月が白く輝く夜のこと。
姫様は丸い月を見上げて泣いていらっしゃった。はらはらと涙の粒が真珠のように見えました。
どうされたのですか、と声をおかけすれば、この世のものとも思えない美しい顔を私に向け、
「わたくしとともに逝ってくれますか?」
かすれた声で囁かれた。私はすぐに頷き、力強くこう申し上げました。
「はい。黄泉の国にもお供いたしますよ 」
その言葉は私にとって真実だったのに。
私には、幼いころから姫様しかいなかったのに。
今でも時々思い出すのです。涙に濡れた頬はそのままに、かすかに口の端に笑みを湛えた姫様は、いつになく私にもの言いたげでいらっしゃった。けれどその時は気付きもしないで。
ただただ姫様のお傍にいられることがうれしかったのです。姫様と過ごせる時間があの頃には少なくなっていたものだから。
どこまでもついていくつもりでした。行き先が黄泉の国でも、月の国でも。地獄でも構わなかったのです。
それなのに。
どうして。
私の主人――かぐや姫は私を置いていってしまわれた。
時は平安。ところは桃園第。絶世の美女が住むと京中に評判の邸だ。
姫君の名は「かぐや」。有名な物語から名付けられた。桃園大納言が年経てからやっと恵まれた子で、人の目を隠すように育てられた。しかし、愛らしさと美しさは広く知れ渡っていた。
かぐや姫が年頃になると、都中の貴公子から結婚の申込みが殺到した。しかし、姫君はどんな求婚にも頷かず、父の大納言は困り果てた。
「大納言よ。そなたの娘を朕も見てみたいぞ」
美女の評判は宮中にも届かないわけがなく、帝から宮中へ入内するよう催促が届くようになった。帝の度重なる仰せに耐えかねた大納言は、妃ではなく女官ならとどうにか娘の承諾を取り付けた。
こうして都中の注目を集めた出仕が決まった。宮中へ参入する日取りに向けて、邸中がその準備に大忙しとなった。
出仕前日には、常にお仕えする女房までもが、姫君の傍を離れざるを得なくなった。
姫君は邸の一室でひとりきりとなった。
女房が異常に気付いたのは、夜半のころ。出仕の準備を終え、やっと姫君の元に参上した時には、その姿は忽然と消えていた。
「姫様……? 姫様、姫様、どちらにいらっしゃいますか」
初めは邸内にいるだろうと思ったのだが、どこを探してもいない。
「姫様っ! お願いです、出てきてくださいッ!」
女房はだんだんと半狂乱になって、邸内をさまよう。騒ぎはやがて父大納言の耳にも届き、ひそかに邸内の大捜索が行われた。
しかし、懸命の捜索もむなしく姫君はいなくなっていたのだ。
父の桃園大納言は進退窮まった。明朝には姫君を乗せた牛車は宮中に向かわねばならない。だが、肝心の姫君がいない。宮中に、帝になんと言い訳できようか。これまでの姫君の評判はおろか、連綿と続いてきた名家の矜持にも著しく傷がつく。御先祖様に申し訳が立たない。
滝のような汗をかいた父大納言は正気を失っていた。こともあろうか、傍にいた女房――最初に姫君がいなくなったことに気付き、今もまだすすり泣いている者に、魔が差したとしか思えない命を下した。
「わしの娘がいなくなったのは、目を離したおぬしの責任である。よっておぬしが事態を収拾せよ。おぬしがかぐやの身代わりとなれ。かぐや姫として、宮中に出仕するのだ!」
その命にだれもが仰天した。まして、当の女房はあまりのことに言葉を失う。
無理ですよ、と別の女房がとりなそうとするのだが、大納言は血走った眼で、身代わり指名をした、若い女房の腕を掴んで、立ち上がらせた。
「この者は最も長く姫の傍に仕えてきた。年恰好も似ておる。幸いにも姫君の美しさは噂ばかりで、本当の容姿を知る者はほとんどいない! よいか悪いかではない、やるのだ! このことは他言無用である。ばれたら命はないと思えっ!」
「そ、そんな……。わたしに、姫様の代わりなど」
大納言に腕を掴まれた女房は涙でぐちょぐちょになった面差しを主人に向ける。だが、主人は冷たく彼女を見下ろし、傍らでびくつく若侍の腰に下がった太刀《たち》を抜く。
「四の五の言うでない! よいな、松緒。……おぬしの正体がばれたら、この邸にいる者みなが、帝を欺いた罪に問われるだろう。だがその前に……わしがこの太刀で! おぬしを斬り殺してくれようぞ」
「ひいっ」
太刀を振りかぶる大納言はまるで悪鬼のようだった。力任せに振り下ろされた太刀は畳に突き刺さった。
その大納言に腕を掴まれ、逃げられぬように脅された松緒は悲鳴を上げた。恐ろしさのあまり腰を抜かしてへたり込む。
「他の者たちも同じだ!」
次に大納言は周囲の者たちを睨みつけた。
「かぐやのことがばれてみろ、わしが地獄の果てでも追い回し、もういやだと泣き叫んだとしても容赦せずなぶり殺してくれるわ! よいな、こころせよ!」
だれもが平伏するほかなかった。邸の主人の命令には逆らえない。そして、出仕せよという帝の命令に背くことも、できはしないのだから。
結局、本来のかぐや姫がいないまま、宮中への出仕は行われた。かぐや姫の身代わりとなったのは、松緒と呼ばれていた傍仕えの女房である。
彼女は後宮へ向かう牛車で頭を抱えていた。大納言の姫らしく着飾られていても、松緒はただの女房だ。幼いころに市場で買われ、運よく姫君にお仕えできただけの……。
身体を震わせながら、何度も何度も、想像の中のかぐや姫に話しかける。
――どうして、私を置いていったのですか、姫様。
――姫様がおっしゃるなら、どこへなりともついていきました。
――まさか、こんなことになるなど思いませんでした。『ゲーム』にもそんな筋書きはありませんでした。
姫様の一番の女房は私だ。
松緒はそう自負しているほど、長い間かぐや姫に仕えていた。
彼女の現世における最初の記憶は、かぐや姫が市場で売られていた幼い彼女を見つけ、父親にねだった時のこと。
――父上。この子を私の女房にして!
かぐや姫の、滅多に言わないわがままだったという。娘に甘かった父大納言は悩んだ挙句、どこのだれとも知れぬ子を買った。
その時の松緒はぼろ布をまとった薄汚い子どもで、わけのわからないまま市場にいた(その時もどうして市場で売られていたのかの記憶もない)が、月の輝くような愛らしい子が目の前に現れたことはよく覚えている。
――とってもきれいな子……!
かぐや姫に拾ってもらえなかったら、きっと野垂れ死にしていた人生だった。かぐや姫は、人生の恩人であり、敬愛する主人だ。ともに成長し、いつも一緒にいた。松緒の人生のほとんどは、かぐや姫でできている。
そして、かぐや姫を大好きな理由はもうひとつ。彼女は、松緒が前世で大好きだった乙女ゲームのヒロインだということ。
松緒の前世は、現代日本で働く平凡な事務職のOLだった。残業が多く、ストレスも多かったが、隙間を縫って乙女ゲームをプレイするのが日々の生活の癒しになっていた。ただ急な事故に巻き込まれて若くして死んだらしい。
松緒が一番好きだったゲームは「平安雅恋ものがたり」だ。ヒロインのかぐや姫が、架空の平安宮廷でさまざまなタイプの貴公子と恋に落ちる王道シンデレラストーリー。メインヒーローは帝だったと記憶している。
松緒が転生したのはまさにこの乙女ゲームの世界だ。それもかぐや姫にお仕えする「お邪魔虫女房」という立場だった。
本来の「松緒」は、各ルートでかぐや姫の邪魔をする役どころだ。理由は……かぐや姫の美しさと幸福に嫉妬したから。彼女は周囲の人間が幸せになるのを許せない人間だったのだ。
「松緒」はどのルートでも結局は悪巧みが発覚して、ヒーローの手により破滅させられることになっている。
しかし、今の松緒の中身は疲れ果てていた未婚OLだったし、前世の記憶を取り戻す前には幼いかぐや姫の愛らしさにノックアウトされていた。成長とともに前世の思い出が蘇っても、松緒の「姫様大好き」加減が増すだけだったし、「お邪魔虫」になるはずもない。
毎日毎日、かぐや姫の傍でお世話ができることが幸せだったし、なんなら乙女ゲームがはじまらなくてもよいと思っていた。
――「かぐや姫の出仕」はイベントだったのかしら。
松緒の記憶も万全ではない。前世に置いてきたと思われる歯抜けの部分もある。「平安雅恋ものがたり」のルート詳細もそのひとつだ。かぐや姫の身の回りで起きることは気になってしまう。
松緒が「お邪魔虫女房」でなくなったことで起こるはずのイベントが起こらず、乙女ゲームの筋書きからすでに外れているのかもしれない。それか、そもそも始まっていないか、進行中か。
かぐや姫には特定の相手はいなかった。どんな求婚にもなびかなかった。帝からの婉曲な誘いも反故にしていたほどだ。
「もしも姫様がご結婚されなかったら、一緒に商売でもはじめましょう。二人でがっぽがっぽ稼いで、悠々自適に暮らすんです」
松緒は結婚しようとしないかぐや姫に、半分夢みたいなことを話すこともあった。
かぐや姫も松緒の戯れにのってくれた。
「ふふ。楽しそうね。何を売りましょうか?」
「椿餅です。今おいしい椿餅の作り方を研究しているんです。うまく作れるようになったら寺院のそばに屋台を構えましょう。ご利益がありそうだって、みんな買いますよ」
松緒が胸を張る。半分は夢でも、半分は本気だった。椿餅の作り方を研究しているのは本当だったし、かぐや姫が未婚を貫き、父親から追い出されることがあってもかぐや姫と二人で暮らせるよう、床下に隠した甕に銭を貯めている。
「いいですね。その時はわたくしも売り子になりましょう」
「いけません。姫様がいらっしゃったらあまりの美しさに大騒ぎになってしまいます……!」
老いも若きもかぐや姫目当てに大挙するのが目に見えるようで、松緒は慌てたが。
「儲かりませんか?」
かぐや姫の問いには正直に答えざるを得なかった。
「うぅ……姫様が手ずから売れば、売れるに決まっているじゃないですか…! 都に御殿を建てられますよ……!」
かぐや姫はころころと笑っていた。その表情ははっとするほど華やかで、思わず目を惹きつけられてしまう。
無表情でいれば満月のようにぞっとするほど美しく、微笑めば花のように柔らかな人だった。
松緒はかぐや姫のもっとも近くにいたという自負はあるが、かぐや姫ではない。だれもあの人の代わりにはなれない。彼女に心酔していた松緒がだれよりも知っていた。
――私が姫様の代わりなんてなれるはずがないのに。
桃園大納言の意志は固かった。彼は宣言通りに即席で松緒をかぐや姫に仕立て上げ、後宮に送り込んだ。
松緒は「かぐや姫」として尚侍という役職についた。
尚侍とは内侍司(宮中の礼法などを司る部署)の長官である。帝の妃が正式に入内する前につく地位でもあるが、その点はかぐや姫が承諾していなかったからすぐに帝の寵愛を得ることにはならなかった。
しかし、「かぐや姫」は注目の的だ。宮中暮らしに慣れるよりも早く、次から次へと客人が訪ねてきた。彼女の美しさを一目見たい者が宮中には大勢いた。
松緒は自分の顔を見られないよう隠すほかなかった。自分の顔はさして美しいものではない。すぐに偽物だとバレてしまう。
住まいの殿舎には御簾を下ろし、几帳や壁代を幾重にも張り巡らせた。松緒はその奥に座り、肌身離さず扇を持った。だれかが入ってきても、扇をかざして顔を隠せるようにだ。
声を発することも抑えた。かぐや姫の声を知る者もほとんどいなくても、かぐや姫は声までも美しかったから正体がバレてしまうかもしれないからだ。
実家から引き連れてきた信頼できる者だけ、居所に入ることを許した。
松緒は人を近づけさせたくなかった。訪問者たちの誘いをことごとく断り続けたのだ。
そうしてもなお、訪問を拒み続けられない相手がいた。桃園大納言が松緒のところまでやってきて、
「よいか、『かぐや姫』。この書状に名のある者たちには逢いなさい」
「ですが『父上』、それでもしものことがあれば」
「そのようなことはない。顔を見せなければよいだけではないか」
桃園大納言の目は血走っている。かぐや姫に書状を押し付けて立ち上がった。
「できぬとは言わせぬ。わしにも立場があるのだ」
松緒が引きこもっていることで、彼にも圧力がかかっているのだろう。口調ももはや投げやりに近いようにも感じる。
松緒はせめて、と声をひそめて尋ねた。
「あの、姫様の行方は……」
「見つかっていない」
大納言の答えは簡潔だった。足音激しく出ていく。胸に書状を抱えたまま、松緒はうなだれた。
――どうしよう。……どうしよう。
いくぶんか経ってから、松緒はそろそろと書状に目を通し、すぐに天を仰ぐ。
――どの方も「知っている」お名前……。本来なら姫様ご自身で出会うはずの……。ここにいるのが私だなんて、何から何まで間違っているのに。
――姫様が見つかったら、身代わりは終わる。その時のために、『この場所』は守らないと……。姫様の、ため。
目尻に滲んだ涙を拭いながら、書状に書かれた名前を何度も何度も読んだ。
――やらなくちゃ。私は『姫様』になる。
もう逃げられないと悟った。
姫様のことは何年も見てきたから。どんな表情でも、どんな声でもまざまざと思い出せる。
この身代わりが、かぐや姫を守ることになるのだ。松緒はそう信じた。
けれど――
『そなたはかぐや姫の……偽物だな?』
それからほどなくして、ある男から冷水を浴びせられるような言葉をかけられることになる。
三日後。『かぐや姫』は満を持して四人の男と御簾越しの対面を果たした。桃園大納言が書状で知らせてきた殿方たち。
一人目は蔵人頭長家。苦労人の官僚。
二人目は近衛少将行春。左大臣家の品の良い坊ちゃん。
三人目は東宮兼孝親王。少し型破りで大胆な帝の弟。
四人目は天羽帝……今上の帝。天然入った自由人。
彼らはみな乙女ゲーム「平安雅恋ものがたり」の攻略対象たちだ。
よって、そろいもそろってハイスペックイケメン。身分制度に染まり切った今世の松緒は、頭も上げられない。
御簾越しでも油断ならない。扇で顔を隠しながら、次から次へとやってくる男の顔を見ないように俯く。彼らの声を聞きながら、お付きの女房に耳打ちをすることで会話する。
『なんとお高くとまっているのか。声さえも聞かせないとは』
そう罵られるのは覚悟の上だったが、実際は何も言われなかった。
四人続けての面会の時間は気が遠くなるほど長く感じた。必死すぎて何を言ったのかあまり覚えていないが、一連の対面が終わった後、伝言役をした女房が、汗びっしょりになって震えていた。
「わたくしたちは何と恐れ多いことを……」
「えぇ、そうですね。幸いにも大納言さまは何もおっしゃらなかったから……」
「わたくしたちにだけ見えるところで鬼のような顔を、なさっておいででしたよ。近頃の大殿のご様子は常軌を逸していらっしゃる」
「そうですね。わたしもいつかばちが当たるのではないかと心配で……」
松緒は同僚の背中をさすりながら同意する。
――かぐや姫がいてくださったら。
松緒はただの女房としてこの場にいただろう。貴人との対面に緊張する主人を慰め、心を支えようとしたはずだ。
同僚の女房と労を労いあったその時だ。一仕事を終えて油断していた。
「ヤヤ、こちらに鈴命婦《すずのみょうぶ》はいらっしゃいますカナ?」
――見られた⁈
後方から声がかかり、松緒は目にも止まらぬ速さで扇をかざし、女房は松緒をかばうように相手の前に出る。
「だれですか! 無礼ですよ! ここはかぐや姫さまの居所ですよ!」
同僚の女房が咎めるように相手に叩きつける。
彼女たちの殿舎は極端に人が少なく、御簾の内部に入り込んだ者にも気付けなかったのだ。
「ヤァヤァ、失礼しましたヨ。帝の猫をお探し申し上げていたところなのです。鈴命婦という名なのです。かぐや姫と聞けば、最近話題の美女ではありませんか! 顔が見られず、残念でした」
やや癖のある口調が気になるものの、顔を見られなかったらしいとわかった松緒はほっとした。
「――オヤ、油断しましたネ」
あやうく相手の顔を見そうになった。相手の顔を見るということは相手からも自分の顔が見られることと同様なのだから、どうにかこらえる。松緒は引き続き背中越しに相手の話を聞く。
「ハハハ。大丈夫です。本当に顔は見ていませんヨ」
――からかわれた!
松緒は内心で憤慨するも、今は「かぐや姫」なのだから、あくまで深窓の姫君らしく殿方に怯えたふりをするのがよいはずだ。
――でも、かぐや姫さまなら怯えたりしない。
松緒の知る「姫様」は、邸の奥で静かに育てられたものの、物怖じをする性格ではなかった。むしろときどき、はっとするほど気の強さを発揮することもあり、松緒たち周囲の者のほうが慌てていたぐらいだ。
松緒は小さく息を吸い、「まったく動じていませんよ」というフリをする。
男は、小さく笑った気配がした。
「それでよいのですヨ。……『かぐや姫』はそういうものです」
……引っかかる言い方だった。松緒はふいに相手の顔を見てやりたくなった。
「なんという……! 名を名乗りなさい!」
「ハルアキラと申します。陰陽寮の役人にて」
謎の闖入者は堂々と自らの名を名乗った。
「フフフ、この異形を見てもなお、そこまで思い至らないとは……桃園大納言はよほど姫君を育てていらっしゃったと思われますナ」
そう言われ、松緒の耳にもパッと閃くものがあった。
――陰陽寮の役人のハルアキラ……? ゲームのサブキャラ「晴明さん」! あの、『ピンク髪陰陽師』……!
「平安雅恋ものがたり」で、ヒロイン「かぐや姫」を何かと助けてくれるサブキャラの陰陽師「晴明さん」。史実の安倍晴明から名前を持ってきたと思われるが、ゲーム上はなぜか「ピンク髪」となっており、作中でもその容姿から「異形」として扱われている。しかし、陰陽師の腕はたしかであるので、宮中でも重宝されているという設定だった。
松緒はそこまで思い出したものの、はたして「~ですヨ」と表記したくなるような変な喋り方をしていたのかはいまいち覚えていない。
「では、またお会いしまショウ……」
晴明は衣擦れの音を立てながら去っていく。
確実に周囲からだれもいなくなったと思われるタイミングで、松緒と同僚の女房は顔を見合わせた。
「今のことは……」
「……大殿には言わないでおきましょう」
互いの意見が一致した瞬間である。
「『姫様』。やはりこのままでは難しいかと……」
「そうですね。いろいろと誤魔化しては来ましたがさすがに苦しいですね……」
几帳を何重にも囲った薄暗い空間での密談の結論で、そういうことになった。
「かぐや姫」が賜ったのは「尚侍」という官職だ。
そう、官職なのである。
「帝の寵愛を受けることもある地位で、実際にそういう「扱い」をされていれば、みな納得するでしょうが、『かぐや姫』はそうではありません。この地位に留まり続けるのは問題がありますよね……」
尚侍は帝が後宮にいる時の秘書役ともいうべき立場で、帝の命令文書を取り扱うこともある。内侍司《ないしのつかさ》と呼ばれる、宮中の儀礼を扱う部署の長官《かみ》でもあるのだ。
官職もらっておいて、仕事をしないのはいろいろとまずい。もし「かぐや姫」が戻った時、宮中に彼女の居場所がなくなってしまう。史実の平安時代と同じく、この世界でも人からの評判がものを言う。狭い世界なのだ。
本来なら適当なところで宮仕えを辞めてしまいたいし、官位も返上したいのが本音だ。ただ、その場合、父桃園大納言が怖すぎる。冗談ではなく、太刀で一息に……なんてことになりかねない。
大納言は毎日のように「かぐや姫」のいる殿舎にやってくる。人の目があるのであたりさわりのない話ばかりして帰っていくのだが、毎回、鬼のようにぎらつく目が怖い。
本物の「かぐや姫」を探させているとのことだが、成果がないらしい。
このまま「かぐや姫」が帰ってくるのを待つ、という戦法は使えないのだ。
「がんばって働こう……」
「そうしてください、『姫様』……」
かくして松緒は働くことを決意した。
内侍司の長官は尚侍であるが、現状は次官がその役目を代行しているため、松緒はさっそく次官を務める女官を呼び出すことにした。
現れたのは、須磨《すま》と呼ばれている、しっかり者といった風情の漂う女だった。少しうねった白髪頭と強く引き結ばれた口元が印象的である。
開口一番、彼女は言った。
「今ごろ、わたくしめを呼び出されるとは、何をお考えなのでしょうか」
――ですよね。
仕事一筋で生きてきたような彼女からしたら、かぐや姫は仕事もしなければ、帝の寵愛を受ける気もなく、何のために後宮にいるのかわからない役立たずである。
美女との鳴り物入りで宮中入りしたものの、本人は表に出てこないし、何をするわけでもない。いろいろな期待をされていただけにかぐや姫の評判は日に日に悪くなっている。ほかでもない、松緒のせいで。
桃園大納言が先日、四人の男たちと対面させたのも、そのあたりの評判を慮ってのことだろう。彼にしても、心中おだやかではないはずだ。
「女のわたくしめでも、御簾越しの対面となり、直にお顔を拝見することは叶わないとは恐れ入りました。それで、御用件は?」
彼女の身から発せられる怒りに、松緒もひるみそうになる。
いつも伝言役をする女房が腰をうかせて、須磨に何かを言おうとしたのだが、『かぐや姫』はそれを制した。どきどきとする心臓を落ち着かせながら、口を開く。
「相模《さがみ》。御簾をあげて、こちらへ通して差し上げて」
「『姫様』……!」
相模が驚いた顔で一瞬、松緒を見るも、視線を受けて黙り込み、『かぐや姫』の命じたとおりにする。
宮中に入ってから、実家の桃園第から連れてきた者以外に声を聞かせたのはこれが初めてのことだった。
須磨は衣擦れの音を立てて、相模の上げた御簾の下をくぐって中に入り、「かぐや姫」のいる居室の様子をぐるりと見渡してから、用意された円座《わろうど》に座る。
松緒は手に持つ檜扇で額までしっかりと顔を隠しながら、須磨と相対した。
「須磨。そなたには申し訳なく思っております。本来であれば、尚侍としてお役目をいただいた以上、真っ先にそなたに挨拶しなければならなかったのですが、無知ゆえに怠っていたことを、お詫びします」
沈黙からややあって、須磨は淡々と答えた。
「いえ、そのことは特に気にしておりません。先代、先々代の帝にお仕えした時の尚侍さまもそうでしたから。あの方たちは、ほとんど妃と同じでございました。そうであれば、お役目を代行するのもわたくしめの責務にて。わたくしめは、あなたさまも、同じように帝の寵愛を受けられるものと思っておりましたが」
今の帝にはだれも入内されておりませんので、と須磨は付け加えている。
貴族たちが自分の娘を差し出したくとも、帝はどれも断ってしまうとのことだ。そんな彼が唯一心ひかれたのが、「かぐや姫」なのである。須磨が期待したのも無理はない。
「そのことは、宮中入りを打診された際に、はっきりとお断りしております」
「殿方の寵愛を得たほうがよろしいかと思われますが。今でもなにくれと主上《おかみ》が文を送り、訪ねていらっしゃるのをむげにされるのはいかがなものかと」
そんなぞっとする話をしないでほしい。松緒はあくまで身代わりでしかないのだ。
「寵愛など不確かなものでしょう。須磨さまもそれがわかっているから、結婚されていても出仕されているのでは? 頼りない身の上だからこそ、よりどころはいくつもあってもよいのです」
須磨は何かを逡巡しているようだった。
「宮中入りしてから、だれもわたくしに尚侍の役割を教えてくれませんでした。それはそなたが有能だったからでしょう。だれもそなたに不満を持っていないのです。……わたくしは、そなたの手腕を学びたいのです。長年、宮中でしたたかに生きてこられた強さを見習いたいのです」
「……なるほど。お考えはわかりました」
須磨は松緒へ頭を下げた。
「そのようにおっしゃるのであれば、尚侍がやるべき職務をお教えいたしましょう。……ご覚悟を見せていただきます」
その後、須磨の配下の女官たちが、「かぐや姫」の居室に次々と書状や書簡を持ち込み、文机の上にこんもりとした山を作った。
――たしかに、覚悟、必要かもしれない。
文字の羅列に眩暈がする心地になりながらも、松緒は須磨から回された仕事を必死にこなしていくのだった。
書状や書簡が積まれてからしばらく経つと、須磨が松緒の元へやってきて、仕事のやり方を一通り教えていった。
須磨の元には、宮中にいる貴族たちから後宮内に届く文や嘆願書が届くほか、様々な部署からの報告書が上がってくる。それぞれの内容に合わせ、帝に報告をあげるもの、内部で処理をするもの、自ら返書を書くものなどに選り分け、女官たちに指示を出す。
「これはまだ一部でございますよ。簡単そうなものだけお持ちいたしました」
「……そなたは、きちんと眠れていますか」
「灯りの油がもったいないですからね。夜は寝ています」
つまり、それ以外はほとんど働きづめということだ。聞けば、一年以上里下がり(実家に帰ること)ができていないとのこと。
「わかりました。わたくしもそなたの負担を減らせるようにしましょう」
「よろしくお願いいたします」
須磨はまだ「かぐや姫」に対して猜疑心を持っているようだった。今まではさぼり魔のように見えていただろうから仕方ないと思う。自分の働きで認めてもらうしかないのだ。
松緒は後宮で働く女官の名簿を求めた。自分の下にいる部下たちのことぐらい、多少知っておかなければならないと思ったからだ。
須磨は少々驚いた様子だったが、了承した。
「ところで須磨。この、女官の家族から来ている嘆願書が気になっているのですが、これはなんですか?」
松緒が渡した書状に目を通した須磨は、ああ、と低い声になる。
「後宮で何ができるわけではございませんが、帝のお耳には入れたほうがよいことですね。近ごろ、都には妙な薬が流行っているのです。見た目はただの粉薬なのですが、飲めば極楽浄土に行って帰ってきたような心持ちとなり、やみつきになってしまうのだとか」
――麻薬みたいなものかな。
「物騒ですね……」
ええ、と須磨はため息をついた。
「老若男女問わず、それこそ身分も問わず、流行っているようですね。それこそ朝廷の方々も、こっそり愛用されていた方がいらっしゃったようで……。ただ先日、前参議《さきのさんぎ》の方が、服用のしすぎでお亡くなりになって以降、その薬は使用禁止となりました」
「そうなのですか。それでこの書状を……」
嘆願書を書いた女官の家族が、薬を飲みすぎで、錯乱状態になっているという。医者に見せるため、給料の前払いを嘆願したいというのがその内容だった。
前払いは可能だろう。だが、副作用でボロボロになった身体は戻らない。
「知らぬ間に、後宮内にも入り込んでいるかもしれませぬ。かぐや姫様もお気をつけくださいませ」
「わかりました」
「それと、こちらは口頭でのご報告なのですが」
「なんでしょう?」
「先ほどこちらに伺う時、野良陰陽師がかぐや姫の元へおたずねになるとおっしゃったので、首根っこ捕まえて、追い出しておきました。御承知おきくださいませ」
「野良陰陽師?」
野良犬に対するような言い方だった。
須磨は口にするのも嫌そうに、
「晴明《はるあきら》でございますよ。かぐや姫様を『気に入った』ようです。……まさかあのような輩を寝所に入れたわけではございませんよね?」
帝を袖にしておいて! と言わんばかりである。
「そのようなことはありません」
「寝所に入れる」という表現は……まあ、あけすけな言い方ではないが、そういうことだ。だから嘘は言っていない。ただ、「かぐや姫」の居室に入ってきたことはあるので、なんとなく気まずい。
須磨が退出した後、松緒はまた書類仕事との格闘を再開した。
――仕事はたくさんあるけれど、気が紛れていい。姫様のためにもなるもの。
夜になると、傍仕えの女房たちを先に眠らせた。頼りない明かりの下、机に向かい、黙々と書状に目を通していく。自分ならばだれにどのように指示を出すか、考える。
数回夜を繰り返すうち、松緒はどのように宮中が動いているのか、書面を通してなんとなくわかってきた。
後宮自体、ひとつの組織なのだ。どこから要望が生まれ、企画が立てられ、人が動いていくのか、その構造は現代の企業や官僚組織と似通うところがある。
そうなると、事務仕事の省略を考えたくなるのが、元OLとしての思考である。
前世の松緒は、いかに残業を減らすためにさぼりながら仕事をするのか、そればかり考えていたのだ。
少しのノウハウを駆使すれば、須磨の仕事も減らせ、身代わりが終わった後のかぐや姫の負担も減る。まさにウィンウィンの関係だ。
頭の中で考えを巡らせていた松緒は。
そのために、背後から忍び寄る人影に気付けなかったのだ。
「かぐや姫」
甘い声で呼ばれたのは、今はいない主人の名。
首の後ろから手を回され、抱きしめられているのは、松緒の身体。
一瞬、頭が真っ白になった松緒は、とっさに灯台《あかりだい》についた火を吹き消した。顔を見られないために。
相手は男。大柄と思われる。
一度、内部に入り込んだあの陰陽師かと一瞬疑うも、声は別人のように思われた。
松緒は震えながら「どなたですか」とかぐや姫として答えた。
男は耳元でフ、と笑う気配がする。男が身に纏う香の匂いが辺りに充満している。
「わたしは、そなたの秘密を知っている」
「秘密……? 何のことですか」
毅然として言い返せば、「気丈な女だな」と声が返ってきた。
「実は、先ほど、灯りに照らされた、そなたの顔を見ていたのだ」
それは思いも寄らないことで、体中の血の気がざっと引いた。
「かぐや姫は絶世の美女と聞く。なのに、こっそりのぞいてみれば凡庸な女がそこに座っていたよ」
「あ……っ」
声にならない。
だれだ。この男は、だれだ。
笑みを含んだ声のまま、男は後ろから『かぐや姫』……松緒の手を取った。今や振りほどく気力もない。
「そなたは……かぐや姫の『偽物』だな?」
そうして、決定的な一言を放ち、松緒の身体は今度こそ凍り付いたのだった。
明朝、朝の支度を手伝いにやってきた相模は、まったく眠れていない様子の松緒を見るや、すぐさま寝所に松緒を寝かせた。
「近ごろ、だいぶお疲れがたまっていらっしゃったでしょう。お休みください」
「ですが、もうすぐ須磨さまがお見えになる刻限ですよ。待っておりませんと」
「須磨さまには私から伝えておきますから。……松緒、眠っていなさい」
最後の一言は、だれにも聞かれぬような小声で。
松緒は諦めて「うん」と頷いた。相模には母親代わりのようなところがあるので逆らえない。
身体も熱を持っているようで、うまく動いてくれなかった。
いつまで経ってもなじめない豪華な几帳台の中で眠る。相模が時々、松緒の様子を覗き込みにやってくるが、次から次へとやってくる見舞客の相手に困り果てているようだ。
後宮というものは噂が広まるのも早かった。
熱も下がった夕方ごろには、かぐや姫の体調を心配した貴族たちからお見舞いメール……もとい文が届く。適当に処理しておきますね、と相模が言っていた。
松緒は、見舞いの文のうち、一部には返事を書いた。例の、対面しなければならなかった四人の男たち宛てである。
邸内の中でも、松緒が一番、かぐや姫の筆跡を真似るのが巧かったので、そこはつつがなく終わった。
だが問題は、その後にやってきたのだ。
「娘」が体調不良だと聞いた桃園大納言は夕方遅くにやってきて、「気が抜けている」と叱咤した。そして。
「明日は帝とお会いするのだ。おまえの体調をとても気にされている」
「ですが……」
「構わぬだろう。いつも断ってばかりでもよくない」
「はい……」
桃園大納言は松緒をひと睨みしてから去っていく。
翌日。帝がぞろぞろ人を引き連れながらやってきた。
この国でもっとも高貴な方ともなると、どこへ行くにも侍従などがついてくる。前回の対面の際にも、人の気配が多すぎて気が気でなかった。彼らはみな、かぐや姫を見たくて興味津々だっただろうから。
今日も前回と同じになるだろうと構えていたのだが、ほかならない帝自身の声が響く。
「みなここで下がるように」
人の気配はかぐや姫のいる御簾の前からあっという間に去り、ひとりのみ残った。
「どうだろう。そなたも腹を割って話さぬか。二人きりならば話せることもあろう」
ふくよかな声が響く。
松緒は相模と顔を見合わせた。
――拒めそうにない。
「……承知いたしました」
帝の仰せには本来何も言えるはずがない。むしろ、今までがおかしかったのだ。
意を決して松緒が頷くと、相模も別の戸から退がった。
面を隠すための扇を持つ手に、じっとりと汗がにじむ。
「初めて、声を聞いたな。良き声だな」
「もったいないお言葉にて……」
「身体はもう大事ないか」
「はい。おかげさまですっかり調子も戻りまして……」
松緒はいつ、目の前の御簾を帝が踏み越えてくるのか気が気でなかった。御簾から透ける座り姿からは、そんな無体はしないような気もするが、それは松緒が世間知らずだからかもしれない。
「近ごろ、尚侍《ないしのかみ》のことで須磨に、教えを乞うておるとか。感心しておる」
「いえ……」
言葉を濁しかけた松緒だが。
「わたくしは与えられた役割をまっとうしたく思っております。須磨さまからは厳しくも温かくご指導いただいております」
そう付け加える。
「そうか。それはよきことだ。須磨から学ぶことも多かろう。あれは物事に対して公平だ。そなたが励んでおれば、そなたを認める時も来る」
「ありがたきお言葉でございます。今後も努めて参ります」
――主上《おかみ》はいい人そう。
噂に疎かった松緒は今の帝のことをあまり知らない。だが今話している分には、悪い印象を持たなかった。さすが乙女ゲームのメインヒーロー枠、現実的に考えれば、かぐや姫のお相手としてこれ以上ない相手ではないか。
そう思ったが。
「ところでな、実は今朝、珍しきものを見つけたのだ」
御簾向こうで何やらごそごそと袖のあたりを探る帝。
やがて手ぬぐいの上に載せられたモノが、御簾の下からすっと差し出される。
「蝉の抜け殻……ですか」
「きれいだろう」
綺麗に形が残った、蝉の抜け殻。
今は、春である。蝉の抜け殻が落ちているのはたしかに珍しい。
絹の手ぬぐいを片手で持ち上げて眺めていると、どうだろう、すごいだろう、と言いたげな雰囲気が正面から漂ってくる。
――これは、試されている……?
ゲームでの帝は「天然入った自由人」。しかし、蝉の抜け殻を自慢してくるとは松緒の予想を超えていた。ちょっとぼけたやりとりになるだけだと思っていたが、蝉の抜け殻を女に見せて自慢してくるのは「天然」通り越した「変な人」である。
今の帝には妃がいないため、女性の扱いには不慣れなのかもしれない。そう自分を納得させた松緒は、おそるおそる口を開いた。
「たしかに、色艶はよろしいかもしれませんね……」
「だろうだろう。そなたにやろう。これを見つけた時、そなたにこの話をしたくてたまらなくなったのだ」
自分の宝物を飼い主に差し出す忠犬は、このような感じではなかったか。
桃園第では翁丸《おきなまる》という名の犬を飼っていて、松緒もよく世話していたが、ちょうど翁丸も同じことをしていた。木の枝とか。
「主上《おかみ》、恐れ入りますが……」
松緒は、勝手ながら帝が心配になった。
「わたくしが虫嫌いでしたら、ここで悲鳴をあげて、この抜け殻は放り投げておりました……。ご自身で気に入ったものを分け与えることは、帝王として素晴らしい心構えかと存じますが、相手によっては伝わらないこともございますが……」
すると、帝は「そうか」と素直に頷いた。
「そなたは虫が好きか?」
「特に何とも思っておりません」
かぐやも松緒も、虫に対して過剰に嫌悪する性質ではなかったのでそう答える。
「ですが、今回の主上《おかみ》のお心遣いにはわたくしにもよく伝わりました。蝉の抜け殻も、室の中に飾っておきましょう」
「うむ……!」
「もし、次に女人に贈り物をされる際には、女人が好みそうなものを用意されるとよろしいかもしれません」
「花や歌か?」
「一般的にはそうですね」
「だが特別感がないぞ。ありきたりすぎる」
その言葉を聞いて、松緒ははっとして蝉の抜け殻を見下ろした。
人によっては投げ捨ててしまうだろう蝉の抜け殻でも、帝は帝なりの論理で懸命に考えた贈り物だったのかもしれない。……蝉の抜け殻だけど。
「……趣向を凝らさずとも、相手のためを思って一生懸命考えたのであれば、その心は伝わりますし、うれしいと思うものでございます」
「そなたはうれしいと思ったか?」
「はい」
ややあって、帝はその場を立ち上がった。
「贈り物ひとつでも難しいものだな……。あまり深く考えたことがなかった」
「いいえ、わたくしも差し出がましいことを。申し訳ありません」
「よい。今日のところは出直そう」
踵を返しかけた帝が、ふと振り返る。
「ところでそなたは……」
「はい」
「ちぎりたての蜥蜴《とかげ》の尻尾は、好きか」
「特に何とも思っておりません」
松緒は、肩を落として帰っていく帝を見送った。
帝の訪問からしばらく経ち、身辺も少し落ち着きを見せてきたころだった。
「尚侍《ないしのかみ》さまは蔵人頭さまにお会いになってはいかがでしょうか」
いつものように大量の書状を持ち込んだ須磨が淡々と告げた。
「尚侍は、後宮における帝の側近であるとすれば、蔵人頭《くろうどのとう》は表の政《まつりごと》における側近です。今までのように引きこもらず、尚侍として動かれるのであれば、避けては通れますまい」
「そうですね……」
松緒は、かすかに残る「蔵人頭」の記憶を掘り起こそうとした。
前世の記憶によれば、彼も攻略対象のひとりで、性格は実直かつ真面目……しかし家柄はいいものの、父を早くに亡くしたために出世が遅れてしまった、なかなかの苦労人というキャラクターだった。ルートとしては、比較的穏やかに愛を育める……いわばグランドロマンスだらけのルートの中でも箸休め的な……甘いものだけ食べるのも飽きてしまうので、ほっとするお抹茶も付けてみました、みたいな印象は残っている。
松緒が覚えているのはそれぐらい。前回の御簾越しの対面の記憶などきれいさっぱり吹き飛んでしまっている。
「蔵人頭の長家さまは非常にお忙しい方です。こちらにもなかなか参れないでしょう。かぐや姫さまは、かの御方とやりとりはされていらっしゃいますか?」
「いいえ……」
「あの、須磨さま……」
傍らにいた相模が、眉根を寄せながら、こそこそと須磨に耳打ちした。
「……は?」
信じられないような視線を感じた松緒は、さらに顔を見られまいと扇を持ち直した。
「一切! お返事を! これまでされていないと!? 出仕前はともかくとして、今はいわば同僚のような立場の方ですよ! それを無視して、なんとしますか! あなたさまは尚侍《ないしのかみ》としての御自覚がおありか!」
「……先日のお見舞いの返事は書きました!」
「それだけで、人間関係を攻略できたとお思いかっ! 足りませぬ足りませぬっ!」
「ひいっ!」
須磨の圧に負けた松緒は、ついつい「かぐや姫」を忘れて素になりかけた。
危ないと冷や汗をかくものの、須磨は違和感に気付かない。
しばらく思案した様子の須磨は、結論に至ったのか、大きく息を吐きだすと、
「かぐや姫さま。ご覚悟なさりませ」
真剣な声音に、松緒も固唾を飲んで耳をすませた。
「いずれは通らねばならぬ道。そのうち、ご案内せねばと考えておりました。わたくしめも同行いたしますし、日時の算段もつけましょう。かぐや姫様は、蔵人頭さまとお言葉を交わさなければならないのですから」
「それは、すなわち、どういうことでしょうか……」
見えているようで見えない話に困惑して尋ねれば。
「こちらから、蔵人頭の長家さまに会いに行くのですよ」
「会いに……」
「ええ。かぐや姫さまは、この室を出なければなりません」
「かぐや姫」は出仕してからというものの、与えられた殿舎からはまったく外に出ない。
顔を見られたら、松緒が「かぐや姫」でないことが明らかになってしまう。
先日も……真意はわからないが、かぐや姫の正体を看破した男と出会ったばかり。幸いに、まだ正体が世間に知れたわけではないが、わざわざ目立つ真似をしたくなかった。
「そんな……」
「姫様……」
松緒も、女房の相模も、困り果ててしまった。
「……それほど、ご自分の顔を恐れていらっしゃるのですか」
ふと、須磨がそう尋ねてくる。
「まだ実際に拝見したことはございませんけれども、尚侍《ないしのかみ》さまのお噂は耳にしたことはございます。女であれば、美しさは武器になりましょう。しかし、あなたさまは美しさを誇るよりも、恐れていらっしゃるように見えますが」
「それは……」
――私が「偽物」だから。
言いたい言葉をこらえる。
「……人は勝手に期待して、勝手に落胆するものでしょう?」
「そうでございますね。身勝手なものです。……ただ、お気持ちは少しばかりわかりました。では、こういたしましょう」
須磨は、「かぐや姫」にある策を授けたのだった。
翌日の昼下がり。宮中の人々は奇妙な光景を見た。
板張りの廊の上を、几帳の林が通り過ぎていく。
女房や童女が帷子《かたびら》を張った几帳の足だけをそれぞれ抱え、示し合わせたように歩いていくのだ。
帷子はひらひら、ひらひら、とゆらめくが、奥にある「隠したいもの」は決して見えない。
「なんだ、あの妙な集団は。どこにいくのだ」
「さぁ? 須磨さまが先頭にいらっしゃるようですが……」
「なぜ早足?」
――それは、みなの腕が疲れ切ってしまうから。蔵人所に辿り着くまで時間との勝負なのよ……!
「几帳の林」の内側にいた松緒は、漏れ聞こえた疑問に心の中で呟いた。
彼女の四方はすべて大納言家の人々で囲まれている。女房だけでは足りなかったから童女まで駆り出している。
かぐや姫の姿が人から見られないための苦肉の策だ。はたからみればおかしな光景でも、本人たちは真剣そのものである。
「さぁ、みなさま、わたくしめについてきてくださいませ」
張り切る須磨の後ろを、そろそろ疲れてきたのか、よろよろしてきた几帳を持つ女たちの集団がついていく。
さあもう少しで目的地、というところで。
几帳の足を持っていた童女が転んだ。
「あっ!」
ばたんと倒れると同時に、「かぐや姫」を人目から隠していた「壁」の一角が消える。
「たつき!」
相模が思わずといった調子で叫ぶ。
……松緒は、頬に春の風を感じた。
視線をそちらに向けると、そこには松緒のほうを凝視する男がいた。
赤い袍。まだ若い。十代か……松緒と同い年か少し下ぐらい。一文字に結ばれた唇が、気の強さを感じさせる。
――だれかしら。
松緒は落ち着いて、ぱらりと檜扇を広げ直し、男の視線から逃れた。
男から離れたところで、なおも心配そうにする相模に囁いた。
「念のために紙でお面を作ってきてよかった。役に立ったわ」
目の部分だけくり抜いた紙を紐をつかって額に括り付けてきたのだ。不恰好だが悪くない作戦だと思う。須磨もそこまで念入りにするとは思っていなかっただろうが、それぐらいしないと安心できなかったのだ。
「かぐや姫さま、もうよろしいでしょうか」
「はい。参りましょう」
須磨のうしろを再びついていき……とうとう蔵人所《くろうどのところ》についた。蔵人頭長家の職場である。
まず、須磨が入り口の妻戸を押し開き、内部へ声をかける。
「蔵人頭さま、尚侍さまがお越しになられています」
すると、どんがらがっしゃんと物が落ちる音がした。「ど、どうぞ」と男の声が一行を中に招いた。
「失礼いたします」
須磨がさっさと中に入るので、松緒も扇で顔を隠しながら入る。相模たちのように几帳の足を持つ者たちは妻戸前で待機することとなった。
「あら……蔵人頭さまのお姿が……?」
須磨が不思議そうな顔をした。
蔵人所の内部は板敷となっており、書状や書物の置かれた棚とともに事務処理を行うための文机が等間隔で並べられていた。
人気はない。顔を厳重に隠したがる尚侍が来るため、気を利かせて、一部の者を除き、下げられたのかもしれない。
松緒がこっそり辺りを眺めていると、とある一角が目に入る。
奥の方では、別の扉が開け放たれたままになっている。宮中の事務を司る場所なので、その扉向こうは書類を保管する書庫なのだろうが、妙に気になった。
「あっ……!」
だれかの声とともに、てんてん、と巻物が広がりながら転がっていく。
それは松緒の足元で止まったので、反射的に取り上げる。
気づくと松緒の目の前に、赤い袍をまとった男が立っていた。腕に山ほどの書類を抱えた、いかにも苦労人のような風情を漂わせている。
「か、か、かぐや、姫さま、でいらっしゃいますか……あ、申し訳ありません。わざわざ拾っていただきまして」
彼は呆然とした様子で、松緒が差し出した巻物を受け取った。
「蔵人頭さまは何をしておいでで?」
須磨が尋ねると、彼は曖昧に笑ってみせた。
「あ、いえ。……お恥ずかしい話、こちらにかぐや姫さまがわざわざお越しになられるため、整理整頓しておりましたら……決壊いたしまして」
「決壊」
「日頃から整理する時間を取れないほど、雑事が立て込んでおりまして……ははは。ついいましがた棚がひとつ、崩壊してしまいまして……まあいろいろとお目汚しいたしまして」
「さようですか」
須磨と松緒は用意された畳の上に座った。松緒の前には几帳が置かれ、やはり「かぐや姫」の顔を見ないように配慮されていた。
「蔵人頭さま、こちらの方が新しい尚侍さまでいらっしゃいます」
「『かぐや姫』と申します。桃園大納言の娘でございます。尚侍として精一杯勤めて参りますので、なにとぞよろしくお願い申し上げます」
「そんな……。もったいないお言葉です。わたしは長家と申します。こちらこそ、同じく帝を御支えする者同士、仲良くやっていけたらありがたい限りです」
――真面目で誠実そうな方だわ。
蔵人頭は、細々とした雑事にもよく気が付かなければならない仕事だ。縁の下の力持ち、事務屋さんとしての能力が問われる。須磨がいうには、前の帝のお声がかかっての抜擢で、なかなか後任が決まらないのも、長家という人が蔵人頭という役職に合っているからなのだと。
松緒個人としては彼に好感を抱いた。根がいまだに社畜の限界OLなもので、親近感が湧く。
「そうですよ。尚侍さまは、もっと蔵人頭さまと仲良くなさってくださいね。お仕事をするのに人間関係が良いことに越したことはないのですから」
「肝に銘じておきます」
「かぐや姫」がそう答えると、須磨は満足そうに頷いた。
「わたくしとしましては、仕事に支障がないところで、蔵人頭さまが尚侍さまと「どのような関係」を結ばれても一向に構いませんので、申し添えておきます」
御簾向こうではやや沈黙が続いた。
「尚侍さまはあくまで尚侍としてお仕えするとのことですから」
須磨が付け加えると、
「そうですね。努力は、してみましょう。かぐや姫さまに関心があるのは、事実、ですし。実際、何度か、その意図で文を送っておりますので……」
「それは、あの……」
松緒が困っていると、「大人ですので節度は守りますよ」と先回りした答えが返ってきた。
「実のところ、わたしは嬉しかったのですよ。自身の顔を好奇の目にさらすのを好まれなかった尚侍さまが、わざわざわたしに会うために蔵人所まで来てくださった。……それだけでも、人として好ましく思います」
「あ……」
――さすが、乙女ゲームの攻略対象。甘い言葉がさらっと……。
松緒も大人なので、それだけでぐらつきはしないが、乙女ゲームらしく攻略キャラの好感度を上げてしまった気がしてならなかった。
――それは、「姫様」にとって良いこと?
答えは出なかった。
蔵人頭に見送られ、蔵人所を出た先に、廊の上で仁王立ちした若者がいた。
相模たちも控えていたため、すぐに几帳で姿が隠れたが、若者はまっすぐ「かぐや姫」を見つめていたようだった。
一瞬だったが、先ほど蔵人所に来る前に見かけた赤い袍を着た男だった。
――あの視線はなにかしら。かぐや姫さまに焦がれているわけでもなく……むしろ、不愉快なものを見るような……?
彼は「かぐや姫」に一礼だけして、蔵人所に入っていった。
……長家が、書類の整理をしているところに、昔から知る年下の友人がやってきた。
「どうしましたか、行春殿」
「今、かぐや姫を見てきました。こちらにおいでになっていたのでしょう?」
「ええ、ご挨拶に」
「顔は見ましたか?」
「まさか。本人が望まないのに不躾なことはできないですよ。そういえば、行春殿もかぐや姫に文を出されていたのでは?」
「あれは……ぼくじゃない」
「そうですか」
周囲の者がけしかけることもあるのだろう、と長家は勝手にそう解釈した。
「世間ではみなかぐや姫を当世一の美女だと持ち上げ、次から次へと求婚の文を送っているし、帝の御関心の的でもあるが……他人がそうしているからといって、ぼくまでそうしなければならない道理はあるまい。凡人と同じになりたくない」
――なれば、なぜそれを長家に言いに来るのか。
彼にも、自分の心中を把握できていないところがある。
左大臣家の御曹司で、恵まれてはいるけれども……彼はまだまだ青かった。
潔癖で、理想がある。他人からは、冷淡に見えることがあるだろう。
「わたしは凡人だから素直に自分の心に従うよ。それに……あの姫君は意外と親しみやすいところがありそうでね」
行春はなぜか傷ついた顔をした。
「わかりました。長家さまがそのようにおっしゃるのでしたら、ぼくも交流を持ってみましょう。では……また」
「はい、また」
長家は行春を見送った。
「松緒は、恋をしたことがありますか?」
「ありませんね」
かぐや姫がいなくなる前。こんな会話をしたのを覚えている。かぐや姫が、次々と届く恋文を眺めてしかめ面(しかしそこはやはり松緒の姫様なのでため息が出るほど美しかった)をしていたため、「恋文を見るのは気が進みませんか」と尋ねたのがきっかけだった。
「よくわからないのです。この松緒にも恋文をもらうことはありますけれども、ほとんどが姫様への手引きを狙ってのことですから、本気で取り合ったことはございません」
「松緒……」
かぐや姫は長い睫毛を伏せて、申し訳なさそうにする。
「わたくしは松緒の幸せを妨げているのかしら……」
「いえ! そのようなことはまったく! 松緒は、姫様にお仕えできるのが何よりの幸せなのです! 恋人なんて必要ございません!」
「わたくしのことは気にせず、良い殿方がいたら応えてもよいのですよ?」
「姫様、本当にそんな相手はおりませんので大丈夫ですよ! ……それよりも。姫様ご自身には心惹かれる相手はいらっしゃらないのですか?」
「いますよ」
それを聞いた松緒は飛び上がった。
「どなたですか! 姫様にふさわしい殿方でしょうか。年収と性格と将来の見込みと姫様への気持ちを確かめさせていただきたく……」
「松緒は自分のことをどう思っているの?」
「へ? この松緒でございますか?」
一瞬はきょとんとした松緒だが、すぐにかぐや姫の意図に気づいて、姫様、と声をあげた。
「からかわないでくださいませ!」
「ふふふ。ねぇ、松緒。そなたには、わたくし以外に心惹かれる相手は、本当にいないの?」
「そこまで心配なさらなくとも、本当にそのような相手は……」
――いえ、でもたしか。
松緒の脳裏にある光景が過ぎる。
前世日本の、とある交差点。
赤信号だが急いでいるのか道路に飛び出してしまった男性。
「恋とは違いますが、気にかかる人はいました」
迫るトラックに気づかない様子で……前世の松緒は思わず飛び出し、彼を突き飛ばした。
「遠い昔に会った人です。今はどこにいるかもわかりませんが……助かって、どこかで幸せでいてほしいと思います」
「助かって、とは?」
「事故に遭いそうになっていたのを、助けようとしたんですよ。私、馬鹿だったんです。あちらの方は立派な成人男性で……私のほうが非力だったのに、助けようとしてしまって」
飛び出した後のことは覚えていない。
前世の松緒は、そうやって死んだのだろう。
最期に目に焼きついたのは、自分を追いかけてきた女を驚いたように見つめてきたきれいな顔。
――だって、彼、「平安雅恋ものがたり」のラバストをかばんにぶら下げていたから。同じゲームを好きならば、他人に思えなくて。
「気に病まないでほしいなぁって一方的に思っているだけですよ。恋ではないのですが……忘れられないですね」
「……そう」
思いのほか、淡白な返事だった。
「姫様?」
呼びかけるとかぐや姫は考え事から醒めた顔つきになった。
「松緒にも、そのような相手がいたのですね……」
「ですから、何度も言うように恋では全然ないんですよ?」
「ふふ、そうですね」
「信じていないですね!?」
それで話はしまいになった。
まもなくして、かぐや姫は松緒をそれとなく遠ざけるようになっていった。
松緒の代わりにかたわらに侍ったのは、新入りの女房だったが……。
かぐや姫の心中はあのころからわからなくなっていったのだった。
時は、あの夜の出来事にさかのぼる。
『そなたは……かぐや姫の『偽物』だな?』
闇に沈んだ「かぐや姫」の居室。謎の闖入者は松緒の背後から迫り、彼女の正体を見破った。
頭が真っ白になった松緒はとっさに、
『……無礼ではありませんか。夜中に押し入るなんて』
震える声で言い返していた。そして、万が一を考えての「言い訳」を口にする。
『「姫様」は別の寝所でお休みです。あなた様のように女人の寝所に忍び込む方がいらっしゃるから、私のような「身代わり」が必要になるのですよ』
「かぐや姫」自身は身の安全のため、違う場所で休み、代わりに松緒がかぐや姫として寝所にいる。
もしも松緒が顔を見られても、この理由であれば「かぐや姫の不在」という最大の秘密は見抜かれないはず。
『身代わり、か』
背後の男が納得したのかは、闇の中で抱きかかえられている形ではうかがい知れない。
『離してくださいますか。このような暗闇です。私も逃げも隠れもいたしません』
男の気配が少し離れた。松緒は胸を押さえながら、心臓の鼓動を収まるのを待った。
『本物のかぐや姫はどこにいる?』
『お答えできません』
『おまえはかぐや姫の女房だな。名は?』
『自ら名乗られない方に、名乗れる名などございません。そこらのごみ虫と同じように考えてくださいませ』
『ごみ虫か』
『その代わり踏まれても丈夫です』
『気の強い女だな。おれの名は知らない方がいいと思うぞ。恐れ多くて失神するかもしれない』
『今は名も知らないので、姫様に近づこうとする悪い虫としか思えません』
売り言葉に買い言葉で、応酬したものの……松緒は、相手が想定よりも身分が高い人物なのかもしれないと思い始めていた。
なにせ、夜の後宮なのだ。身分の低い者が出入りできるものではない。
そう、松緒はこの場では立場があまりにも弱かった。気丈に言い返しているのも、ただただ姫様のためにと気を張っているだけ。ぼろを出す前に諦めて帰ってくれとひたすら念じていた。
『ならば、この場にはかぐや姫をめぐってごみ虫と悪い虫が角を突き合わせているというわけか。あなたはなかなか口が堅そうで困る』
『お褒めいただきまして、ありがとうございます』
『褒めていないぞ? 今宵の「収穫」がなかったわけだからな』
松緒が黙り込むと、男がその場を立ち上がる気配がした。
ようやく去ってくれる気になったらしい。
だが、室を出ていく男は、最後にひとつだけ、と松緒に尋ねた。
『かぐや姫の女房よ。あなたの主人が何をしていたか、知っているか』
『何のことです?』
『……なるほど。では、また会うことになるだろうな』
不吉な予言だけ残し、男はどこかに行ってしまった。
おかげさまで気疲れにより松緒はしばらく寝込んでしまったし、どこまで松緒の言い訳が通じていたかもわからないので、思い出すたびに太刀の鋭い切先が背中に当てられたような心地になる。
松緒は、その男とはもう二度と会いたくないと思っている。
「かぐや姫よ。久しいな」
また帝がやってきた。
前回と同じように侍従などをみな下がらせて、御簾越しの対面だった。
初対面の女人に「蝉の抜け殻」を渡してきた出来事以来である。
――久しい、とまではいかないけれど。
少し間が空いたので、かぐや姫への関心が薄れたのかと思っていたのだが、そうでもなかったらしい。
それよりも気になることがあった。
――御簾向こうの人影が、ふたつ。
帝の斜め後ろにもうひとりいるのだ。しかし、黒や赤、緑といった官人の衣服の色ではなく、薄い藤色だった。
後宮において、自由な色を身につけられる身分の者は限られる。
――たとえば。
「主上《おかみ》。姫は驚いておられるようですので、早くご説明して差し上げてはいかがでしょう?」
帝のふくよかな声に対して、少し重みのある男らしい声が響く。
「うむ、そうだな……」
帝も、どこか気安く応じている、その男。相当な貴人と思われた。
――もしかして、このお方は……。
心臓がいやな音を立てる。
御簾越しにでも、松緒の視線を感じたのだろうか。
帝の柔和な顔立ちと比べるとやや野生味を感じさせる面立ちに、笑みが浮かんだようだった。
「東宮だ。以前にもご挨拶申し上げたのだが、覚えていらっしゃるだろうか?」
彼も、乙女ゲームでは攻略対象だった。
東宮、兼孝親王。墨宮とも呼ばれる人だ。帝の実弟に当たる。貴人なのにワイルドさがあるのが魅力で……ただ、今の松緒との接点はほとんどない。
「その際は、大納言殿も同席されて、直接お声は聞けませんでした」
「はい。恐れ多くも……世間知らずだったもので、臆してしまいまして」
後宮に入ってから一度だけ対面はしたものの、他の攻略対象たちと同じくほとんど記憶が残っていなかった。
今になってやっとまともに接している始末である。
「それは仕方のないことだ。邸の奥にいたのに、騒がしい宮中にやってきたのだから、慣れていないのはわかります」
「ありがたきお言葉にて……」
すると、帝が口を挟む。
「墨宮、朕がせっかく紹介しようとしていたのに、ひとりで話し始めるなんてずるいではないか。朕が紹介したかったのだ」
「ですが、主上《おかみ》。以前にも一度、姫君と対面したことがあるのですよ」
「うむ、わかっている。しかし、朕がかぐやを紹介したかったのだ」
よくわからない理論で帝は駄々をこねている。彼は一体、何をしたいのか。
「……兄上は相変わらず独特だなあ」
東宮はぼやき、「わかりました。お好きになさってください」と付け加えた。
帝がその場で背筋を伸ばす。
「尚侍。そこにおるのが、東宮である。朕の弟だ」
「はい、弟です」
松緒は沈黙していた。帝は構わず続ける。
「墨宮よ。そこにいる女人が、尚侍だ」
「お噂はかねがね伺っております。……このような感じでよろしいでしょうか、主上《おかみ》」
「うむ」
松緒は何も言わなかった(言えなかった)が、帝自身は満足したようである。
「かぐや姫よ」
「はい」
松緒は居住まいを正した。
「先日に話した後、朕も贈り物について考えたのだ。次にそなたに贈るものは何にしたらよいだろうかと」
「あの、それはもうお気遣いなく……」
「趣向をこらす必要はないと言った。相手のために心がこもっていたらよいのだと。しかし、やっぱり花や歌では物足りぬ気がしたのだ。そうしたら、たまたま東宮が挨拶に来たので、相談したのだ。東宮は、本人を見なければわからぬと言った。だから連れて来た」
帝は松緒の言葉を聞かずに滔々と話していた。
「東宮は、朕より女心がわかると申すのでな。経験も豊富なのだ」
「そもそも主上が浮世離れしているのですよ」
「東宮、何か考えは浮かんだか」
「……尚侍。主上は悪い方ではございませんので」
今にもため息をつきそうな声音で兄をフォローする東宮。自由な兄に振り回されているのがよくわかる。
「それは……存じております。帝の御恩情にはいつも感謝申し上げております」
「……うむ!」
「この御恩に報いるべく、今後も尚侍の職務に励んで参ります」
「……うむ」
――なんだろう、今、声の調子が一段下がったような。
「主上はすっかり「かぐや姫」にまいっておられる」
東宮がにこやかにそう言った。
「ですが、姫君は入内ではなく、尚侍になられた。主上の手がついているわけでもない。油断されていたら、どこかの鷹にかっさらわれてしまうかもしれませぬぞ」
「そなたはそのようなことをせぬであろう」
帝は迷いなく弟に告げた。
いささか驚いた……というような沈黙があった。
「かぐや姫の心がそう動いたら、よい。無理強いはせぬ。泣いている女を相手にするのはやはり気が咎めるのでな……」
「そうですか。では、これからどうするおつもりで?」
「うむ。かぐや姫、どうしたらよいか教えておくれ」
帝が「かぐや姫」にぜんぶ丸投げした。
帝と東宮。この国でもっともやんごとなきツートップの視線を受けた松緒は、背中にびっしょり汗をかいた。
――「私」にどう答えろと!?
天然で無茶ぶりをしてくる上司に頭を抱えたい。
しばらく考えた松緒は、ゆっくりと口を開いた……。
――姫様ならどうするだろう。
身代わりになってからというもの、松緒は自分の中の「姫様」によく問いかけるようになった。
「姫様らしく」を求められているからだけれども、松緒にとっては「姫様を思い出す行為」でもあるのでそれはそれで幸せだったりもする。
――わたくしなら、こうするかしら。
松緒が問えば、松緒の想像した姫様が、ふわっとその場に現れて、松緒に答えを教えてくれる気がした。
彼女はそれだけ長い間かぐや姫と一緒にいたのだから、脳内で姫様を再現することなど余裕なのである。
これを「イマジナリー姫様」と呼ぶ。「イマジナリーフレンド」ならぬ、「イマジナリーな姫様」である。
松緒はこの時も「イマジナリー姫様」を発動した。
松緒が思うだけで、かぐや姫は微笑みながら松緒の前に現れる。
『姫様、主上からお尋ねがあったのです。なんとお答えすればよいでしょうか?』
『主上は何をおっしゃったの?』
『「かぐや姫」に対して、自分はこれからどうしたらよいのか、と……。主上のお考えがよくわからないのです』
『そうね……』
かぐや姫は面を伏せてしばらく考えた後に、
『松緒は覚えている? あの時のこと。ほら、前の関白様のお誘いをお断りした時の……。あんな感じでよいのではないかしら』
『で、ですが、姫様。あの時は夢中でしたし……』
『ふふふ。きっとできるわ。あなたなら』
「イマジナリー姫様」はフッ、と消えてしまった。妄想のわりに都合よくお話ししてくれないのだ(そんなところも姫様らしいのだが)。
松緒は、今、現実にいた。「かぐや姫」として帝と東宮の二人を御簾越しに相手をしなければならない。
ふたりは松緒の答えを待っているのだ。
「『おのが身は、この国に生まれて侍らばこそ使ひ給はめ、いと率いておはし難くや侍らむ』と申します」
――わたしの身がこの国に生まれていたならお召しできましょうが、お連れなさるのはとても難しいことでしょう。
『竹取物語』でかぐや姫が帝を拒む時の台詞だ。
かつてはしつこくかぐや姫を口説こうとした前の関白を追い払うために、松緒が必死で考えた断り文句でもある(室内に入り込んでこようとしたのを叫びながら制止した。危なかった)。
「尚侍として、お仕えする気持ちに偽りはございません。もしも主上がこの御簾を越えていらっしゃった場合、わたくしはするりと逃げて、月に帰ってしまうやもしれません」
くくっ、と笑い声が漏れた。東宮の肩が揺れていた。
「「主上」のところだけは訂正せねばならないだろう? そなたは、どんな男だろうとも受け入れるつもりがないのでは? それこそ物語の「かぐや姫」をそのままなぞるように生きるのか?」
松緒は何も言わなかった。理解してもらえるとも思っていなかった。
彼女は、「姫様」にずっと仕えるつもりだったし、年老いたら寺の近くで椿餅を細々と売って、姫様と暮らしていたかったのだ。
かぐや姫はすべての求婚を断り、だれの手も取らなかったから。
――そんな姫様がいなくなってしまった。私の気持ちはだれにも理解してもらえないのでしょうね。
半身をもがれたような喪失感を、身代わりをするために無理やり気づかないふりをしているのだ。
「よいのだ、墨宮」
帝が「かぐや姫」の沈黙を掬うように口を開いた。
兄に釘を刺された東宮は不機嫌になった様子もなく引き下がる。
「尚侍。そなたの気持ちを尊重しよう。ところで、ひとつ、頼みがある」
帝の「頼み」とは、ほぼ勅命と同義である。
場を乗り切ってほっとしたのも束の間、松緒は背筋を伸ばして、帝の言葉に耳を澄ませたのだった。
「そなたには、行事をひとつ、取り仕切ってもらいたい」
庚申待ちと呼ばれる風習がある。
暦で庚申に当たる日が年に数度あるのだが、その日の夜に寝てしまうと、普段体の中にいる三尸《さんこ》という虫が、天帝のところにいって、宿主の悪行を報告し、宿主の寿命が縮まってしまうという。
よって、庚申の夜には眠らずに過ごすのが、庚申待ちだ。この時に、眠くならないよう人が集まり、管弦の宴を催したり、歌を詠んだり、碁を打ったりなどする。
宮中でも同じようなことが行われていて、帝が打診したのも、庚申待ちの時に人々が楽しめる行事を取り仕切ってほしいとのことだった。
「それで、主上にはなんとお返事なされたのでしょうか」
「謹んでお引き受け申し上げます、と」
帝と東宮との対面後、須磨との緊急会議である。近くには、相模《さがみ》も控えている。
須磨は、粛々と「かぐや姫」の話を聞き、まず第一声として「仕方がありませんね」と発した。
「尚侍さまに何か、お考えはございますか?」
「これぞ、というものはまだ……」
松緒は言葉を濁した。
松緒がすぐに考えつくようなものは、すでに行われているし、飽きているだろう。
「かぐや姫」が関わるからこその「趣向」が求められている。
行事の内容はともかくとして、「かぐや姫」にはまずはやらなければならないことがあった。
「しかし、帝がお任せしてくださった以上、わたくしはしっかりやり遂げたいと思っております」
松緒は、意を決して口を開いた。
「わたくしひとりで行事を取り仕切ることはできるわけもございません。どうしても、須磨や、他のみなの力が必要となりましょう。……どうか、わたくしを助けてもらえないでしょうか」
松緒はちらっと扇をかざしたまま、須磨の様子を伺った。松緒から見えるのは、座っている彼女の袴の辺り。膝の上に扇を持ち、両手を揃えて置いていた。
須磨はおもむろに立ち上がる仕草をした。
「お話の方はわかりました。わたくしめはこれにて一度失礼いたします」
――あれ、だめかも。
須磨はきっぱりした態度で立ち去ろうとしている。
正直、彼女にまず頼ることしか考えられなかった松緒は内心、焦った。
「え、あの……姫様のお話のほうは?」
傍の相模も松緒と同じように思ったのか、こらえきれない様子で声を上げる。須磨がちらとそちらを見やり、
「尚侍さまにはお勉強していただく必要がございましょう。尚侍になられたばかりで宮中のしきたりにも疎いのです」
「は……?」
「尚侍さまはいまだお考えがまとまってないご様子。……庚申待ちの記録は、内侍所《ないしのどころ》にわずかにございます。それをお持ちしようかと思ったまでですが」
松緒と相模は一瞬、戸惑ったが、胸を撫でおろす。
須磨は「かぐや姫」を見捨てたわけではなかったらしい。
「ありがとう、須磨。助かります」
「何を当然のことをおっしゃるのですか。わたくしめは尚侍を補佐する典侍《ないしのすけ》でございます。尚侍《ないしのかみ》がお望みであれば、従いますので」
まずは須磨が持ってくる過去の記録を読みながら、庚申待ちに行うことを決めることになった。
次の庚申の日まで、およそ一か月。準備のことを思えば、時はあるようでなかった。
三日経った。
行事の内容がさっぱり思いつかない。寝ても醒めても行事のことが頭をよぎる。
今や松緒の失敗は「かぐや姫」の失敗になってしまう。松緒ひとりが恥をかけば済む問題ではなかった。
「かぐや姫」が庚申待ちの行事をとりしきることは、すぐ噂が出回ったらしい。次の日にはかぐや姫の父親である桃園大納言に伝わっていた。
「やりおおせるのであろうな。宮中の耳目がおまえに集まっているのだぞ」
「は、はい……」
松緒は冷や汗をだらだらかきながらそう返事するほかなかった。
かぐや姫がいたころはまだおだやかな気質だった桃園大納言も、今となっては鬼上司。圧のかけ方が半端ないのだが、この世界にはハラスメントを訴える手段がない。
――姫様も、周囲の期待に応えることに耐えられなかったから、いなくなったのかな。
松緒は無邪気にかぐや姫の背中を追いかけていればよかったが、かぐや姫自身はどう考えていたのだろう。松緒が見る限りでは、重圧を気にした様子もなく、いつも穏やかに微笑んでいたが……。
桃園大納言が帰ったので、松緒がひとりで物思いにふけっていると。
「やや! 鈴命婦はこちらへ参っていませんかナ!」
男の声と、足音が殿舎に響く。
松緒はさっと檜扇を広げて顔を隠す。
ちりんちりん。小さな鈴の音も遅れて響き、松緒の膝の上に白い毛玉が乗り上げて、くりくりお目目でにゃあと啼く。
「猫だ……」
松緒はあまり触れたことがないので、そのまま固まってしまった。
傍の几帳の帷子が左右に割れて、黒い烏帽子がにゅっと突き出す。
「尚侍サマ、ごきげんよう!」
「ごきげんよう……」
「晴明ですヨ!」
「知っています」
膝の上で白い猫は丸くなっていた。
晴明は肘で這いより、器用に猫を持ち上げた。猫は嫌がるわけでもなくおとなしくしている。
「鈴命婦はすぐに逃げてしまうのですヨ。だからワタシがいつも追いかけています」
「……あなた、陰陽師でしょう。なぜ猫を?」
「はて、なんででしょう? なぜかよく命じられるんですよねェ……?」
そんなやりとりをするうちに、別の人影が後方から彼に迫った。
「この野良陰陽師めが! 無礼もはなはだしい! 恥を知れッ!」
危機を察知した猫は、すぐさま陰陽師の腕から逃れたが、陰陽師自身は逃げられなかった。
アッ、となまめかしい声をあげたピンク髪がずるずると後方へ引きずられていく。
几帳の帷子が閉じていった……。
うぎゃ、うぎょ、うべっ。……ばたんばたんと暴れる音と不可思議な悲鳴が聞こえてくるので、さすがに松緒は几帳の反対側へ回りこむ。
「何をしているのですか……」
扇をかざす松緒にすべて見えていたわけではなかったものの、松緒には板敷の床にへばりついて意地でも動かないという姿勢をした晴明と、その晴明の足をつかみ、どうにか外へ引きずりだそうとしたが、動きにくい袴に足を取られてやむなく倒れ込んでしまった……。
「お見苦しいところをお見せしております、尚侍さま」
声だけは平常だった。怖いぐらいに。
「今すぐこの野良陰陽師を放り出しますので、お待ちを」
「須磨。体格が違うのですから、無理しないほうがよいですよ」
「いえ。この者を御簾の内に入れたのは、わたくしめの不徳の致すところでございます。責任を果たします」
「相手も人なのですから、きちんと話せばわかってくれます。そうでしょう、晴明殿」
妙な沈黙がその場に落ちた。
フフフ、とピンク髪の陰陽師が笑う。
「そうですネ。ワタシ、聞き分けがよいのですヨ。ささ、御簾の外に出まショウ」
チチチ、と晴明が舌打ちをすると、白猫も彼の傍に寄ってきた。抱き上げて、御簾をくぐる。
須磨はいつ晴明が振り返って戻ってきやしないかと神経を尖らせているようだった。
「……あ、そうだ、尚侍サマ」
「野良陰陽師!」
オオ、怖い怖い、と肩を竦める晴明。
「宮中には魑魅魍魎《ちみもうりょう》が多くいるものですナア。ひとところに集まれば、百鬼夜行《ひゃっきやぎょう》ができますナ」
不気味な笑い声とともに不審人物は去っていった。
――『百鬼夜行』、か……。
この世界の人びとはあやかしがいると信じている。だからこそ陰陽師もいるし、祈祷も行う。
夜に都のあやかしたちが列をなして練り歩く。それが百鬼夜行というものだが……。
「あ、そうか」
「尚侍《ないしのかみ》さま?」
「いえ。今、ふと、庚申待ちの行事について、思いついたことがあったのですよ」
松緒は自分の考えをこそこそと話した。
はじめのうちは不審そうにしていたものの、やがて唇を一文字に引き結ぶ須磨。
「それは……前例がないことでございますね」
「はい。記録にもありませんでしたね。しかし、主上は面白がると思われませんか?」
「……否定しません。喜々として食いつかれるさまが目に浮かぶようです」
須磨は、額に手を当て、天を仰いでいる。
「承知いたしました。その方向で行事の内容を詰めて参りましょう。尚侍さま、時は有限でございます。決めることもたくさんございます」
「それは覚悟しております。共にがんばりましょう」
「かぐや姫」と須磨は頷き合ったのだった。