──あれから何日経過しただろうか。

 泉澄の自宅で一緒に同居生活を始め、少しずつその生活慣れてきた。寝室は流石に我が儘を言って別にしてもらっているが、自分の部屋を用意された時はその広さに驚いた。
 和モダンがベースとした五龍神田宅では、淳の部屋は白い壁にベージュの木目調が見える床。天井の間接照明は優しく穏やかな光が照らし、キングサイズのベット、用意された衣類全て入るウォークインクローゼット。見たことも触ったことも無いお化粧道具がズラリと並ぶドレッサーも、淳の為に用意されたものだろう。
 箱に入ったままの化粧品。しかし淳にはそれらを一切使うことが出来ずにいた。

「……ねぇ、まだ生きてる」
「図太いのよ、夜蜘蛛だから」

 泉澄の家にいる女の使用人が淳の部屋の扉を開けた時、淳にわざとに聞こえる様にヒソヒソと話す声。

 初日だけに結界を張られた淳は夜蜘蛛の匂いや特性を消すことが出来たが、結界を張られていない今の淳には使用人達の本音はあまり良い気分では無かった。それどころか淳の性格上、主の泉澄に告げ口をされないと知った使用人達は、泉澄の居ない時に冷たい対応や嫌がらせをされていたが、淳には仕方ないと特に気にも止めなかった。何故ならば。

「はいはい!淳様!おはようございます。坊っちゃんがお待ちですよ」

 使用人の頭であるトモヨが結界を張られていない淳に対して差別をせず、変わらない態度で接してくれているからだ。
 泉澄程では無いが、優れた異能を持つ強いあやかしのトモヨや泰生が夜蜘蛛の特性に慣れることは出来たがそれは容易なことでは無い。気を張っていないと夜蜘蛛の淳を見て、無意識に嫌悪感に包まれてしまうのだ。

 昔から語り継がれてきた俗説がそうさせる。

 空狐のおばばが言っていた台詞。
「本物を見つけると大事な物を見落とす」それは、夜蜘蛛の特性を甘く見ていた泉澄と淳。おばばの言葉はこれから訪れる行く末に対しての助言でもあったが、二人はまだ知る由もない。

「おはよう淳。よく眠れたか?」
「泉澄様おはようございます。お陰様で、毎日柔らかいお布団で眠れることに感謝しております」

 ダイニングルームで並べられた十人前以上の朝食。淳は毎回その量に驚かされるが、彼のモリモリ食べる姿に微笑ましく見守る。

「今日は天赦日と大安が重なってせいで、一日本殿で祈祷をしなきゃいけないのだ。淳には悪いが、今日は一人で過ごして欲しい」

 そう話す泉澄の本職は神社の神職。神職には階級があり、その中でも最高位の特級と呼ばれる白い袴を着られる数少ない選ばれた立場にいた。

「祈祷の間もお前を傍に置いておきたいが、一応身内以外を本殿に入れることは禁じているのだ。古くさい仕来り(しきた)だが、今日は許して欲しい」
「大丈夫です。縁起の良い今日は皆様の平和と幸福を全力で祈って下さい」

 籍を入れていない淳はまだ他人。五龍神田家しか入れない、神を祀る本殿に今日は籠る日と話される。

 正直泉澄は淳と一分でも離れることを拒んでいた。本職は神職だが、副業で営む高級ホテル経営で財を築き、ホテルでの仕事場には淳も連れて行動し、淳の学校の時間帯になると泉澄も同行するという生活を送っていた。
 そんな生活から初めての一人の時間。

「泰生を同行させることは可能だぞ」
「いえ、大丈夫です。泰生さんも会社の任務もあるでしょうし、今日はゆっくり一人で過ごします」

 付き人の泰生も同じくホテルでは役職がついており、泉澄が代表取締なら泰生は支配人の立場であった。そんな二人が会社に居ないなんてことはあってはならないことだと淳は思う。

「何かあったら直ぐに連絡してくれ」
「大丈夫ですよ」

 会話をしている内にいつの間にか空になっているお皿は毎回驚き、そして可笑しくなる。

 万が一私が本当に泉澄様の妻になってご飯を作る時は大変だろうななんて思うほど、彼との結婚生活を想像してしまう程に自分の感情が高まっていることに気付く。

 心満たされ、いつまでもこんな幸せな時間が続けば良いと心から願う淳。



「いってらっしゃいませ」

 五龍神田の屋敷全員の使用人が頭を下げ、車に乗った泉澄の姿を見送る。一番先頭にいた淳も使用人と同じく頭を下げて車が見えなくなるまで見届けた。

 そして予想していた出来事が起こった。

「いつまでそこにいるの?さっさと退いてよ」
「夜蜘蛛ごときが。自分が主人の代わりとか思ってるんじゃないわよね」


 数十人といる使用人の冷たい視線を一斉に浴びる淳。主人が居なくなった途端、そこは淳がいつも経験している罵声の嵐。

「お止めなさい!」

 トモヨが大きな声で周りに制止するが、使用人の頭であるトモヨの声ですらここの者には届かない。

「トモヨさん大丈夫です。仕方ありません。今日は私、屋敷には居ない方が良いと思います」
「淳様……でも何かあったら」

 トモヨが心配そうに声をかけるが、泉澄と泰生が居ないこの屋敷では使用人が淳に何をするか分からない。
 使用人には人間とあやかし達の半々が働いていたが、人間は淳を見ると理由の無い抑えきれない怒りの衝動に駆られ、あやかし達は夜蜘蛛が放つ独特な匂いで不快な気持ちにさせてしまう。

 何れもこれも淳が幼少期から経験してきた悲しい現象。淳の特性に慣れているトモヨですら、時折無意識に淳に対してその匂いで嗚咽をして気分が悪くなる程だ。

「今日は久しぶりに散歩に行ってみようと思います。遠くへは行かないので」
「必ずお昼までには帰って来て下さいね。体重を増やすようにと坊っちゃんからキツく言われておりますので」

 分かってますよと淳は返事をし、ウォークインクローゼットから履き心地が良いデニムと黒色をしたカットソーを選び、歩きやすいスニーカーを履いて屋敷を後にする。
 毎日違う小綺麗な衣類を着ているだけで、少しだけ今までの自分とは違う気がして嬉しく思う。
 そして、泉澄から渡された現金とカード類、部屋に置いておくと残念なことに使用人達に盗まれてしまう為、持ち歩くしか術は無かった。大金を持つのも怖いが、部屋から現金が消えて泉澄に自分が使ったと思われる方が嫌な淳。消えた現金も、少し減った貴金属も、淳は誰にも相談出来ずにいた。

「だってもう私……」

 いつも頭では分かっていること。宣告された余命の日にちまで着々と進んでいる。解決策は未だに見つからない。それはもう諦めに近い感情。

 彼が私を愛してくれている。それだけでもう何も望まない。

 屋敷から坂を降り、高級住宅街を特に目的地も決まらないまま歩いていると、一台の黒の高級車が淳の近くに停まる。
 何となく嫌な感じがして来た道を引き返すと車のドアが開く音が聞こえた。

「まぁ、夜蜘蛛の匂いプンプンさせて歩くなんて。世間の阻害ですわね」

 思わずその気高い声に振り向き、淳はその声の持ち主を見て息を呑む。

 セミロングにふんわりパーマがかかった黒髪。首元から袖までレースで透け、ワインレッドの色をしたモックネックのワンピースを着ている絶世の美女が淳の目の前に現れる。

 前髪はサイドに流れ、おでこを出したその顔はメイクがばっちり施されており、ワンピースと同じ色をしたワインレッドのリップが塗られていた。

「……誰ですか?」

 淳は聞かなくても何となく気付いていた。近寄って来る彼女の凄まじい霊気は初めて会った白鬼と似た感覚。


「宝生志紅。五龍神田泉澄の婚約者ですわ」