近ごろ、行春の周辺は落ち着かなかった。
 元から姉が療養のため、別の邸で暮らしていたが、先日の参詣の折には母まで正気を失い、今も床についている。時折、錯乱して暴れまわるそうだ。

『あの子をどこへやった! どこへ! おらぬ!』
 
 わけのわからぬことをいつも言いながら、手足をばたつかせている。
 そのたびに行春も含めた家人の男たちが総出で止めていた。
 父は本邸に居つかない。妻の変わり果てた姿を見たくないのだろう。新しい愛人の元に通っていると聞く。妻も娘も息子も見限ったのかもしれない。

――もうぐちゃぐちゃだな。

 ばらばらになった家族の有様を眺めて思う。自分もどこかの女へ逃げてしまおうか。
 だが、生来の生真面目さが邪魔をする。女ならだれもよいわけではない。かぐや姫のように評判の高い極上の女がよい。
 ただ、行春にはかぐや姫のこと以外にも気にかかることがあった。
 参詣の際に出会った、姉に瓜二つの女のことだ。
 東宮に素性を聞いてもはぐらかされたが。

――もしや、姉上が東宮とともに……? しかし、病弱だから参詣など難しいはず。

 姉と東宮には接点がない。
 まして、行春は最近の姉の様子を知らない。だから、別人だろうとは思う。ただ。

――確かめたい。
 
 行春は逡巡の上、姉を訪ねることにした。姉に会えば、わかると思ったのだ。
 彼が参詣で垣間見た女に対して感じた、心臓の高鳴りの正体を。
 これまでに、行春は三度、胸が締め付けられるような感覚を味わった。
 一度目は、蔵人所に向かうかぐや姫の姿を目撃した時。
 二度目は、かぐや姫と魂震える合奏をした時。
 三度目が、参詣の際に、笠の布がめくれて、姉にそっくりな女の顔を見てしまった時。
 行春には、女の顔がまるで真珠のように照り輝いているように思えた。知っている顔のはずなのに。
 かぐや姫は絶世の美女との評判だったし、男たちがみな彼女の心を得たいと思っているから、魅了されるのも仕方ない。だが、姉は……。
 彼自身は、姉に対してどうこう思ったことはないはずだ。だから、別人だと確かめたかったのかもしれない。もし、別人だとわかったら、どんな女人か知りたいと思う。そうしていきついた先には、と想像して、行春は顔を赤くした。まだ気が早い。
 姉は都近くを流れる川から少し離れたところにひっそりと暮らしていた。そこは寺院も多く、葬送の地とも言われる鳥辺野からも離れていない。家屋もまばらで、さびれた土地だ。これまで姉を訪ねなかったのも、どことなく薄気味悪さのある土地に近づきたくなかったからでもあった。
 姉の住む邸の前までやってきたが、さすがに左大臣家所有の邸とあって門の辺りは手入れされている。
 主殿がひとつと、川から水路を引いた池と滝がある庭だけの、こじんまりとした邸だった。
 庭木はほどよく剪定され、檜皮葺の屋根もよく葺《ふ》き替えられているはずなのに、どこか暗い印象があるのはなぜだろう。
 周囲を眺めていると、主殿から見慣れぬ男が近づいてきた。腰に太刀を身に付けた、貴人を守る侍《さむらい》と思われる若い男だった。

「近衛少将の行春様ですね」

 侍といえば、野卑な者たちという印象だが、その男は口調も所作もどこか洗練されている。
 見たことのない顔だ。この邸で新しく仕え始めた者だろうか。眼光にどこか油断ならなさがあった。

「そうだ。姉上に会いに来た」
「なるほど」

 若者は顎に手を当てる。応答の仕方が、主人格に対する「それ」ではない。妙に気に障る男だと感じた。

「少々お待ちください」

 そう言って、男はゆったりとした歩みで主殿へ向かう。まるで行春が客人で、男の方が家の主人と言わんばかりだ。姉のところだからと先触れを出さずにひとりで来たのが悪かったのかもしれない。
 しばらくして、男が戻ってきた。後ろには下人を連れている。

「馬をお預かりいたします」
「わかった」
 
 乗ってきた馬の手綱を下人に預ける。

「太刀もお預かりいたします」
「……わかった」

 腰に下げていた太刀も渡す。
 恭しく受け取った男の口元が歪んだ気がした。

「ではご案内します」
「……待て」
「何でしょうか」
「そなた、名は?」

 男は答えた。

「『あずま』とでもお呼びください」



 「あずま」と名乗る男についていくと、邸の中央に通された。
 御帳台(みちょうだい)の中で、姉は横たわっていた。
 手は枯れ木のように細く、頬はこけてやつれている。

「姉上」

 そう呼ぶと、目蓋《まぶた》が開いた。ひび割れた唇が、「あ……」と言葉にもならない音を紡ぐ。
 そして……童のように、にっこりと笑った。
 それは久しく見たことのない、姉の笑顔だった。

「ゆきはる……」
「姉上」

 変わり果てた姉の姿が哀れで、行春は姉の元ににじり寄る。

「しあわせな、ゆめをみていたの。ちちうえとははうえがなかよくて、わたくしがいて、あのこもいて……。ふふ、かなうわけないのに」
「姉上……?」

 あの子、とはだれのことを言っているのか。
 母も暴れる時、決まって「あの子」という言い方をしていたけれど。

「あの子とは、だれですか」
「さあ……? なはしらないわ」

 姉は何か幸せな妄想をして、気を紛らわせているのだろう。行春はそう思った。

「ねえ、いまごろどうしてきたの」

 その問いに、行春は黙り込むしかなかった。

「やまいにかかったものからにげる。ちちうえとおなじくおまえはそういうにんげんでしょうに」
「姉上、私は……」

 姉の顔を見た段階で、行春の用はもう済んでいたから、言いよどむ。

「いいわ。これもゆめだもの」
「……え」
「ごくらくのゆめはここちよいのよ、ゆきはる。でもおまえにはもったいないわね……」

 姉は再び目を閉じ、すうすうと寝息をたてはじめた。
 行春は、姉の枕元の陰に、薬包紙が散乱していることに気付く。手に取って、匂いを嗅ぐ。
 彼は、近衛少将。武官だ。当然、近ごろ都を騒がせる薬のことも、母をむしばんでいたものも知っていた。

「これは」
「気づいてしまわれましたか」

 無音で、行春の首元に己の太刀が突き付けられた。ぬうっと背後から案内役をした「あずま」が現われた。

「都人は不用心がすぎるな。幾度も縊《くび》れる機会があったぞ」
「おまえは……」
「ちょうど、宮中の協力者を増やしたいと思っていた。おまえは御しやすそうだ」
「なんだと……!」
「おっと。姉君がどうなってもよいと? 父君に叱られるのでは? あなたは養子ですからね。いくらでも代わりがいると思いませんか」

 行春は無言になった。話すのもわずらわしかった。
 
「こっそり注進しようとしても無駄だぞ。監視の目は宮中にもある」
 
 男は、周囲をさっと見渡した後、行春の耳に囁いた。

「まず頼みたいことがある。……宮中にいる「かぐや姫」。あれを連れ出してもらおうか」

 思いも寄らぬことに、行春の身体は震えたのだった。



 その日も里下がりが長引く須磨に代わって、蔵人頭長家が尚侍《ないしのかみ》の手伝いに来ていた。

「これさえ終われば一段落できましょう。もう少しですよ」

 仕事は心折れかける量だったが、そのたびに長家の励ましで持ち直す。長家には蔵人頭としての職務もあるので、松緒以上の激務をこなしているのに。

「そうですね。励みます」
「……なにか、気にかかることでもあるようですね。少しお声が沈んでいるように聞こえます」
「そのように聞こえていましたか?」
「それはもう。お顔を拝見できずとも、側にいたらわかることもあります。お悩みのことがあれば、相談に乗りますよ」
「お気遣いいただきありがとうございます」

 かぐや姫のことで悩んでいたのが態度に出ていたらしい。これでは身代わり失格だと気合いを入れ直す。
 松緒の強固な妄想により出現する「イマジナリー姫様」も、本物の姫様と再会して以来、うまく思い描けなくなってしまった。
 尚侍の仕事は大変だけれども、気が紛れてちょうどよかった。

「身の回りであまりよくないことが立て続けに起こっているので、気が滅入っているのかもしれません」
「そうでしたか。生きていればそのようなこともありましょう。なにか、尚侍さまがお気に召すような笑い話などお話しできればよいのですが、あいにくの粗忽《そこつ》もので……」
「粗忽者などとおっしゃらなくとも。真面目なところが長家さまの良いところなのですから」
「しかし……」

 隔てに使っている御簾向こうがふと沈黙したと思えば。さらさらと衣擦れの音がした。

「仕方ありません。かくなる上は腹踊りを」
「ちょ、ちょっと、長家さまっ!」
「止めてくれますな。この際ですので、私の新たな一面をお目にかけたく。油断しがちな腹を見せるのは若干の恥ずかしさはございますが」
「い、いいいい、いい、です! 無理なさらないで! 己を大事になさって!」

 御簾向こうで腹を出すために着崩しているかと思い、松緒は慌てていると。

「……おや。裸祭りですかネ」

 長家ではない、別の声が響いた。
 だれにも呼ばれていないのに、いつも来てしまうピンク髪陰陽師の晴明《はるあきら》である。
 松緒は嫌な予感がした。

「晴明《はるあきら》殿、本日は鈴命婦《すずのみょうぶ》は来ておりませんよ!」
「いえ、ワタクシはただ尚侍サマに会いにきましたヨ。来てみれば、蔵人頭サマが何やら半裸になっておられる。……フム。それでは空気を読んでワタクシも」
「やらなくてよいですっ!」
「フッ……。これでも陰陽師という体力仕事を生業《なりわい》にしておりますので、修行で鍛えているのですヨ。ぜひ尚侍サマにはご覧になっていただきたく」

 楽しそうな声のピンク髪陰陽師。こちらからも衣擦れの音が。
 一方の長家は無言だった。

「……長家さま?」
「尚侍さま。私は勢いに任せて何をやろうとしていたのでしょうか……」

 他人の姿を見て、一周回って冷静に戻ったらしい。
 
「大丈夫です。まだわたくしは何も見ておりません。見ていなければ、なかったのと同じことです」
「……そうですね」

 再び、長家が着崩れを直すための衣擦れの音がしたと思ったのだが今度は。

「……そなたたちは女人のすぐ近くでなぜ裸になっているんだ」

 東宮の呆れた顔が目に浮かぶようだった。
 物別れで終わって以来の対面なので、思わず身構えてしまう。
 まさかここで東宮が訪ねてこなくてもよかったのに、さらにことはややこしかった。

主上(おかみ)、残念そうにしていてもだめですからね。いそいそと脱ごうとしなくてよいですからね」
「そうか」

 東宮だけではなく、帝まで来た。
 客人が続々と訪れる。まさに千客万来(せんきゃくばんらい)といった様相になってきた。
 醜態を晒すまいとした長家の顔がどんどん青くなっていくのが、視界に入らないにも関わらず、ありありとわかってしまう。

「ど、ど、どうして、こちらへ……?」
「そなたたちを労うために餅を持ってきたのだが……うむ、ここにも餅があるな」
主上(おかみ)、さすがに蔵人頭の腹肉を掴むのはやめてさしあげてはいかがですか。気の毒です」
「おお、晴明(はるあきら)の腹は硬そうだなあ! 岩のようではないか!」
「陰陽師ですカラ!」

 挙動不審の長家に、楽しそうな帝。いさめる東宮に、暴走する晴明。

 ――今、目の前ではどんな光景が繰り広げられているのかしら。
 
 松緒には収拾不可能なので、互いの腹の具合を確認する謎の儀式が終わるのを待った。
 やがて朱塗りの高杯(たかつき)に盛られた餅がひとつ、几帳の向こうからそっと押し出されてくる。

尚侍(ないしのかみ)。餅は好きか。共に食さぬか」

 帝が「かぐや姫」に尋ねてきた。
 松緒は感慨深かった。蝉の抜け殻と蜥蜴の尻尾という発想から、よくぞここまで。

「主上《おかみ》、お気遣いうれしく思います。せっかくですし、頂戴いたします」

 松緒はいつものようにかぐや姫のふりをして答える。

「うむ」

 帝の満足げな表情が見て取れるような声音だった。

 長時間の頭脳労働で相当疲れていたらしく、松緒の体は餅の素朴な甘みを欲していたらしかった。

「おいしゅうございます」

 おのずと松緒の声が弾む。
 同じように長家や晴明も、帝の厚意に感じ入った様子で礼を述べた。

「不思議なこともあるものだ。ひとときに、各々が示し合わせていたわけでもないのにこうも集まってくるとは。これも尚侍の人徳かな」

 帝がしみじみとしたように言う。

「東宮とも、ついそこで行き合ったのだ。行こうか行くまいか、ぐずぐずしていたようなので、連れてきた」
「主上《おかみ》、わざわざ言わないでもらえますか」
「なぜかね?」
「……いえ」

 東宮は口篭るも、話題を変えるように、
 
「主上《おかみ》はよほど尚侍を気にいっていらっしゃるようですね」

 と言った。帝は「うむ」と弾んだ声になる。

「好いておるぞ」

 無邪気な調子で述べた帝の言葉に、なごやかだった空気に緊張が走った。

「そ、それは……どのような意味でしょうか」
「そのままだが?」

 驚き、思わず声をあげた長家を気にしたそぶりもなく帝は返した。
 松緒は頭を抱えた。好かれるようなことをした覚えがない。

「こ、光栄でございますが……」

 このように言葉尻を濁すだけで精一杯だ。

「主上《おかみ》。尚侍が困っていますよ」
「そうか。弟に言われたなら仕方ない」

 帝は東宮の諌めに一度納得しかけたが、ふいに、「東宮のことも好いておるぞ」と言い出した。

「は……?」

 東宮だけでなく、松緒もぽかんとした。帝の中でどのように話が繋がったのかがわからない。

(わたし)はみなが心安らかでいられるのが一番よいと思っておる。朕は尚侍を好いておるし、東宮も好いておる。あと、長家と晴明(はるあきら)もとても良い臣下ゆえ、好いておる」
「……恐れ入ります」
「フフフ」

 長家も戸惑った様子だが、ピンク髪陰陽師は意味深な笑い声をあげた。
 松緒は几帳の隙間から扇で顔を隠しつつも、そっと御簾の外をうかがった。

「尚侍もそのうち、だれかと心通わすことになろう」

 帝のふくよかな声が心地よく響く。穏やかな顔つきが、御簾越しにもわかる。気づけば、耳を澄ませていた。

「それは朕《わたし》であれば一番うれしいだろうが、東宮かもしれぬし、長家のような男かもしれぬ。だが、結局のところ、だれでも良いと思うのだ。尚侍が幸せに笑えるのであれば。朕は、尚侍が好いた男ごと好くことができるように思うからな」
「主上《おかみ》……」

 正確には松緒に向けられた言葉ではない。そのはずなのに。

 ――「かぐや姫」は私が想定しているよりも深く、広い心で愛されているのかもしれない。

 とてもありがたいことだ。

「そのお言葉、とても……「とても」とは言い表せぬぐらいに、感謝いたします」
「うむ」
「……主上《おかみ》にはかないませんよ。こちらの心が狭いように感じます」
「なに、弟よ。腹の底では多少なりとも違うことを考えていまいか。兄ゆえわかるぞ」

 しばし、みなが談笑し合う。
 その時間は思いがけないほど優しいもので、松緒は久しく感じていなかった安らぎさえ覚えた。

 ――ここに姫様がいてくださったらどんなにか……。

 餅を齧りながら互いに目配せしあい、共犯者めいた微笑みを浮かべていられただろうに。
 この翌日、松緒はふたたび、「姫様」と対峙することになる。




「お人払いをお願いできますか」

 夜に入ってすぐのこと。
 行春が、尚侍《ないしのかみ》の居室までやってきた。
 松緒の傍にはたまたまだれもいなかった。
 最近は宮中にも頻繁に「不死の妙薬」の摂取によって暴れる者が続出しており、そのたびに何が起こっているのか、だれかに様子を見にいかせることが多かったのだ。
 彼らは目先の快楽を手放したくないあまりに、だれにも言わずに、普通の薬を飲むようなふりをして、くだんの薬を摂取する。ばれたらばれたで、相手を巻き込み、相手をも薬漬けにするという案件もあった。

「なぜ人払いをしなければならないのですか」
「大事な用なのです」
「内容をお聞かせいただけますか」
「……内密のことにて」

 松緒が慎重に答えたが。
 御簾が、大きくたわんだ。
 ぬるりと男の影が入り込んでくる。

「なるほど。……おひとりですね」
「入ってこないで!」

 松緒は気づかなかったのだが、行春はひとりで来たのではない。供を連れてきている。その男が無遠慮にも中に入ってきたのだ。

「これはどういうことですか、行春さま!」
「それは……」

 御簾向こうに留まったままの行春が口籠る。
 松緒は塗籠に閉じこもろうとしたが、それよりも早く、男が松緒の体を捕えた。

「『姫様』ごっこはもう終わりだ。見るに絶えない」
 
 低めの声にはなにやら聞き覚えがあった。

「……まさか。あずま、ですか?」
「さよう。あなたにも極楽を見せてさしあげますよ」

 男の風体をした「あずま」が、松緒の口をむりやりこじ開け、さらさらとした何かを飲ませようとする。
 必死にもがいたけれども、松緒の力ではどうにもならず。喉の奥に粉末が吸い込まれていった。

「「不死の妙薬」の味はいかがですか。……おまえの大好きな「かぐや姫」が見出した薬だから、ありがたいだろう?」

 松緒は、もう何も言えなかった。
 口が痙攣して思うように動かない。視界は歪んで涙がこぼれ、がくがくと両足が震えて男に寄り掛からねば立っていられない。
 松緒の体からがくりと力が抜けると、男は慣れた様子で持ってきた袋に松緒を入れて、肩に担いだ。
 そして、何食わぬ顔で行春の供を装い、夜に紛れて後宮を出て行った。