「いってきます」
「……」
時刻は16時を過ぎた夕方。寝室の布団で携帯を触っている母親に声をかけるが、返事が無いのはいつもの事。
何年も着ている色褪せたトレーナーと年季の入ったデニムを履き、老朽化が進んだ古びたアパートの自宅のドアを開けて外に出る。100円均一で買った、黒のショルダーバックには何冊も入っている教科書とノートがズシッと肩を重くした。
アパートの外に置いてある自転車置場に向かい、自分の自転車の鍵を外してサドルにまたがる。
向かう先は定時制の高校。
高校に行きたかったのは勉強が好きだからだ。しかし淳の選択肢は限られていた。
それは中学三年の時に行った個別懇談。化粧の濃かった女性の担任に言われた言葉。
「ただでさえ夜蜘蛛のあやかしなのに、最終学歴が中卒なら就職先なんて何処も門前払いだと思うけど」
他の生徒とは対面に座っていた担任が向かい合わせになりたくないのか、座っている淳の席から遠くに離れた教壇から嫌そうに話をする。目線は手元、特に隠しもしないマニキュアを縫っているその手元はずっと携帯を触っていた。
「高校は……行きたいです」
「貴方の進路を決めるのは貴方だし、行きたいならお好きにどうぞ?でも細蟹さんのお家、入学費用あるの?」
あぁもう!喋るから間違えた!と、携帯のゲームをしているのか淳の話なんて微塵も聞く気は無いらしい。
中学を通って年に何度も行うテストの点数は、答えが合っていてもバツを付けられ、採点は毎回自己採点。時には満点の筈が、返ってくる答案は時には五十点未満の時もあった。申告しても鼻で笑われ、何度訴えても成績表は最低ランクのCばかり。
学校という組織に希望は見いだせない、努力をしても周りから認められたことはあっただろうか。だけど勉強をして、様々な知識や歴史が頭に入っていくのが好きな淳。だけど彼女の思いとは裏腹に現実はとてつもなく残酷だ。
「先に言っておくけど例え受験して、テストが満点だったとしても夜蜘蛛の立場なら落とされるのがオチよ。諦めたら?」
「……それなら、せめて定時制でも」
「あぁ、それなら良いんじゃない?貴方のような哀れな立場が行く定時制が確かこの辺にある筈よ?自分で勝手に調べてみたら?もういい?貴方の匂いで鼻が曲がりそう。次の人呼んで来て」
淳から放出する夜蜘蛛独特の匂いを感じ取る担任は蛇のあやかし。真っ赤な口紅をつけた唇から見える舌の先は二つに割れ、担任の異能は目を数秒間合わせると、身体が硬直して意識が飛んでしまう。怖くて逆らえないし、目を合わせることなど持っての他だ。
せめて普通の人間が担任ならば、ここまで雑な扱いをされなかったかもしれない。どれもこれも、考えても仕方のない事。
慣れてしまった、自分に対する蔑む扱い。悲しくて泣くのも悔しくて泣くのも数え切れない。悩んで苦しんでも答えは出ない。
どうして私なんか産まれてきてしまったのか
通える定時制の高校を自分で調べ、学費は自分で何とかすると土下座までして母親に頼み込み、ビルの清掃のバイトをしながら何とか通い続けて二年が過ぎた。錆びだらけの自転車に乗り雨の日も台風の日も、時には雪が降る時だってこの自転車に乗って淳は学校に通う。
「最近漕ぐ足が重いな。そろそろ錆び取りしないと駄目かなぁ……」
ほぼ毎日漕いでいる自転車のペダルがやけに重く感じ、心の中で呟きながらようやく学校に到着する。学校までは自転車で四十分くらいの距離。決して近くは無いこの距離でも自分で決めた道は一度だって後悔はしないと心に決めてる。
「うわ、来たよ。マジくせぇ」
「顔見るだけでイライラするわ」
例えクラスメイトにこんなことを言われていても……
教室のドアを開けた瞬間淳の姿を見て開口一番、真っ先に彼女に対して罵る言葉から始まるのは毎日のこと。一番後ろの廊下側、掃除用具が入ったロッカーの前にある自分の席に座り、クラスメイトからの冷たい視線を浴びながらショルダーバッグから取り出した教科書を机の中に閉まっていく。
生徒数は十五人。人間とあやかし、そして年齢も様々だ。還暦が近いおじさんやら物静かな女の子。淳と同じく身分の低いあやかしもいるらしい。そんな彼らでも淳の存在は疎ましいらしく、入学式早々彼女への虐めが始まってしまった。
「よりによって夜蜘蛛かよ。毎日アイツと夜会うとかマジでやってらんねぇわ」
「私よりも身分が低いあやかしっていたんだ。笑える」
「おい、夜蜘蛛って人間喰らって生きてたんだろ?糸出してみろよ?あ?」
髪型も制服の縛りが無い、この学校に通う彼らの理由は正直知らない。私なんかにプライベートを話す物好きなんて一人も居ない。物腰が柔らかい、他のクラスメイにはニコニコしている人間のおばさんですら、淳の姿を見ただけでまるで何かに取り憑かれたかのような般若の顔をして淳の机を蹴っ飛ばす。
「災いめ、お前が息をするだけで周りに不幸を撒き散らすんだ」
蹴っ飛ばされた拍子に床に落ちた教科書を無言で拾う。
言い返すことなんてしない。言った所で自分の立場が悪化するのも目に見えている。
誰も助けてくれない
誰も守ってくれる筈もない
ただ私、勉強をして高校卒業の資格が欲しいだけなのに、それすらも求めては駄目なのかな。駄目なんだろうな。
ため息一つ溢すのも、周りのクラスメイトにバレない様にするなんて肩身が狭いのも程がある。
小さな頃から今の今まで、誰かに守って貰ったことなんて無かった。道を歩いているだけで通行人から一生身体に残る傷もつけられた事もある。ドクドクと、十円玉の匂いがする赤黒い血を腕から垂れ流し、そして捕まった犯人は処罰される事は無かった。
「夜蜘蛛だから仕方ないよね」
病院に運ばれた淳に対して捕まえてくれた数名の警察の人から言われた言葉。入院中、一度だけお見舞いに来た母親から言われた一言は、彼女の枕を濡らすには充分な言葉だった。
「何で生きてるの?死ねるチャンスだったのに」
ごめんなさい。生きていてごめんなさい。でも私、死にたくない。だって怖い……死ぬなんて怖い。こんなに皆から嫌われ、家族からも愛されてないのに死ぬという選択肢は怖くて出来ない、出来ないよ。
自分が弱くて無力なのは充分承知だ。望まれても私は怖くて死ねない。ならせめて、自分の存在価値を作りたい。生きても良い理由が欲しい。
そんな感情を胸にいつも通り教科書を開いていく。
「ねぇ聞いた?白鬼の泉澄様。この辺に花嫁がいるかもってよく出没するらしいよ?」
「え!?志紅様は!?まさか「本物」を見つけたの!?」
「やば!誰!?」
教室ではある生徒達がそんな会話で盛り上がっていたらしいが、淳は全く気付くことなくいつも通り授業を受けていた。