まるで悪夢のような一夜だった。
 かぐや姫‥…「彼」をそう呼んだらいいのかわからないけれど、松緒の主人は、松緒を眠らせ、その場を立ち去ったらしい。
 松緒は六条の邸宅近くにあった別の廃屋で仰向けで眠っていたところを、東宮から頬を軽く叩かれるようにして目を覚ました。

「あれ……。東宮さま?」
「そうだとも。松緒、自分のことはわかるか、痛いところはないか」
「ございませんが……」

 ならよかった、と東宮はほっとした顔をして、軽く息を吸いこんだと思うと、

「何をやっているんだ! こっちがどれだけ心配したかわかっているのか! 肝が冷えたし、散々探し回ったのだ、少しはこっちのことも気にかけろ、勝手に動くな、このあほう!」

 唾を吐きかけられるような勢いで怒られた。怒りの形相で東宮が仁王像に見える。
 まだ寝ぼけ眼の松緒は、その様をぼんやりと眺める。

 ――この方はどうして怒っているのかしら。

「私がどうなろうと私の責任なので、東宮さまに面倒はおかけしないかと思いますが……?」
「それを本気で言っているのか? 人の気持ちをなんだと思って……!」

 東宮の声はますます低くなるも、そこへのんきな顔が割って入った。

「マァマァ、東宮サマ。尚侍《ないしのかみ》サマに怪我もなくてよかったですヨ」

 陰陽師が松緒の傍らに腰を下ろした。なぜか右手に矢を持っていた。

晴明(はるあきら)、これはおまえの職務怠慢だろう。松緒を助けると言っておいて、まざまざとさらわれるような真似を許すとは……」
「肉体労働は専門外ですヨ。尚侍(ないしのかみ)サマにも凶相は出ておりませんでしたしネ」

 東宮の指摘をひょうひょうといなすピンク髪の陰陽師は、矢を手でくるくると弄んでいた。
 よく見れば、矢には紙が括りつけられていた。気になってしまう。

晴明(はるあきら)殿、それは……」
尚侍(ないしのかみ)サマを探す我々の目の前で突き刺さった矢ですヨ。矢文もついていますネ」

 そう言いながら、晴明は矢文を外して、松緒に渡す。

「尚侍《ないしのかみ》サマを見つけてもらうために、矢文で居場所を知らせてきたのデショウ……」
 
 文の内容は、この廃屋の場所を示すものだったが、だれの筆跡か一目でわかった。


 ――姫様の、手蹟()

 昨夜の出来事が、ありありと蘇る。自ら罪を犯したと告白し、松緒は置いていくと宣言したとおり、ふたたび、松緒の姫様はいなくなってしまったのだ。
 松緒は文を胸に抱きしめた。そうしないとまた嗚咽を止められなくなりそうだったからだ。

「やはり、会ったのだな」

 東宮の問いに松緒は目を瞑ったまま首を振った。

「会っておりません……」
「嘘をつくな。表情でわかる」
「……申し上げたでしょう。私と東宮さまでは目的が違うと」
「会えたから、もう満足だと言いたいのか?」

 満足か、と問われれば、満足ではない。しかし、この先どうしたらよいのかわからないことも事実だった。
 ただ、かぐや姫が罪を犯したというのなら、東宮と共闘もできない。
 松緒が縋るような眼を向けたのは、陰陽師の晴明《ハルアキラ》だった。

「いいですヨ」

 何も言っていないのに、陰陽師は察したように告げた。

「尚侍《ないしのかみ》サマは、代えがたい『夢』をワタクシに差し出したのですのですカラ」
「夢……?」
「尚侍《ないしのかみ》サマが蓄えていた甕《かめ》ですヨ。あそこには尚侍《ないしのかみ》サマの『夢』が詰まっていましたカラ。だからこそあれは対価となりうるのですヨ」

 松緒がどれだけあの甕《かめ》を大事にしているのか、晴明《ハルアキラ》はわかっている。松緒は安堵した。彼なら、松緒の願いに応えるために尽力してくれる。松緒は改めてそう信じることができた。
 松緒は、東宮の腕から身体を起こし、正座となった。

「晴明《はるあきら》殿、感謝いたします」
「イイエ」

 陰陽師はにっこりと笑った。
 一方で、東宮は松緒のぬくもりがわずかに残ったままの両手を見つめる。

 ――松緒から、かぐや姫との会話を聞きださなければならない。

 わかっているのに、そうしたくない。臆病になっている。
 嫌われて、憎まれたくないからだ、彼の初恋から。

 ――どうして、いつも間違えてしまうのだろう。

 小さい松緒を怒らせたあの時からまるで成長していない。本当は優しくして、笑顔にしてやりたいのに、いつもそれは手の中をすり抜けてしまう。
 松緒が、東宮からの焦がれるような眼差しに気付くことはなかった。


 後宮への帰還も、陰陽師の助けもあって何事もなかった。
 しかし、一晩を越えた次の夜に帰ってくることとなったため、松緒は室でまんじりともせず座っている相模《さがみ》を前に、ごめんなさい、と誠心誠意謝って許してもらうほかなかった。
 帰りが遅くなった理由を告げていくにつれ、相模の顔が険しくなっていく……。
 
――ほうら、私が心配したとおりでしょう?

 そう言いたげだ。
 しかし、さすがの相模にも、姫様が不死の妙薬の件に深く関わっていることなど言えるはずもなく、それ以外を省いて松緒は話した。東宮からの間諜であるたつきがいないことを確認した上でだ。

「……そうですか。もう、あの方は帰ってこないのでしょうね。それもまた仕方がないことなのでしょう」
「驚かないのですか。姫様は、自分の心は男だと……」
「そこまでは知りませんよ。でも、昔からお育て申し上げてきたのですから……心を偽っているかもしれない、とは考えました。無理もありません。だって、あんな目に遭ったのなら」
「あんな目?」
 
 相模は、不可解そうな松緒に気付くと、慌てた様子になる。

「松緒が気にすることではありませんよ。それよりも、もっとまずいことがありますよ」
「まずいこととは、なんです?」
「大殿《おおとの》が、昨日の不在について話がある、と」
「あ……」

 大殿、つまりかぐや姫の父桃園大納言は、今もほぼ毎日のように尋ねてきては尚侍《ないしのかみ》のご機嫌伺い……もとい、正体がばれないように釘を刺しに来る。
 桃園大納言ならば、かぐや姫の室にも入れるので、松緒の不在などすぐにばれてしまう。
 そして、桃園大納言は、娘の行方不明時に太刀を振り回して松緒を脅した前科がある。
 全身から血の気が引いた。

「私……殺されちゃう……?」
「松緒が後宮から抜け出さなければこのような事態にはなっていないですよ」

 今回ばかりは相模にも松緒を助けるつもりはないようだ。
 松緒の胃がしくしくと痛みだす。己で招いたこととはいえ、気が重かった。

 
 
 かぐや姫の室を訪れた桃園大納言は、まずは一言、「人払いをさせよ」と告げ、古株の相模のみ同席を許した。
 桃園大納言は、かぐや姫の父のため、御簾越しでは対面しない。松緒はひたすら平伏しながら、大納言の足音が上座に着席するのを聞いた。

「松緒よ、一昨日の晩は何をしていた? 申し開きはあるか」

 松緒は意を決して、(おもて)を上げた。

「松緒は姫様にお会いしました」
「な……な、なんと、今、なんと申した!」

 案の定、桃園大納言は目玉が飛び出そうなほどに驚き、松緒の両肩を掴んで揺さぶった。

「まことか、かぐやがいたのか! どこだ、どこにおった!」
「六条にある廃屋でした。しかし、もうそこにはいらっしゃらないと思います。元々は、姫様の手がかりを求めて、六条のお邸に参ったところ、攫われたような形でしたから……」

 松緒は大納言から顔を背けながら答える。
 
「何を話した! わしのことは何か申しておったか!」
「何も……」

 そう告げると、肩に食い込んでいた指がふっと離れた。
 大納言は両膝をついたまま、両腕をだらりと下げた姿勢で固まっている。

「本当に、わしのことなど、一言も言わなかったのか……?」
「……はい」

 大納言は激高や憤怒を見せるわけでもなく、ただ十年は老けこんだ顔で黙り込んだ。
 松緒にとってかぐや姫は、長年仕えてきた「大事な姫様」だけれども、目の前の老人にとっても「大事な娘」に違いない。
 松緒は迷ったけれども、大納言に告げた。

「姫様はおっしゃっていました。ご自身の心は男なのだと。大殿は、ご存知でしたか」
「何をわけのわからぬことを申しておる……」

 片手で顔を覆いながら力なく言う。

「面妖なことを申すでない。姫は女ぞ。末は妃にもなれるように育てさせたのだ。身も心も美しい姫なのだ。それを男などと申すな。気持ち悪い」

 桃園大納言は信じていない様子だった。実際に目にしなければ、信じないものかもしれない。納得した相模や松緒のほうが珍しいのだろう。

 ――姫様は、父君の反応がわかっていたから、普通の姫として振る舞っていたのかもしれない。

 本当の自分の心を見せたら、拒まれる。そのような恐れを常に抱いていたら……。
 松緒には想像するしかないけれど、本人は辛かっただろうと思う。

「ああ、姫よ。わしの姫……いとしい、いとしい姫」

 桃園大納言が意気消沈しているが、松緒にはさらに言わなければならないことがあった。

「姫様はもう大殿の元に戻るつもりもないようです。私にも、身代わりをしなくてもよいと……。大殿、もう、「かぐや姫」は病を理由に宿下がりをしてしまって、そして、いずれは……」

 死んだことにしましょう、とは言えなかった。
 だが、大納言は「だめだ」と唸った。

「まだ、『おまえ』がいるではないか、松緒……! 姫には戻る場所が必要だ。守らなくてどうする! え? おまえがいるなら、また姫は姿を見せるやもしれぬではないか……!」
「いやっ……!」
「大殿、おやめください!」
 
 大納言が掴んだ腕で松緒の身体は後ろに倒れ込む。大納言もその拍子で松緒に馬乗りになった。
 松緒は恐怖で身動きがとれなくなった。昔から知っているはずなのに、まるで別人のように思えた。
 見かねた相模も大納言の背中にすがりつくも、大納言は血走った眼で松緒の身体を揺さぶりつづけた。

「松緒、松緒、松緒よ。ほかに何か隠しているのではないか。わしのことを本当は申していたのではあるまいか。それをおまえは口にするのが恐ろしくて黙っているのではないか?」
「ち、ちがいます……!」
「大殿! これ以上はもう……!」
「黙れ! そなたは下がっておれ!」

 突き飛ばされた相模がどん、と床に体を強く打ち付けた。
 
「相模! ……もうおやめください、おやめください、大殿!」
 
 こらえきれずに叫んだ松緒。
 次の瞬間だった。

「何をしている!」

 別の声が割り込んだ。松緒の身体に乗っていた重みがふっと軽くなり、視界が明るくなる。
 松緒は助けを求めて手を伸ばした。

「松緒! 無事だな」
「は、はい……」

 身体を引き起こされる。

「ありがとう……ありがとう、ございます。東宮さま……」

 東宮は複雑そうな顔で松緒を見下ろしていた。
 彼が、桃園大納言を力づくで引きはがしたのだ。
 
「女房の方にも怪我はありませんヨ」

 いつの間にかいた晴明(はるあきら)も、相模を助け起こしていた。
 桃園大納言で俯せになったまま、動かない。
 東宮は近づき、片膝をついて老人に告げた。

「大納言とも話をしたいと思っていたところだ。……その取り乱しぶりからして、何を聞いたかは想像がつく。大納言、そなたこそ、私に言うべきことがあるまいか」
「……存じませぬ」
「この状況から見れば、明らかだと思うがなあ……? 大納言よ、何を隠しておる?」
「言えませぬ……」
「ならば、この東宮から言ってやろうか」
「あ……」
「よし、言うぞ。そなたには秘密がある。その秘密とは」
「言わないでくれえ……!」
「ならば話せ! 東宮の命である」

 蚊の鳴くような声になる大納言に、東宮はさらに追い打ちをかけつつも、ふいに柔らかな声になる。
 
「こちらとしても大事にはしたくないのだ。話次第ではよいように取り計らってやろうではないか」
「……それはまことでございますか」
「ああ、それに、おおかた、こちらも予想がついておるからな」
「さようですか……」

 老人はもごもごと口を動かしていたけれども、やがて。

「申し上げます。わたくしめは、血の繋がった実の娘である姫に……姫に、恋をしておりました……」

 その言葉に、本人以外、場にいた者すべてが、言葉を失った。話を促した東宮でさえ、予想外の話が飛び出したからか、信じられないような眼で老人を見下ろしている。

「馬鹿な……」

 松緒にしても同じ気持ちだったけれども。

――ああ、姫様はこのことをご存知だった?

 知っていたらなんと残酷なんだろう。
「恋」という美しい言葉を大納言は使ったけれど、内実なんてそれとかけ離れていたに違いない。
 かぐや姫は絶世の美女だった。絶世の美というものは、肉親の情をも狂わせてしまうのだろうか。
 唯一頼るべき肉親が「そう」であったなら。
 邸に帰れるはずもない。

 ――私は、何も見えていなかった。

 かぐや姫の気持ちも、周囲の思惑も。姫様が本当に好きだったら、見えていなければならなかった事柄をいくつも取りこぼして。

 ――なにが、「かぐや姫の一の女房」なのよ。知らなかったでは済まされない。姫様の御心を守ることができないで。

 今、かぐや姫のために松緒は何ができるのだろう。そう考えたけれど――この場で答えは出なかった。