「頼むからそんなに怯えないでくれ。それとも俺が怖いか?」

 硬いアスファルトの上で正座をしていた淳に対して、手を差し伸べてくれる泉澄。この手を掴んで良いのかわからず少しだけ躊躇してしまう。
 しかし、差し伸べてくれる手を受け入れないと、泉澄にというより、この世の全てを手に入れられる力を持つ白鬼のあやかしに対して、自分なんかが拒否をする権利が無いのは十も承知だ。

 細く長い指が見える掌に淳の手を、恐怖で指が震えないよう慎重に軽く触れる。


 ビリっっっ!!
 まるで全身に、細く鋭い雷が走ったかのような痛みのある衝撃。

「うっ……!!」
「大丈夫か!?」

 軽く触れただけでわかる、白鬼の伝説と呼ばれる驚異的な力が指先だけでも伝わってくる。

 凄い……これが白鬼のあやかしなの?何と言っていいかわからない、言葉が本当に見つからない。泉澄が心配そうにもう一度同じ言葉を繰り返す。

「……すまない、大丈夫か?」
「……いえ、平気です」
「いや、本当にすまない。普段はこんなに力が溢れることは滅多に無いんだ。本物のお前を見てから、胸の底から湧き出る感情が抑えきれない。こんなに制御出来ないのは初めてだ」

 少し落ち着かせるからと泉澄が話し、目を瞑りながら長い深呼吸をしたかと思えば、何だかさっきよりも空気が柔らかくなったのを淳は感じた。そしてもう一度、泉澄は淳に手を差し伸べる。

 大きな掌に恐る恐る乗せると、感じるのは暖かい体温だけ。

 痛みが無いとわかってホッとする淳を見て、力を抑え危害が無いとわかっていても同じくホッとする泉澄。
 そして小さな淳の手を握ってゆっくりと立たせ、彼女の姿をマジマジと見ていく。栄養が届いていない髪質に、首元がよれた半袖には消えない染みがついており、怯えたその姿は正直に言えばみすぼらしい。しかし、そんな彼女を見てもマイナスの感情は一つも沸き出てこない。むしろ、その姿でも愛しさで溢れそうになるのをグッと堪える。何故なら高まる感情で力が暴走しないようにだ。

「泉澄様、本当にお時間がありません。まして宝生様との縁切りの大事な話を、電話一本で済ますものでもありません。今日の所はここまでに」
「はぁぁ……」

 声まで聞こえた泉澄の納得のいかない不満のため息。声をかけた男性はそんな泉澄の性格をわかっているのか、慣れたかのように落ち着いて見える。

「突然ですまなかった。今日の所は引き上げるが、せめて自宅までは送らせて貰えないか?」
「そ、それは」
「そんな顔色の悪い未来の妻を、ここで見捨てる薄情な男に見えるか?」

 淳の身体を考えればまだまだ遠い自宅までの道のりを送ってもらう方が彼女の負担は少ないだろう。光沢がある、傷一つも無い白い高級車に乗ることも戸惑う理由の一つだが、過疎地域に住み、ボロボロのアパートを知られることが堪らなく嫌な淳。自宅を知られることも、心が壊れた母親の存在がいることも、何もかも知られたくない。

 淳と母親は隠れるように日陰で生きてきたのだから。

「……申し訳ありません。どうかここで……私の事は忘れて下さい」


 無礼な発言などはわかってる。下手したら泉澄の癪に障って殺されるのも覚悟した。


 だって私……遅かれ早かれ命が尽きるのだから


  一番驚いていたのは泉澄では無く、もう一人の男性だった。そして淳の発言は彼の怒りに触れたのか、ギリギリと歯を食いしばりながら泉澄を押し退けて彼女の前に立つ。

「黙って聞いていればさっきから……。泉澄様の前で幾度無礼な態度をしたのかわかっているのか」

 怒りで声が震えているのはわかる。彼もまた、何処か位の高いあやかしなのだろう。長身で黒髪の男性から殺意が感じられる程の力を感じた。

 しかし淳には激昂した相手を見るのは慣れている。恐怖を感じないわけではないが、幼少期から経験したこの場面は、産まれ持った自分のあやかしの特性なのだからどうすることも出来ない。
 相手を嫌悪感、そして覚えのない憎悪を抱かれることが、夜蜘蛛の不運な運命なのだから。

「…………」
「何とか言え!この夜蜘蛛がっ!」


 ドーーン!!!
 それは一瞬の出来事だった。詰め寄られた淳の目の前に、大きな何かの音が鳴り響いて瞬き一つ、そこには身体から煙を出し、痙攣をして白目を向いている男性が倒れていた。

「……チッ。無意識に心臓を守りやがって。これだから治癒の異能を持つ奴は」
「あ……あ……」

 この現状を理解出来るのにはさほど時間はかからなかった。泉澄の力が、詰め寄った男性の頭上から雷を落としたのだ。

「安心しろ、生きている。泰生(たいせい)は……コイツは殺しても死なん。まぁ、お前に暴言を吐いた罪は重いけどな」
「…………」
「本当にすまない。何度謝っても償いきれない。こちら側も動揺が隠しきれないんだ。次は改めて詫びをさせてもらう」

 白鬼のあやかしが、夜蜘蛛のあやかしの為に申し訳なさそうに深々と頭を下げる。これだけでも世界的ニュースになりかねない事態だ。

「これ以上拒否をされると、流石の俺も枕を濡らしながら眠れない夜を過ごしそうだから、今日はここまでにするよ。今更だが」
「……はい」

 今度は何を言われるのだろうと不安になりながら返事をすると、拍子抜けする質問に淳は目を丸くする。

「名前を教えてくれないか?」
「……え、名前?」
「例えが思い付かないほどお前に心を奪われているのに、名前を知らないなんて可笑しな話だよな」

 名前くらいなら
 断る理由も無い質問に、素直に答える淳。

「細蟹……淳です」
「淳か!響きも心地良く、まっすぐで素晴らしい名前だ」

 名前を伝えただけのに、この短い時間で一番の笑顔を淳に向ける。自分の名前の由来など聞いたことがない。母親が名付けたのか、記憶がほとんど無い父親が名付けたのか、淳は全く知らない。物心ついた時から自分は「淳」であり、その名前を呼ばれることは母親以外聞いたことがない。

 素晴らしい名前だ

 産まれて初めて自分の事を褒められたかもしれない淳にとって、自分の名前が誇らしく思えた。


 もしかしたら、私にとって最初で最後の「淳」で良かったと喜びを噛み締める日かもしれない。
 私には……嬉しさと哀しみを感じる日々は残されてないのだから。

「泰生起きろ、行くぞ」
「う……は、はい……」

 泉澄が気を失っていた男性に一声かけると、先ほどあんな強力な力を食らったにも関わらずフラフラになりながら起き上がり、泉澄が乗るタイミングで車のドアを開放させる。後部座席に座った泉澄が窓を開け、何かを淳に渡そうと手を伸ばす。

「淳、何かあったらここに電話してくれ」

 手を伸ばされ、反射的に受け取ったそれは、ピンクパールの色をした厚みのある上質の紙の名刺。泉澄のフルネームが漢字とローマ字で記載され、そして何処かの住所と電話番号が書かれていた。

「お前の匂いは覚えた。また必ず会いに来るから」
「え……あの」

 淳が返事をしようとした瞬間、泉澄を乗せた白の高級車は何処かに走り去って行った。

 なんだか実感の湧かない時間だったが、アスファルトの歩道がある箇所だけ黒く焦げつき、硬い筈のコンクリートの部分が少し欠けていたのを見て、やっぱり夢では無かったのだと淳は自分を落ち着かせようと、大きな息を吐く。