ないしのかみ》さまは蔵人頭さまにお会いになってはいかがでしょうか」

 いつものように大量の書状を持ち込んだ須磨が淡々と告げた。

「尚侍は、後宮における帝の側近であるとすれば、蔵人頭《くろうどのとう》は表の政《まつりごと》における側近です。今までのように引きこもらず、尚侍として動かれるのであれば、避けては通れますまい」
「そうですね……」

 松緒は、かすかに残る「蔵人頭」の記憶を掘り起こそうとした。
 前世の記憶によれば、彼も攻略対象のひとりで、性格は実直かつ真面目……しかし家柄はいいものの、父を早くに亡くしたために出世が遅れてしまった、なかなかの苦労人というキャラクターだった。ルートとしては、比較的穏やかに愛を育める……いわばグランドロマンスだらけのルートの中でも箸休め的な……甘いものだけ食べるのも飽きてしまうので、ほっとするお抹茶も付けてみました、みたいな印象は残っている。
 松緒が覚えているのはそれぐらい。前回の御簾越しの対面の記憶などきれいさっぱり吹き飛んでしまっている。
 
「蔵人頭の長家さまは非常にお忙しい方です。こちらにもなかなか参れないでしょう。かぐや姫さまは、かの御方とやりとりはされていらっしゃいますか?」
「いいえ……」
「あの、須磨さま……」

 傍らにいた相模が、眉根を寄せながら、こそこそと須磨に耳打ちした。

「……は?」

 信じられないような視線を感じた松緒は、さらに顔を見られまいと扇を持ち直した。

「一切! お返事を! これまでされていないと!? 出仕前はともかくとして、今はいわば同僚のような立場の方ですよ! それを無視して、なんとしますか! あなたさまは尚侍《ないしのかみ》としての御自覚がおありか!」
「……先日のお見舞いの返事は書きました!」
「それだけで、人間関係を攻略できたとお思いかっ! 足りませぬ足りませぬっ!」
「ひいっ!」

 須磨の圧に負けた松緒は、ついつい「かぐや姫」を忘れて素になりかけた。
 危ないと冷や汗をかくものの、須磨は違和感に気付かない。
 しばらく思案した様子の須磨は、結論に至ったのか、大きく息を吐きだすと、

「かぐや姫さま。ご覚悟なさりませ」

 真剣な声音に、松緒も固唾を飲んで耳をすませた。

「いずれは通らねばならぬ道。そのうち、ご案内せねばと考えておりました。わたくしめも同行いたしますし、日時の算段もつけましょう。かぐや姫様は、蔵人頭さまとお言葉を交わさなければならないのですから」
「それは、すなわち、どういうことでしょうか……」

 見えているようで見えない話に困惑して尋ねれば。
 
「こちらから、蔵人頭の長家さまに会いに行くのですよ」
「会いに……」
「ええ。かぐや姫さまは、この室を出なければなりません」

「かぐや姫」は出仕してからというものの、与えられた殿舎からはまったく外に出ない。
 顔を見られたら、松緒が「かぐや姫」でないことが明らかになってしまう。
 先日も……真意はわからないが、かぐや姫の正体を看破した男と出会ったばかり。幸いに、まだ正体が世間に知れたわけではないが、わざわざ目立つ真似をしたくなかった。

「そんな……」
「姫様……」

 松緒も、女房の相模も、困り果ててしまった。

「……それほど、ご自分の顔を恐れていらっしゃるのですか」

 ふと、須磨がそう尋ねてくる。

「まだ実際に拝見したことはございませんけれども、尚侍《ないしのかみ》さまのお噂は耳にしたことはございます。女であれば、美しさは武器になりましょう。しかし、あなたさまは美しさを誇るよりも、恐れていらっしゃるように見えますが」
「それは……」

 ――私が「偽物」だから。

 言いたい言葉をこらえる。
 
「……人は勝手に期待して、勝手に落胆するものでしょう?」
「そうでございますね。身勝手なものです。……ただ、お気持ちは少しばかりわかりました。では、こういたしましょう」

 須磨は、「かぐや姫」にある策を授けたのだった。



 翌日の昼下がり。宮中の人々は奇妙な光景を見た。
 板張りの廊の上を、几帳の林が通り過ぎていく。
 女房や童女が帷子《かたびら》を張った几帳の足だけをそれぞれ抱え、示し合わせたように歩いていくのだ。
 帷子はひらひら、ひらひら、とゆらめくが、奥にある「隠したいもの」は決して見えない。

「なんだ、あの妙な集団は。どこにいくのだ」
「さぁ? 須磨さまが先頭にいらっしゃるようですが……」
「なぜ早足?」

 ――それは、みなの腕が疲れ切ってしまうから。蔵人所に辿り着くまで時間との勝負なのよ……!

「几帳の林」の内側にいた松緒は、漏れ聞こえた疑問に心の中で呟いた。
 彼女の四方はすべて大納言家の人々で囲まれている。女房だけでは足りなかったから童女まで駆り出している。
 かぐや姫の姿が人から見られないための苦肉の策だ。はたからみればおかしな光景でも、本人たちは真剣そのものである。

「さぁ、みなさま、わたくしめについてきてくださいませ」

 張り切る須磨の後ろを、そろそろ疲れてきたのか、よろよろしてきた几帳を持つ女たちの集団がついていく。
 さあもう少しで目的地、というところで。
 几帳の足を持っていた童女が転んだ。

「あっ!」

 ばたんと倒れると同時に、「かぐや姫」を人目から隠していた「壁」の一角が消える。

「たつき!」

 相模が思わずといった調子で叫ぶ。
 ……松緒は、頬に春の風を感じた。
 視線をそちらに向けると、そこには松緒のほうを凝視する男がいた。
 赤い袍。まだ若い。十代か……松緒と同い年か少し下ぐらい。一文字に結ばれた唇が、気の強さを感じさせる。

 ――だれかしら。

 松緒は落ち着いて、ぱらりと檜扇を広げ直し、男の視線から逃れた。
 男から離れたところで、なおも心配そうにする相模に囁いた。

「念のために紙でお面を作ってきてよかった。役に立ったわ」

 目の部分だけくり抜いた紙を紐をつかって額に括り付けてきたのだ。不恰好だが悪くない作戦だと思う。須磨もそこまで念入りにするとは思っていなかっただろうが、それぐらいしないと安心できなかったのだ。

「かぐや姫さま、もうよろしいでしょうか」
「はい。参りましょう」

 須磨のうしろを再びついていき……とうとう蔵人所《くろうどのところ》についた。蔵人頭長家の職場である。
 まず、須磨が入り口の妻戸を押し開き、内部へ声をかける。
 
「蔵人頭さま、尚侍さまがお越しになられています」

 すると、どんがらがっしゃんと物が落ちる音がした。「ど、どうぞ」と男の声が一行を中に招いた。

「失礼いたします」

 須磨がさっさと中に入るので、松緒も扇で顔を隠しながら入る。相模たちのように几帳の足を持つ者たちは妻戸前で待機することとなった。

「あら……蔵人頭さまのお姿が……?」
 
 須磨が不思議そうな顔をした。
 蔵人所の内部は板敷となっており、書状や書物の置かれた棚とともに事務処理を行うための文机が等間隔で並べられていた。
 人気はない。顔を厳重に隠したがる尚侍が来るため、気を利かせて、一部の者を除き、下げられたのかもしれない。
 松緒がこっそり辺りを眺めていると、とある一角が目に入る。
 奥の方では、別の扉が開け放たれたままになっている。宮中の事務を司る場所なので、その扉向こうは書類を保管する書庫なのだろうが、妙に気になった。

「あっ……!」

 だれかの声とともに、てんてん、と巻物が広がりながら転がっていく。
 それは松緒の足元で止まったので、反射的に取り上げる。
 気づくと松緒の目の前に、赤い袍をまとった男が立っていた。腕に山ほどの書類を抱えた、いかにも苦労人のような風情を漂わせている。

「か、か、かぐや、姫さま、でいらっしゃいますか……あ、申し訳ありません。わざわざ拾っていただきまして」
 
 彼は呆然とした様子で、松緒が差し出した巻物を受け取った。

「蔵人頭さまは何をしておいでで?」

 須磨が尋ねると、彼は曖昧に笑ってみせた。
 
「あ、いえ。……お恥ずかしい話、こちらにかぐや姫さまがわざわざお越しになられるため、整理整頓しておりましたら……決壊いたしまして」
「決壊」
「日頃から整理する時間を取れないほど、雑事が立て込んでおりまして……ははは。ついいましがた棚がひとつ、崩壊してしまいまして……まあいろいろとお目汚しいたしまして」
「さようですか」

 須磨と松緒は用意された畳の上に座った。松緒の前には几帳が置かれ、やはり「かぐや姫」の顔を見ないように配慮されていた。

「蔵人頭さま、こちらの方が新しい尚侍さまでいらっしゃいます」
「『かぐや姫』と申します。桃園大納言の娘でございます。尚侍として精一杯勤めて参りますので、なにとぞよろしくお願い申し上げます」
「そんな……。もったいないお言葉です。わたしは長家と申します。こちらこそ、同じく帝を御支えする者同士、仲良くやっていけたらありがたい限りです」

 ――真面目で誠実そうな方だわ。

 蔵人頭は、細々とした雑事にもよく気が付かなければならない仕事だ。縁の下の力持ち、事務屋さんとしての能力が問われる。須磨がいうには、前の帝のお声がかかっての抜擢で、なかなか後任が決まらないのも、長家という人が蔵人頭という役職に合っているからなのだと。
 松緒個人としては彼に好感を抱いた。根がいまだに社畜の限界OLなもので、親近感が湧く。

「そうですよ。尚侍さまは、もっと蔵人頭さまと仲良くなさってくださいね。お仕事をするのに人間関係が良いことに越したことはないのですから」
「肝に銘じておきます」

 「かぐや姫」がそう答えると、須磨は満足そうに頷いた。

「わたくしとしましては、仕事に支障がないところで、蔵人頭さまが尚侍さまと「どのような関係」を結ばれても一向に構いませんので、申し添えておきます」

 御簾向こうではやや沈黙が続いた。

「尚侍さまはあくまで尚侍としてお仕えするとのことですから」

 須磨が付け加えると、

「そうですね。努力は、してみましょう。かぐや姫さまに関心があるのは、事実、ですし。実際、何度か、その意図で文を送っておりますので……」
「それは、あの……」

 松緒が困っていると、「大人ですので節度は守りますよ」と先回りした答えが返ってきた。

「実のところ、わたしは嬉しかったのですよ。自身の顔を好奇の目にさらすのを好まれなかった尚侍さまが、わざわざわたしに会うために蔵人所まで来てくださった。……それだけでも、人として好ましく思います」
「あ……」

 ――さすが、乙女ゲームの攻略対象。甘い言葉がさらっと……。

 松緒も大人なので、それだけでぐらつきはしないが、乙女ゲームらしく攻略キャラの好感度を上げてしまった気がしてならなかった。

 ――それは、「姫様」にとって良いこと?

 答えは出なかった。

 蔵人頭に見送られ、蔵人所を出た先に、廊の上で仁王立ちした若者がいた。
 相模たちも控えていたため、すぐに几帳で姿が隠れたが、若者はまっすぐ「かぐや姫」を見つめていたようだった。
 一瞬だったが、先ほど蔵人所に来る前に見かけた赤い袍を着た男だった。

 ――あの視線はなにかしら。かぐや姫さまに焦がれているわけでもなく……むしろ、不愉快なものを見るような……?

 彼は「かぐや姫」に一礼だけして、蔵人所に入っていった。

 ……長家が、書類の整理をしているところに、昔から知る年下の友人がやってきた。

「どうしましたか、行春殿」
「今、かぐや姫を見てきました。こちらにおいでになっていたのでしょう?」
「ええ、ご挨拶に」
「顔は見ましたか?」
「まさか。本人が望まないのに不躾なことはできないですよ。そういえば、行春殿もかぐや姫に文を出されていたのでは?」
「あれは……ぼくじゃない」
「そうですか」

 周囲の者がけしかけることもあるのだろう、と長家は勝手にそう解釈した。

「世間ではみなかぐや姫を当世一の美女だと持ち上げ、次から次へと求婚の文を送っているし、帝の御関心の的でもあるが……他人がそうしているからといって、ぼくまでそうしなければならない道理はあるまい。凡人と同じになりたくない」

 ――なれば、なぜそれを長家に言いに来るのか。

 彼にも、自分の心中を把握できていないところがある。
 左大臣家の御曹司で、恵まれてはいるけれども……彼はまだまだ青かった。
 潔癖で、理想がある。他人からは、冷淡に見えることがあるだろう。

「わたしは凡人だから素直に自分の心に従うよ。それに……あの姫君は意外と親しみやすいところがありそうでね」

 行春はなぜか傷ついた顔をした。

「わかりました。長家さまがそのようにおっしゃるのでしたら、ぼくも交流を持ってみましょう。では……また」
「はい、また」

 長家は行春を見送った。




「松緒は、恋をしたことがありますか?」
「ありませんね」

 かぐや姫がいなくなる前。こんな会話をしたのを覚えている。かぐや姫が、次々と届く恋文を眺めてしかめ面(しかしそこはやはり松緒の姫様なのでため息が出るほど美しかった)をしていたため、「恋文を見るのは気が進みませんか」と尋ねたのがきっかけだった。

「よくわからないのです。この松緒にも恋文をもらうことはありますけれども、ほとんどが姫様への手引きを狙ってのことですから、本気で取り合ったことはございません」
「松緒……」

 かぐや姫は長い睫毛を伏せて、申し訳なさそうにする。

「わたくしは松緒の幸せを妨げているのかしら……」
「いえ! そのようなことはまったく! 松緒は、姫様にお仕えできるのが何よりの幸せなのです! 恋人なんて必要ございません!」
「わたくしのことは気にせず、良い殿方がいたら応えてもよいのですよ?」
「姫様、本当にそんな相手はおりませんので大丈夫ですよ! ……それよりも。姫様ご自身には心惹かれる相手はいらっしゃらないのですか?」
「いますよ」

 それを聞いた松緒は飛び上がった。

「どなたですか! 姫様にふさわしい殿方でしょうか。年収と性格と将来の見込みと姫様への気持ちを確かめさせていただきたく……」
「松緒は自分のことをどう思っているの?」
「へ? この松緒でございますか?」

 一瞬はきょとんとした松緒だが、すぐにかぐや姫の意図に気づいて、姫様、と声をあげた。

「からかわないでくださいませ!」
「ふふふ。ねぇ、松緒。そなたには、わたくし以外に心惹かれる相手は、本当にいないの?」
「そこまで心配なさらなくとも、本当にそのような相手は……」

 ――いえ、でもたしか。

 松緒の脳裏にある光景が過ぎる。
 前世日本の、とある交差点。
 赤信号だが急いでいるのか道路に飛び出してしまった男性。

「恋とは違いますが、気にかかる人はいました」
 
 迫るトラックに気づかない様子で……前世の松緒は思わず飛び出し、彼を突き飛ばした。

「遠い昔に会った人です。今はどこにいるかもわかりませんが……助かって、どこかで幸せでいてほしいと思います」
「助かって、とは?」
「事故に遭いそうになっていたのを、助けようとしたんですよ。私、馬鹿だったんです。あちらの方は立派な成人男性で……私のほうが非力だったのに、助けようとしてしまって」

 飛び出した後のことは覚えていない。
 前世の松緒は、そうやって死んだのだろう。
 最期に目に焼きついたのは、自分を追いかけてきた女を驚いたように見つめてきたきれいな顔。

 ――だって、彼、「平安雅恋ものがたり」のラバストをかばんにぶら下げていたから。同じゲームを好きならば、他人に思えなくて。

「気に病まないでほしいなぁって一方的に思っているだけですよ。恋ではないのですが……忘れられないですね」
「……そう」

 思いのほか、淡白な返事だった。

「姫様?」

 呼びかけるとかぐや姫は考え事から醒めた顔つきになった。

「松緒にも、そのような相手がいたのですね……」
「ですから、何度も言うように恋では全然ないんですよ?」
「ふふ、そうですね」
「信じていないですね!?」

 それで話はしまいになった。
 まもなくして、かぐや姫は松緒をそれとなく遠ざけるようになっていった。
 松緒の代わりにかたわらに侍ったのは、新入りの女房だったが……。
 かぐや姫の心中はあのころからわからなくなっていったのだった。
 

 時は、あの夜の出来事にさかのぼる。

『そなたは……かぐや姫の『偽物』だな?』

 闇に沈んだ「かぐや姫」の居室。謎の闖入者は松緒の背後から迫り、彼女の正体を見破った。
 頭が真っ白になった松緒はとっさに、

『……無礼ではありませんか。夜中に押し入るなんて』

 震える声で言い返していた。そして、万が一を考えての「言い訳」を口にする。

『「姫様」は別の寝所でお休みです。あなた様のように女人の寝所に忍び込む方がいらっしゃるから、私のような「身代わり」が必要になるのですよ』

 「かぐや姫」自身は身の安全のため、違う場所で休み、代わりに松緒がかぐや姫として寝所にいる。
 もしも松緒が顔を見られても、この理由であれば「かぐや姫の不在」という最大の秘密は見抜かれないはず。

『身代わり、か』

 背後の男が納得したのかは、闇の中で抱きかかえられている形ではうかがい知れない。

『離してくださいますか。このような暗闇です。私も逃げも隠れもいたしません』

 男の気配が少し離れた。松緒は胸を押さえながら、心臓の鼓動を収まるのを待った。

『本物のかぐや姫はどこにいる?』
『お答えできません』
『おまえはかぐや姫の女房だな。名は?』
『自ら名乗られない方に、名乗れる名などございません。そこらのごみ虫と同じように考えてくださいませ』
『ごみ虫か』
『その代わり踏まれても丈夫です』
『気の強い女だな。おれの名は知らない方がいいと思うぞ。恐れ多くて失神するかもしれない』 
『今は名も知らないので、姫様に近づこうとする悪い虫としか思えません』

 売り言葉に買い言葉で、応酬したものの……松緒は、相手が想定よりも身分が高い人物なのかもしれないと思い始めていた。
 なにせ、夜の後宮なのだ。身分の低い者が出入りできるものではない。
 そう、松緒はこの場では立場があまりにも弱かった。気丈に言い返しているのも、ただただ姫様のためにと気を張っているだけ。ぼろを出す前に諦めて帰ってくれとひたすら念じていた。

『ならば、この場にはかぐや姫をめぐってごみ虫と悪い虫が角を突き合わせているというわけか。あなたはなかなか口が堅そうで困る』
『お褒めいただきまして、ありがとうございます』
『褒めていないぞ? 今宵の「収穫」がなかったわけだからな』

 松緒が黙り込むと、男がその場を立ち上がる気配がした。
 ようやく去ってくれる気になったらしい。
 だが、室を出ていく男は、最後にひとつだけ、と松緒に尋ねた。
 
『かぐや姫の女房よ。あなたの主人が何をしていたか、知っているか』
『何のことです?』
『……なるほど。では、また会うことになるだろうな』
 
 不吉な予言だけ残し、男はどこかに行ってしまった。
 おかげさまで気疲れにより松緒はしばらく寝込んでしまったし、どこまで松緒の言い訳が通じていたかもわからないので、思い出すたびに太刀の鋭い切先が背中に当てられたような心地になる。
 松緒は、その男とはもう二度と会いたくないと思っている。


 
「かぐや姫よ。久しいな」

 また帝がやってきた。
 前回と同じように侍従などをみな下がらせて、御簾越しの対面だった。
 初対面の女人に「蝉の抜け殻」を渡してきた出来事以来である。

 ――久しい、とまではいかないけれど。
 
 少し間が空いたので、かぐや姫への関心が薄れたのかと思っていたのだが、そうでもなかったらしい。
 それよりも気になることがあった。

 ――御簾向こうの人影が、ふたつ。

 帝の斜め後ろにもうひとりいるのだ。しかし、黒や赤、緑といった官人の衣服の色ではなく、薄い藤色だった。
 後宮において、自由な色を身につけられる身分の者は限られる。
 ――たとえば。

「主上《おかみ》。姫は驚いておられるようですので、早くご説明して差し上げてはいかがでしょう?」

 帝のふくよかな声に対して、少し重みのある男らしい声が響く。

「うむ、そうだな……」

 帝も、どこか気安く応じている、その男。相当な貴人と思われた。

 ――もしかして、このお方は……。

 心臓がいやな音を立てる。
 御簾越しにでも、松緒の視線を感じたのだろうか。
 帝の柔和な顔立ちと比べるとやや野生味を感じさせる面立ちに、笑みが浮かんだようだった。

「東宮だ。以前にもご挨拶申し上げたのだが、覚えていらっしゃるだろうか?」

 彼も、乙女ゲームでは攻略対象だった。
 東宮、兼孝親王。墨宮(すみのみや)とも呼ばれる人だ。帝の実弟に当たる。貴人なのにワイルドさがあるのが魅力で……ただ、今の松緒との接点はほとんどない。

「その際は、大納言殿も同席されて、直接お声は聞けませんでした」
「はい。恐れ多くも……世間知らずだったもので、臆してしまいまして」

 後宮に入ってから一度だけ対面はしたものの、他の攻略対象たちと同じくほとんど記憶が残っていなかった。
 今になってやっとまともに接している始末である。

「それは仕方のないことだ。邸の奥にいたのに、騒がしい宮中にやってきたのだから、慣れていないのはわかります」
「ありがたきお言葉にて……」

 すると、帝が口を挟む。

「墨宮、朕がせっかく紹介しようとしていたのに、ひとりで話し始めるなんてずるいではないか。朕が紹介したかったのだ」
「ですが、主上《おかみ》。以前にも一度、姫君と対面したことがあるのですよ」
「うむ、わかっている。しかし、朕がかぐやを紹介したかったのだ」

 よくわからない理論で帝は駄々をこねている。彼は一体、何をしたいのか。

「……兄上は相変わらず独特だなあ」

 東宮はぼやき、「わかりました。お好きになさってください」と付け加えた。
 帝がその場で背筋を伸ばす。

尚侍(ないしのかみ)。そこにおるのが、東宮である。朕の弟だ」
「はい、弟です」

 松緒は沈黙していた。帝は構わず続ける。
 
「墨宮よ。そこにいる女人が、尚侍(ないしのかみ)だ」
「お噂はかねがね伺っております。……このような感じでよろしいでしょうか、主上《おかみ》」
「うむ」

 松緒は何も言わなかった(言えなかった)が、帝自身は満足したようである。

「かぐや姫よ」
「はい」

 松緒は居住まいを正した。

「先日に話した後、(わたし)も贈り物について考えたのだ。次にそなたに贈るものは何にしたらよいだろうかと」
「あの、それはもうお気遣いなく……」
「趣向をこらす必要はないと言った。相手のために心がこもっていたらよいのだと。しかし、やっぱり花や歌では物足りぬ気がしたのだ。そうしたら、たまたま東宮が挨拶に来たので、相談したのだ。東宮は、本人を見なければわからぬと言った。だから連れて来た」

 帝は松緒の言葉を聞かずに滔々と話していた。

「東宮は、(わたし)より女心がわかると申すのでな。経験も豊富なのだ」
「そもそも主上(おかみ)が浮世離れしているのですよ」
「東宮、何か考えは浮かんだか」
「……尚侍。主上(おかみ)は悪い方ではございませんので」

 今にもため息をつきそうな声音で兄をフォローする東宮。自由な兄に振り回されているのがよくわかる。

「それは……存じております。帝の御恩情にはいつも感謝申し上げております」
「……うむ!」
「この御恩に報いるべく、今後も尚侍の職務に励んで参ります」
「……うむ」

 ――なんだろう、今、声の調子が一段下がったような。

主上(おかみ)はすっかり「かぐや姫」にまいっておられる」

 東宮がにこやかにそう言った。

「ですが、姫君は入内ではなく、尚侍になられた。主上(おかみ)の手がついているわけでもない。油断されていたら、どこかの鷹にかっさらわれてしまうかもしれませぬぞ」
「そなたはそのようなことをせぬであろう」

 帝は迷いなく弟に告げた。
 いささか驚いた……というような沈黙があった。

「かぐや姫の心がそう動いたら、よい。無理強いはせぬ。泣いている女を相手にするのはやはり気が咎めるのでな……」
「そうですか。では、これからどうするおつもりで?」
「うむ。かぐや姫、どうしたらよいか教えておくれ」

 帝が「かぐや姫」にぜんぶ丸投げした。
 帝と東宮。この国でもっともやんごとなきツートップの視線を受けた松緒は、背中にびっしょり汗をかいた。

 ――「私」にどう答えろと!?

 天然で無茶ぶりをしてくる上司に頭を抱えたい。
 しばらく考えた松緒は、ゆっくりと口を開いた……。


――姫様ならどうするだろう。

 身代わりになってからというもの、松緒は自分の中の「姫様」によく問いかけるようになった。
「姫様らしく」を求められているからだけれども、松緒にとっては「姫様を思い出す行為」でもあるのでそれはそれで幸せだったりもする。

 ――わたくしなら、こうするかしら。

 松緒が問えば、松緒の想像した姫様が、ふわっとその場に現れて、松緒に答えを教えてくれる気がした。
 彼女はそれだけ長い間かぐや姫と一緒にいたのだから、脳内で姫様を再現することなど余裕なのである。
 これを「イマジナリー姫様」と呼ぶ。「イマジナリーフレンド」ならぬ、「イマジナリーな姫様」である。
 松緒はこの時も「イマジナリー姫様」を発動した。
 松緒が思うだけで、かぐや姫は微笑みながら松緒の前に現れる。

『姫様、主上(おかみ)からお尋ねがあったのです。なんとお答えすればよいでしょうか?』
『主上は何をおっしゃったの?』
『「かぐや姫」に対して、自分はこれからどうしたらよいのか、と……。主上のお考えがよくわからないのです』
『そうね……』

 かぐや姫は面を伏せてしばらく考えた後に、

『松緒は覚えている? ()()()()()()。ほら、前の関白様のお誘いをお断りした時の……。あんな感じでよいのではないかしら』
『で、ですが、姫様。あの時は夢中でしたし……』
『ふふふ。きっとできるわ。あなたなら』

「イマジナリー姫様」はフッ、と消えてしまった。妄想のわりに都合よくお話ししてくれないのだ(そんなところも姫様らしいのだが)。

 松緒は、今、現実にいた。「かぐや姫」として帝と東宮の二人を御簾越しに相手をしなければならない。
 ふたりは松緒の答えを待っているのだ。
 
 「『おのが身は、この国に生まれて侍らばこそ使ひ給はめ、いと(ひき)いておはし難くや侍らむ』と申します」

 ――わたしの身がこの国に生まれていたならお召しできましょうが、お連れなさるのはとても難しいことでしょう。

 『竹取物語』でかぐや姫が帝を拒む時の台詞だ。
 かつてはしつこくかぐや姫を口説こうとした前の関白を追い払うために、松緒が必死で考えた断り文句でもある(室内に入り込んでこようとしたのを叫びながら制止した。危なかった)。

尚侍(ないしのかみ)として、お仕えする気持ちに偽りはございません。もしも主上(おかみ)がこの御簾を越えていらっしゃった場合、わたくしはするりと逃げて、月に帰ってしまうやもしれません」

 くくっ、と笑い声が漏れた。東宮の肩が揺れていた。

「「主上(おかみ)」のところだけは訂正せねばならないだろう? そなたは、どんな男だろうとも受け入れるつもりがないのでは? それこそ物語の「かぐや姫」をそのままなぞるように生きるのか?」

 松緒は何も言わなかった。理解してもらえるとも思っていなかった。
 彼女は、「姫様」にずっと仕えるつもりだったし、年老いたら寺の近くで椿餅(つばいもち)を細々と売って、姫様と暮らしていたかったのだ。
 かぐや姫はすべての求婚を断り、だれの手も取らなかったから。

 ――そんな姫様がいなくなってしまった。私の気持ちはだれにも理解してもらえないのでしょうね。

 半身をもがれたような喪失感を、身代わりをするために無理やり気づかないふりをしているのだ。

「よいのだ、墨宮(すみのみや)

 帝が「かぐや姫」の沈黙を掬うように口を開いた。
 兄に釘を刺された東宮は不機嫌になった様子もなく引き下がる。

尚侍(ないしのかみ)。そなたの気持ちを尊重しよう。ところで、ひとつ、頼みがある」

 帝の「頼み」とは、ほぼ勅命と同義である。
 場を乗り切ってほっとしたのも束の間、松緒は背筋を伸ばして、帝の言葉に耳を澄ませたのだった。

「そなたには、行事をひとつ、取り仕切ってもらいたい」


 庚申(こうしん)待ちと呼ばれる風習がある。
 暦で庚申に当たる日が年に数度あるのだが、その日の夜に寝てしまうと、普段体の中にいる三尸《さんこ》という虫が、天帝のところにいって、宿主の悪行を報告し、宿主の寿命が縮まってしまうという。
 よって、庚申の夜には眠らずに過ごすのが、庚申待ちだ。この時に、眠くならないよう人が集まり、管弦の宴を催したり、歌を詠んだり、碁を打ったりなどする。
 宮中でも同じようなことが行われていて、帝が打診したのも、庚申待ちの時に人々が楽しめる行事を取り仕切ってほしいとのことだった。

「それで、主上(おかみ)にはなんとお返事なされたのでしょうか」
「謹んでお引き受け申し上げます、と」

 帝と東宮との対面後、須磨との緊急会議である。近くには、相模《さがみ》も控えている。
 須磨は、粛々と「かぐや姫」の話を聞き、まず第一声として「仕方がありませんね」と発した。

尚侍(ないしのかみ)さまに何か、お考えはございますか?」
「これぞ、というものはまだ……」

 松緒は言葉を濁した。
 松緒がすぐに考えつくようなものは、すでに行われているし、飽きているだろう。
 「かぐや姫」が関わるからこその「趣向」が求められている。
 行事の内容はともかくとして、「かぐや姫」にはまずはやらなければならないことがあった。

「しかし、帝がお任せしてくださった以上、わたくしはしっかりやり遂げたいと思っております」
 
 松緒は、意を決して口を開いた。

「わたくしひとりで行事を取り仕切ることはできるわけもございません。どうしても、須磨や、他のみなの力が必要となりましょう。……どうか、わたくしを助けてもらえないでしょうか」

 松緒はちらっと扇をかざしたまま、須磨の様子を伺った。松緒から見えるのは、座っている彼女の袴の辺り。膝の上に扇を持ち、両手を揃えて置いていた。
 須磨はおもむろに立ち上がる仕草をした。

「お話の方はわかりました。わたくしめはこれにて一度失礼いたします」

 ――あれ、だめかも。

 須磨はきっぱりした態度で立ち去ろうとしている。
 正直、彼女にまず頼ることしか考えられなかった松緒は内心、焦った。
 
「え、あの……姫様のお話のほうは?」

 傍の相模も松緒と同じように思ったのか、こらえきれない様子で声を上げる。須磨がちらとそちらを見やり、

尚侍(ないしのかみ)さまにはお勉強していただく必要がございましょう。尚侍になられたばかりで宮中のしきたりにも疎いのです」
「は……?」
尚侍(ないしのかみ)さまはいまだお考えがまとまってないご様子。……庚申待ちの記録は、内侍所《ないしのどころ》にわずかにございます。それをお持ちしようかと思ったまでですが」

 松緒と相模は一瞬、戸惑ったが、胸を撫でおろす。
 須磨は「かぐや姫」を見捨てたわけではなかったらしい。

「ありがとう、須磨。助かります」
「何を当然のことをおっしゃるのですか。わたくしめは尚侍(ないしのかみ)を補佐する典侍《ないしのすけ》でございます。尚侍《ないしのかみ》がお望みであれば、従いますので」

 まずは須磨が持ってくる過去の記録を読みながら、庚申待ちに行うことを決めることになった。
 次の庚申の日まで、およそ一か月。準備のことを思えば、時はあるようでなかった。


 三日経った。
 行事の内容がさっぱり思いつかない。寝ても醒めても行事のことが頭をよぎる。
 今や松緒の失敗は「かぐや姫」の失敗になってしまう。松緒ひとりが恥をかけば済む問題ではなかった。
 「かぐや姫」が庚申待ちの行事をとりしきることは、すぐ噂が出回ったらしい。次の日にはかぐや姫の父親である桃園大納言に伝わっていた。

「やりおおせるのであろうな。宮中の耳目がおまえに集まっているのだぞ」
「は、はい……」

 松緒は冷や汗をだらだらかきながらそう返事するほかなかった。
 かぐや姫がいたころはまだおだやかな気質だった桃園大納言も、今となっては鬼上司。圧のかけ方が半端ないのだが、この世界にはハラスメントを訴える手段がない。

 ――姫様も、周囲の期待に応えることに耐えられなかったから、いなくなったのかな。

 松緒は無邪気にかぐや姫の背中を追いかけていればよかったが、かぐや姫自身はどう考えていたのだろう。松緒が見る限りでは、重圧を気にした様子もなく、いつも穏やかに微笑んでいたが……。
 桃園大納言が帰ったので、松緒がひとりで物思いにふけっていると。
 
「やや! 鈴命婦(すずのみょうぶ)はこちらへ参っていませんかナ!」

 男の声と、足音が殿舎に響く。
 松緒はさっと檜扇を広げて顔を隠す。
 ちりんちりん。小さな鈴の音も遅れて響き、松緒の膝の上に白い毛玉が乗り上げて、くりくりお目目でにゃあと啼く。

「猫だ……」
 
 松緒はあまり触れたことがないので、そのまま固まってしまった。
 傍の几帳の帷子(かたびら)が左右に割れて、黒い烏帽子がにゅっと突き出す。

尚侍(ないしのかみ)サマ、ごきげんよう!」
「ごきげんよう……」
晴明(はるあきら)ですヨ!」
「知っています」

 膝の上で白い猫は丸くなっていた。
 晴明は肘で這いより、器用に猫を持ち上げた。猫は嫌がるわけでもなくおとなしくしている。

「鈴命婦はすぐに逃げてしまうのですヨ。だからワタシがいつも追いかけています」
「……あなた、陰陽師でしょう。なぜ猫を?」
「はて、なんででしょう? なぜかよく命じられるんですよねェ……?」

 そんなやりとりをするうちに、別の人影が後方から彼に迫った。

「この野良陰陽師めが! 無礼もはなはだしい! 恥を知れッ!」
 
 危機を察知した猫は、すぐさま陰陽師の腕から逃れたが、陰陽師自身は逃げられなかった。
 アッ、となまめかしい声をあげたピンク髪がずるずると後方へ引きずられていく。
 几帳の帷子(かたびら)が閉じていった……。
 うぎゃ、うぎょ、うべっ。……ばたんばたんと暴れる音と不可思議な悲鳴が聞こえてくるので、さすがに松緒は几帳の反対側へ回りこむ。

「何をしているのですか……」

 扇をかざす松緒にすべて見えていたわけではなかったものの、松緒には板敷の床にへばりついて意地でも動かないという姿勢をした晴明と、その晴明の足をつかみ、どうにか外へ引きずりだそうとしたが、動きにくい袴に足を取られてやむなく倒れ込んでしまった……。

「お見苦しいところをお見せしております、尚侍(ないしのかみ)さま」

 声だけは平常だった。怖いぐらいに。

「今すぐこの野良陰陽師を放り出しますので、お待ちを」
「須磨。体格が違うのですから、無理しないほうがよいですよ」
「いえ。この者を御簾の内に入れたのは、わたくしめの不徳の致すところでございます。責任を果たします」
「相手も人なのですから、きちんと話せばわかってくれます。そうでしょう、晴明殿」

 妙な沈黙がその場に落ちた。
 フフフ、とピンク髪の陰陽師が笑う。

「そうですネ。ワタシ、聞き分けがよいのですヨ。ささ、御簾の外に出まショウ」

 チチチ、と晴明が舌打ちをすると、白猫も彼の傍に寄ってきた。抱き上げて、御簾をくぐる。
 須磨はいつ晴明が振り返って戻ってきやしないかと神経を尖らせているようだった。

「……あ、そうだ、尚侍(ないしのかみ)サマ」
「野良陰陽師!」

 オオ、怖い怖い、と肩を竦める晴明。

「宮中には魑魅魍魎《ちみもうりょう》が多くいるものですナア。ひとところに集まれば、百鬼夜行《ひゃっきやぎょう》ができますナ」

 不気味な笑い声とともに不審人物は去っていった。

 ――『百鬼夜行』、か……。

 この世界の人びとはあやかしがいると信じている。だからこそ陰陽師もいるし、祈祷も行う。
 夜に都のあやかしたちが列をなして練り歩く。それが百鬼夜行というものだが……。

「あ、そうか」
「尚侍《ないしのかみ》さま?」
「いえ。今、ふと、庚申待ちの行事について、思いついたことがあったのですよ」

 松緒は自分の考えをこそこそと話した。
 はじめのうちは不審そうにしていたものの、やがて唇を一文字に引き結ぶ須磨。

「それは……前例がないことでございますね」
「はい。記録にもありませんでしたね。しかし、主上(おかみ)は面白がると思われませんか?」
「……否定しません。喜々として食いつかれるさまが目に浮かぶようです」

 須磨は、額に手を当て、天を仰いでいる。

「承知いたしました。その方向で行事の内容を詰めて参りましょう。尚侍(ないしのかみ)さま、時は有限でございます。決めることもたくさんございます」
「それは覚悟しております。共にがんばりましょう」

 「かぐや姫」と須磨は頷き合ったのだった。

 行事の準備は進んでいく。
 松緒にとって幸運なことは、須磨が協力的だったことに尽きていた。
 彼女は長年内侍所をまとめあげてきていただけあって、女官たちから信頼され、男女問わず顔が広い。彼女を通じて、尚侍《ないしのかみ》が命じれば、人が間違いなく動くのだ。
 また、彼女は「かぐや姫」が考えた行事の内容を、実行できる形に落とし込むのが巧かった。
 たとえば。

「練り歩くのであれば、この廊をお使いになればよろしいでしょう。池の向こうに見物の方々を配置すれば、たいそう絵として映えますので」
「衣裳には、ある程度制限を設けたほうがよろしいでしょう。あくまでみなで統一感を出すという建前です。……女官の実家もそれぞれございますから」
「尚侍《ないしのかみ》さまが作られた次第《しだい》でございますが、いささかこれでは不十分かと。この部分で「待ち」が出てきますので、飽きる者が出てきます。仕掛けをおつくりになられた方が」

 といった具合だ。
 様々な宮中行事に関わってきた経験が蓄積されているので、頼もしい。
 そのような形であれこれと行事の調整を行っていたが、本番の五日前になって、須磨が神妙な声で「尚侍《ないしのかみ》さま」と口火を切ってきた。

「ご報告申し上げます。……『百鬼夜行』の行事にて、問題が起こりました」
「問題とは? 何が起こったのでしょうか」
「いえ、それが、その……」

 須磨が口ごもり、覚悟を決めたように息を吐く。

「手配をしていた楽人が、流血沙汰を起こしまして。痴情のもつれがあったようです。それで手に怪我をしたので、当日演奏できないと……。呆れるばかりでございますが」
「それは……仕方ないですね。代わりは見つかりそうですか」
「代わりは見つかっているのです」
「そうなのですか? では問題とは……?」
「わたくしめが立てようとした代役とは別の方が、この話を聞きつけまして。「自分ならばどうか」と名乗り出ていらっしゃって。わたくしめには判断がつかなかったもので、ご相談に参った次第でございます」

 いつもの須磨ならば、この手のことは自分で対処してしまうはずだが、そうできないということは……。

「『どなた』が、そう申し出たのでしょうか」
「はい。……左大臣家の若君の。……行春さまです」

 ――たしかに、須磨からは断りづらい相手かもしれない。

 彼もゲームの攻略対象だったけれど、まだ直接言葉を交わしたことがない。人柄などもまだよくわかっていないが……。

「行春さまからは、ぜひ尚侍《ないしのかみ》さまとお話をされたいと言付かっております」
「そうですか」

 話すことに異存はなかった。もう須磨をはじめ、「かぐや姫」として言葉を交わしている人々がいるのだから。
 それに問題が起こった時に対処するのも上司の務めだと思っている。前世では部下など持ったことはないけれど、それぐらいは承知している。

「ただ……」

 やはり須磨は言いにくそうにしている。

「以前、左大臣家の大君(おおいきみ)……姉に当たる姫君は、帝から入内を断られております。その弟に当たる方であれば、尚侍(ないしのかみ)さまのような方をよく思っていないのかもしれません……。くれぐれも慎重になさってくださいませ」

 ――本来、帝の妃となる入内は名誉なこと。でも、「姫様」は最後まで拒み、今、身代わりの私も、身代わりという理由で拒んでいる。左大臣家の方々からしたら、不愉快極まりないのでしょうね……。

 しかし、避けて通れるわけでもあるまい。
 わかりました、と松緒は覚悟を決めて頷いた。



 須磨が帰った後、宮中でも顔の広い童女を呼んだ。同じ大納言家にいた「たつき」という名の少女だ。自らを「ぼく」と称する珍しいところもあるが、お使いを頼むことも多く、宮中内外をあちこち歩き回るので、知人が多い。東宮に仕える小舎人童(こどねりわらわ)に恋人がいるらしい。
 肩まで切りそろえた振り分け髪がかわいらしい彼女に、左大臣家の息子について知っていることを尋ねた。

「行春さまですか? まだお若いですけど、人気のある方ですよ。将来も有望ですし、お近づきになりたい女官も多いと思います」

 行儀良く手を膝の上に乗せた彼女は屈託もなくそう答えた。

「あの方、たしか何度か『姫様』に文を渡していたと記憶していたけれど、やっぱり今も関心がおありなのかしら」
「ぼくはそう思いますけど。ただ行春さまご自身はあまり軽い感じの方ではなさそうです」
「左大臣家の噂はなにか聞いている? 「かぐや姫」のことをどう思っているか、とか……」

 そこまで詳しくはわかりません、と間髪入れずにたつきは言い、少し考えた後に、

「でも、ご家族とはうまくいっていないのかもしれません」
「どうしてそう思うの?」
「以前、左大臣さまと行春さまが内裏で言い争いをしたという噂があったのと……ぼく自身、たまたまですが、左大臣さまを遠目に見る行春さまを拝見したことがあります」

 たつきは、自分の肩に両手を回した。

「睨んでいらっしゃるように、お見受けしました。怖かったです」
「それなら、左大臣家と行春さまの意向はそれぞれ違うこともありえるのね」

 なんなら、今回の行事での楽人希望の件も、左大臣は知らない可能性まである。
 憶測だけでことは進められないが、やはり一度きちんと真意を聞いておかなければならないだろう。

「助かりました。直にお会いするのは初めてですし、聞いておいてよかったです。容姿さえもよく知らなかったですし……」

 すると、たつきは不思議そうに首を傾げた。

「松緒さまはもうお目にかかっているではありませんか」
「えっ」
「えっ?」

 ややあって、合点がいったたつきが教えてくれた。
 
「ほら、あの方ですよ。ぼくが几帳を持っていたら転んだ時があったでしょう? その時にいらっしゃった方です。松緒さまはお面をつけていらっしゃったと思いますが、松緒さまからは見えていたのではありませんか?」
「え、えぇ……」

 松緒の脳裏に、あの印象的な赤い袍を着た青年の姿が蘇る。

「蔵人所から出た時にもいましたね」

 不愉快なものを見る視線だった。あれがかぐや姫に恋焦がれている視線とは思わない。
 断然、会いたくなくなってきた。
 なぜなら松緒の「姫様」が嫌いなやつなど、松緒の敵なのだ。あの視線を主人に浴びさせることにならずに済んだだけましだ。
 苦々しく思っていると、たつきがそわそわし出した。

「松緒さま。申し訳ないのですが、そろそろ逢引の約束があって……」

 これから恋人と逢うという。
 あらごめんなさい、と松緒は謝り、手元に常備しているちょっとしたお菓子を二つ包んで渡した。

「ありがとうございます」

 たつきは戸惑いながらも包みを受け取る。

「松緒さまはお優しいですね」
「少しのお菓子なんてたいしたことないですよ」
「かぐや姫さまにお仕えしていた時にはこのようなことがなかったので……」
「それはあなたが仕えた期間がまだ短かったから。もう少ししたら姫様のお優しい気持ちがわかったと思いますよ」
「そうですね……」

 たつきはしみじみと言う。

「ぼくからしたらもう、『かぐや姫さま』は松緒さまのことです」

 その何気ない言葉が、松緒の胸には深く深く突き刺さったのだった。

 
 
 御簾向こうに座る青年は、傍らの灯台《あかりだい》に照らされた透き影からも、四角四面を好みそうな几帳面さが伺い知れた。
 彼は宿直(とのい)の最中、休憩を兼ねて、「かぐや姫」の室を訪れた。傍には相模たち女房も控えている。

 ――き、気まずい……!

 近衛少将(このえのしょうしょう)行春は「かぐや姫」のいる御簾前に腰を下ろし、そのまま何か言うかと思っていたら、黙り込んでしまったのだ。
 これには松緒も戸惑った。たいていは殿方の方から「かぐや姫」に話しかけていたからである。しかも、かぐや姫との対面を希望したのか、彼の方からではなかったか。
 意図しない沈黙の時ができてしまい、松緒は焦った。

――こういう時、姫様なら……。

 脳内で「イマジナリー姫様」を召喚する。
 松緒の強固な姫様観察の賜物ともいえる彼女は、つい、と行春のほうへ顎を向けると、

『放っておきましょう』

 ふふふ、と微笑みながらおっしゃった。
 さすが姫様、男に対して辛辣だ、と松緒は感心したものの。

『姫様、姫様。いけません。庚申待ちの行事の危機なのです! どういうおつもりで楽人になるとおっしゃったのか、確かめませんと』
『そうですね……。わたくしならば……』

 その言葉を聞いた松緒は、相模(さがみ)に囁いた。

「相模。(こと)を」

 相模は怪訝そうにしながらも、(こと)を持ってきた。
 手元に備えていた紙の仮面をつけてもらい、松緒は顔隠しの扇を脇に避けた。
 行春が身じろぎする。
 松緒は気にせず傍に引き寄せた(こと)を爪弾きはじめた。
 張られた弦をはじくと、とりとめのない音の粒が軽やかに舞い上がる。

――姫様は、(こと)の名手だった。
 
 かぐや姫は姫君として一通りの教育を受け、すべからく出来がよかった。美貌と才気の二つを松緒の「姫様」は持っていたのだ。
 そして、松緒も、遊び相手としてだけではなく、その教育に付き合わされてきた。一緒にはげむ仲間が欲しかったのだろう、かぐや姫が何かを習えば、松緒も同じように習うことを求められた。
 箏も、同じように姫様とともに習った。
 松緒は、かぐや姫ほどに器用ではなかったが、仕える主人に恥じないように懸命に練習した。今では、初見の者が聞いただけでは音色の区別がつかないほど、姫様そっくりの音色を真似ることができるようになった(それでもやはり微妙に姫様の腕には劣るけれど)。

――楽人をされるというのなら、この音色に合わせて合奏することなど容易いはずでしょう?

 求婚を断る時のかぐや姫はやたら挑戦的な態度を取ることが多かった。だから松緒も同じようにする。
 己から話し出すつもりがないのなら、引き出すのみ。
 これで察せられないのであれば、それまでだと。
 松緒の指は絶え間なく流麗に動いて、虹色の音を奏でた。
 ややあってから、松緒はちらりと御簾向こうを見た。透き影に、龍笛の細長い影が加わっている。

――受けて立つつもりということね。

 出来がよかったかの判定は、周りにいる者たちがしてくれる。
 松緒は、神経を尖らせて、その時を待った。
 松緒が、さらに指を走らせたところで、行春が息を吸いこみ、龍笛に吹きこむ音が聞こえた気がした。
 龍笛の音が、箏の調べにそっと加わった。
 松緒は、意外にも繊細に聞こえる音に驚いた。
 彼女自身は耳にしたことがなかったのだが、行春は楽器の扱いも上手いのだろうことがすぐに察せられた。若くしてこの腕ならだれからも称賛されているだろう。

 ――でも、楽人を申し出た狙いは? 姉の入内を間接的に邪魔している女の顔が見たかったから?

 純粋な好意から、かぐや姫に近づこうとしているわけではないだろう。
 松緒はどこまで行春がついてくるのか試そうとした。
 箏の音がどこまでも駆けていく。一拍遅れて、龍笛もついてくる。
 龍笛が箏を先導しようとする。箏は拒む。
 競争だ。どちらがどこまで耐えられるか。
 かぐや姫は決して自分を曲げなかったから。松緒もそれに従う。松緒が負けたら、姫様も負ける。
 やがて、龍笛の音が止む。少しして、箏の手も止めた。
 途端に、松緒の指が疲労を訴えてきて、ひそかにため息をついた。

 ――むきになりすぎてしまったかも。

 相模まで呆然とした様子で松緒を見ている。

「やはり……」

 何の脈絡もなく、御簾向こうの青年が言葉を発した。

尚侍(ないしのかみ)さまのお手を煩わせていたようです。楽人の話はなかったことに。当日、お役に立てることがあればお呼びください」

 感情が見えない声音で、青年は立ち上がり、来る時よりも早足で去っていった。


 蔵人頭長家は、仕事に追われていたため、その日も遅くまで蔵人所で書類と格闘していた。
 部下の蔵人たちの中にも残っている者がいたが、たまたま出払っていた。
 戸の前に、幽霊のように年下の友人が佇んでいることに気付いた長家は、眉間を揉んで相手を見間違えていないか確認してから、どうされましたか、と声をかけた。
 行春はゆらゆらと歩き、長家の前に仁王立ちになった。

「先ほど、かぐや姫とお会いしてきました。何なのですか、あれは」
「は?」

 長家は驚きながらも、友人の唇がわなないたのを見た。

「ぼくは、あれが嫌いだ」
「え、どうしたんだい、急に」

 再度驚いたので言葉も崩れてしまう。

「長家さまの眼は眩んでおられるのでしょう」
「え、えぇ?」
「考え直されたほうがよいのです。みながみな……騙されている」

 それだけ言うと、行春は蔵人所から出ていった。
 顔が熱い、とぼやきながら。

 庚申の夜がやってきた。
 この日はいつもよりも盛大に燈籠(とうろう)篝火(かがりび)で後宮がきらびやかに照らされているように感じる。
 そして、人もどこか浮き足だっている。耳を澄ませば、期待に心落ち着かぬ人々の囁き声が聞こえるようだった。

「尚侍さま。すべての支度が整いました」

 須磨が、松緒の前で平伏した。
 いつもの、「かぐや姫」の室……ではない。
 彼女たちは行事の行方を見守るため、別の殿舎に作った控室にいた。
 
「ご苦労さまでした。……では、はじめてください」
「承知いたしました」

 須磨が御簾向こうに下がった。
 やがて、遠くで合奏がはじまる。
 御簾の前を、人影がぞろぞろと通っていく。
 人影とは言いつつも、その「形」はさまざまだ。
 乱れ髪をそのままに歩く、男が着る狩衣をまとった者。
 鼎《かなえ》や穴の空いたたらいを頭に被って、白装束をまとった者。
 はたまた両腕を振り上げて踊りながらつるりとした脛を見せながら歩く「水干姿の童」たち。
 あらいやだ、おかしいわ、こんなの。
「彼女たち」の、けらけらとした笑い声が響いている。

「弟の狩衣を借りてきたの」
「鬼女《きじょ》になってやったわ。つれないあの人に見せつけてやるのよ」
「このきれいな足を見せつけて、玉の輿を狙うのよ」

「彼女たち」は後宮にいる女官たちだ。普段は女装束を着ているが、今宵はいつもより性別や年齢が異なる衣装を身に纏ってもらった。
 彼女たちには後宮の廊を練り歩いてもらう。先々で、帝をはじめとした見物人が待っている。
 女たちの仮装による「百鬼夜行」。
 彼女たちにはひとりひとり籠を持たせていて、中に入っている唐菓子を見物人に配り歩くことになっていた。
 これが松緒の考えた庚申待ちの行事である。

「それはさながら和製ハロウィンのごとし……」
尚侍(ないしのかみ)さま。今なんと?」
「いえ、なんでもありません」

 須磨にひとりごとが聞こえてしまい、松緒はごまかした。

「本当によかったです。みなさま案外、突拍子もない思いつきでも乗り気になってくださって。須磨が声をかけてくださったおかげです」

 後宮の女官をまとめる重鎮が動いたのも大きいだろうと告げたら、須磨は遠い目をしていた。

「それだけでもございませんよ。あの子たちは、娯楽に飢えていますからね。珍奇なものに飛びついて、騒ぎたかっただけでしょう。こうしてハレの場を作ることで、普段の生活で抱えた鬱屈したものを解き放っているのですよ。わたくしめはもう若くないので、そのような元気もありませんが」

 須磨はいつもどおりの落ち着いた色合いの女装束をまとっている。
 松緒はおもむろにあるものを差し出した。

「尚侍《ないしのかみ》さま、それは?」
「見ての通り、用意した唐菓子《とうがし》です。庚申待ちが終わってからと思いましたが、気が変わりまして」
「……必要ありません」
「典侍《ないしのすけ》をねぎらうのは内侍《ないしのかみ》の義務ですよ。たいしたものでないので、さっさと受け取ってしまうのです、さあさあさあ」
「強引な方ですね……」

 呆れたように須磨は菓子を受け取り、ぽりぽりと齧り始めた。
 行事の運営側は、準備が終わって、段取りがすべて整っていれば、あとは突発的なことに備え、行事を見守るのみである。

「練り歩きが一段落しますと、池の舞台で内教坊《ないきょうぼう》(後宮で芸能関係を司る部署)の女官たちが舞を披露いたします。その後は徐々に遊興の場となるでしょう。わたくしめは後片付けの指示を含めて見回りをいたしますが」

 須磨はここで言葉を切ると、

「……本当に『そのように』されるので?」

 そう、念押しのように尋ねてくる。
 もちろんと「かぐや姫」は答えた。

「このような時しか、機会がないでしょう。須磨からしたら、気を遣うでしょうし、その点は申し訳なく思いますが」
「いえ。尚侍(ないしのかみ)さまをお支えするのが役目でありますれば」

 須磨は平伏した。
 
「助かります。では、そろそろわたくしも着替えてきます。須磨は、また声をかけてください」
「承知いたしました」



 身に付けるのは桃色の狩衣。袴は藍色。髪はひとつにまとめ、女のように薄布を巡らせた笠をかぶる。薄布でも顔は透けてしまうので、紙の面もつけている。
 男のような、女のような。
 異様な恰好をしている。しかし、今宵の喧騒では、それがかえって自然と言えるだろう。
 実際、須磨の後ろをついて回っても、「だれかしら」と思われる眼差しを向けられるだけで、特に目立ちもしなかった。
 姫君は、姫君たる恰好をしているから姫君だとわかるのであり。
 ならば、今の異装の「かぐや姫」は、中身が「松緒」なのだから、「かぐや姫」と見られることもないのかもしれない。
 本来の松緒は、後宮にはいない人間である。

 ――今の「私」は、いったいだれだろう?

 燈籠や灯台から少し離れれば、いくら後宮内でも闇が広がる。こころもとない気分になる。闇が松緒という存在を呑み込んでしまうのではないかと……。

尚侍(ないしのかみ)さま」
「はい」

 先導する須磨の声に反射的に応えたことで、胸に生まれた疑問が霧散した。
 今は、後宮内で、須磨による案内を受けている。
 尚侍《ないしのかみ》として、後宮のことをもっと知りたいと思っていたのだ。
 須磨が、行事の合間に見回りをすると聞き、ついていこうと決めた。
 普段は重い立場にあることと、かぐや姫の秘密があるためになかなかできないが、庚申待ちで大勢の者が普段と違う装いをする今夜ならば、人目も避けやすいのが決め手となった。
 須磨は、「かぐや姫」の申し出に渋々了承し、今に至る。
 実際のところ、仮装した者たちを眺めるのは楽しかった。どさくさに紛れて、須磨も松緒も、もらった菓子で、袖が重たくなってきた。松緒はおまけだろうが、須磨は女官たちに信頼されているのがよくわかる。

尚侍(ないしのかみ)さまをはじめ、なぜみながわたくしめに菓子を渡すのでしょうか」

 本人が一番困惑していた。
 池の舞台近くに差し掛かった辺りに、人が大勢集まっていた。
 楽の音がゆったり流れる中、舞姫たちが舞を披露している。
 もっともよい席には御簾が下げられていた。帝が鑑賞する席だ。
 松緒たちは、それらにこれ以上近づくことなく、人が楽しんでいる様子だけ眺めて、見回りに戻ろうとした。
 ところが。

「須磨さま。こちらで碁を指してください。助っ人が必要なのです」
「そんな。ずるいです。左方の味方はなさらないでくださいまし。右方の助っ人に」

 両腕を掴まれた須磨が困惑していた。

「だめですよ。わたくしめは行事を見回る必要があるのです」
「ちょっとだけ! ちょっとだけですから!」
「そうですそうです。須磨さまも楽しんでくださいませ」
「い、いえ。ちょっと……」

 珍しく押され気味の須磨が有無も許さず連れていかれた。
 松緒はひとりきりになった。
 先ほどまでの須磨の案内によれば、控室まではそう遠くないはずだと思い直し、記憶を頼りにひとりで歩き出す。
 ひそかな話し声が聞こえたのは、その時だった。
 女の声。
 忘れもしない、松緒が願ってやまない声が。

「姫様……!」

 松緒は声のある方向へ夢中で駆け出した。廊を渡り、妻戸をのぞきこみ、几帳の裏を見る。

――どこ。どこ、どこ! 姫様、ここにいらっしゃるのですか……?

 唐突に、胸に衝撃が走る。よそ見をしながら早足になっていたため、だれかとぶつかったのだ。
 松緒はよろけた。笠が拍子に落ちてしまう。

「だいじょうぶか」
 
 それでも、紙の仮面があるから平気だと思った。たとえ、月明りがそそぐ濡れ縁であっても、松緒の顔を見る者はいない。
 ただ……。
 松緒は傍らにその仮面が落ちているのを見て、頭が真っ白になった。
 笠が取れた拍子に落ちてしまったのだ。
 ……遠くで、須磨の声が聞こえた。尚侍《ないしのかみ》さま、いらっしゃいますか。

「尚侍《ないしのかみ》……?」

 震える松緒は、自分を抱きとめている男の顔を見上げることはできなかった。ばっと袖で顔を隠しても、もう遅いだろうが。

「ち、ちがいます。……べつじんでございましょう」
「『ごみ虫』か……」

 ぽろっと零した言葉に、松緒の頭は猛烈に回転した。
 ごみ虫。以前、松緒は自分自身をそう言ったことがなかったか。
 今度は、別の足音が聞こえてくる。廊ではなく、地面の砂利を歩く音だ。
 
「東宮さま、いずこにおわしますか、東宮さま……!」

 ああ、面倒なことになった。
 男はひとりごとを言いながら、松緒の頬に手を這わせ、そっとその方向を外ではなく、己に向けるようにした。

「人に見られたら嫌だろう? あなたは今、名もなき姫に過ぎない。逢瀬のふりでもするのが妥当だと思わないか?」
 
 松緒は堅く瞑っていた目を開いた。
 相手がだれかはもうわかっていたものの、信じられない気持ちでいっぱいだった。

「東宮様」

 男の顔は月影に隠れて、細かい表情は見えない。自分の方はそうでないのに。

「身分の尊い方が、姫様につく『悪い虫』とは思いませんでした」
「あなたこそ、大胆なことをしているのでは。今のあなたを須磨の前に出せば、あなたをだれと呼ぶと思う?」

 東宮だ。
 この男が、かぐや姫の殿舎に入りこんだ、不届き者なのだ。
 松緒は精一杯、東宮を睨みつけた。気持ちの上だけでも負けてたまるか。その思いだった。

「さあ、互いの正体がわかったところで、腹を割ってこれからのことを話し合おうじゃないか。……かぐや姫の秘密について」

 そう言いながら、東宮は手近な殿舎の暗がりに松緒を連れ込んだのだった。



 庚申待ちが明けた朝。
 多くの人がようやく眠りについた後のこと。
 宮中を守る衛士《えじ》が、後宮の外れの草むらで倒れる人影を見つけた。
 覗き込めば、男が目を見開き、口元から泡をふいたままで死んでいる。
 奇しくもそれは彼の同僚で、昨夜から行方がわからず探していた者だった。途中まで共に警固の役目についていたのに、ふいにいなくなってしまっていたのだ。
 衛士は数人の仲間を呼び、急いで遺体を外に運ばせようとした。
 宮中に死の穢れは許されるものではないからだ。
 衛士たちは持ってきた戸板に遺体を乗せる。その時、ぱさり……と何かが落ちた。
 それは薬包紙に包まれていて、少し零れた粉は、日に照らされてきらきらと光る。
 まさかと思って、舌先に含んだ衛士は味を確かめるとすぐに唾ごと吐き出した。

「『不死(ふじ)の妙薬』だ……」

 彼が呟けば、周りの者も静まり返る。
 すぐに上に報告しなければ、とみなの意思が一致した。

 

 翌朝、松緒はいつも文をまとめていた文箱(ふみばこ)の上に見慣れぬ結び文を見つけた。ごわごわとした手触り。開けて見れば、心臓がどきりと跳ね上がる。
 すぐさまぐしゃりと文を潰し、袖に隠した。相模に見つからないように。

『かぐや姫。秘密を知っているぞ』

 昨夜、松緒はいなかった。庚申待ちの行事のため、戻らなかった。自室にて待機していた相模に客人がいないか尋ねてみれば、そんなものはいないと言った。
 ただ、松緒の戻りが遅いので、須磨が探しに来た時、相模も近辺を探していたので、室を開けていた時があったという。
 不審な文はその時に内部に入った何者かの手によって入れられたのだろう。
 いつでも『秘密』を暴けるぞ、という無言の意思表示だ。
 混乱しているうちに、須磨がやってきた。
 
「尚侍《ないしのかみ》さまとはぐれた時には肝が冷えました……。わたくしめの不徳の致すところで申し訳ございません」

 彼女は深々と頭を下げていた。

「あの後に、突然、様子がおかしい男が乱入してきたと騒ぎがございまして。尚侍さまにもしものことがあってはと……」
「尚侍さまはご自分で戻ってこられました。わたしはこちらで控えていたのですが、まさかそのようなことが起こっていたなどとはつゆしらず……」

 傍らにいた相模《さがみ》が、須磨に応じるが、ふと松緒を見ると、

「尚侍《ないしのかみ》さま。どうされましたか。あまりお加減が……?」
「え、ええ……」

 松緒は曖昧な返事をした。
 心の中は嵐である。大嵐だ。暴風と大雨がおさまらない。
 気が気でないので、言葉もすべて上の空だった。気がかりなことが多すぎる。

「ご自分のせいだとは思わないでくださいませ」

 須磨はそう慰めた。
 先日の庚申待ちが明けた朝に、宮中に死人が出た話である。
 相手は衛士だったとのことだが、中毒性が高いために禁止されたはずの「不死の妙薬」を大量服用したために死んだらしい。
 今、宮中はその噂でもちきりなのだ。

「わかっていますよ。……ただ、わたくしはこれから主上《おかみ》に数日の宿下がりを願い出ようと思っています」
「……え」

 その時の、茫然とした須磨の様子は忘れられそうにないだろう。まるでがっかりしたとでも言いたげだった。

「実は乳母の身体の調子が悪いのです。この際に、病の平癒を願って寺社参詣に出かけるつもりなのですよ」
「まことでございますか」
「はい」

 松緒がはっきりと頷くと、須磨はいつものように淡々とした調子に戻る。

「承知いたしました。お帰りをお待ちしております」

 そう告げて退出した。
 傍にいるのが、相模だけになる。彼女は不安そうに松緒を見ていた。

「なぜ、急に……?」

 それは、松緒を近くで見ていた彼女がずっと考えていただろうことだった。

「姫様の乳母は健在です。嘘をついてまで宿下がりする理由は……」
「ごめんなさい。言えないの」
「松緒。無理はしないで」

 松緒は何も言えなかった。
 相模にも、理由は告げられなかった。
 
 
 三日後。
 「かぐや姫」は慌ただしく宿下がりをした。
 松緒が桃園第に帰ったら、やはりと言っていいのか、大騒ぎになった。
 
「愚か者めが! なぜ宿下がりをして参った! わしは許しておらぬぞ!」
「大殿……どうか! どうかお怒りをお納めくださいませ」

 邸の女房たちは怒り狂う桃園大納言をどうにか止めようと必死だった。もちろん近くには太刀《たち》などを置かないようにしている。また勢いのままに抜き放たれたらたまらない。
 松緒は深々と頭を下げていた。

 ――胃がしくしく痛んでいる気がする……。

 ひそかに胃のあたりをさすりながら、どうにかこの修羅場を切り抜けることを祈るのみである。

 ――ぜんぶがぜんぶ、「あの人」のせいじゃないの? 「あの人」が現れるたびに私の寿命が縮んでいる……!

 恨みがましくてたまらないのだが、確認しないことには進まない。

「申し訳ありません……! ですが、いても経ってもいられない、緊急の用件がありまして。人目の多い宮中では難しかったものですから」

 これは相模にも言っていなかったことで、大納言を止めていた相模の目が松緒に向けられる。
 大納言はぎろりと松緒を睨んだ。

「なんだね、松緒。それほど言うには、それにふさわしい内容であるようだな?」

 松緒はぐっ、と詰まりながらも気合いを入れ直す。

「大殿。姫様は、まだ見つかっていないのですよね」
「無論だ。今もひそかに調べさせておる」
「大殿。驚かずにお聞きください。……先日の、庚申待ちの晩に、姫様は宮中にいらっしゃったようなのです」
「……なんだと?」
「長年姫様とともにいた、この松緒が申すのですから、間違いございません。姫様の、声が聞こえたのです」
「声だけか? 姿は? それはまことか?」

 桃園大納言の驚愕と狼狽は、真実のように見えた。

「まことにございます」
「なぜ捕まえてこなかったのだ!」
「姿を拝見する前に声が聞こえなくなったのです! 松緒も会いとうございました! 会って、会って……。お話ししたいことは山のようにあったのですよ!」

 実際には姫様に近づくどころか、松緒が悪い男に捕まったのである。
 いろんな意味で悔し涙が止まらない。人目も憚らずおいおい泣き出す松緒に、なぜか桃園大納言は毒気を抜かれたように、どっかりと畳に座り込み、脇息にもたれかかって、ひらひらと松緒たちに向かって左手を振った。
 もう退がれ、という合図である。
 様子を伺っていた邸の者はほっとしたように動き出す。
 松緒は、相模に支えられながら大納言の室を出た。

「言い方は悪いですが、よくやったと思いますよ。あれだけの態度を出せば、いくら大殿でもこれ以上お叱りにはなれませんし……。松緒、ここならもう大丈夫ですよ……あら」

 相模は、この時はじめて松緒の顔を覗き込んだ。

「大殿の気が抜けるのもわかるわ。……ひどい顔よ」

 そう言いながら、胸元から出した帖紙(たとうがみ)で松緒の顔面をごしごしと拭いたのだった。


 宿下りの理由を乳母の見舞いと平癒祈願の寺社参詣ということにしているので、辻褄合わせも必要だろう。
 
――それに……やらなければならないことがある。
 
 そんなわけで、都近くの寺院に行くことにした。松緒自身も姫様とともに何度も足を運んだことがあるため、懐かしい場所だ。
 平地は牛車で移動し、山道と石段は徒歩でいく。
 一応、松緒は布を垂らした笠をかぶり、お忍びの姫君という恰好をしているが、表向きには「かぐや姫」の名を出さない。束の間、松緒は身代わりの役目から解放されたというわけだ。
 参道には人通りもあり、店も並ぶ。物売りの声もあれば、見物人を集める芸人もいる。小さな市のようになっているのだった。

「にぎわっていますね」

 お付きとしてついてきた相模が、少し息を切らせながらも、興奮で頬を赤らめている。もうひとり、たつきもお付きとなっていたが、彼女もこの辺りまでは来たことがなかったのか、肩で切りそろえられた涼やかな髪先を躍らせるように周囲を見ていた。

「椿餅《つばいもち》を売っていますよ。ぼく、買ってきましょうか」
「いいですよ。買ってらっしゃい」

 相模がたつきに小銭を渡す。たつきは、箱を抱えた椿餅売りに突進していった。
 その姿が、まるで昔の自分を思い出すようで、松緒の胸が少し苦しくなる。

 ――姫様、椿餅がお好きでしょう? 松緒が買って参りますね!
 ――本当? うれしいわ。
 ――買えましたよ! どうぞ、姫様!
 ――ありがとう。ふふ、美味しいわね。

 かぐや姫はあまりにも美しく、そのため、人目から隠されるように育てられた。けれど、世間から隠れるようにしながらも、寺社参詣だけは許された。桃園第から離れられる、ほとんど唯一の時間で、松緒にとっては姫様と外出できる優しい時間だった。

「『姫様』、どうぞ!」

 今は、たつきが、松緒に椿餅を差し出している。松緒は悲しみを押し殺して微笑んだ。

「ありがとう。もう少しで寺につくけれど、そこの木陰で少し休みましょうか」
「そうしていただけると助かります……」

 杖を持つ手がそろそろぶるぶると震えてきていた相模は少し安堵を滲ませた。
 
「ぼくは、近くをもっとよく見てきてよいでしょうか?」
「あまり遠く離れなければいいですよ」

 お駄賃代わりの椿餅を一口で飲み込んだたつきが、たたた、と駆けていく。しっかり者でませていると思っていたけれど、ああいうところはまだ子どもらしい。
 相模は運よくあった切株に座らせた。はあ、と特大のため息がでている。

「昔来ていた時はそうでもなかったのに、私も年ですねえ」
「最近は後宮に籠りきりだから仕方がありませんよ」
「いいえ。やっぱり年なのですよ。だって、姫様も松緒も大きくなるぐらいに年月(としつき)が流れて……。この辺りに来ると、いつも二人で椿餅をせがんでいたでしょう?」

 相模も、同じようにかぐや姫のことを思い出していたらしい。

「姫様は、松緒が喜ぶからいつも椿餅を頼むんだっておっしゃっていましたね……」
「え、そうでした……? 私は、姫様の好物だとばかり」

 特段、好きでもないものを押し付けていたかもしれないとわかり、松緒は焦る。相模はゆったりとした様子のままだった。
 
「椿餅も嫌いではなかったはずですし、姫様も別に気にしてはいらっしゃらなかったとは思いますけどね。ほら、松緒は思い込みの激しいところがあるでしょう?」
「う……」

 相模に諭されると、ぐうの音も出ない松緒。
 少し休憩もできて、興が乗ったのか、相模はあ、と何かを思い出した様子になった。

「椿餅《つばいもち》と言えば、まだあなたが女童のころにここへ来た時も、どこかの身分の高そうな若君と、最後のひとつを取り合ったことがありましたね。あなたは、『姫様に差し上げるんです』の一点張りで譲らなくて」
「……そんなことありましたっけ?」
「ありましたよ」

 身分の高い相手に対して、幼い松緒も向こう見ずな真似をしたものだ。

「あなたってば、男顔負けの勢いで、お相手と言い争っていましたよ。よほど椿餅を横からとられそうになったのが悔しかったのでしょうね。『先に買ったのは、この松緒です。身分が高いからと、横から掠めようというのなら道理が通りません。道理が通らないことを上の者がしていたら、下の者もそれでいいのだと思いますよ、そうなれば国もゆくゆくは乱れます、それでよろしいか!?』って!」

 相模は口元を押さえて笑いをかみ殺している。
 松緒は、昔の自分の大げさないいように顔から火が出るような思いだった。そして、そんなこともあったな、というほんのりとした記憶は蘇ってきた。

「結局、お相手の若君がよくよく物のわかった方でよかったということです。最後の方には感心なさった様子で松緒の言葉に頷かれていましたね。その後、松緒を手招きして、何かを言っていたようでしたが……そういえば、何と言われたの?」

 あれは随分前の出来事だし、今なら笑い話になるだろう。
 
「たわいもない童の戯言ですよ。『気に入ったから妻になれ』と。あの時は本当に腹の立つ言い方だったのです」

 松緒にとっては、偉そうな坊ちゃんが偉そうに命令してきたぞ、みたいな認識だったのだ。

「『姫様がいるから、無理です!』と言ってやりましたよ。どこぞの坊ちゃんかわかりませんが、人を馬鹿にした感じだったので」

 なんだろう、思い出したら昔のことなのに、まだ腹が立ってきた。

「松緒。もし相手が本気だったら気の毒すぎますよ。若君の純心が粉々に砕け散ったかもしれませんよ」
「まったくだ。忘れられない傷をつけられて、他の女など見えなくなってしまったかもしれない」

 男の声がしたと思えば、木陰に立っていた松緒の背後に影が差す。
 正面の相模が、ぽっかりと口を開けたまま、わなわなと震えだす。
 後宮で取次の役目をしている彼女には、相手がだれかすぐにわかったのだ。

「あ、あなたさまは……!」
「相模よ。この場で俺の名を口にしてはならぬぞ」

 相模が反射的に自分の口元を押さえた。
 松緒は振り向き、濃い紫の狩衣姿の相手に、低い声で問う。

「どうしてこちらに?」
「『約束』したはずだ。寺で落ち合うと」
「しかし、場所と時刻は曖昧だったかと思いますが」

 ふいに笠から垂れた布がすくうように持ち上げられた。
 東宮からは、松緒自身の顔が見えているだろう。松緒は視線をそらして、東宮の手を払った。
 
「いいじゃないか。顔が見たい」
「見世物ではありませんので」
「命じてもだめか」
「お忍びの身に何の権力がございましょう」
「たしかに」

――それで納得するのね。

 東宮は妙に引き下がりがよいところがあった。

「松緒。その椿餅《つばいもち》をくれないか」

 唐突に東宮が松緒の手にある包みを指さして告げた。相模と話し込んでいたので食べる時を逃していたのだ。

「は? まだそこで売っているでしょう?」
「いや。おれにはその椿餅を食う権利があると思うぞ」
「は? 何を言っているんですか」
「ひとつまるごとは食いきれないから、半分食べてくれ」
 
 間食を気にする女子みたいなことを言い始めた。
 引き下がる様子もないため、めんどくさくなった松緒は、仕方なくその場で包みをあけて、椿餅を半分に千切る。

「どうぞ」
「助かる」

 なぜか東宮は椿餅を差し出す松緒の肘のあたりを持ち、自分の口元に餅を持った手を持ってくると……そのままぱくりと食べてしまった。

――何をしているの、この人!

 椿餅は大きいので指が口に触れることはなかったものの、危なかった。
 東宮との距離感が先日の一件以来、おかしくなっている。色香で松緒を篭絡するつもりなのだろうか。東宮なのに。
 この一連のやりとりを眺めていた相模は、魂が抜けたように呆然としていた。あとで事情を説明しなければならないだろうが、とりあえず魂を後で戻しておかなければ。
 
「姫様!」

 そこへたつきが手を挙げながら駆けてきた。それを一瞥した東宮は、松緒の手を掴む。

「腹ごしらえもできたし、では約束通り、行こうか」

 松緒は観念して目を瞑った。
 不思議そうに立ち止まったたつきに叫んでおく。

「あとで寺で落ち合いましょう。先に相模と向かっていてください! ついでにどうにか相模の魂も戻しておいてください!」
 
 たつきの返事も聞かず、松緒は東宮に連行されたのだった。


 時は、あの夜にさかのぼる。
 松緒の正体が東宮に明かされてしまった、庚申待ちの夜のことだ。
 近くに人影がいないことを確かめた後、松緒はひそかに東宮御所に連れていかれた。
 東宮御所、すなわち、東宮の住まいだ。
 すでに人払いはされているらしく、だれもいない。

「あなたと同じだ。信用のおけない人間は極力置かないようにしている。理由はもう少し政治的だけれど」

 松緒は、東宮にすすめられた畳に座った。気分はと畜場に運ばれる子牛のような気持ちだ。
 東宮は、普段の御座所と思われる上座の畳……ではなく、近くの畳をよっこいせと自分で運び、松緒の畳にくっつけるようにして座った。
 小さな火が揺れる灯台《あかりだい》を挟んで、一組の男女が至近距離で向かい合っているような具合になった。

「……近くないでしょうか?」
「密談だからな」

 確信犯の東宮はくく、と笑う。胡坐をかいた膝をぽんと叩くと、明るい声で、

「さあ、込み入った話になるが、気持ちは楽にしてくれていい。別にあなたに危害を加えるつもりもないのでね」

 そのように言うけれど、松緒からしたら怪しさ満点である。
 さすがに相手は東宮だから、嘘を言わないとは思うが。

「東宮様は、姫様の敵でしょうか」

 松緒にとって大事なことはそれだった。
 東宮は二度も身代わりの松緒の前に現われ、松緒を翻弄したのである。

「姫様の何を知っていて、あのようなことをおっしゃったのですか」
「『あのような』とは?」
「『あなたの主人が何をしていたか、知っているか』と申されていたでしょう」

 東宮は近くに用意された酒の器を引き寄せて、手酌で飲み始めた。
 こちらは東宮に仕えている立場でもなんでもないので酌もしないが、松緒にもすすめてきたのはきっぱりと断った。酒よりも、松緒にとっては素面で主人の話を聞くほうが重要なのだ。
 松緒に断られた東宮は、肩をすくめてから、唇を湿らせるように少し(さかずき)の酒に口をつけた。
 
「ああ、そうだったな。……実のところ、あなたが本物の『かぐや姫』ではないことは当初からわかっていた」
「……は? 当初から、というのはいつから」
「出仕した当初から」
「どうやって」
「かねてから、桃園第には間諜(スパイ)を潜り込ませていたのだ」

 彼は目まぐるしく頭を回転させながら、一言一言を噛みしめるように言葉を発する。
 世間の評判では「野性的」だとか評されている東宮だが、本質は目の前にいる理性的な面にあるのだろう。
 
――でも、だからといって、これまでの行いの理由を聞いても、私が許す理由にはならない。

 間諜が潜り込んでいたという話も大事だけれど、それよりも。

「つまり、東宮様が、目の前にいる尚侍(ないしのかみ)がだれかわかっていた上で、御簾越しに言葉を交わし、夜にはその偽物のところへやってきて脅迫めいたことをされていたとおっしゃるのですね。偽物だとわかった上で!」

 東宮のくせになんて卑劣なやつなんだ。松緒は心中で憤慨した。

「あなたはかぐや姫からもっとも信頼されていた女房だった。ゆえに事情も知っているだろうと揺さぶりをかけていたのだ。だがあなたは結局、何も知らない様子。だとすれば味方に引き入れるのが得策だと判断した」
「私は、姫様の味方です。死ぬのも、その先が地獄であってもご一緒すると心に決めております」
「そうか」

 東宮はつまらなさそうな相槌を打って、盃の中身をぐいと飲みほした。

「だが、あなたもあの女が何を考えていたのか、知りたくないか? 俺に協力すれば、それが叶うだろう」
「姫様はあの女ではございません!」
「……あなたはかぐや姫のことになると、犬のようにきゃんきゃんわめく。どうかと思うぞ。もう少し可愛げが……すまん、もう言わないから侮蔑の視線を向けないでほしい」

 松緒は浮かしかけた腰をすとんと下ろした。
 空気が動き、頼りなげに灯台《あかりだい》の灯影《ほかげ》が揺れる。

「『不死の妙薬』について耳にしたことは?」
「噂程度しか知りませんが。……先日も、『不死の妙薬』を口にした衛士が庚申待ちの後に行方不明になり、中毒で死んだと聞いています」

 中毒性の高い薬で、都中に蔓延している。高位貴族にさえ死者が出た。そのため、帝は禁制とした。
 松緒は、後宮に来るまで人の噂話には疎いほうだったから、市井《しせい》の者であればもっと詳しいだろう。

「そうだ。あなたにとっては庚申待ちの行事の成功に水を差されたようであまりよい話ではないだろう。主上《おかみ》も残念がっておられた」

 なぜここで帝に話題が及ぶのだろうと思ったのだが、いまさらになって気が付く。
 今回の宿下がりを申し出た際に、何人かの女官から気遣いの文が届いていたのだ。

――行事を主宰せよとの命は、主上(おかみ)の心遣いだったのね。「かぐや姫」が宮中で居場所を作れるように。

 松緒は帝をちょっと見直した。よくわからない思考回路を持つ宇宙人だけでもなかったらしい。と、思ったが。

「申し訳ありませんが、確認したいことが。主上(おかみ)は、この身代わりの件は御存じなのでしょうか」
「いや。この件は一旦、おれのところで留めているよ。報告があったとはいえ、慎重に進めたかったからな。だが、「かぐや姫」に、ある嫌疑がかかっていることは承知されている」

 帝に報告されていなかったことにひとまず安心はするけれど、かぐや姫の嫌疑について話が及ぶとそれどころではなくなった。

「……姫様に、何の嫌疑がかかっているというのですか。不死の妙薬と関わりなんてありませんよ?」

 松緒は不安を押し殺して告げる。
 かぐや姫は深窓の姫君であって、犯罪に関わる余地など何もない。松緒も傍にいたのだから異変があれば気が付くはずだ。
 
「関わりがあるからこうして話しているのだ。現に、内偵の手が身近に迫っていたのを察したのか、かぐや姫はいなくなっている。……なんとかして後宮に呼び出せれば、内々にじっくり話も聞けたのだがな、彼女はそれを拒んだということだ」
「姫様がいったい、何をしたというのですか」
「不死の妙薬の流行を後押ししたと思われる」
「……なんですって」
「かぐや姫。月に帰ったとされる絶世の姫君と同じように評される彼女が、不死の妙薬を都に広めている」

 嘘です、と反射的に松緒は呟いていた。
 目の前の失礼な男は何を言っているのか。虚言で松緒を混乱させようとしているに違いない。
 松緒の「かぐや姫」は心まで美しい人だった。松緒を拾って、松緒とともに育ち、松緒をいつも傍に置いて、大事にしてくれた。

――老後は、椿餅を売りながら姫様と静かに暮らすの。

 かぐや姫は男嫌い。だれの求婚を受け入れなかったから、松緒が最期まで面倒を見ようと思っていた。年をとって、都中のだれも「かぐや姫」を気にしなくなり、しわくちゃの老婆となった「かぐや姫」でも松緒の姫様であることに変わりはないのだから。
 怒りで膝の上の拳がぶるぶると震えた。視界が滲んでいく中、かろうじて狼狽した東宮が映っている。

「私は信じません」

 松緒は一音一音をはっきり区切るように告げた。

「姫様を信じています。姫様が犯罪に加担するはずがありません」

 松緒は立ち上がって、東宮を見下ろした。

「協力が必要なのであれば、従いましょう。しかし、それは姫様の無実のためです。姫様が無実であることを証明するには、真実を見つけるしかないのですから。……それに、私自身、いなくなった姫様を見つけたい」

 松緒は一呼吸置いた。

「今のお話では、姫様が単に「巻き込まれた」可能性もあるかと存じます。ならば、一刻も早く姫様を見つけなければならないのですよね?」
「そのとおりだ」

 松緒は目を伏せた後、再度、その場で座り直して頭を下げる。東宮へ、臣下としての礼を取る。

「承知いたしました。……東宮の仰せのままに」
「よろしく頼む」

 こうして、東宮との密約が成った。



「この参道は、姫様とも何度も歩きました」

 布が垂れた笠をかぶった松緒は、隣にいる東宮を案内していた。

「寺で何日か参籠する前は、少し歩きもしましたが、寄り道はほとんどなかったように思います」
「他に思い出すことはあるか」
「……そうでした。参道を外れたところに荒れた邸があって、幼いころに探検と称して入り込んだことがあります。後でばれて、こっぴどく叱られてしまいましたが」
「では、そこへ連れていってくれ」
「わかりました。……ではこちらへ」

 松緒が徒歩なので、東宮も徒歩である。高貴な身分の者は馬などを使うだろうが、東宮は頓着していないようだった。

 ――そんな人だから、東宮らしくなく犯罪事件に自ら首を突っ込むような真似をしているのでしょうけれど。

 どちらにしろ、東宮はかぐや姫を疑っているため、松緒の敵である。敵ではあるが、松緒よりいろいろ知っていることも多いので、彼についていけば、かぐや姫の行方もわかるはず。呉越同舟(ごえつどうしゅう)の仲というもので、利害関係が一致しているから協力しているに過ぎない。

 ――私が思うに、怪しいのはあの子。あの子が姫様を巻き込んだ……。

 思い出すたびに腹立たしくなる「あの子」だ。
 松緒が遠ざけられた後、一番かぐや姫の傍らにいた新入りの女房。

『傍らに、片腕となる者がいたはずだ』

 東宮に指摘されて、はっと思い出した女房がいた。名は「あずま」。東国の出なのでそう呼ばれていた。新入りだったが、松緒より年上で、背がすらりと高く……。
 彼女が来るようになってから、松緒はそれとなくかぐや姫から遠ざけられるようになっていったのだ。
 だが、理由もわからないが、彼女は突然辞めてしまった。かぐや姫の出仕が決まった後のことだ。
 かぐや姫自身の出奔より前の出来事だったから、今まで気に留めていなかった(嫉妬心でおかしくなりそうだったので考えなかったということでもあるが)。しかし、彼女が怪しいと言われたらそう見えてくるもので。

「さすがに何の手掛かりもない、か……」

 辿り着いた廃屋の周辺を歩きながら、東宮はそう結論付けた。
 辺りには人気もなく、鬱蒼と茂った背の高い草と、崩れかけた廃屋があるだけだった。

「かぐや姫は滅多に外出しなかったし、外部の者と接触できるとすれば、寺社参詣の時しか考えられないのだが」
「姫様は、寺社参詣がきっかけで巻き込まれたのかもしれないのですね……」

 東宮が、もの言いたげにこちらを見て来たが、松緒は気にしないようにしている。

「ひどいではありませんか。姫様はとても信仰熱心でいらっしゃいましたのに。参籠の時は、いついかなる者も寄せ付けないで、ずっと祈願なさっておいででした」
「いついかなる者も? それはあなたも?」
「そうですよ? 姫様ご自身で出てくるまでは、私たち女房は近づけませんでした」
「なるほど。その時に接触できたのか」
「違います。私たちはすぐお傍に控えていましたし」
「だが、あなたはその間、姫君の姿を見ていないのだろう。参籠の室の仕切りでは、やりようはいくらでもある。それこそ参籠の間、『身代わり』を立てることもできただろう」
「東宮様は、どうしても姫様を悪人にされたいご様子ですね」

 松緒はここぞとばかりに例の文を見せた。庚申明けの朝にかぐや姫の元に投げ込まれた結び文である。

「なんだそれは」
「見覚えはございませんか? 庚申待ちが明けた朝に、文箱の上に置かれていました。東宮さまのご意志ではございませんか?」

 東宮は文を手に取って、舐めるように観察すると、
 
「いや? おれの字はもう少し上手いぞ。その字は下手くそじゃないか」

 そう言って、文を返してきた。
 松緒は、東宮の様子が自然に見えたので、ひとまず嘘ではないと判断した。それに、庚申待ちの夜は途中から東宮御所に拉致られていたのである。わざわざ別で文を渡す必要もない。

「姫様の秘密を知る者が、東宮さまと別にいらっしゃるのかもしれません」
「それはぜひ送った本人に尋ねてみたいところだなぁ。秘密、という曖昧なことを言って、こちらを揺さぶるつもりなのかもしれない。変に反応しないことをおすすめするよ」
「……あの夜、私が姫様の声を聞いたことと、何か関係があるのかもしれません」
「声だけじゃないか。空耳かもしれない」
「いいえ。あれは間違いなく姫様でした。姫様は、お声でさえ、この世のものではないほどに整っていらっしゃるのです」

 松緒がきっぱり言えば、東宮は呆れた様子で「なるほどなるほど、そりゃすごい」と気のない返事をする。

 ――信じてなさそう。

 不本意な気持ちになる。
 それから松緒と東宮は参道まで戻ってきた。
 おもむろに東宮が松緒の体を自分の後ろに隠した。

「東宮さま?」
「余計な詮索をされたくなければ、しばらく話さないほうがいいぞ」

 東宮がそう囁く。
 前方から狩衣姿の二人組が小走りにやってきた。

「東宮さま!? どうしてこのようなところへ?」

 息を切らしながら声をあげたのは蔵人頭(くろうどのとう)長家。柔和な面差しに驚きの色をあらわにしている。
 そして、もうひとり。東宮に向かって頭を下げた若者は、近衛少将行春だった。庚申待ちの行事に客人として参加していたものの、楽人希望を取り下げた合奏の夜以来の対面である。
 とはいえ、今の松緒は名無しの姫君だ。あえてかぐや姫を演じる必要はない。広い背中に隠れて、東宮と二人組の会話に耳を傾ける。

「たまにはお忍びもよかろう。よい気晴らしになるぞ」
「型破りなことをなさるのも大概になさったほうが。息が止まるかと思いました」
「長家も参拝か? 友人同士連れ立っていくのも悪くはなかろう」
「そのようなものです。とはいえ、私は気が向いただけのことでして。行春は両親の参詣について参ったところ、私と出くわしたのですよ」

 長家の視線がちらちらと松緒のほうにも向けられている。
 声を発すれば「かぐや姫」のことがばれてしまうかもしれない。
 東宮は袖を広げた。袖で遮られることで、松緒の姿はさらに見えにくくなる。

「掌中の珠なのだ。残念ながら見せられぬ」
「そうなのでしょう。……失礼いたしました。それでは東宮さま、御前を失礼いたします」
「長家。そなたのことだ、わかっていると思うが、みだりに口にしてはならぬこともある」

 東宮が「この場にいたことは口外無用」との意を示せば、長家は神妙に頷いた。

「承知しております」
「行春も、わかっておるな?」
「ご心配は無用のことにて」

 言葉少なに行春も答える。
 東宮は松緒の手を引いた。

「ゆくぞ」

 大きな手に握られて、松緒は閉口しながらついていく。
 相手二人も背中を向けて遠ざかっていくのを確認すると、やっと松緒は安心して口を開いた。

「東宮さま。手を放してください」
「不可抗力だと思え」

 東宮はぱっと松緒の手を離した。
 早々に言い訳を口にしたということはやましい気持ちがあったに違いない。

 ――男は狼だものねぇ。

 この世界、男は積極的なのだ(意味深)。うまく身を処す術を身につけなければ、あっという間に丸裸にされてしまうだろう。文字通りの意味で。

「東宮さまは……」

 そう言いかけた時。
 いたずらなつむじ風が巻き起こった。
 ばたばたと笠から垂れた布を揺らして、合わせ目から松緒の素顔が一瞬、あらわにされた。

「おいおい、無防備だぞ」

 東宮が呆れたように、松緒の笠をもう一度深く被せかけた。
 群衆はだれも気に留めていない。参拝にくる貴人は多くはないが、少なくもない。景色に埋没した男女の一幕は、ありふれた光景として過ぎ去るはずだった。
 しかし。
 彼は見ていたのだ。その時、何の因果か、東宮の傍にいた女が気になって、振り向いたのだ。
 気まぐれの風に、松緒の素顔を垣間見た。
 
「……ね、うえ……?」

 東宮が現れた時よりもよほど愕然とした顔で惚けていたのだった。


「そろそろ夕刻ではありませんか。私も寺院のほうへ行かないと相模たちが心配します」

 少し傾き始めた陽光を細目に眺めながら松緒は東宮に言った。
 あれからいろいろ周辺を探索したが、手がかりは何も見つかっていない。連れ回されて、大変疲れてしまった。
 そうだな、と東宮は頷いた。

「私も戻らなければならないな。……最後に辻占でもやっていくか」
「辻占?」
「陰陽師に教えてもらった簡略版だ。当たっても当たらなくとも、恨みはなし、だ」
「早く帰られた方がよろしいのでは? 今から宮中に戻れば夜半でしょう? 供の方も連れていらっしゃらないでしょうし」

 東宮ははは、と軽く笑う。
 
「残念ながら、この近くに山荘を持っている。従者はそこで待機しているのだ」
「……東宮さまは自由でいらっしゃいますね」

 先ほども言いかけたが、東宮がひとりで寺院の参道近くもふらふらしているのは普通ではない。

「俺の代わりはいくらでもいるよ。俺が死んでも血縁をたどっていけば、誰かが東宮に立つ。だったらもう少し身軽にあれこれ見聞きしておきたい。俺は主上の目と耳になろうと思っている」

 不死の妙薬の件を自ら調べているのも、そういう心持ちなのかもしれないと松緒は思った。
 
「私には下の者の苦労が目に見えるようですが……」
「まぁ、あまり心配かけるようなことはしないようにしているさ。己が自由とは思わないが、自由でありたいとは思っているだけのことだ。松緒にも松緒の自由がある。誰にでも心の自由は奪えるものじゃない」


 そんなわけで「辻占」をすることになった。
 まず、夕刻の四つ辻に出る。そこで呪歌を唱えて耳を澄まし、真っ先に耳に入った会話を「兆し」として受け取るのである。ただ、それだけだ。

「さて、松緒は何を占う? 俺はかぐや姫の行方について知りたいだけだが、松緒は松緒で別のことを占えばよいだろう」

 そう水を向けられたので、松緒は素直に答えた。

「なら、私は姫様にまたお会いしたいです」
「それは占いではなく願望じゃないか」
「ええ、そうですがなにか」
「開き直ったな」
「だって、お会いできれば、ご無事でいらっしゃるかわかるでしょう……?」

 思っていたよりも小声になった。

「お会いできるならば、生きていらっしゃるということです。松緒は、ふたたび生きている姫様にお会いして、以前と同じように」

 松緒は気弱になっている自分に気がついて、ぎりりと唇を噛み締めた。東宮が気の毒そうに松緒を眺めていることにも我慢ならなかった。

 ――姫様は、無実。悪いことに巻き込まれているだけ。

 東宮があくまでかぐや姫を断罪しようというのなら、松緒はなんとしてでも止めるつもりだった。
 ……たとえ、かぐや姫に「罪」があったとしても、最後まで主人のために尽くすと決めている。

「東宮さま。さっさと辻占とやらをやってしまいましょう」
「わかった。松緒からやるといい」

 お言葉に甘えることにして、一番近くの四つ辻に出た。
 いまだ、人が絶えず行き交っているが、そろそろ帰り路につく者も多そうだ。足早に歩いていく。
 松緒は辻の中央に立ち、目を瞑る。

「『行く人の、四つ辻のうらの言の葉に、うらかたしらせ辻うらの神』――」
 
 呪歌を唱えて耳を澄ませた。
 人の足音。足音。足音。
 かすかな囁きはあるけれど、聞き取れない。話す人が遠くにいるのだ。
 だが、そのうちに、その言葉は否応なしに松緒の耳に飛び込んできた。

 ……死ぬのよ。

「やめて!」

 松緒は恐ろしさで声をあげていた。耳を押さえるも、両耳から脳に入った言霊はこべりついて離れない。毒のように全身に回っていく。
 死ぬ。死ぬ。死ぬ。……だれが?

「どうした!?」

 東宮が焦った様子で松緒の前まで走ってきた。
 松緒は、東宮が目に入るやいなや、きりりと眉を吊り上げた。

「辻占なんて、当てになりません。東宮さまも信じないほうがよろしいかと思います!」
「……何が聴こえたんだ」
「言えば本当になるような気がするので言えません」

 目が熱くなり、鼻の奥がつんとしてきた。松緒は衿元から帖紙《たとうがみ》を出そうとしたが、それよりも早く東宮が松緒の前に自分のそれを差し出してくる。

「……嫌な気持ちにさせたようだな。すまない」
「いえ」

 松緒は、お言葉に甘えて紙を受け取り、口元に当てると。

「ぶえっくっしょんめっ!」
「ぶはっ!」

 松緒の変なくしゃみに東宮が腹を抱えて大笑いしたのだった。


 寺社の参籠では、長時間堂に籠って祈願することを指す。
 乙女ゲームが土台と思われるこの世界においても仏教は広く信仰され、熱心な信者が多い。
 桃園大納言家からやってきた松緒たちの他にも、何組か参籠に来た者たちがいて、几帳や屏風、御簾で区切られた空間でそれぞれの祈願が叶うように読経や念仏を唱えている。
 あの行春……左大臣家一家も参籠しているとのことだ。
 白檀の焚かれた香りが堂内を充満していく。
 かぐや姫が行方知れずとなった今、松緒の祈願は切実なものだった。
 主人が無事に帰ってくることを祈る。

――でも、もしも姫様が大納言家に戻れないご事情があるのなら、私も連れて行ってください。どこまででもお供いたします。

「ああッ!」

 僧侶の読経の声が響き渡っていた堂内で、異様な叫びが上がったのはその時だった。
 女の声だ。

「おまえ! どうした! ぐあっ! 頼む、わしの北の方を……!」
「左大臣様、いかがいたしましたか!」
「早く! 取り押さえよ!」

 あああああああああぁあ……。
 読経の代わりに女の呻きがそこらじゅうに満ちていく。
 ばたん、ばたん、と次々と几帳や屏風が倒れていく。「それ」が近づいてくる。

「物の怪が現われたぞ! みなさま、早くお逃げを!」
 
 松緒はとっさに顔隠しの檜扇だけを握りしめて相模たちのいる控えの間に逃げ込もうと立ち上がった。
 が、遅かった。
 取り押さえようとする僧侶ともみ合うようにして、「それ」が几帳をなぎ倒しながら飛び込んできた。

「あ、あぁ……」

 松緒の目には、白髪をざんばらに振り散らせた老女が見えた。
 目は爛々とするも意思を宿しているとは思えず、口の端には白い泡がついている。
「それ」は逃げようとする松緒の髪を乱暴に掴む。

「いっ……!」

 やめてほしいとさえ言えなかった。声を出せないほど恐ろしかった。目の前の女は正気ではない。
 女は松緒の髪を掴んだまま、逆側の手をかぎ爪のように振り下ろそうとしていた。ちらりと見えた長い爪は、止めようとする僧侶たちをひっかいたのだろう、赤黒い血がこべりついていた。
 松緒の脳裏に「死」が浮かぶ。辻占で出て来た「死ぬのよ」は、何もかぐや姫を指すのではなく、松緒自身を指していたのかもしれないと思った。

――助けて、姫様!

……ふいに、松緒に襲いかかろうとしていた手が止まっていることに気付いた。
 目の前の老女は、ぼろぼろと目に涙を浮かべた。吊り上がった口元が柔らかな弧を描き、目元が弓なりになる。
 慈愛に満ちた母の笑み。松緒は実の母親を知らないが、実際にいたらこんな笑みを向けられていたのだろうか。
 老女、と松緒は思っていたけれど、実はそこまで年老いていないのかもしれない。

「今だ、取り押さえよ!」

 大人しくなった女に僧侶が殺到していく。周囲に人だかりができようとしていたため、松緒は檜扇で顔を隠した。
 松緒はその時、視線を感じて振り向いた。松緒と目が合うと、人込みに紛れた彼女は松緒を睨みつけ、身を翻した。

「待ちなさい!」

 松緒が慌てて追うも、堂の外に出た時にはもうすでにその姿はなかった。
 唇をかみしめる。
 あの顔。あの背の高さ。見忘れるものか。

――あの子は、私から姫様のご寵愛を奪っていった……!

「『姫様』……! ご無事でいらっしゃいましたか? ……どうかされましたか?」

 騒ぎを聞きつけた相模の尋ねに、松緒は告げた。

「……『あずま』がいたの。睨んでいたのよ、私を。ねえ、辞めてしまったあの子は、今どうしていると思う?」
「さあ。実家に戻ったと聞いていますが」

 詳しく調べたほうがいいかもしれないと松緒は思った。

――やっぱり、彼女が姫様の失踪に関わっているとしたら……許さない。

 何としてでも彼女から話を聞かなければ。
 松緒はそう決意したのだった。



 参籠が終わったころに、ひょこひょこと東宮が松緒に会うために寺を訪ねてきた。
 松緒からかいつまんだ事情を聞いた相模もさすがにもう驚きはしなかったが、連れだって外出することには心配そうにしていた。
 少し散歩するだけ、と言い置いて、外出用の笠をかぶって、ふたたび参道に出た。

「昨日は騒動があったようだな」
「もうご存知でしたか。はい、左大臣様の北の方(妻)が物の怪に憑りつかれて正気を失い、暴れられたと伺っています」
「いや、例の薬の影響らしい。……実は、左大臣家にも流れているのではないか、と疑っていたのだ。北の方が使っていたのは予想外だったが。ただ、元々心が不安定な方だったとは聞くので驚きはしない」
「そうでしたか……」

 松緒が見た姿も、げっそりとやつれていて、痛々しさが漂っていた。
 左大臣家の北の方ならば、傍目から見れば夫に恵まれ、成功した人生にしか見えないだろうが、人にはわからない苦労があったのかもしれない。

「東宮様、実は教えていただきたいことがあるのです」
「なんだ」

 東宮はちょっと嬉しそうにしていた。

「『あずま』という名の女房が当家にいたのをご存知でしょうか」
「一通りは。だが、もう辞めたと聞くが」
「昨日の騒動の際に、私は彼女を目撃いたしました。私は、姫様の行方を彼女なら知っているのかもしれないと思っています」
「なるほど。……たしかに深く調べていないな。申告していた実家はもう引っ越したと聞き、よくあることだからと気に留めていなかったが」
「姫様がいなくなる前、一番お傍にいたのは、彼女ですから」

 「あずま」はかぐや姫の出仕が決まってほどなくして、突然辞めてしまったのである。

「わかった。調べてみよう」
「ありがとうございます」

 松緒はほっとした。これで事態は少し前進するといいのだけれど。

「松緒は、明朝に後宮に戻るのだったな」
「そのつもりです」
「桃園大納言の方はうまくごまかせたか?」
「いろいろあってうやむやになりました」

 東宮は、今のかぐや姫が偽物だと知っている。本物のかぐや姫は犯罪に関わっていた疑いがある。……そのようなこと、言えるはずもない。
 桃園大納言はかぐや姫の実の父親なのだ。娘がいなくなったことで我を失っているが、確かなことでもないのにこれ以上の心労をかけたくなかった。

 ――こんな思いをするのは私だけで十分だもの。
 
 また、さらなる秘密を抱えてしまった。こぼれ落とさずに隠し通さなければならないと思うと、胃のあたりがじんわり重くなる心地だった。

「ご安心ください。たとえ大納言さまに詰め寄られても、漏らしません。ゆくゆくは姫様のためになると信じていますから」
「あなたにそこまで想われるかぐや姫がいっそ羨ましくなるな。あなたが気にかけるのは、かぐや姫だけなのか」

 東宮がすねたように唇を尖らせた。松緒は、なぜ東宮がそのような態度を取るのかわからなかった。

「こうして過ごすうちに多少は思い出すかと思ったのに。俺はすぐにわかったぞ」
「何のことです?」
「椿餅《つばいもち》」

 東宮は呟くと、視線を遠くによこした。
 今日も椿餅売りが参道に出ていた。

「買って参りましょうか?」
「そうではないよ」

 東宮は静かに語りかけた。

「昔、あなたと最後に残った椿餅を取り合ったことを覚えていないか? あなたと椿餅を取り合った高慢ちきな若君が成長して、この場に立っている」

 松緒はそう言われて、まじまじと東宮を見た。
 意思が強そうな眉に、力強い口元。それでいて、優雅さを忘れていない、兄とよく似た優しさのある目。
 ……残念ながら、松緒は、かつて椿餅を横取りしようとした「若君」の顔は覚えていないけれど。
 松緒は、この時初めて、その目に東宮の姿を映したのかもしれなかった。

「そうだったとしても、過去のことではありませんか」

 するっと口先から上辺を繕った言葉が出てくる。

「あなたさまは東宮です。今は協力し合う関係でも、これからはわかりません。姫様に罪があると東宮さまがおっしゃるから」
「そうだ。……馬鹿なことを言っていたな」

 東宮は、人目のある宮中での連絡方法を教えた後、先に宮中へ帰っていったのだった。