「そろそろ夕刻ではありませんか。私も寺院のほうへ行かないと相模たちが心配します」

 少し傾き始めた陽光を細目に眺めながら松緒は東宮に言った。
 あれからいろいろ周辺を探索したが、手がかりは何も見つかっていない。連れ回されて、大変疲れてしまった。
 そうだな、と東宮は頷いた。

「私も戻らなければならないな。……最後に辻占でもやっていくか」
「辻占?」
「陰陽師に教えてもらった簡略版だ。当たっても当たらなくとも、恨みはなし、だ」
「早く帰られた方がよろしいのでは? 今から宮中に戻れば夜半でしょう? 供の方も連れていらっしゃらないでしょうし」

 東宮ははは、と軽く笑う。
 
「残念ながら、この近くに山荘を持っている。従者はそこで待機しているのだ」
「……東宮さまは自由でいらっしゃいますね」

 先ほども言いかけたが、東宮がひとりで寺院の参道近くもふらふらしているのは普通ではない。

「俺の代わりはいくらでもいるよ。俺が死んでも血縁をたどっていけば、誰かが東宮に立つ。だったらもう少し身軽にあれこれ見聞きしておきたい。俺は主上の目と耳になろうと思っている」

 不死の妙薬の件を自ら調べているのも、そういう心持ちなのかもしれないと松緒は思った。
 
「私には下の者の苦労が目に見えるようですが……」
「まぁ、あまり心配かけるようなことはしないようにしているさ。己が自由とは思わないが、自由でありたいとは思っているだけのことだ。松緒にも松緒の自由がある。誰にでも心の自由は奪えるものじゃない」


 そんなわけで「辻占」をすることになった。
 まず、夕刻の四つ辻に出る。そこで呪歌を唱えて耳を澄まし、真っ先に耳に入った会話を「兆し」として受け取るのである。ただ、それだけだ。

「さて、松緒は何を占う? 俺はかぐや姫の行方について知りたいだけだが、松緒は松緒で別のことを占えばよいだろう」

 そう水を向けられたので、松緒は素直に答えた。

「なら、私は姫様にまたお会いしたいです」
「それは占いではなく願望じゃないか」
「ええ、そうですがなにか」
「開き直ったな」
「だって、お会いできれば、ご無事でいらっしゃるかわかるでしょう……?」

 思っていたよりも小声になった。

「お会いできるならば、生きていらっしゃるということです。松緒は、ふたたび生きている姫様にお会いして、以前と同じように」

 松緒は気弱になっている自分に気がついて、ぎりりと唇を噛み締めた。東宮が気の毒そうに松緒を眺めていることにも我慢ならなかった。

 ――姫様は、無実。悪いことに巻き込まれているだけ。

 東宮があくまでかぐや姫を断罪しようというのなら、松緒はなんとしてでも止めるつもりだった。
 ……たとえ、かぐや姫に「罪」があったとしても、最後まで主人のために尽くすと決めている。

「東宮さま。さっさと辻占とやらをやってしまいましょう」
「わかった。松緒からやるといい」

 お言葉に甘えることにして、一番近くの四つ辻に出た。
 いまだ、人が絶えず行き交っているが、そろそろ帰り路につく者も多そうだ。足早に歩いていく。
 松緒は辻の中央に立ち、目を瞑る。

「『行く人の、四つ辻のうらの言の葉に、うらかたしらせ辻うらの神』――」
 
 呪歌を唱えて耳を澄ませた。
 人の足音。足音。足音。
 かすかな囁きはあるけれど、聞き取れない。話す人が遠くにいるのだ。
 だが、そのうちに、その言葉は否応なしに松緒の耳に飛び込んできた。

 ……死ぬのよ。

「やめて!」

 松緒は恐ろしさで声をあげていた。耳を押さえるも、両耳から脳に入った言霊はこべりついて離れない。毒のように全身に回っていく。
 死ぬ。死ぬ。死ぬ。……だれが?

「どうした!?」

 東宮が焦った様子で松緒の前まで走ってきた。
 松緒は、東宮が目に入るやいなや、きりりと眉を吊り上げた。

「辻占なんて、当てになりません。東宮さまも信じないほうがよろしいかと思います!」
「……何が聴こえたんだ」
「言えば本当になるような気がするので言えません」

 目が熱くなり、鼻の奥がつんとしてきた。松緒は衿元から帖紙《たとうがみ》を出そうとしたが、それよりも早く東宮が松緒の前に自分のそれを差し出してくる。

「……嫌な気持ちにさせたようだな。すまない」
「いえ」

 松緒は、お言葉に甘えて紙を受け取り、口元に当てると。

「ぶえっくっしょんめっ!」
「ぶはっ!」

 松緒の変なくしゃみに東宮が腹を抱えて大笑いしたのだった。


 寺社の参籠では、長時間堂に籠って祈願することを指す。
 乙女ゲームが土台と思われるこの世界においても仏教は広く信仰され、熱心な信者が多い。
 桃園大納言家からやってきた松緒たちの他にも、何組か参籠に来た者たちがいて、几帳や屏風、御簾で区切られた空間でそれぞれの祈願が叶うように読経や念仏を唱えている。
 あの行春……左大臣家一家も参籠しているとのことだ。
 白檀の焚かれた香りが堂内を充満していく。
 かぐや姫が行方知れずとなった今、松緒の祈願は切実なものだった。
 主人が無事に帰ってくることを祈る。

――でも、もしも姫様が大納言家に戻れないご事情があるのなら、私も連れて行ってください。どこまででもお供いたします。

「ああッ!」

 僧侶の読経の声が響き渡っていた堂内で、異様な叫びが上がったのはその時だった。
 女の声だ。

「おまえ! どうした! ぐあっ! 頼む、わしの北の方を……!」
「左大臣様、いかがいたしましたか!」
「早く! 取り押さえよ!」

 あああああああああぁあ……。
 読経の代わりに女の呻きがそこらじゅうに満ちていく。
 ばたん、ばたん、と次々と几帳や屏風が倒れていく。「それ」が近づいてくる。

「物の怪が現われたぞ! みなさま、早くお逃げを!」
 
 松緒はとっさに顔隠しの檜扇だけを握りしめて相模たちのいる控えの間に逃げ込もうと立ち上がった。
 が、遅かった。
 取り押さえようとする僧侶ともみ合うようにして、「それ」が几帳をなぎ倒しながら飛び込んできた。

「あ、あぁ……」

 松緒の目には、白髪をざんばらに振り散らせた老女が見えた。
 目は爛々とするも意思を宿しているとは思えず、口の端には白い泡がついている。
「それ」は逃げようとする松緒の髪を乱暴に掴む。

「いっ……!」

 やめてほしいとさえ言えなかった。声を出せないほど恐ろしかった。目の前の女は正気ではない。
 女は松緒の髪を掴んだまま、逆側の手をかぎ爪のように振り下ろそうとしていた。ちらりと見えた長い爪は、止めようとする僧侶たちをひっかいたのだろう、赤黒い血がこべりついていた。
 松緒の脳裏に「死」が浮かぶ。辻占で出て来た「死ぬのよ」は、何もかぐや姫を指すのではなく、松緒自身を指していたのかもしれないと思った。

――助けて、姫様!

……ふいに、松緒に襲いかかろうとしていた手が止まっていることに気付いた。
 目の前の老女は、ぼろぼろと目に涙を浮かべた。吊り上がった口元が柔らかな弧を描き、目元が弓なりになる。
 慈愛に満ちた母の笑み。松緒は実の母親を知らないが、実際にいたらこんな笑みを向けられていたのだろうか。
 老女、と松緒は思っていたけれど、実はそこまで年老いていないのかもしれない。

「今だ、取り押さえよ!」

 大人しくなった女に僧侶が殺到していく。周囲に人だかりができようとしていたため、松緒は檜扇で顔を隠した。
 松緒はその時、視線を感じて振り向いた。松緒と目が合うと、人込みに紛れた彼女は松緒を睨みつけ、身を翻した。

「待ちなさい!」

 松緒が慌てて追うも、堂の外に出た時にはもうすでにその姿はなかった。
 唇をかみしめる。
 あの顔。あの背の高さ。見忘れるものか。

――あの子は、私から姫様のご寵愛を奪っていった……!

「『姫様』……! ご無事でいらっしゃいましたか? ……どうかされましたか?」

 騒ぎを聞きつけた相模の尋ねに、松緒は告げた。

「……『あずま』がいたの。睨んでいたのよ、私を。ねえ、辞めてしまったあの子は、今どうしていると思う?」
「さあ。実家に戻ったと聞いていますが」

 詳しく調べたほうがいいかもしれないと松緒は思った。

――やっぱり、彼女が姫様の失踪に関わっているとしたら……許さない。

 何としてでも彼女から話を聞かなければ。
 松緒はそう決意したのだった。



 参籠が終わったころに、ひょこひょこと東宮が松緒に会うために寺を訪ねてきた。
 松緒からかいつまんだ事情を聞いた相模もさすがにもう驚きはしなかったが、連れだって外出することには心配そうにしていた。
 少し散歩するだけ、と言い置いて、外出用の笠をかぶって、ふたたび参道に出た。

「昨日は騒動があったようだな」
「もうご存知でしたか。はい、左大臣様の北の方(妻)が物の怪に憑りつかれて正気を失い、暴れられたと伺っています」
「いや、例の薬の影響らしい。……実は、左大臣家にも流れているのではないか、と疑っていたのだ。北の方が使っていたのは予想外だったが。ただ、元々心が不安定な方だったとは聞くので驚きはしない」
「そうでしたか……」

 松緒が見た姿も、げっそりとやつれていて、痛々しさが漂っていた。
 左大臣家の北の方ならば、傍目から見れば夫に恵まれ、成功した人生にしか見えないだろうが、人にはわからない苦労があったのかもしれない。

「東宮様、実は教えていただきたいことがあるのです」
「なんだ」

 東宮はちょっと嬉しそうにしていた。

「『あずま』という名の女房が当家にいたのをご存知でしょうか」
「一通りは。だが、もう辞めたと聞くが」
「昨日の騒動の際に、私は彼女を目撃いたしました。私は、姫様の行方を彼女なら知っているのかもしれないと思っています」
「なるほど。……たしかに深く調べていないな。申告していた実家はもう引っ越したと聞き、よくあることだからと気に留めていなかったが」
「姫様がいなくなる前、一番お傍にいたのは、彼女ですから」

 「あずま」はかぐや姫の出仕が決まってほどなくして、突然辞めてしまったのである。

「わかった。調べてみよう」
「ありがとうございます」

 松緒はほっとした。これで事態は少し前進するといいのだけれど。

「松緒は、明朝に後宮に戻るのだったな」
「そのつもりです」
「桃園大納言の方はうまくごまかせたか?」
「いろいろあってうやむやになりました」

 東宮は、今のかぐや姫が偽物だと知っている。本物のかぐや姫は犯罪に関わっていた疑いがある。……そのようなこと、言えるはずもない。
 桃園大納言はかぐや姫の実の父親なのだ。娘がいなくなったことで我を失っているが、確かなことでもないのにこれ以上の心労をかけたくなかった。

 ――こんな思いをするのは私だけで十分だもの。
 
 また、さらなる秘密を抱えてしまった。こぼれ落とさずに隠し通さなければならないと思うと、胃のあたりがじんわり重くなる心地だった。

「ご安心ください。たとえ大納言さまに詰め寄られても、漏らしません。ゆくゆくは姫様のためになると信じていますから」
「あなたにそこまで想われるかぐや姫がいっそ羨ましくなるな。あなたが気にかけるのは、かぐや姫だけなのか」

 東宮がすねたように唇を尖らせた。松緒は、なぜ東宮がそのような態度を取るのかわからなかった。

「こうして過ごすうちに多少は思い出すかと思ったのに。俺はすぐにわかったぞ」
「何のことです?」
「椿餅《つばいもち》」

 東宮は呟くと、視線を遠くによこした。
 今日も椿餅売りが参道に出ていた。

「買って参りましょうか?」
「そうではないよ」

 東宮は静かに語りかけた。

「昔、あなたと最後に残った椿餅を取り合ったことを覚えていないか? あなたと椿餅を取り合った高慢ちきな若君が成長して、この場に立っている」

 松緒はそう言われて、まじまじと東宮を見た。
 意思が強そうな眉に、力強い口元。それでいて、優雅さを忘れていない、兄とよく似た優しさのある目。
 ……残念ながら、松緒は、かつて椿餅を横取りしようとした「若君」の顔は覚えていないけれど。
 松緒は、この時初めて、その目に東宮の姿を映したのかもしれなかった。

「そうだったとしても、過去のことではありませんか」

 するっと口先から上辺を繕った言葉が出てくる。

「あなたさまは東宮です。今は協力し合う関係でも、これからはわかりません。姫様に罪があると東宮さまがおっしゃるから」
「そうだ。……馬鹿なことを言っていたな」

 東宮は、人目のある宮中での連絡方法を教えた後、先に宮中へ帰っていったのだった。