ピピピピ……
 翌朝、昨日入れたままのバックに携帯のアラームが遠くで聞こえ、母親が起きないように床で寝ていた淳は、身体を慌てて起こそうとする。

 え?なん……で?

 身体に誰か乗っているんじゃないかと思うほどの倦怠感。頭痛も関節痛も無いし、熱も無さそうだ。とにかく身体全て、重力が何倍にもなってしまったかのように重く感じる。あまりの違和感に思考が停止してしまう。バックから聞こえるアラームが鳴り続け、とうとうその音に気付いた母親が切れてしまう。

「淳!うるさいっ!!」
「ご、ごめんなさい。でも、なん……か、私……身体が重くて動けない……」
「訳わかんないこと言ってないでさっさとアラーム止めて!!」

 自分でも思うのに母親が青筋を立てながら切れるのは当然だ。だけど説明した通り、身体が重くて動かない。
 這いずるようにバックに手を伸ばし、鳴り続けていた携帯のアラームをようやく止めて深呼吸をする。一メートルにも満たない距離に、肩から呼吸をするほど息が切れてしまった。


 どうなってるの?


 やっとの思いで仰向けになり染みだらけの天井を見つめて考える。痛みも無いし、苦しくもない。ただただ身体が重くて力が入らないのだ。このままじゃバイトにも行けない。学費や教材費は自分で稼がなきゃいけないのに。


「は?アンタ何してんの?邪魔なんだけど。さっさとバイト行きなよ」

 トイレに立った母親が仰向けで起き上がれない淳に向かってため息を吐きながら声をかけるが、何をどうしたら良いのか分からない。

「お、お母さん。私、私ね?何か身体が……変で……起き上がれない」
「まだ言ってんの?ふざけないでよ」

 
 トイレのドアを勢いよく閉められ、リビングの真ん中に一人残される。
 どうなってるの?何で急に?混乱する頭を落ち着かせた所で全く理解が出来ない。携帯を持ってトイレに入る母親は長時間出てこない。その間に自分が持てる最大の力で汗を大量にかきながら上半身をようやく起こすが、まるでマラソンを走ったかのような息切れに、一日分の体力を使ったような疲労感。

「ハァッ……ハァッ……」

 流れる額の汗が顎につたって服を染み込ませていく。このままじゃ歩くことさえ出来ない、そう思った瞬間、まるでさっきまで金縛りにあったような淳の身体の重みが急にフッと軽くなり、いつもの自分に戻った気がした。

「え……どういうこと?」

 両手で支えていた上半身は支えが無くても維持出来る。そして動かせなかった膝を曲げ、左右の手を握ったり開いたりしてみるが全く正常だ。それが確かだったのか、確認した彼女の両手の掌はじんわりと湿っており、気付けば着ていた衣類も汗で濡れていた。

 何もかも意味が分からない。一体私の身体に何が起きてるの?動かせなかった手足をボーッと見つめながら、何度も動くことを確認する。

「動く……よね」

 ひとまず顔を洗い、バイトに行く準備を始めるがバイト中にさっきの状態になったらどうしようと不安になる。ただでさえバイト先から夜蜘蛛という立場で良く思われていない淳が、仕事中にあんな事になったとしたら一発でクビになりかねない。
 遅刻も欠席もしないように働いて来た。熱が出ていても一度も休んだ事は無い。何故なら過去に、一度休んだだけで他のバイト先から解雇を言い渡された事があるからだ。
 母親も昔仕事をしていたが、突然降りかかるオムツも取れない幼児の淳の体調不良で欠席の連絡を入れた途端解雇にされた事がある。それも一度きりじゃない。一人じゃ何も出来ない無力な赤子の存在を放っておけない。しかし誰も助けてくれない。何もかもが敵になり、心が病んだ母親は家に閉じ籠ってしまった。そして憎しみの矛先は娘の自分。それに関しては仕方ないと思える過去話。

 私達の存在はこんなにも安い。
 簡単に切り捨てられるただの駒。代わりはいくらでもいる。自分の立場の弱さを分かっているから抵抗も出来ない。いや、抵抗する考えすら浮かばないと言った方が正しいのかもしれない。
 トイレから出てきた母親がバイトに行く準備をしている淳を見て、やっぱり仮病だったんだと苛立ちを大きくさせた。

「早く行ってよ。アンタのせいで変な時間に起こされたんだから」
「……ごめんなさい」

 謝罪の言葉は淳も母親も、もはや空気のような感覚だ。世間に謝り過ぎて「ごめんなさい」の価値がもはや分からなくなり、彼女達が発する言葉は謝罪の言葉以外受け入れられない。

 体調の不安を隠せないまま淳は早めにアパートを後にする。

「徒歩で行けるバイト先で良かった」

 いつもよりゆっくりと慎重に歩いてみるが特に違和感は無い。
 長いガードレールがつづく歩道を歩いていると、あちこちに植えてある沢山の樹木が多いこの地区では鮮やかな紅葉が色づき、秋の色なき風が肌を通り抜ける。少し離れた場所に新興住宅が建設されてから彼女らの住んでる地区からどんどん人が離れ、気付けば「過疎地域」になってしまったが淳と母親は、住民が減ったことで少し安堵していた。

 ただ、平穏で静かに暮らしたいだけなのに。世間は彼女達が幸せになることを許してくれない。

 ため息一つ溢れた瞬間

 またしても朝の時と同じく下半身が突然重くなり、ガクッと膝から崩れるように座り込む。咄嗟にガードレールを掴んだ為派手に転倒しなくて良かった。……が、今度は動かないのは下半身のみ。朝と同じ症状、冷静に考えると、重いと言うより力が全く入らない感覚。そしてやはり痛みは無い。

「……どうしたらいいの」

 座り込む淳の姿を見ても夜蜘蛛だと気付くと通りすぎる通行人。邪魔だと自転車のベルをわざとに沢山鳴らす人もいた。
 朝の時間は十五分程度で元に戻ったが、今は三十分が経過してもアスファルトの地面にロープで縛られたかのように動く気配が無い。上半身は正常らしくこのままだとバイトに遅れる為、覚悟を決めてバイト先に電話をする。

 ……怒られるかなぁ
 ……クビになるかなぁ

 そんな事を思いながらバイト先に連絡をする。

「お電話ありがとうございます。クリーン清掃ポプラでございます」
「あ、おはようございます……細蟹ですが」
「え?細蟹?何?」

 会社に電話をかけると佐々木主任が電話対応をしていたらしく、営業用の声のトーンから、いつも淳に接している態度のオーラを出し、緊張しながらも今日休む事を伝える。

「……連絡が遅くて大変申し訳ないのですが、今日……お休みを頂いても宜しいでしょうか」
「は?細蟹、今日元々休みじゃん。パートさんに伝言頼んで貰ったんだけど」
「え?いや、き、聞いてません」
「細蟹この前、山田さんの代勤出てるから今日休んでいいよってパートさんに伝言頼んでたの!何回も言わせないで!はい今日はお休みっ!お疲れさん!」

 ガチャっと勢い良く切られたのか、乱暴な雑音が聞こえて終わる。
 とりあえず良かった……安心したのかフーッと肩の力が抜けた気がした。

 ただこれで悩み事が解決した訳ではない。淳の身体に異変が起きているのは確かであり、下半身は未だに力が入らない。

「病院……行った方が良いのかな」

 健康保険証は一応財布に入れてあるし、昨日は給料日だったので支払いのお金も何とか出来る。そう思った瞬間にフッと身体が軽くなり、またしても正常に戻る。

「もう、何なの」

 自分の身体の事なのに全く意味が分からず少しイライラしてしまう。どうせ何とも無いだろうけど……浅はかな思いを抱え、自宅に近い整形外科を受診することにした。