唇の横にある黒子が口角と一緒に上がったが、志紅の目元は全く笑っていなかった。右の目は黒褐色、左の目は赤みのかかった茶色という虹彩異色の志紅。淳を見るその瞳には背筋が凍りそうな程憎悪に満ち溢れていた。
「……宝生志紅様。貴方が」
「あら?ご存知でしたの?五龍神田様を惑わし、彼の寵愛を受けてさぞかしご満悦でしょう」
そう話しながら細身のヒールを履いた志紅が淳に近づき、目の前まで来た彼女の姿を見て驚愕する。香りの強い香水の匂い、身体のラインがわかるワンピースは、大きな胸元に細く括れたウエスト。そして張りのあるヒップにいくら小綺麗な格好をしている淳とはいえ、その差は歴然であった。
「写真で見た通り、まるで不幸の象徴そのものの姿ですわね。いや、実物の方が更に酷い」
「……」
話す言葉全てに棘を感じる。その高圧的な態度に何も言い返せない淳。
「宝生志紅」
赤鬼の子孫であり、鬼の種類の中で宝生家は特に強い異能を持つ家系。世界を滅亡させるとまで言われた白鬼の異能には到底及ばないが、宝生の家名の為なら残忍な手段を平然として使い、そして徐々に上り詰めた地位。
赤鬼のあやかしには圧倒的な財力と海外事業も手掛ける宝生の名のあるビジネスは、白鬼とは違う意味で恐れられている。プライドの高い宝生家の第一子の志紅が婿探しの最中に白鬼の泉澄が誕生し、本物と巡り会う可能性の低さから互いに名の知れた名家と云うこともあり、婚約の誓約が認められた。
「何十年と婚約を続けて今か今かと結婚を待ち望んでいたら突然の婚約破棄。聞いたら五龍神田様が本物を見つけたからだと」
「……」
「本物のお相手が何処の名のある一族かと思えば、ゴミのような底辺の夜蜘蛛ですって。何のご冗談かと思いましたわ」
何十年と志紅が口にしたが特に驚きはしない。あやかしの年齢は人間の寿命と大きく異なり、泉澄の年齢は見た目に反して実はかなりの年齢を重ねていた。異能の力が強ければ強いほどその寿命は長く太く生き、現に空狐のおばばは三百歳近くになるという。
そしてこの赤鬼の志紅は泉澄より更に年上であり、年齢が十八歳の淳の存在は志紅の視点で言えば幼女くらいの感覚だった。
「五龍神田様は幼い顔が好みでしたのね。私も、顔に張りが出るよう施術をするべきかしら」
綺麗にデコレーションされた長い爪でクスクスと口元を隠して笑う。しかし笑い声とは裏腹に、額から血管が浮き出る程殺意に満ちているのがビリビリ伝わる。
「あの……私、帰り」
「ねぇ貴方のその小さくて可愛いらしいお口から五龍神田様に伝えて下さる?」
淳の言葉を遮るように志紅が右手を頬に添えながら言葉を放つ。
「宝生志紅様の方が綺麗で頭脳明晰でスタイルも良く、とてもじゃないけど私は敵わないのでこの関係を止めたいですって」
「……え」
「二度も言わせないで下さる?お耳が二つも付いてらっしゃるから聞こえていますわよね?」
さっきまで笑っていた笑顔は消えており、冗談には聞こえないその鬼気迫る迫力に圧倒されてしまいそうになる。高いヒールでコンクリートを鳴らしながら淳にジリジリと詰め寄ってくる。
怖い……こんな迫力のある女の人を見たことが無い。
ブルブルと怖さのあまりに身体が震えてしまいそうになる。……でも
「言いません」
「は?」
「泉澄様がこんな私を選んでくれたので、私は……泉澄様と最後まで一緒に居たいです。だから……言いません」
きっと初めてかもしれない。例え自分が悪くなくてもいつも謝って生きてきた。納得をしていなくても不満があっても、仕方ないと言い聞かせていたあの時とは違う。
そして口に出して確信した自分の感情。
私は泉澄様と一緒にいたい
「……この小娘ごときが私に歯向かうつもり?」
美しい志紅の顔がみるみる歪み、それはまるで本物の鬼のような恐ろしい表情を浮かべ、今までに経験した事が無い辱しめを感じる志紅。
夜蜘蛛とは言え、異能も無く特別な容姿も無い淳に拒否をされたのがよっぽど立腹したのか、淳に向けて一言声をかける。
「後悔しますわよ?」
その言葉の意味に淳はこの時理解をしていなかった。モデルの様な歩き方で乗ってきた車に戻り、彼女を乗せた車は何処かに走り去ってしまった。彼女の強い香水の匂いが鼻に残った気がしたと同時に感じたことのない胸のざわつき。
「あの人が泉澄様の……婚約者」
散歩をする気力が失ってしまい、不安を残したまま淳は泉澄の屋敷に引き返して自分の部屋に閉じ籠っていた。
頭から離れない勝ち気でプライドが高そうな婚約者の姿。そしてあの美しい容姿に、とてつもない霊気。何もかも自分と比べると嫌になる。
大きなベッドで横になりながら自分の腕を見ると、肌の色が不健康で細くて拳に力を入れても何にも出ない。背も低い、胸もお尻も何にも無い。
どうして……私にはこんなに何にも無いの……
劣等感はいつも感じていたが、あんなに美しい人が彼の婚約者なら誰でも自信を無くしてしまう。本当に私は彼の本物なのだろうか。本当に私は彼に愛され続けて貰えるのだろうか。
感じたことの無い胸の苦しみは、初めて訪れる愛する人への痛みのある不安。
泉澄様……私、貴方の事が……
目を瞑り、想いが詰まった涙を一粒流す。
泣かないと決めた幼少期。彼に出会えて自分の心の弱さが隠せなく、気付けば涙も我慢出来なくなっていた。でも淳は知っている。この流す涙もいつか枯れ、ズキズキと切ない鼓動はやがてもうじき止まる。
彼の笑顔はあと何回見られるのか
泉澄の笑顔を思い出し、出来ることなら早く彼の隣に座りながら幸せな時間を過ごしたいと願う淳。
しかし今日は大事な日。生きとし生けるもの全てに平和と幸福を、泉澄が願いを込めて祈祷する為夜まで帰って来ない。
一人寂しくとる昼食も全く箸が進まない。そもそも用意された料理はゲテモノが入っており、余計に食欲も沸かないのは当然だ。触覚の生えた黒いものに、緑色をした良い匂いがするソースをかけられているが淳に対しての嫌がらせだろう。しかしこんな扱いは慣れている。むしろ、ゲテモノでも調理をされただけ淳にとってはマシなのだから。
「見ろよ。悲鳴一つもあげないとかイカれてやがる」
「人肉が好みか?夜蜘蛛だから」
淳を見ながら遠くで屋敷の調理人達が、わざと聞こえるように話をしている。どうやらトモヨは午後から外出で居ないらしい。
残しても残さなくても嫌みを言われるのであれば、流石に喜んでゲテモノを食べる余裕は無いので何も食べずに部屋に戻る。
「……学校、久しぶりに一人で行くけど大丈夫かなぁ」
勉強はやはり楽しかった。まして隣で泉澄が自分を見守ってくれるお陰で心置きなく授業を受けられたからだ。白鬼がいるのに手を出す愚か者は居ない。しかし今日は久々の一人。
出された課題のプリントを難なくこなしていくが、やはり少し危惧の念を抱いていた。
学校まで屋敷の使用人が嫌々車を出し、淳は久しぶりに一人で学校の校舎に入っていく。
そして不安は的中した。と、言うより想像よりも酷い状況に一瞬理解が出来なかった。