♢【漬物】塩男(シオダン)のプロポーズ


 死神家業の前に、エイトは漫画家だ。しかし、企業秘密だとかで、残念ながら一度も部屋に入れてもらったことはない。エイトの仕事部屋は関係者以外立ち入り禁止で、私は入ってはいけないと言われている。漫画のまだ出来上がっていない原稿などは関係者以外に見られるとまずいということだ。それくらいは、理解はしているが、本当はどんな話なのか1番に見たい、そう思っていた。でも、エイトは仕事となると鬼のように厳しくて、頑固者だ。立ち入り禁止の部屋は聖域のようにも思う。私が入ることができない場所だ。

「エイト、漬物の素ってないの?」

 エイトが仕事場から出てきたタイミングで聞いてみた。私は常日頃、忙しくしているようにしていた。それは、悲しみを忘れてしまえるように、私なりの作戦だ。そうでもしないと、おかあさんを亡くしたさびしさで涙が止まらなくなる。

「漬物の素は買わない主義だからな。中途半端に使って冷蔵庫に入れていると忘れて賞味期限が切れるっていうのがあるあるなんだよな」

「じゃあ買ってくるよ」

「待ってろよ。塩と砂糖があれば、漬物って1晩あれば浸かるんだぞ」

「そうなの?」

 私は家事男子《カジダン》の発言に少し驚いた。

「塩を2、砂糖を1の割合でここにあるキュウリをビニール袋に入れてつけて冷蔵庫に入れておくとあっという間に出来上がりだ。ちなみに砂糖には保存する力があるんだぞ。わざわざ、漬物の素なんぞ買う必要ねーよ」

 私はエイトの魔法を使うかのような漬物技術に見入ってしまった。彼の漬物の揉み方は実に鮮やかだった。女性の胸を揉むかのように優しく揉んでいく。という表現はいささか不適切だっただろうか。

「塩って最強なんだよ。緑の野菜をゆでるときに1さじ入れるときれいな緑色になるし、トウモロコシを蒸すときも、塩をすりこんで蒸すと甘さが引き立つんだよな」

「本当にエイトって雑学王、家事男子だよね」

「おう、俺のことはこれから雑学王とでもカジダンとでも呼んでくれ」

 得意げに腰に両手を当てながら話す、エイトのことがおかしくもほほえましくて、つい笑ってしまった。もしかしたら彼なりに気を遣ってくれているのかもしれない。

「塩にはさ、清める力もあるだろ。葬式の後に塩をまいたりするけどさ。俺がおまえを清めるから安心しろ。俺は塩男《シオダン》だ。おいしい漬物をつける主力戦隊長だ」

「なによそれ?」

 意味不明な言動だが、どこか優しくて、私はエイトという塩を頼りに生きているのだと痛感した。未成年の高校生には塩対応に見えて実は砂糖のごとく優しい雑学王が必要なんだ。高校を卒業したらちゃんと独立しよう。それまでの1年程度の家族だ。

「塩について使えること、自主勉強で調べてみようかな」

「塩はマジで使えるぞ。俺も使える男だがな」

「何を威張ってるのよ」

 いつも偉そうにドヤ顔のエイトのことを私は笑いながらからかってみる。このまま漫画家から家事料理研究家にでもなろうと思っているのかな? 家事漫画でも料理漫画でも書いたら大ヒットしそうな勢いだ。それくらい彼の漫画は売れていたし、飛ぶ鳥を落とすくらいの勢いがあった。

 エイトは本当に不思議な人だ。見た目はカップラーメンばかり食べていそうだし、金持ちならば、生活の知恵とかいらないだろうし。買えば済むのに、あるもので済ますという主婦の知恵のような男がとっても意外性にあふれているように思えた。いい意味で物を大切にする節約主婦みたいな人。こんなに豪華な建物に住んでいて、収入もあるのにアンバランスで、不思議な人だ

「エイトってサイコさんとか恋愛対象には思っていないの?」

「ないなぁ。あいつは彼氏次々と変わるタイプだし」

 サイコさんってエイトのこと結構好きだと思うんだけどな。気づいていないのかな?

「愛沢さんは?」

「だって、仲間だろ」

「仲間だったら恋愛感情が芽生えないってこと? じゃあ編集だったお母さんは仲間じゃなかったの?」

「好きになるというのは、急になるもんだろ。仲間だから恋愛感情を持たないかどうかは俺の感情次第なんだよな。俺にも予測不能っていうのかな、おまえはそういった経験ないのか?」

 私は核心に迫る。

「私は、好きな人もいないけど。いつ、お母さんを好きになったの?」

 少し間をおいて、エイトは丁寧に説明を始めた。それは、保護者として当たり前の仕事だというかのように。

「体調が悪い中、俺が締め切り前でテンパっていたとき、おいしいおじやを作ってくれたんだよな。それで、結婚しようと思った」

「はぁ? 何それ? それで結婚したいなんて普通思わないでしょ」

「普通なんてくそくらえだ。俺はその瞬間好きだと思ったから結婚したいと思ったんだ」

「エイトの思考回路、おかしいんじゃない?」

「でもさ、惚れたっていう瞬間だったんだよ。まぁ俺の場合おふくろを高校の時に亡くしていて、その亡くなった母が作ってくれた味だったんだよな。美佐子さんの味に運命感じたみたいな」

「なにそれ?」

 目の前の成人した男が運命を語る姿が少しおかしくもあった。

「俺は、単純で計算なしで生きているからさ。単細胞だから、即結婚ってなったのかもしれないな」

 お母さんはこの人の胃袋をつかんだのかもしれない。直感で結婚するって本当に後先考えていない人なのかもしれない。お母さんもチャレンジャーだなぁ。

「その時から、美佐子さんに対して特別な感情を抱いていたから、それからすぐ、二人だけの時に、この部屋でプロポーズした」

「お母さんはなんて?」

「私、子供いるし、未亡人だよって彼女は言ったんだ。俺は、だから何? そんなの関係ないって言ってやった」

 そんな素敵な思い切りのあるプロポーズをされたお母さんは女性として幸せだったのではないだろうか。

「少し考えさせてって言われたから、きっと断られると思ったんだよ。俺の誕生日がそのあとにあったんだけど、誕生日に彼女は婚姻届けを持ってきたんだ」

 まさかの婚姻届け。サプライズの誕生日プレゼントだったらしい。

「おかあさんが?」

「婚姻届けにサインとハンコも押してあって、いつでも出していいよって」

 意外だ。お母さんは慎重なタイプだったと思っていたのだが。

「でも、私に相談なかったよ」

「もちろん、おまえに会ってから入籍しようと思って、俺はこの紙を持っていたけど、結局会う前に美佐子さんが事故に遭って……」

 今に至るのか。なんだか、不思議な話だ。まるで、私がこの人と同居するかのようにうまく《《運命に誘導されてしまったような》》感じがする。

「お母さんとデートしたりしたの?」

「俺、仕事がめちゃくちゃ忙しくて、ちゃんとしたデートもしていない」

 デートもなしに、結婚? でも、キスくらいはしたのかな? でもアシスタントがいたら、そんなことしている時間はないかな。それに、お母さんが外泊したことはないし、そこまでの関係にはなっていないのかな。気になったが、さすがにそれ以上聞くことはできず。聞いたとしても、その事実を受け止める器を今の私は持ち合わせていなかったので、聞くことはできなかった。エイトとお母さんが男と女の関係だということは思春期の娘にはきつい事実だ。だから、世の中、知らないことがあったほうがいいのかもしれないと思った瞬間だった。