今日の授業が終わる。時計を見たら二十一時を過ぎており、登校した生徒数は気付けば半分にも減っていた。訳ありが多い定時制。仕事や家の都合、心の病気で通う者もいると誰かが言っていたのを聞いたことがある。淳を蹴っ飛ばしたおばさんも、三時限目が始まる前には慌てて帰宅するのは時々ある光景だ。

 自分の肩かけバックに教科書を入れ急いで帰る支度をする。授業が終わった生徒達は各々行動し、教室に残って談笑する者、帰る準備をしている者。淳は一部電気の切れた廊下を早歩きで進み、自転車置場に向かう。
 当たり前だが辺りは暗く、建物が多いこの地域では夜空を見上げても星は見えない。外灯も少なく過去に傷害事件に巻き込まれた淳としては、自転車とはいえ自宅までの帰宅路に薄暗い路地裏や、何も見えないだだっ広い公園を横目に通るだけでも緊張が走る。

 ただでさえ自分は夜蜘蛛のあやかし。暗闇の世界は怖くなくても、夜に出くわす人々達をいかに避けて帰れるかが問題だ。そんな事を毎回考え、自転車の鍵を解除しようとすると声が聞こえてくる。


「うわ、まだいるよ」
「てかさ、夜蜘蛛って何でまだ生き残ってるわけ?絶滅しないの?」
「俺、夜蜘蛛の匂いってわかんないけどどんな匂い?」


 毎日毎日淳に罵声を浴びせ、淳が泣きそうな顔をする度に優越感に浸り、まるで悦に入ったかのような表情を浮かべる三人組。
 人間の男二人に、野狐(やこ)の女の子。野狐は力の強い狐のあやかしと一応同じ種族であるが、その力は似て非なるもの。
 そんな彼らに捕まっても何一つ良いことは無い。目線を外し、鍵を解除した自転車を押して歩こうとしたらわざと前方に立ち塞がれる。 


「ねぇ、夜蜘蛛さん。相変わらず汚い服を着てるけどその服綺麗にしてあげようか?」


 嫌な予感がした。

 慌てて自転車に乗って、ペダルを漕ごうとしたらやはり足が重い。それもさっきより確実に。
 ──逃げられない。

「やめ……っ!!」

 言いかけた瞬間、目の前で身体が焼け付くような熱風。人差し指と中指でお札を挟み、野狐が何かの呪文を唱えながら彼女に向けて青白い炎を向けてきた。

「きゃぁぁぁぁ!!!」

 辺り一面明るくなるほどの青白い炎に包まれる淳。自転車ごと地面に倒れ、熱くて息苦しくて、そして怖くて堪らない。

「おぉ!かん子すげぇ!」
「燃やせ燃やせ!!」

 暗い場所でまるで花火をしているかのようなノリの彼ら。青白い炎に包まれながら、四つん這いになって頭を伏せて身を守る。炎に包まれているのに髪の毛も服も何も燃えない。ただただ熱いだけ。肌が溶けてしまう程の痛みを感じるのに。
 薄くなっていく炎。アスファルトで丸くなっていた淳は恐怖で身体が震え、呼吸がまともに出来ずにいた。

「あれ?もう終わりか?かん子、コイツ燃えてねーぞ?」
「当たり前でしょ。狐だから化かすのが得意なの。ま、野狐だから私の力はこんなもんよ」
「ハッタリかよ、つまんねー」

 アハハと笑っている彼らは満足したのか、淳を放ってその場から去っていった。


 怖かった……殺されるかと思った
 あの痛みが幻影で良かったなんて到底思えない。

 泣かない、泣かない、泣かない
 出るな、涙。怪我なんてしてない大丈夫。震えるな身体。もう息が出来る、落ち着いて。

 落ち着いて私。大丈夫

 うずくまった身体をゆっくりと起こし、震える右手を同じく震える左手で押さえる。
 まるで悪夢のような数分の出来事だった。青白い炎はまやかしだと全く気付かなかったし、確かに感じた筈の痛みは傷一つもついていない。

「あれが……野狐の異能……」

 狐のあやかしには種類があり、野狐は狐の中でも一番身分が低いことはこの世界では常識だ。「かん子」と呼ばれていた彼女もまた、淳と同じく差別されてきた筈だ。しかしそんな彼女の立場よりも夜蜘蛛のあやかしは更に底辺な種族。
 倒れている自転車を目の前に、さっきの恐ろしい光景が何度も襲う。かん子の異能ですらこんなにも恐ろしいのに、異能の強い他の種族達は一体どんな力を宿しているというのか。

 力の無い弱者は抵抗も出来ずに消えていく運命なのだ。他の夜蜘蛛の存在は聞いたことが無い。例え存在していても淳や母親のように、後ろ指を指されながら惨めに生きているのだろうか。

 ようやく呼吸が落ち着きゆっくりと自転車を起こす。自転車に乗ろうとサドルに跨ぐが、やっぱり足が重くてペダルを漕げそうに無い。

「……何か……変だな」

 かん子にやられたせいとは思わない。何故なら通学途中も違和感を覚えていたし、野狐の異能から逃げようとした時も足が重く、まるで鉛をつけられた様な感覚で動かせなかったからだ。
 淳は自転車から降りて右足を軽く上げてみるが、特に変わった様子は無い。今度は左足を思いっきり上げてみてもやはり特に変わらない。疑問になりながらも自転車に乗ると、やはり足が重くてペダルを漕げそうに無い。

「……何も痛くないのに」

 仕方ないのでそのまま自転車を押しながら長い長い家路の距離を夜の下、淳はゆっくりと歩いて帰宅した。数時間かけて着いた道のり、そしてさっきの三人組のせいで余計に疲れが積み重なり、倒れるようにリビングの床で横になる。母親は相変わらず寝室の布団で携帯を触っており、いつもと様子がおかしい娘の姿を見ても特に心配する素振り等見せない。それどころか、いつもより遅くなって帰宅した淳に対して冷たい言葉を発する。

「なんだ、帰って来たんだ。遅いから死んだかと思った」
「……ごめんなさい」

 謝ることしか出来ない。さっきの出来事を伝えた所でどうせ何も変わらないのだから。
 古びて色褪せた床で身体を丸め、ひんやりとした床の温度。疲れた身体が心地よく感じる。何処からか入ってきた小さな蜘蛛が、横になっている淳の顔の近くで足を止める。

 当たり前だが蜘蛛の言葉なんて分かるわけない。人の形をしていない生き物の言語が分かる、そんな力は元々夜蜘蛛には存在しない。しかし黒くて足が沢山ついている小さな蜘蛛は、淳を心配するかのように左右上下と動いている。母親に聞こえないように蜘蛛にそっと呟く。

「大丈夫だよ。ありがとう」

 優しく声をかけられた蜘蛛は、安心したかのようにそこから離れ姿を消していった。そしてその姿を見届けた淳も、瞼を閉じて寝息をたてる。




 彼女の体内に命を喰らう病魔が蝕んでいたことなど、この時は全く知るよしもない。




「やはりこの辺なんだ。しかし何故だ。何かは分からない不快な匂いにかき消されてしまう」
「泉澄様でも分からないのなら錯覚なのでは無いでしょうか?もう遅いですし、今日は帰りましょう」
「俺の細胞全てが本物の気配を感じるのに、錯覚の訳があるか」


 道路を走る一台の白の車は、車内が見えないようスモークガラスで遮断されており、世界に数台しか製造されていない高級車が、何も変哲もない道のりを走らせていた。

「必ず見つける。俺の本物を」