私の高校は普通科と専門科がある。専門科は一年生から三年生まで、各数人ずつ交代制で入寮することを定められていた。
グループ分けや順番や部屋割りはすべて寮の先生たちに決められる。私はまさかのトップバッターで入学式の翌日からだった。高校生になれたことを噛みしめる間も新生活に胸を躍らせる間も与えられないまま寮へと放り投げられたのだ。
第一志望の高校ではあったものの、この入寮だけが唯一にして最大のネックだった。寮監の先生も規則もとにかく厳しいと有名だったからだ。初日に、噂通りとても教師とは思えない風貌の寮長から規則と心得を叩き込まれ、とんでもなく憂鬱な気分で入寮した。
たったひとつの救いは、莉子という仲のいい友達と同室になれたこと。入学した途端に厳しい寮生活はしんどすぎて屍になりそうだったが、莉子と同室になれたおかげでなんだかんだ楽しめてもいた。
ただ最大の難点は──先輩たちから聞かされていた話。
施設あるあるすぎる話だが、我が校の寮は出る、と有名らしい。
これは、その寮に初めて入寮した時の話である。
*
何事もなく寮で何日か過ごした頃、変化は突然訪れた。
「ねえ、昨日の夜中ここ行ったり来たりしてなかった?」
登校する準備をしている時、莉子がベッドとベッドの間を指さしながら言った。
「え? そんなわけないじゃん」
慣れない高校生活に厳しい寮生活で疲れきっているわけだし、毎日泥のように爆睡している。そうでなくとも、真夜中にベッドの間を行ったり来たりするなんて奇妙なことをするわけがない。
笑いながら返すと、莉子は「だよね」と呟きながら眉根を寄せた。
「……昨日さあ……なんか夜中に急に目が覚めて、そしたら足音聞こえてきたんだよね。あたしも寝ぼけてたし、夢だったのかな」
先輩たちに聞かされていた話が脳裏をよぎる。
寮生活はまだ続くのだから変なことを吹き込むのは可哀想だし、私だってこの部屋に得体の知れない何かがいるなんてごめんだ。
「気のせいじゃない?」
「んー……うん、だよね」
その日からだった。
二度と寮生活なんかしたくないと思うほど苦しめられたのは。
深夜に壁側から男の声が聞こえてくるせいで、一睡もできない日さえあった。男の声などするはずがない。女子寮と男子寮は別棟なのだから。
莉子が言っていた足音が聞こえた日もあったし、窓はちゃんと閉めているのにカーテンが急に揺れだしたこともあった。毎日毎日本当に嫌で、莉子と一緒に一晩中起きていたこともある。倒れそうなくらい疲れているのに怖くて眠れなかった。
週末は家に帰ることが許されているので当然毎週帰っていたが、そのたびに姉に「うわあ……」みたいな顔をされたのもまた絶妙に恐怖心を煽られた。
寮はなかなか古く、独立洗面台などという贅沢な代物は備えつけられていない。歯みがきや洗顔は共通トイレの手洗い器を使っていた。
ある日の夜、ひとりで顔を洗っていたら、トイレのドアが開く音もなくいきなり背後から足音が聞こえた。足音は私の後ろを横切り、ゆっくりと個室へ向かっていく。やがてパタンとドアが閉まる音がした。
洗顔フォームを洗い流して顔を上げれば、鏡越しに見えている個室のドアはすべて開いていた。誰かが入ってきたのは間違いないはずなのに。私が顔を上げるまでの間に出ていったのだろうか。だけど出てきた音も気配もなかったし、水を流す音もしなかった。
そんな質の悪い悪戯をするような子は思い当たらない。足音だけだし、気のせいだろう。そう自分に言い聞かせる。金縛りの時と同じで、怖がっているから些細な音にも敏感に反応してしまったり幻聴が聞こえたりするのだ。
毎日のように襲ってくるささやかな恐怖体験にどうにか耐えながら、初めての寮生活もやっと残りあと一日になった。
今日さえ耐え抜けばいいのだと自分を鼓舞しながら、いつものように顔を洗っていた時。
──来た。
やはりドアが開く音もないまま、突然背後で足音が聞こえてきた。
大丈夫、足音がするだけ、気づかないふりをしていれば何も起こらない、いや、そもそもこれは私の勘違いだ──そう自分に言い聞かせながら急いで洗顔を済ませる。
早くここから出て部屋に戻ろうと、顔を拭くことすらせずに洗面道具を抱える。
すると、足音が私の後ろで止まった気がした。
背筋に悪寒が走る。
なるべく後ろも鏡も見ないよう目を伏せながら部屋に戻ろうとするも、無意識に足が止まった。
ホラー映画を観ている時にいつも思う。
なんで振り向いちゃうんだろう、馬鹿だなあ。映画だからしょうがないか、と。
だけどその気持ちがよくわかった。
振り向きたくなくても振り向いてしまうのだ。
まるで引き寄せられるかのように。
一瞬だけ自分が自分じゃなくなってしまったかのように。
そこには、私と同じ高校生くらいの女の子が立っていた。
*
半泣きになりながら部屋まで走ったのは言うまでもないだろう。
繰り返しになるが、寮の規則はとても厳しい。起床から就寝までのスケジュールを事細かく組まれていた。中でも鬼畜かよと思うのは、シャワーや就寝前に手洗い器を利用する時間がひとりずつ振り分けられていることだ(あとになって知ったが、数人ずつ利用させると騒ぐからという理由らしい)。
つまりルールに従うしかなかっただけで、好き好んでひとりで行動していたわけではない。怖いからシャワーも洗顔もひとりは嫌です、などと訴えたところで許可が下りないのだ。部屋を代えてほしいなんてもっての外。
どれだけの恐怖が襲いかかろうと、選択肢は〝耐える〟以外になかったのだ。
地獄の寮生活を終えても安心などできなかった。冒頭にも書いたが、専門科は一年生から三年生まで、各数人ずつ交代制で入寮することを定められている。つまり卒業するまであと何度か入寮しなければいけない。
半年後の再入寮に怯えながら、私はぎりぎり生きたまま肉体的にも精神的にも地獄でしかない初めての寮生活を終えたのだった。