泉澄の亡骸を見ながらある会話を思い出し、記憶が頭に駆け巡った。



「来年の春には二人で桜を見たいな」
「……来年ですか」
「夏は花火を見たいし、秋は紅葉だ。冬になったら雪だるまを作ろう。それも特大のを」

 淳は泉澄の放つ未来の言葉に思わず下を向く。

 来年とか……私は来月すら生きていないのかもしれないのに

「……淳。思うことはあるだろうが、言わないと叶わない。夜蜘蛛が言霊でこの世に誕生したのなら、幸せになれる言霊だってあるものだ」
「……そうでしょうか」
「悲観的になるな。それとも俺の希望を否定するのか?」

 怒ったような拗ねたような、そんな表情をしている泉澄は来年の予定を本気で話していたのだろう。

「隣に淳と肩を並べ、四季折々の季節の移り目を二人で見られたら、他に何も要らないな」
「泰生さんもトモヨさんもご一緒してもいいですか?」
「完全に邪魔者だな」
「怒られますよ」

 泉澄が淳の肩に優しく手を置き、二人を邪魔する者がいてもそれで淳が楽しそうに笑うならそれでもいいかと、泉澄は屋敷の縁側に座りながら日が沈む夕陽を淳といつまでも眺めていた。

「……泉澄様、あの約束を果たしてまさんよ。大きな雪だるま……私作ったこと無いですよ……このままだと、泉澄様は嘘つきになっちゃいますよ」

 泉澄の柔らかいアッシュと黒髪が入り交じった髪の毛を撫で、いつまでもいつまでも二人で過ごした思い出を、返事が無い泉澄に語りかける。

 気付けば夜明けが近い。
 何時間、泉澄と過ごしていたのだろう。そろそろ屋敷に戻らないといけないのは分かっているが、そうなると永遠の別れになってしまう。

 離れたくない、いつまでもこうしていたい。

 泉澄様……

 泉澄様、泉澄様……

 何度名前を呼んでも返事が無い。記憶の中では名前を呼んだら私の顔を見て、優しく微笑んでくれた泉澄様は目を開けずに微笑んでくれない。


 言霊がこの世にあるのなら、幸せの言霊だってあるものだ


「泉澄様……目を開けて。美しい季節の風情をこれからも二人で見ましょう」

 口に出さなきゃ叶わない。だけど口に出しても叶わない願いと分かっていながらも、泉澄があの時言っていた言葉を思い浮かべながら願いを込めて口に出す。

 神社の境内に何百年と生えている太くて立派な御神木の(さかき)の葉が、サワサワと風に揺られて葉の擦れる音が聞こえた。

「……もう、時間かな」

 急かされた訳でも無いのに、何故か葉の音を聞いて淳はフーッと大きな溜め息を吐く。

 泉澄が話した、来年の春には二人で桜を見たいと話した言葉。頭の中で見たことがある白い色をした桜を思い浮かべ、その記憶を泉澄の亡骸に手向けた。

「白鬼ですものね。白い桜がお似合いですよ」

 動かない心臓の胸元に、白い桜の枝を想像で置く。そして最後に彼の亡骸を抱き締める。強く強く抱き締めていると、遠くで太陽の光が神社を照らした気がした。


 泉澄様……


 淳の涙が泉澄の白い袴を濡らし、その涙が浸透していく。
 浸透した涙は徐々に徐々に泉澄の心臓に近付いていく。




 それは暗闇の世界。右も左も真っ暗で、音も何も聞こえない無の空間。
 泉澄の魂はこの空間でいく宛もなく彷徨っていた。残酷な事に身体は無くても意識だけはハッキリしており、声も出せずに暗闇の中でたった一人ぼっち。
 人の魂は死を迎えると次に生まれ変わる輪廻転生を繰り返すのだが、その資格を奪われ、永遠に意識を持ちながら一人で暗闇を孤独に浮遊するだけ。
 自分が見たり聞いたりした地獄の世界は、過酷な労働や地獄の使者からの拷問を受け、あちらこちらから阿鼻叫喚の悲痛の叫びを想像していたが、想像とはかけ離れた世界。

 誰も居ない、声も出せない
 何も無い、何処にいても闇

 ほんの数分でも頭が狂いそうになるが自分が選んだ道。きっといつか自我も忘れ、発狂しながらも永遠に彷徨っているんだろうな。

 虹の龍が言っていた地獄はこれか。惨たらしいな……だが、意識があるのならば自我を失くすまでは淳を想うことも可能なのか。

 ──淳、お前の名前をいつまで呼べるかな



 泉澄の魂が黒以上の闇の空間で諦観しそうな時、それは突如訪れた。

 暗闇の頭上から見えたのは、まるで滴の形をした糸がゆっくりとぶら下がってきた。そしてその滴からは泉澄の魂目の前でピタリと止まる。

 なんだこれは……幻か?しかし何処か心暖まる気持ちが込み上げてくる。身体は無いが、その糸に吸い込まれるように泉澄の魂は滴に寄り添った。
 その糸には粘着性がある感覚。ピタリとくっついたと思った瞬間、今度はゆっくりと上昇していく。

 上空を見上げるとそこには雲の隙間から太陽の光が放射状に降り注いでいるのが遠くで見えた。

 ──この糸は、まさか


 暗闇に落とされた泉澄の魂に意識を持たせたのは虹の龍の気まぐれか、それとも必然だったのか。
 ピタリとくっついて離れない糸と共に、降り注いでいる光の中へと入っていく。

 光を浴びながら聞こえたある者の声


「泉澄様、目を開けて」

 愛しい者の声
 淳の声に導かれるように暗闇から、光へ。そしてその光からも抜け出すとそこには──

 白い桜を自分の胸元に手向ける淳の顔


「……淳?」
「……い、泉澄様……?」

 朝陽がゆっくりと顔を出し、紫やオレンジや白っぽい色をした空のグラデーションが辺りを包んでいた。

「え?桜も……な、なんで」

 季節的にあり得ない桜の枝。想像で泉澄に手向けたが、泉澄の胸元には本当に白い桜が咲いた枝が置かれていた。しかしそんな事はどうでもいい。何もかもどうでも良くなるくらいの状況が目の前で起きているのだ。

「……い、いず」

 開かない瞼が開き、自分の名前を呼んでゆっくりと身体を起こす泉澄を名前を最後まで呼ぶ前に無意識に強く抱き締める。さっきまで冷たかったその身体は暖かく、そして抱き締めながら確かに感じる泉澄の鼓動。

「淳の願いと……淳に授かった異能だ」

 泉澄は抱き締められた淳の姿を一目見て気付いた。一度死に、そして再び息を吹き替えした淳は「本物」の泉澄と出会えたことで、朝だけに使える朝蜘蛛の異能を天から授かっていた。

「朝蜘蛛」

 朝に見かける蜘蛛は吉兆や幸運の兆し。その迷信を沢山の人々が信じ、夜蜘蛛と同じく言霊で生まれた幸運のあやかし。
 昔の人々は古代信仰が根強い時代。自分や家族が害になるものを恐れ、そして排除する。迷信は良くも悪くも幸せになりたい強い願望で生まれた俗説ばかり。
 夜の蜘蛛は人々から嫌われ、朝の蜘蛛は幸せを運ぶ。同じ固体なのにその差は天と地の差であり、蜘蛛のあやかしはそんな人々の身勝手な迷信から生まれた悲しい種族なのかもしれない。
 しかしその迷信で朝蜘蛛の異能を授かり、それと共に強い言霊で淳が泉澄を助けたのは事実である。

「迷信も馬鹿に出来ないな」
「泉澄様!泉澄様!」

 心情に浸る泉澄を、喜びで泣き叫ぶ淳は泉澄を抱き締めて離さない。

「……淳、逢いたかった」

 そして泉澄もまた、淳の姿を力強く抱き締めた。

「淳、来年の春は二人で白い桜を見よう」
「はい」

 そう言った二人の間にあった桜の枝はサラサラと灰になり、まるで龍の姿のように螺旋を巻いて上空に飛んでいく。


 コレモ運命カ、ソレトモ己ノ強サカ

 誰にも聞こえない誰かの言葉は朝陽の中に消えていった。