「はい、えーと細蟹さんね。うん、蠱毒虫(こどくむし)だね。もう全身に感染してるし、助からないね」

 先ほど見た白髪(はくはつ)ヘアのお婆さんと同じく長い白髪を後ろで結んだ端整な顔立ちの男性医師が、封筒に入っていたカルテとレントゲン写真を見て軽薄に話す。どうやらこの医師もあやかしのようだ。

「助からない?こどくむし?」
「うん、助からないよ。あやかし特有の治らない病魔。人間で言ったら癌みたいなものかな?細蟹さん、下半身にこれだけ蠱毒虫くっついてたらそりゃ歩けないって。レントゲンに写ってる画像まーっくろ」

 聞いたこともない病名に、少し笑いながら話す医師のせいで助からないというワードがイマイチ実感が湧かない。

「先生……ど、どうしたら?」
「どうしたらって言われてもこれだけいたら手術も出来ないし、残り少ない余生を楽しんでとしか」
「私の命……残り少ないんですか?」

 何を言ってるの?みたいな顔をされ、そしてまた鼻で笑われる。

「持って一ヶ月も無いんじゃない?良かったじゃない。夜蜘蛛の立場で辛い思いしてたんでしょ?」
「そ、それは……」
「あ!でも痛みが無いって聞いたこと無いんだよなぁ。夜蜘蛛の特性なのかな?ねぇねぇ、細蟹さんの細胞研究に使いたいからその命終わったら使っても良い?」



 目の前が真っ暗とはこういう事を言うのだろうか。
 助からない病魔に、余命宣告までされてしまった。

 ただ下半身に違和感があっただけなのに。突然身体が重くなってしまうだけなのに。そしてその身体は時間が経てば、元に戻るのに。

「……私、死ぬんですね」
「まぁタチの悪い呪いみたいなものだからね。運が悪かったとしか」


 夜蜘蛛として産まれた時から、自分の運命を恨みたくなかった。「運」という言葉で私の人生が左右されていたなんて思いたくなかったが、結局私は皆から望み通りに命を絶つべき存在だったんだ。


 お母さん、良かったね

 私、お母さんがいつも言っていた言葉通りになるみたい。これで親孝行になるのかな……お母さん……


「蠱毒虫を死滅することは不可能だけど、動きを少しだけ停止する薬は処方しとくよ。発作みたいに突然身体が動かなくなる回数は減るかもね。ま、どっちみち心臓も沢山喰われてるだろうから、余命自体は最長一ヶ月と頭に入れといて」
「……ありがとうございました」

 何のお礼かわからないが、悪意があるように見えない話し方に、つい頭を下げてしまった。

「ねぇ!ちゃんと検体させてね!待ってるからね!」

 拍子抜けする医師の最後の言葉に、死ぬのを心待ちする病院なんて聞いたことが無いが、同じくこの病魔で苦しんでいる人達が私なんかの遺体解剖で、少しでも医学が進歩したら。

 そう思うと死ぬ恐怖は少しだけ和らぐかな。今はまだ、信じられない気持ちでいっぱいで、人前でも憚らず(はばか)大声で泣き叫びたいけど、こんな私でも誰かの役に立てるなら。

 誰からにも必要とされない人生を歩んで来たのだから。生きても良い理由が欲しくて頑張ってきた生活も、無意味なことだと知ってしまったから。



 私、もう死ぬんだ、そっか



 受け取った処方薬は何種類あるのか数え切れない量。痛みが無いなら飲んでも飲まなくても良いか。私はもう、発作が来てそのまま心臓が止まった方が世のためだから。
 バスに乗って自宅に帰る。車内は病院帰りの人がチラホラ乗車していたが、比較的少なく余裕で窓際の席に座り、揺られながら外の景色をぼんやりと眺めていると、


 ──ポタ

 無意識に涙が溢れていた。

 余命宣告をされて、泣かないわけないよね。綺麗事並べても、本音は死にたくないよ、当たり前だよね。
 だから、泣いていいよね。

 ──いいよね。



 幼い頃、泣いたら色々な大人達に怒られてきた淳。うるさいと叱られ、邪魔だどっか行けと思いやりの無い言葉を何度も浴びせられてきたお陰で、自分が人前で泣くことは許されないと知ったあの日。

 泣いても誰も守ってくれない。
 泣いても誰も抱き締めてくれない。

 世間から淳に向けた鋭く尖った言葉の刃で心も身体もズタズタになり、どんな薬を使ってもどんな治療をしても決して治ることは無いだろう。
 生きているだけで罪と言われた淳は、それでも希望は捨てず、泣く事を我慢しながらもいつか誰かに愛される事を健気に信じて生きてきた。

 だけどそれはもう無駄な願い。叶わない希望と現実を突きつけられた。

 止まらない涙を流す淳に対して近くに座っていた乗客が、わざわざ振り向きながら無慈悲な言葉で深い哀しみを背負った淳に、更に追い討ちをかける。

「気持ち悪いな、吐き気がする。さっさと降りろよ」

 その言葉に、乗っていた乗客が全員淳の姿を見ては同じ感情、同じ表情を浮かべ、何も悪いことをしていないのに居心地が悪くなる。

 悲しむことすら許されない。何処にも居場所が無い。

 いてもたってもいられず、目的地からは程遠いバス停で逃げるように下車をして、まだまだ先の長い家路を歩いて帰ることにした。医師が「発作」と呼んでいた、身体が動かなくなる状態になっても困るので処方された薬を持参していた水で流し込む。

「……うわ、苦い」

 何種類もある錠剤の味は苦味が強く、今まで飲んだことのない味で何度も水を流し込むが、口の中の不快感は消えるのに時間がかかるほどだった。
 でもこれで、数十分動かなくなる発作が来ないのであれば……ここから徒歩で一時間以上歩かなければいけない距離に淳は、薬を飲んだことで少し安堵した気持ちで一歩、また一歩と遠い道のりを進んでいく。

 歩きながら嫌でも考えてしまう。

 自分が生きられる日数、通っていた定時制の自主退学の連絡、バイト先。

 残される母親のこと

 どんなに罵声を浴びせられ、冷たくされ、愛情を注がれなかったとしても唯一の肉親、母親だけは嫌いになるなんて出来なかった。どんな事情であれ、自分を産んでくれたこと、いつでも手放すことが出来た筈なのに自分と離れなかったこと。「死ね」と心無い言葉を淳に向けても、料理を殆どしない母親が、一年に数回作ってくれる卵が入った味噌汁が大好きだった。

「おかわりしてもいい?」
「……勝手にしたら?食べたらさっさと洗い物してよね」

 薄れた記憶を歩きながら思い出し、母親のことを愛している自分がいた。

 寂しがってくれるかな。
 清々したって笑うかな。

 お母さん、一人でちゃんと生きていけるかな。お酒、止めてくれるかな。きっともう……誰からにも注意されなくなるから、身体を大切にして欲しいな。

「うっ……うぅぅ……」

 考えれば考える程、不安と絶望と寂しさと、色々な感情が混ざりあったものが胸に込み上げ、思わず足が止まってしゃがみこみ、止めどなく流れる涙を堪えることが出来なかった。

 両手で目を押さえ声を押し殺しても、溢れる涙は頬をつたってアスファルトを濡らしていく。



 そんな時だった。


 大きくて優しい何かが、フワっと淳の頭を包み込む。それはまるで、沢山の柔らかい羽のような軽さに暖かい温もり。そして、心安らぐ心地良い匂い。




「見つけた。やっと見つけた。俺の本物が」