♢死者を蘇らせる奇妙な居酒屋
ねがいをかなえてくれる居酒屋「ねがいや」。
都市伝説の噂やネットなどで話題にはなっているのだが、まさか本当にそんな居酒屋があるなんて思わないだろう。でも、そんな居酒屋が実在するのだ。
これは、偶然「ねがいや」という居酒屋を見つけた男性の話だ。恋人を事故で亡くしたばかりで、落ち込んでいた20代男性がやってきた。会社員であるが、最近は以前のように仕事に熱を入れて働くことはできないでいた。落ち込み、ひどい悲しみの淵に立たされた男は、自分自身を保つことで精一杯だった。そこで、居酒屋に入って晩御飯でも軽く済ましながら、酒を飲んで嫌な現実から背けたい、そんな気持ちでのれんをくぐる。
居酒屋は暖かな木のぬくもりというイメージの建物の造りになっていて、玄関にはのれんがかかっている。まるで、俺を呼ぶかのように。暗闇の中で、ぽうっと浮かび上がる不思議な店がたたずむ。店のあかりが優しく灯っていた。それは暖かな光で、ぬくもりや愛着を感じるような気がした。
都市伝説によると、居酒屋には店主である若手の男性が一人いるのだが……この男の正体を知るものは誰もいない。魔法使いなのか、異世界の住人なのか、人間なのかどうかも一切不明だ。もしねがいをかなえられたとしたら、それは店主が特別な能力があるのだろう。しかし、ネットの情報だ。ただ、店の名前が同じだけなのかもしれない。
のれんをくぐってガラガラ引き戸を開けると―――
「いらっしゃいませ」
若い男性店主が出迎えてくれた。ごく普通の人間のようだ。変わった様子は感じられなかった。やっぱり普通の居酒屋だよな。ぐるっと店の中を見渡して、特別な何かがないことを確認しながら、そんなことを心の中で考えていた。
「とりあえず生ビール」
俺は暗い気持ちでカウンターに座る。
「お通し代わりに弱った胃に優しいおじやをお出しします。最近ちゃんと食べていないですよね?」
「あぁ、まぁ」
なんで、この店主は食べていないことを知っているんだ? きっと俺の表情が暗いせいだ。知らない人にまで気づかれるくらいやせこけたか? 目にくまができているせいかもしれない。睡眠不足だからな。
店主はささっと一品料理を作る。
「特製おじやです。だしとたまごの絶妙なバランスが自慢の味です。食べることは生きる基本です。さあ食べてください」
俺は、出されたおじやをひとくち味わいながらかみしめる。空っぽの胃に優しい味がじんわりしみこむ。湯気が冷え切った体を温める。
「お客様、最近よく眠っていないようですね。悩みがあるのですか? ここはねがいがかなう居酒屋です。お好きな願いがあれば、死者を生き返らせることだって可能ですよ」
当たり前のことのように店主が話しかけて来る。
「え? なんだよそれ……」
ぼったくりバーみたいな感覚に襲われて警戒する。やっぱりネットの都市伝説の店なのだろうか? 半信半疑で俺は店主を見つめた。
「生ビールです」
俺は出されたビールを一気飲みして憂さを晴らそうとしていた。最近はそんなことばかりの連続だ。酒を浴びるように飲んで忘れようとする。でも、恋人を失ったことを忘れることはできない。
「俺の恋人が事故で死んだんだ。生き返らせてほしい……なんてねがいはだめだよな?」
冗談半分、本気半分だった。
「はい、可能ですよ」
店主は明るい笑顔で、可能だと言い出す。死んだ人間を生き返ら得せるなんて神様でも難しいはずだ。もしかしたら、この男、神様なのかもしれないぞ。俺は都合のいいように解釈した。
俺は、飲むことを辞めてその話に食いついた。元々慎重な人間だからそういった話にはあまり食いつく方ではないが、どうしてもこれを逃してはいけないような気がした。万が一のチャンスがあるのならば、試してみたい。その一心でその男を俺はいつのまにか頼っていた。誰だって大切な人を取り戻したいと思うだろう。俺だってそうだ。また彼女と笑って話がしたいんだ。大切な人のために俺は犠牲になっても構わない。勇者か選ばれた英雄にでもなった気分になっていた。それくらいその時の俺は、心が高揚していたということだ。ビールのアルコールが気持ちに拍車をかけていたのかどうかはわからないが。
「死んだ人間が生き返るのか?」
俺は確認をする。そんな都合のいいことなどあるはずもないのに。科学的に無理なことはわかっているはずなのに、人間というものは往生際が悪いとでも言おうか。
「生き返りますが、生き返った人間には《《一部記憶がありません》》。だから、生き返った彼女は生前と少し性格は違うし、死んだという事実がなくなり、今の世界が少し変わってしまいます。それでもいいですか?」
「代償とかあるんだろ? お金がかかるとか、不幸になるとか」
店主は丁寧な口調で説明をしてくれた。それは俺に安心感を抱かせるというという点で効果があった。優しい丁寧な口調は凝り固まった警戒心をほどかせる。
「あえていうならば、《《一度かなえたねがいを撤回することはできません》》」
「それだけか?」
俺は食いつき気味になって質問と確認をした。
「幸せになるという保証もできませんが」
店主は少し真面目な表情で俺を見た。
「お願いだ、彼女を生き返らせてくれないか? 結婚の約束もしていたんだ」
「いいですよ」
意外と簡単に生き返るようで、俺はほっとしていた。契約は口頭で簡単なものだった。うまい話には裏があると言うが、それでもいい。もう一度、大好きな彼女に一目だけでも会いたい、その一心だった。俺の目の前で生きている、話している、笑っている。そんな当たり前を取り戻したい。死んだという事実をなくせばいいのだ。そうだ、俺は自分に対して、都合のいいようにしか考えられなくなっていた。
少しの沈黙の後、店主はなにやら砂時計のような形のものを取り出した。
「この砂が全部落ちたら生き返っていますよ」
「そうなんですか?」
俺は半信半疑だった。魔法ならば、ステッキを振って呪文を唱えるとか、もっとわかりやすいアクションがありそうなのだが、あまりに地味な方法で、意外な気持ちになった。やっぱりだまされたのだろうか?
「あなたの自宅に彼女がいます。さあ、帰宅してください」
「これはお代だ」
ビールを残したまま俺はビール代に少し足した金額を支払った。ねがいをかなえてくれたのならば、その代金を少しでもお礼がしたかったのだ。本当かどうかもわからないのに。
そのまま急いで近くにある自宅に戻った。早く彼女に会いたい。そこには、男が言う通り恋人である彼女がいた。死んだはずの彼女は無傷で俺の部屋にいつも通りに座っていた。
俺は夢にまで見た感動の再会を果たす。きっと、俺たちは感動の再会を果たす。これから、ずっと一緒にいようと約束した仲なのだ。会えなかった日にちがあった分、愛が深まっているはずだ。少なくとも俺の中の愛は以前よりも熱く深い愛に変化していた。薄っぺらい好きという気持ちではない、もっと地底のマグマのような深くて熱い気持ちになっている。はやくこの手でマキを抱きしめたい。
「おかえり、マキ」
俺は、会いたかった愛しい愛しい彼女にかけよった。
「あなたは誰?」
「俺のことがわからないのか?」
「わからない」
そうか、一部記憶がないというのは俺の記憶がないのか。
「俺はおまえの彼氏で婚約者の山上だ」
丁寧に説明する。
「ヤマガミ?」
彼女は一瞬固まった様子で、俺の名前を初めて聞いたかのような呼び方をした。
「お前は記憶喪失になっているんだよ」
説明すればきっとわかってくれるはずだ。
「記憶はちゃんとあるけど、ここ、どこかわからなくって」
「お前は事故にあったのだけど、生き返らせてくれた人がいるんだ。その人が君から一部の記憶を奪ったんだ」
俺は彼女の肩をつかんで、揺さぶる。彼女の目を覚まさせたい。きっと目覚めるはずだ。いつだって愛する人の想いの力で愛は生まれるのだから。愛のキスで姫が目を覚ますようなそんなことはよくある話だ。ここまで来たのだから、彼女を取り戻さなければいけない。
「何を言っているの? あなたは、もしかして、誘拐犯や犯罪者なの?」
彼女の目は警戒に満ち溢れていた。かつて俺を優しいまなざしで見てくれた彼女の瞳とは別人のようだった。今の世界が変わったのか? まさか店主が言っていた幸せになれるとは限らない、これなのだろうか。
「違うよ。俺はちゃんと会社員として働いているし、本当に恋人だったんだ。証拠となる俺たちの写真を見るか?」
俺は、机の引き出しをあけて、写真を取り出した。2人で撮った写真はいくらでもあるはずだった―――のに、1枚も見当たらない。どういうことだ? 俺は焦る。
今が全て変わってしまったのか? マキが死んだという事実も、交際していた事実もすべて変わってしまったのか? あの店主が言っていたことは、こういうことだったのか? 俺の記憶がない彼女が生き返るという可能性を示唆していたのだろうか。罠だったのだろうか? 無料で慈善事業をするはずもないし、俺を陥れて後から金をとって記憶を戻すとかそういったことだろうか?
「俺たちは愛し合い、結婚の約束をしていた。マキ、もう一度やり直そう。俺はマキともう一度、1から恋愛をしたいと思っている。少しずつ好きになってほしい」
俺は再び渾身のプロポーズをした。誠意を込めて、心から愛するという覚悟を固めていた。
しかし――
「何を言っているの? 私、既に結婚しているんですけど」
彼女の瞳は冷めていた。それはもう、俺の所には戻ってこないであろう冷たい瞳だった。
「なんだよそれ? 相手の男はどんなやつだ?」
俺が近づくと、マキが驚き、大きな声を出す。
「警察呼びますよ。とにかく、もう付きまとわないでください」
そう言って、出ていってしまった。俺はもう、この事実をどうすることもできずにいた。これ以上付きまとったらストーカーだとか不審者として訴えられたり、警察に通報されるだろう。
俺は彼女の実家に連絡をしてみたのだが、俺のことは実家の両親も覚えておらず、警戒されるばかりだった。
仕方なく、探偵を使って、結婚をしているのかという事実を確認するべく調査をした。すると、彼女は最近入籍したという事実が確認された。相手の男と彼女が愛し合いながら寄り添う姿やほほえましく並んで歩いている姿の写真を探偵が持ってきた。相手の男というのが、居酒屋にいたあの優男だったのだ。俺はあの男に騙されたのだろうか? 彼女を略奪されてしまったのだろうか? あの男はマキを奪うために蘇らせたのかもしれないし、蘇った彼女を気に入ったから、俺の記憶をマキから奪ったのかもしれない。俺は、彼女の生と引き換えにあの男に彼女をあげてしまったということだろうか?
何が正しくて何が正しくないのか、もうわからなくなっていた。人間不信もいいところだ。
しかし、いくら調べてもそれ以上の情報は出てこなかった。探偵によると、あれ以来彼女とあの男の行方がつかめなかったそうだ。住居も店も調べても全くわからない、お手上げ状態らしい。そんなことはないだろうと他の興信所を使っても、結果は同じだった。
もしかしたら、あの不思議な居酒屋で夫婦として幸せになっているのかもしれない。俺には本当の真実はわからないままだった。彼女が死んでしまった時点で彼女とは別れていたのだろう。無理やり生き返らせても、復縁することはなかったのだ。
彼女は生き返ってはいなかったのかもしれない。なぜならばあの男が生きている人間かどうかなんて俺には判断もつかないからだ。死んだ者同士仲良くやっているのかもしれない。俺は彼女の幻を見ただけなのかもしれない。
その後も、俺は「ねがいや」という居酒屋を探すべく、毎日街をさまよったのだが、どうやっても見つかることもなく二度とあの店に行くことはできなかった。
もちろん、部屋のどこを探しても、写真のデータを確認しても、彼女の写真一枚見つかることはなかった。なぜなのかはわからないのだが、俺がマキと恋人であり婚約していたという事実は消滅させられたのだ。
今、俺はしがない独身男だ。恋人を事故で亡くしたという事実はなくなった。俺の記憶の中の彼女はこの世界のどこにもいない。俺の妄想だったのか虚言だったのかも今となってはもうわからないし、どうでもいい。だって、俺に彼女はいなかったことになってしまったのだから。
彼女と同じ姿をした彼女が生きているならば、俺はうれしい。今でも彼女を愛している。だから、マキには幸せになってほしい。そう言い聞かせながら、今日も酒を浴びるように飲んでいる。
あれ? 彼女を事故で亡くした時と結局何も変わっていないよな。
毎日酒をたくさん飲んで、彼女を失った悲しみを忘れようとしているのだから。
ねがいをかなえてくれる居酒屋「ねがいや」。
都市伝説の噂やネットなどで話題にはなっているのだが、まさか本当にそんな居酒屋があるなんて思わないだろう。でも、そんな居酒屋が実在するのだ。
これは、偶然「ねがいや」という居酒屋を見つけた男性の話だ。恋人を事故で亡くしたばかりで、落ち込んでいた20代男性がやってきた。会社員であるが、最近は以前のように仕事に熱を入れて働くことはできないでいた。落ち込み、ひどい悲しみの淵に立たされた男は、自分自身を保つことで精一杯だった。そこで、居酒屋に入って晩御飯でも軽く済ましながら、酒を飲んで嫌な現実から背けたい、そんな気持ちでのれんをくぐる。
居酒屋は暖かな木のぬくもりというイメージの建物の造りになっていて、玄関にはのれんがかかっている。まるで、俺を呼ぶかのように。暗闇の中で、ぽうっと浮かび上がる不思議な店がたたずむ。店のあかりが優しく灯っていた。それは暖かな光で、ぬくもりや愛着を感じるような気がした。
都市伝説によると、居酒屋には店主である若手の男性が一人いるのだが……この男の正体を知るものは誰もいない。魔法使いなのか、異世界の住人なのか、人間なのかどうかも一切不明だ。もしねがいをかなえられたとしたら、それは店主が特別な能力があるのだろう。しかし、ネットの情報だ。ただ、店の名前が同じだけなのかもしれない。
のれんをくぐってガラガラ引き戸を開けると―――
「いらっしゃいませ」
若い男性店主が出迎えてくれた。ごく普通の人間のようだ。変わった様子は感じられなかった。やっぱり普通の居酒屋だよな。ぐるっと店の中を見渡して、特別な何かがないことを確認しながら、そんなことを心の中で考えていた。
「とりあえず生ビール」
俺は暗い気持ちでカウンターに座る。
「お通し代わりに弱った胃に優しいおじやをお出しします。最近ちゃんと食べていないですよね?」
「あぁ、まぁ」
なんで、この店主は食べていないことを知っているんだ? きっと俺の表情が暗いせいだ。知らない人にまで気づかれるくらいやせこけたか? 目にくまができているせいかもしれない。睡眠不足だからな。
店主はささっと一品料理を作る。
「特製おじやです。だしとたまごの絶妙なバランスが自慢の味です。食べることは生きる基本です。さあ食べてください」
俺は、出されたおじやをひとくち味わいながらかみしめる。空っぽの胃に優しい味がじんわりしみこむ。湯気が冷え切った体を温める。
「お客様、最近よく眠っていないようですね。悩みがあるのですか? ここはねがいがかなう居酒屋です。お好きな願いがあれば、死者を生き返らせることだって可能ですよ」
当たり前のことのように店主が話しかけて来る。
「え? なんだよそれ……」
ぼったくりバーみたいな感覚に襲われて警戒する。やっぱりネットの都市伝説の店なのだろうか? 半信半疑で俺は店主を見つめた。
「生ビールです」
俺は出されたビールを一気飲みして憂さを晴らそうとしていた。最近はそんなことばかりの連続だ。酒を浴びるように飲んで忘れようとする。でも、恋人を失ったことを忘れることはできない。
「俺の恋人が事故で死んだんだ。生き返らせてほしい……なんてねがいはだめだよな?」
冗談半分、本気半分だった。
「はい、可能ですよ」
店主は明るい笑顔で、可能だと言い出す。死んだ人間を生き返ら得せるなんて神様でも難しいはずだ。もしかしたら、この男、神様なのかもしれないぞ。俺は都合のいいように解釈した。
俺は、飲むことを辞めてその話に食いついた。元々慎重な人間だからそういった話にはあまり食いつく方ではないが、どうしてもこれを逃してはいけないような気がした。万が一のチャンスがあるのならば、試してみたい。その一心でその男を俺はいつのまにか頼っていた。誰だって大切な人を取り戻したいと思うだろう。俺だってそうだ。また彼女と笑って話がしたいんだ。大切な人のために俺は犠牲になっても構わない。勇者か選ばれた英雄にでもなった気分になっていた。それくらいその時の俺は、心が高揚していたということだ。ビールのアルコールが気持ちに拍車をかけていたのかどうかはわからないが。
「死んだ人間が生き返るのか?」
俺は確認をする。そんな都合のいいことなどあるはずもないのに。科学的に無理なことはわかっているはずなのに、人間というものは往生際が悪いとでも言おうか。
「生き返りますが、生き返った人間には《《一部記憶がありません》》。だから、生き返った彼女は生前と少し性格は違うし、死んだという事実がなくなり、今の世界が少し変わってしまいます。それでもいいですか?」
「代償とかあるんだろ? お金がかかるとか、不幸になるとか」
店主は丁寧な口調で説明をしてくれた。それは俺に安心感を抱かせるというという点で効果があった。優しい丁寧な口調は凝り固まった警戒心をほどかせる。
「あえていうならば、《《一度かなえたねがいを撤回することはできません》》」
「それだけか?」
俺は食いつき気味になって質問と確認をした。
「幸せになるという保証もできませんが」
店主は少し真面目な表情で俺を見た。
「お願いだ、彼女を生き返らせてくれないか? 結婚の約束もしていたんだ」
「いいですよ」
意外と簡単に生き返るようで、俺はほっとしていた。契約は口頭で簡単なものだった。うまい話には裏があると言うが、それでもいい。もう一度、大好きな彼女に一目だけでも会いたい、その一心だった。俺の目の前で生きている、話している、笑っている。そんな当たり前を取り戻したい。死んだという事実をなくせばいいのだ。そうだ、俺は自分に対して、都合のいいようにしか考えられなくなっていた。
少しの沈黙の後、店主はなにやら砂時計のような形のものを取り出した。
「この砂が全部落ちたら生き返っていますよ」
「そうなんですか?」
俺は半信半疑だった。魔法ならば、ステッキを振って呪文を唱えるとか、もっとわかりやすいアクションがありそうなのだが、あまりに地味な方法で、意外な気持ちになった。やっぱりだまされたのだろうか?
「あなたの自宅に彼女がいます。さあ、帰宅してください」
「これはお代だ」
ビールを残したまま俺はビール代に少し足した金額を支払った。ねがいをかなえてくれたのならば、その代金を少しでもお礼がしたかったのだ。本当かどうかもわからないのに。
そのまま急いで近くにある自宅に戻った。早く彼女に会いたい。そこには、男が言う通り恋人である彼女がいた。死んだはずの彼女は無傷で俺の部屋にいつも通りに座っていた。
俺は夢にまで見た感動の再会を果たす。きっと、俺たちは感動の再会を果たす。これから、ずっと一緒にいようと約束した仲なのだ。会えなかった日にちがあった分、愛が深まっているはずだ。少なくとも俺の中の愛は以前よりも熱く深い愛に変化していた。薄っぺらい好きという気持ちではない、もっと地底のマグマのような深くて熱い気持ちになっている。はやくこの手でマキを抱きしめたい。
「おかえり、マキ」
俺は、会いたかった愛しい愛しい彼女にかけよった。
「あなたは誰?」
「俺のことがわからないのか?」
「わからない」
そうか、一部記憶がないというのは俺の記憶がないのか。
「俺はおまえの彼氏で婚約者の山上だ」
丁寧に説明する。
「ヤマガミ?」
彼女は一瞬固まった様子で、俺の名前を初めて聞いたかのような呼び方をした。
「お前は記憶喪失になっているんだよ」
説明すればきっとわかってくれるはずだ。
「記憶はちゃんとあるけど、ここ、どこかわからなくって」
「お前は事故にあったのだけど、生き返らせてくれた人がいるんだ。その人が君から一部の記憶を奪ったんだ」
俺は彼女の肩をつかんで、揺さぶる。彼女の目を覚まさせたい。きっと目覚めるはずだ。いつだって愛する人の想いの力で愛は生まれるのだから。愛のキスで姫が目を覚ますようなそんなことはよくある話だ。ここまで来たのだから、彼女を取り戻さなければいけない。
「何を言っているの? あなたは、もしかして、誘拐犯や犯罪者なの?」
彼女の目は警戒に満ち溢れていた。かつて俺を優しいまなざしで見てくれた彼女の瞳とは別人のようだった。今の世界が変わったのか? まさか店主が言っていた幸せになれるとは限らない、これなのだろうか。
「違うよ。俺はちゃんと会社員として働いているし、本当に恋人だったんだ。証拠となる俺たちの写真を見るか?」
俺は、机の引き出しをあけて、写真を取り出した。2人で撮った写真はいくらでもあるはずだった―――のに、1枚も見当たらない。どういうことだ? 俺は焦る。
今が全て変わってしまったのか? マキが死んだという事実も、交際していた事実もすべて変わってしまったのか? あの店主が言っていたことは、こういうことだったのか? 俺の記憶がない彼女が生き返るという可能性を示唆していたのだろうか。罠だったのだろうか? 無料で慈善事業をするはずもないし、俺を陥れて後から金をとって記憶を戻すとかそういったことだろうか?
「俺たちは愛し合い、結婚の約束をしていた。マキ、もう一度やり直そう。俺はマキともう一度、1から恋愛をしたいと思っている。少しずつ好きになってほしい」
俺は再び渾身のプロポーズをした。誠意を込めて、心から愛するという覚悟を固めていた。
しかし――
「何を言っているの? 私、既に結婚しているんですけど」
彼女の瞳は冷めていた。それはもう、俺の所には戻ってこないであろう冷たい瞳だった。
「なんだよそれ? 相手の男はどんなやつだ?」
俺が近づくと、マキが驚き、大きな声を出す。
「警察呼びますよ。とにかく、もう付きまとわないでください」
そう言って、出ていってしまった。俺はもう、この事実をどうすることもできずにいた。これ以上付きまとったらストーカーだとか不審者として訴えられたり、警察に通報されるだろう。
俺は彼女の実家に連絡をしてみたのだが、俺のことは実家の両親も覚えておらず、警戒されるばかりだった。
仕方なく、探偵を使って、結婚をしているのかという事実を確認するべく調査をした。すると、彼女は最近入籍したという事実が確認された。相手の男と彼女が愛し合いながら寄り添う姿やほほえましく並んで歩いている姿の写真を探偵が持ってきた。相手の男というのが、居酒屋にいたあの優男だったのだ。俺はあの男に騙されたのだろうか? 彼女を略奪されてしまったのだろうか? あの男はマキを奪うために蘇らせたのかもしれないし、蘇った彼女を気に入ったから、俺の記憶をマキから奪ったのかもしれない。俺は、彼女の生と引き換えにあの男に彼女をあげてしまったということだろうか?
何が正しくて何が正しくないのか、もうわからなくなっていた。人間不信もいいところだ。
しかし、いくら調べてもそれ以上の情報は出てこなかった。探偵によると、あれ以来彼女とあの男の行方がつかめなかったそうだ。住居も店も調べても全くわからない、お手上げ状態らしい。そんなことはないだろうと他の興信所を使っても、結果は同じだった。
もしかしたら、あの不思議な居酒屋で夫婦として幸せになっているのかもしれない。俺には本当の真実はわからないままだった。彼女が死んでしまった時点で彼女とは別れていたのだろう。無理やり生き返らせても、復縁することはなかったのだ。
彼女は生き返ってはいなかったのかもしれない。なぜならばあの男が生きている人間かどうかなんて俺には判断もつかないからだ。死んだ者同士仲良くやっているのかもしれない。俺は彼女の幻を見ただけなのかもしれない。
その後も、俺は「ねがいや」という居酒屋を探すべく、毎日街をさまよったのだが、どうやっても見つかることもなく二度とあの店に行くことはできなかった。
もちろん、部屋のどこを探しても、写真のデータを確認しても、彼女の写真一枚見つかることはなかった。なぜなのかはわからないのだが、俺がマキと恋人であり婚約していたという事実は消滅させられたのだ。
今、俺はしがない独身男だ。恋人を事故で亡くしたという事実はなくなった。俺の記憶の中の彼女はこの世界のどこにもいない。俺の妄想だったのか虚言だったのかも今となってはもうわからないし、どうでもいい。だって、俺に彼女はいなかったことになってしまったのだから。
彼女と同じ姿をした彼女が生きているならば、俺はうれしい。今でも彼女を愛している。だから、マキには幸せになってほしい。そう言い聞かせながら、今日も酒を浴びるように飲んでいる。
あれ? 彼女を事故で亡くした時と結局何も変わっていないよな。
毎日酒をたくさん飲んで、彼女を失った悲しみを忘れようとしているのだから。